あるHPに第2次大戦のドイツ軍はこうすればソ連に勝てた。と書いてました。第1段階で、キエフ、レニングラード、スターリングラードを占領する。第2段階で3方向からモスクワを攻略する。
キエフ(穀倉地帯)レニングラード(連合国との補給港)スターリングラード(石油)それぞれ重要な拠点を押さえられたソ連は食料も石油も尽きて身動きがとれず、モスクワを防衛できず降伏する。というのです。
本当にこの方法で勝てたでしょうか。

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A 回答 (5件)

その方法では勝てません。


何故なら間違った認識をしているからです。

レニングラードは連合国との補給港ではありません。
レニングラードはバルト海にあり、バルト海の入り口付近のデンマーク、ノルウェーはドイツ軍の占領下です。そこを通った後はドイツ、ポーランドの近くを通らねばなりません。
そのような海域を通って補給する事などできませんし、していません。
連合国がソ連に支援物資を送った主要な港はもっと北のアルハンゲリスク港です。
ルートとしては、ノルウェー海からバレンツ海へ、そしてコラ半島に入り込む形で白海に入って行くルートです。
アルハンゲリスクはモスクワの北、約1000キロの地点にあります。
アルハンゲリスクはレーニングラードから直線でも約800キロ離れています。
モスクワとアルハンゲリスクの最短の交通路を破壊、遮断するにはレーニングラードからさらに最短でも約500キロは進出しなくてはなりません。
なお、連合国からソ連への補給はイラン経由、極東経由等もあります。
つまりレニングラードを占領しても連合国からソ連への補給は途絶えません。

スターリングラードでは石油は出ません。
ソ連最大の油田地帯はカフカス山脈からカスピ海周辺であり、スターリングラードから約1000キロほど南下した地帯にあります。
またスターリングラードを占領してもカスピ海までは約400キロもありその地帯を制圧しない限りは、ソ連のカフカスからの陸路での石油輸送も止められません。
つまり、スターリングラードを制圧したからといってソ連が石油を失う事はありません。

キエフはウクライナ国の首都であり、ウクライナとして話ますが・・・
確かにウクライナはソ連でも有数の穀物生産地です。しかし、ソ連ではウクライナだけが穀物生産地というわけではありません。
ソ連南部は穀物の栽培に適した地です。そのためソ連の前のロシア帝国の時代からロシア人農民の入植が行われた地が幾つもあり、有数な穀物生産地が幾つもあります。カスピ海から中国国境にまで広がるカザフスタンなどもそうで、1860年よりロシア農民の大量入植を行い、ソ連時代から有数な穀物生産地でした。
だから、ウクライナを占領されたからといってソ連の食料が尽きる事はありません。
ちなみに、ソ連崩壊でウクライナやカザフスタン、その他の国がソ連より独立しましたが、ウクライナとカザフスタンを合わせた穀物生産量より、独立されてしまった旧ソ連(現ロシア)の方が穀物生産量は上です。

つまり、レニングラード、スターリングラード、キエフ(ウクライナ)を占領されても、ソ連は石油、食料は尽きませんし、連合国からの補給ルートを失うわけではありません。
ですから勝てません。
勝てるなどと考えた人はもう一度よく調べてみる事が必要です。そう指摘してあげて下さい。
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>本当にこの方法で勝てたでしょうか。



戦線当時に「ソ連軍の軍事作戦が、100%詳細に分かっていれば」勝てたでしようね。
関が原の戦いでも「家康の命を受けた西側武将を先ず攻撃」すれば、西軍が勝てたのです。
すべて、結果論ですから勝てるのです。
昔から言いますよね。
「歴史に、もし?は無い」のです。
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ロシアはモスクハ以東への生産設備の移転を検討・着手しています。


もちろんほとんど成功はしていませんが、モスクハを占領されても戦う意思の現われだと思っています。
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コンピュータ・ゲームかボード・ゲームなら勝利条件を満たして勝ちになるでしょうが、現実の戦争はそんなに簡単ではないですね。


