ノーベル賞を受賞した利根川進さんが・・
「すべての生命現象が物質現象から発生したものである以上、生命に特有と思われている感動や衝撃といった心理的な現象も、いずれは解明されるだろう」と何か書いているのを、今、思い出した。

人間には自由意志が存在するのか、それとも、自由意志が存在するように見えるものの、それは決定されたものにすぎないと考えるのか。

利根川進さんよると・・「自由意志が存在するように見えるものの、それは決定されたものにすぎない。」らしい。
自由意志は存在するのですか?
教えて下さい

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A 回答 (7件)

kokoro111さん、はじめまして。

素人のmori0309です。

 今、会社におりまして多くは書けませんけど、簡単に考えを述べさせて
ください。
 コンピュータのメモリのしくみがわかれば、これから生まれてくるソフト
ウェアの可能性のすべてを理解したことになるでしょうか。
 オーディオ装置のしくみや原理がわかれば、音楽がわかったことになるで
しょうか。

 脳内の物質やその動きを観察したところで、精神や意志の謎を解明する
ことはできないだろうと思います。ミクロレベルの脳細胞とマクロレベルの
精神のへだたりはあまりに大きいです。ミクロからマクロへと単純に階段を
上っていけば頂上にたどりつけるとは思えません。階段の途中で精神なる
ものはミクロレベルの因果法則から自由になると思えてなりません。

 ただ科学研究が無駄だと言っているわけではなく、今後も科学は私たちに
たくさんの神秘的な事実を教えてくれるだろうと思います。
 自由意志が存在するかという問いに対しては、まず自由の定義をしなくては
ならず、これもたいへん難解な問題だと思います。よく考えて出直します。

 偶然と必然の問題については「運命の定義って?」のなかでserpent-owlさんが
詳しく解説されています。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=69689
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先ず、下の方も言われたように「自由意志とは何か」定義するべきでしょう。

それ抜きに考えても堂々巡りに陥るだけです。

kokoro111さんにとっては重要な問題なんでしょうが、少なくとも私にとっては、これを問うこと自体無意味です。じゃあ、何でわざわざ、でしゃばるか?分かりません。これが「自由意志」なんでしょうか?

この類の「難問」にぶつかった時、私なら先ず、「定義」する努力から始めます。これによってトンでもなく大きな「疑問」が一気に氷解することが少なくないです。
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 自由意志の問題は、「私の」意識する自由意志、にとらわれていると考えます。


「私」は社会的役割のひとつで「あなたでも良いし誰でも良いものです」。ですか
ら、刺激的に言えば、人は人を殺してもそれも自由です。そういった意味では、わ
たしでもあなたでもない「何もの」かが何をしても「わけがわからないほどに人は
自由」かも知れません。ただ、人は人を超え出ることは出来ません。
 生まれながらに構造的に日本語にからめとられ、無意識の底まで「人間」の規制
を受けている私たちが「自由」を満喫したことなどないでしょうから。
 「自由」を考えること自体が「自由」に反していますから。しかし、これは「決
定論」という意味での「規制=制度」ではありません。個人のレベルに起こる「偶
然」のようなことがら、事態とでもいうべきものではないでしょうか。
 「私」は日々刻々積み重ねられる事態において、ほんの上澄みにある「意識」を
糧に日本語を駆使して「認識」を変化させている、というのが実態だと思います。
 それは、やはり「自由意志」が存在するか否かとは別な問題提起であるし、その
意識形態がわかったとしても、何も問題は解決しないだろう、と考えます。
 意識を生化学というか、DNAのレベルで解明すれば、人間の究極の真理がつか
め、すべて決定論的に論証できる、という判断は、通じるのでしょうか?
 人間は自由に対してすら宙ぶらりんのような気がします。
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あなたが思っている自由意志とはなんでしょう。

