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人間的に魅力のない東條英樹に比べ、石原莞爾はカリスマ性のある軍人であったと思います。軍部ファシズム国家の指導者としてはカリスマ性のある石原が最もふさわしかったのではなかったかと思います。

もし、東條ではなく石原が首相、陸相、内相、参謀総長などを兼任して太平洋戦争を指導していたとしたら歴史はどう変わっていたでしょうか。

A 回答 (9件)

戦後直後、AP記者が同様の質問を石原本人にしております。


その質問に対し石原は、
ソロモン、ニューギニア、ビスマークなどの遠方の戦線は早々に放棄し、サイパンを中心としたマリアナの防備を完璧にし、米による本土爆撃を防ぐと述べています。
また同時に、中国に対して心から謝罪し和平を結ぶことで、米英に対し日本の総力を向けることが出来るであろう、と述べています。

しかし、敗戦という結論が出てからの見解ですので、実際石原が指導者になっていたとして、そのようなことが出来たかどうかは疑問の残るところです。

参考文献:「秘録石原莞爾」横山臣平
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2003/12/06 01:57

まず、軍事ファシズム国家の成功例(?)あるいは、典型例を考えてみます。



イタリアのムッソリーニは新聞記者上がり
ドイツのヒトラーは軍隊内では伍長止まり

ここから考えられるのは、ファシズム運動を国家内で完結するためには、その指導者は、軍隊という一種エリート集団の中からは生まれ得ないのではないかと言うことです。
わかりやすく言うと、戦前の軍隊では陸士卒業年度の上下が効いてきてしまいます。
また、軍隊内部では石原の影響力はそれほど強くなかったようです。
仮説として、東條の代わりになるのは、惨殺された永山鉄山ではないでしょうか?
石原もその影響下にあり、統制派のボスとして東條も管理できたかと。
軍事家としての石原を使い、軍政家としての東條を使い軍事目的の完遂という意味では最適であったかと考えます。

さて、その場合ですが、太平洋戦争には突入せず、満州までを限界線として、日米の太平洋を挟んだ冷戦が続くような気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2003/12/06 01:56

当時、国民学校(小学校)の生徒でおぼろげな記憶と後になって仕込んで知識が入り混じっていますが、


何かとよく話題になる石原莞爾という方は終戦間際になってよく聞いた名前でした。

一方、東條英機は魅力が無いとはいえ、日本人は必ずしも魅力のある人間をリーダーに迎えていなかったし何とも云いかねます。

『東條でなく石原だったら・・・』は仮定の問題としても、当時の95%以上は東條を中心とする時流にただ翻弄されただけで

歴史を戻して考えるのなら「5・15事件が阻止できたら?」という仮定まで戻らないと私には別の展開は考えられません!!
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2003/12/06 01:56

「もし」というのは歴史では存在しませんが、そうは言いつつイフを考えることは面白いと思います。



石原さんは確かにカリスマ性のあった人ですが、失礼ですが石原さんをいつごろに東條さんから交代させているのでしょうか?昭和18年ごろのことでしょうか?多分おしゃっているのは開戦時だと思われますがそう仮定して話を進めていきますと...結果は時期がずれ込む程度でしょうね>終戦。太平洋戦争は海軍主導ですから陸軍の首脳部がいくら変わろうとたいした影響はなさそうです。(南方作戦、ニューギニア戦線、ガ島戦、インパール作戦、フィリピン作戦、対ソ戦)

ちなみに東條さんは開戦反対派でした。東条内閣組閣も対米戦を回避するために木戸さん、天皇が陸軍の暴走を抑えるのに陸軍部内に人気のある東條さんを抜擢しました。開戦の責任は東條さんにもあるでしょう。けれどそういう責任を取らされたのも戦争に負けたからでしょう。戦時中の行いは別とします。
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この回答へのお礼

昭和16年10月からです。つまり東條の代わりです。
ありがとうございます。

お礼日時:2003/11/25 22:52

対米開戦をしなかった可能性があります。


石原莞爾の持論は、日米世界決戦(言葉は少し違うかも)
でしたが、その時期は相当先だと読んでいました。

石原は決して英米派ではなかったと思いますが、うかつな
対米開戦はマズイとは分かっていたようです。

もっとも石原は日中戦争にも反対しており、むしろ来るべき
大戦争に備えて、アメリカと比較して1対10と言われた
産業力を強化する政策をとったのではないかと、推測して
います。

しかし石原が陸軍を追われたのも、陸軍内部の動きによる
ものであり、逆に東條が出世したのも、陸軍内部で支持が
あったからです。

やはりこの歴史ifはありえなかっただろうと、私は考えて
います。
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この回答へのお礼

相沢事件さえなければ、東條は軍中央に戻ることなく閑職のままだったのではないでしょうか。
したがって石原が官職に追いやられることもなく、近衛退陣後も軍中央の要職にいたことは十分考えられ、木戸の目に留まって首相になる、ということも十分考えられると思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2003/11/25 22:46

空想が好きでもしもなにならと色々考えたことがありましたけど


日本軍の指揮命令系統のでたらめな運用では首相の頭を変えても
終戦日が変わるだけで大した影響はありません。

それは今でも脈々と伝えられ首相が誰になろうと大差がない
ことからも証明されるでしょう。
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あの「国際状況」、「天皇の名の元」に、戦争してたら、あの戦争は、かなり天皇のファクターが強いので、1944年で勝負が決まっていたけれども、戦争を終結するとは、天皇を否定することだから、ずるずる引きずってたと思います。



もし石原莞爾が、天皇否定できる人ならば、原爆を落とされる前に終わっていたかもしれません。
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歴史にはもしもはありえません。

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太平洋戦争をしたらどうなるかと。


やはり 負けています。
日本に有利になる材料は指導者が変わった位では何も有りません。
ひょつすると、日本とい国が無くなっていた可能性は有るかも。
正と負がバランス良く共存していて、物事は動いていくものです。
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