バルバロッサ作戦で話題になるのは、「まっすぐモスクワに進むべきだったか、それとも南方(ウクライナ)を占領すべきだったか」です。
7月までに順調にスモレンスクまで進出してきたドイツ軍でしたが、ヒトラーの命令によりドイツの装甲軍団は南に旋回し、そのためにタイフーン作戦が遅れました。これをして「まっすぐモスクワに向かえばモスクワを占領できたはずで、モスクワを占領すればドイツの勝利になったはずだ」という指摘が昔も今も活発です。
しかし、あのナポレオンもモスクワを占領しましたが結局ロシア侵攻が失敗に終わったように、モスクワというのもロシアの大都市のひとつと考えたほうがいいのではないかと思います。
まあ確かにモスクワは鉄道のハブ地点ともいうべきところで、軍隊及び国家全体への補給路の中心地としての役割がありましたから、モスクワをドイツに取られるというのは補給戦略上は大きな影響を受けるということになるとは思います。
しかし一方で、キエフ攻防戦で赤軍は60万もの兵力を失っています。装甲軍団の南方大回転がなければここまでの戦果をドイツ軍も得られなかったはずで、これが赤軍の予備兵力に組み込まれるとなるとどのみち41年冬の戦いでドイツ軍は苦戦を免れません。

実はあまり知られていませんが、1941年冬の戦い(モスクワ攻防戦)はドイツ軍にとって極めて危機的な戦いでした。ドイツ中央軍集団は崩壊の危機にさらされ、ベラルーシからの完全撤退の可能性さえありました。それが結局見た目の上では「モスクワ前面にまで迫ったドイツ軍が止まった」だけで終わったのはヒトラーの指導力の賜物だったのです。こんときの総統閣下はキレキレで、死守を命じたのが逆に中央軍集団を救ったのです。後年、ヒトラーはスターリングラードを始め各地の戦いで死守を命じてむしろ足を引っ張りますが、それはこのときの1941年冬の戦いでの死守命令による成功体験があったからなのです。

また1942年春に偉大なる指導者にして進歩的全人類希望の星、同志スターリンが41年冬の攻防戦でドイツ軍を押しとどめたことに気を良くして全面的反撃を命じてドイツ軍の逆襲にあい戦力をすり減らして42年のドイツ軍のブラウ作戦を呼び込んでしまいます。そこは偉大なる指導者にして(以下略)スターリンの判断ミスもありました。もし偉大なる(以下略)スターリンが限定的な反撃作戦に留めていたら、1942年の東部戦線は1943年の東部戦線のようになっていた可能性は充分ありました。

ついでに突っ込めば、1942年以降のドイツ軍がなにがどうあれモスクワを三方向から攻撃できる補給能力は持ち合わせていませんでした。だから現実的な作戦じゃありません。机上の空論といってもいいですね。その辺の事情は、名著「補給戦」を読むとよくわかるのですけどね。
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その方法で、モスクワ占領できても、クイビシェフあたりにスターリンが避難するだけで、


補給線が伸びた分、兵站不足でドイツの降伏が一年早くなるとか?

キエフは占領したし、レニングラードも早々完全包囲したし、スターリングラード市街に独軍突入しても。ああなったし。
 連合国との補給は、それだけいっても、アルバンゲリスク・北極海方面、イラン中東方面、ウラジオストック・シベリア鉄道で、確保できるし・・・・・・

※ちなみにバルバロッサの最終目標とされたアルバンゲリスク・アストランハン線確保は、
西部戦線の兵を全員、東進させて、かつドイツの成人男子全員徴兵しても、できるわけないだろう(>_<)
という試算が、ドイツ参謀本部で、なされていたのだが・・・・・・
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Q【歴史・日本史】日本の休日が日曜日になったのは、アメリカに負けて第二次世界大戦後のアメリカ占領下の時

【歴史・日本史】日本の休日が日曜日になったのは、アメリカに負けて第二次世界大戦後のアメリカ占領下の時にキリスト教の教えである日曜日を祝日にアメリカ指導の元に日本も導入されたのでしょうか。

第二次世界大戦前は日本人は日曜日ぬ休みという感覚はなく1週間ずっと働いていた?

日本はいつから日曜日が休日になったのでしょうか。

室町時代とかでも庶民も日曜日は休んで仕事をしていなかったのか教えてください。

Aベストアンサー

過去何度も同じ質問がされていますが、一番良さそうな回答を以下に貼ります。 江戸時代は、商家には5節句、盆以外に大坂では「もん日」といわれた6斎日、江戸では1日、15日、28日を休みとしている例もありました。また、農村でも農閑期を中心として、大小の休日があり、50日前後の記録があります。



No.2ベストアンサー

回答者: Eivis
回答日時:2002/09/30 12:16
.
1876(明治9年) 一・六の休日を廃し、日曜日を休日とする(1月6日)、

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/somu/zenkokuhy … ・・・全国教育略年表 明治・大正・昭和19年以前 

http://www.sc.itc.keio.ac.jp/anatomy/kokikawa/hi … ・・・日本近代史(年表)


http://nnh.to/03/12.html ・・・3月12日(記念日)

これによると次のように書いてあるので、実施されたのは(1876)、明治9年3月12日ということが分ります。

1)1876(明治9)年、官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施されました。

2)それまでは、1868(明治元)年9月の太政官布告により、31日を除く1と6のつく日を休日としていました。

3)しかし、欧米との交易等で不便があったため、欧米と同じ仕組みに改めることとしました。

参考URL:http://nnh.to/03/12.html

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過去何度も同じ質問がされていますが、一番良さそうな回答を以下に貼ります。 江戸時代は、商家には5節句、盆以外に大坂では「もん日」といわれた6斎日、江戸では1日、15日、28日を休みとしている例もありました。また、農村でも農閑期を中心として、大小の休日があり、50日前後の記録があります。



No.2ベストアンサー

回答者: Eivis
回答日時:2002/09/30 12:16
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1876(明治9年) 一・六の休日を廃し、日曜日を休日とする(1月6日)、

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/so...続きを読む

Q第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由は?

先日、池上彰さんのテレビ番組で「第2次世界大戦のソ連の戦死者は2000万人を超えている」「その恐怖からスターリンは、隣国を共産国にした」ということを知りました。

日本の太平洋戦争での戦死者は300万人くらいと聞いてますが、日本の戦死者と単純に比較できるのかどうかわからないのですが、日本の7倍の戦死者の数には、とても驚きました。

第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由をお教えいただけましたら助かります。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭であり戦略予備といえるシベリアの部隊はありましたが、ノモンハンのときに日本の帝国陸軍と正面衝突を初めてして大損害をうけた経験から、軽々しく欧州戦線に移動させるつもりに、ソ連軍指導部はなれなかったのです。
そのノモンハンのソ連軍総司令官が、スターリン直々に任じられたジューコフでした。

ジューコフは、

1 ソ連軍は弱い

2 だから勝つためには、敵より多くの兵器と兵士を前線に惜しみなく投入し、その重みで押しつぶすしかない

3 だから、兵士も戦車も大砲も、とにかく数をあつめる

ということを、理解していたので、必要なだけの兵力を敵がつぶれるまで投入しました。当然ながら自分より強い相手を数でつぶすのですから、犠牲はふえます。
さらに、この考えをスターリンも支持したので、党、治安組織、軍事思考、動員体制、といったソ連という国家の戦争体制そのものが、勝てるまで人命も装備も前線に突っ込むように構築され、上から下まで人命軽視というより、人命より目的達成、のドクトリンが徹底しました。目的達成が勝利なら、なおよし、です。

そのような体制のもとで運用されたソ連軍の基本的ドクトリンは、

最低でも幅50kmの線に分厚く、最低でも敵の3倍、普通なら5倍、理想は7倍の二陣の部隊を結集させ、

まず砲撃と航空攻撃だけで相手の6割に損害をあたえ、

そして第一陣が弱った敵に突っ込みその第一陣が自分の損害を省みず敵をなぐるだけなぐったら、

味方第一陣の残骸を乗り越えて無傷の第二陣が第一陣と戦ってボロボロになった敵を蹂躙する、というものでした。

装備は更新されたし、戦車・武器も疎開した工場と米英のレンドリースでそろえてはいるが、兵士の教育が低い軍隊にむずかしいことはあまりできません。字の読めない兵士が珍しくないどころか、ロシア語がわからない兵士も珍しくありません。
なので、時には下級将校は選挙で選び出され、そのような将校には反抗するものを軍法会議抜きで「処分」する権利はあたえられました。戦争をしている国家と党に異を唱える者はいらない世界です。
また、女性が前線で銃をとったり、戦車兵をやったり、戦闘機・爆撃機パイロットをしたりしたのも、ソ連軍だけでした。

この残酷な単純化となりふりかまわなさが、精鋭のドイツ軍相手に血を流しつつも、ソ連軍を勝たせたのです。

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭...続きを読む

Q第二次世界大戦前のソ連とドイツはどちらが強かったのですか?

第二次世界大戦時、ナチスドイツはソ連に戦いを挑み、首都であるモスクワまで攻めのぼりましたが、最後は猛烈な反撃を受けて大惨敗を喫しました。

でも、ナチスドイツはソ連と戦う一方で西部戦線でアメリカやイギリスとも戦っており、ソ連はレンドリース法によりアメリカ合衆国から膨大な軍需物資の提供を受けていたといわれます。
このように考えると、ソ連とドイツが1対1で戦ったと仮定すればドイツはもう少し強かったと考えられますし、ソ連はもう少し弱かったと考えられます。

歴史に「もしも」がないことは確かですが、国としての純粋な軍事力でみればどちらが強かったと考えられるでしょうか。

Aベストアンサー

リデルハートの「第二次世界大戦」に面白い記述があります。ドイツは「道」にやられた、と。道がグチャグチャで
独軍の車両が進むのに難儀したらしいです。それを理解してソ連は中型(ここが大きなポイントです)・無限車両の
T-34を開発しました。ソ連は独軍の車両が苦しむのを逆手に取ったんです。独軍はまさか首都につながる道が
未整備とは思わなかったんでしょうね。独軍はヒトラーのキエフ攻略指令に将校が逆らい、強硬にモスクワ攻略を
主張しましたがこの疑問氷解です。T-34の特徴は中型なのに大型砲を備えてたことです。中型戦車が大型砲を
撃つと車両が吹っ飛びます。なぜ可能だったのでしょうか? それはソ連の大地が湿地だったからです。湿地だと
車体が沈み込むので中型で足ります。むろんタイガー戦車よりも小型の分機動性に優ります。こう考えると朝鮮
戦争の際、なぜT-34が市街戦で及び腰だったのかもわかります。ソ連はこの戦車が悪路専用なのを理解してた
からです。そうですね、アメリカの支援がなければ独軍が勝ったと思います。もし独軍が再度ソ連の大地に攻め込む
とすれば今度は独軍が教訓を生かしたはずです。戦後ドイツ陸軍の司令長官が助命されました。むろんソ連と
直接対決した経験を西側が欲したからです。ソ連のほうがラッキーでした。軍事力自体はドイツが上です。

リデルハートの「第二次世界大戦」に面白い記述があります。ドイツは「道」にやられた、と。道がグチャグチャで
独軍の車両が進むのに難儀したらしいです。それを理解してソ連は中型(ここが大きなポイントです)・無限車両の
T-34を開発しました。ソ連は独軍の車両が苦しむのを逆手に取ったんです。独軍はまさか首都につながる道が
未整備とは思わなかったんでしょうね。独軍はヒトラーのキエフ攻略指令に将校が逆らい、強硬にモスクワ攻略を
主張しましたがこの疑問氷解です。T-34の特徴は中型なのに大...続きを読む

Qソ連が第二次大戦に勝てたのは奇跡ではないですか?

近代史で最も不可解なのは、ナチスドイツに国土を徹底的に破壊され、同盟国(?)のアメリカとは政治体制が全く異なるため本来なら対立せざるを得ないはずのスターリン体制のソ連がなぜか第二次大戦に大勝し、更に戦後には東欧や中国にまで勢力を増していることです。

もし、ドイツと日本が協力してソ連を挟撃したら滅亡せざるを得なかったでしょうし、アメリカ、イギリスなどの西側諸国がソ連を見捨てたらこれまた滅亡せざるを得なかったように思います。
外交を一歩間違えれば世界中が反ファシズムが反社会主義の空気になりかねない当時の国際情勢の下、国家存亡の危機をすり抜け、逆に勢力を拡大したソ連の外交力、危機管理能力は神がかったもののように思います。
ソ連が第二次大戦に勝てたのは奇跡のようなものだったのではないでしょうか。

Aベストアンサー

第二次世界大戦のために徴兵され戦争で戦った明治生まれの父の話(よくグチっていました)では、日本の敗戦色が濃く、日本がボロボロ・ヘトヘトになった敗戦間際に、状況を見計らって、ソ連が日本に攻め込んできたそうです。だからソ連の楽勝でした。

1941年(昭和16年)に日ソ中立条約を結び、5年の有効期限で相互不可侵を約束していたんですが、1945年(昭和20年)4月5日に翌年期限切れとなる同条約をソ連は延長しないこと(ソ連側は条約破棄と表現している)を日本に通達し、対日参戦したんです。極めて卑怯な戦いで、父は怒り心頭でした。ソ連が勝ったのは奇跡でも何でもなく、この上なく卑怯なことをしただけです。

Q降伏使節団・河辺中将機の「緑十字」

昭和20年8月19日、沖縄伊江島飛行場に向けて飛び立った一式陸上攻撃機2機は、2機ともすべて真白に塗装され日の丸も消され、日の丸のあった位置に「緑十字」を入れています。 これは、米軍に撃墜されないように指定されたものだそうです。
なぜ「緑十字」に決まったのですか。
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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 戦争状態にあっても航行の安全が保証された船がありました。一つは言うまでもなく国際条約に基づく病院船で、もう一つは安導券を付与された船(Vessels furnished with a safe-conduct or a licence)です。第二次世界大戦でも、安導券をを付与された船には交換船と救恤品輸送船(以下救恤船と略称)がありました。交換船というのは開戦後に敵地にとり残された外交官や民間人をお互いに交換し 本国へ還送するのに用いられる船で、救恤船は敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船を指します。
 病院船は赤十字と緑十字。交換船と救恤品輸送船は白十字と緑十字を船体に記しました。

ジュネーブ協定により、非武装かつ軍需物資・戦闘要員を乗せない条件で、事前に航路を敵国に通知し、
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 降伏交渉に当たった河辺中将の一式陸攻も安全通行を保証させるため
武装をおろし、神風特攻を警戒していた米軍機にも交戦意思なしと
わからせるため、米軍は、安導券を認め、緑十字をいれさせました。。

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阿波丸は、米潜水艦に撃沈され、国際法違反と言われましたが、
米軍は暗号解読と航空偵察により、日本軍が国際法に反し、大量の軍需物資と健康な軍人多数
を阿波丸に載せたことを探知していたためとも、いわれてます。

 戦争状態にあっても航行の安全が保証された船がありました。一つは言うまでもなく国際条約に基づく病院船で、もう一つは安導券を付与された船(Vessels furnished with a safe-conduct or a licence)です。第二次世界大戦でも、安導券をを付与された船には交換船と救恤品輸送船(以下救恤船と略称)がありました。交換船というのは開戦後に敵地にとり残された外交官や民間人をお互いに交換し 本国へ還送するのに用いられる船で、救恤船は敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船を指します。
 病院船は赤十...続きを読む

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