今すぐ「あるヒトデを見たくなりたく」なれますか?それができれば、それを持つあなたは誰にも相手にされないような競争率の低い不細工とされている異姓でも、あなたは最高に好きになれます。目にいる全てを好きになることも可能です。明日「あの人を嫌いになろう」と思って、嫌いになれますか?あなたが思っている自由意志は、「したいこと」を選べるのでしょうか?
あなたは、選択をするときに、最も大きい意味で「好き嫌い」を基準にしているでしょう。しかし、「自由意志」が「好き嫌い」そのものを選択できるものとしているなら、我々は「自由意志」を操れないでしょう。「自由意志」はあなたと共にありますが、自由な「意志」なのであって、我々の言う事はきかないのです。明日誰を好きになるかも分かりません。しかし、すでに「決定された」ものとは思い難いです。何故なら、「自由意志」が「好き嫌い(自由意思自身)」を選択する際に、なにを基準に選択しているのか?という疑問がでそうになった時、思うんです。自分を選ぶ?!基準がないから自由なのであって、また、主体性をもつから、意志であると。限定されない主体とはどの様なものでしょうか。それは、主体のみの(他の存在しない)世界の事です。しかし何もない世界じゃあないと考えます。むしろ、すべてが限定されていない様態(自由)である。私の語力が乏しくてすみません。全ての可能性としてある、といえるでしょうか。ですから、「決定」を「限定」ととれば決定されていません(未だ現実にないものが可能性としてある)が、「主体」という意味では決定しています。結論としては、我々の好き嫌いは、主体のみの世界であるため、当然、選択の余地はなく、ただあるのみです。あるのは分かるが、何故、自由意志がある形(好き嫌いを示すような)をとるのか?それは、現実の我々の個々の「何らか」が、全ての可能性としての主体、「自由意志」をある形で見させてしまっている。我々が意図せずに、しかし形を与えているのはではないでしょうか?終盤にきて分からなくなってしまったので、すみません。力不足でした。
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「自由意志」は決定論が正しくても存在しますよ(笑)



そもそも自由意志とは自分自身がその理由を知ることができない意志のことです。
もし自由意志がないとしましょう。そうすると意志について、意志の意志とか、
意志の意志の意志とか、意志の意志の意志の意志とか・・・というふうに際限
なく意志の理由を遡れてしまうので、困ってしまうわけです(笑)

ということで、感情や意志が外から見てその原因を知ることができても、
内から見てその原因を知ることができなければ相変わらず存在します。

また「もし完全に決定論なら、結果を先取りしてしまえばいいじゃないか」
と思うかもしれませんが、いくら決定論だといっても、この世の中に、
結果だけベターと書いたものがあるわけではないので、実際に実行する
以上に早く結果を知ることが出来なかったりするわけです。だから、
人の意志を徹底的に封ずる究極の悪魔も存在し得ないわけです。

これで安心?じゃ、ぐっすりお休みください(笑)
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 mori0309さんご紹介の serpent-owlです。

で、これも mori0309さんご指摘の「運命の定義って?」のところで書きましたように、純然たる物理現象といえども「事実上偶然」としか説明の仕様がないものが、自然界の随所に見出されます。たとえ原理そのものは法則的で決定論的であっても、その現実の振る舞いはきわめて複雑であり、決定論的には説明できないということです。こういうものに関して科学的な説明ができないという意味ではありません。が、旧来の還元主義的な科学の手法では理解できないことはたしかです。ここ30年ほど、そうした科学の在り方への反省が科学の領域内部で行われています。
 「意志」や「感動」というものについて、人がそれらを感じたときに脳内でどのような物質がやり取りされるのか、どのような信号が行き来するのか、ということはいずれ説明されるかもしれません。が、そのことをもってして「意志や感動を説明した」とは言えないでしょう。今日のお昼にカレーを食べるか、それともラーメンにするかといった意志の内容、あるいは、バッハのミサ曲ロ短調を聞いたときと、パウル・クレーの絵を眺めたときと、蕪村の俳句を吟じたときの感動の内容、そのちがいが脳内の物理化学的過程に還元できるとは思えません(刺激が音声か映像か言語かにより、興奮する脳の部位が側頭葉、後頭葉、前頭葉などちがってくるとか、そういう程度でしょう)。
 脳内物質に働きかける薬物で人の意志をある程度操作することはできます。自白剤を打って「アンタ、ゆうべはどこで何してたの?」と聞くと、「渋谷で知り合ったコギャルとホテルでちょめちょめしてた!」などとつるつる白状してしまい、即離婚の上、淫行条例違反で警察送りとなったりします。でも、これは「薬物だけ」の力ではありません。コトバによる誘導や暗示も必要です。脳内の物理化学的過程そのものだけで思考の内容が規定されているわけではないということです。
 ですから、脳内過程の解明がなされることは、ただちに自由意志を否定することにはなりません。

 自由意志の問題はもう少しちがったレベルで論じるべきなのではないでしょうか。「私」というものが、どの程度まで社会や他者から「刷り込まれた」要素で成り立っているかとか。あるいは、人間というもの、「群衆(マス)」の規模になると非常に単純で愚かなものになり、簡単に操作できてしまうということがあります。マインドコントロールなんてのもありますね。オウムやら統一教会やらエホバの証人やらに取り込まれた人たちは「押し付けられたのではなく、自発的に自由意志に基づいて信仰しているんだ」と主張するものです。
 自由意志と思われるものが、本当に自由意志であるのか。そういうところからして、問題はあります。
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利根川進さんの言ったことの全容を知らないので、質問の中に書かれてる範囲で理解してお答えしますが、


「自由意志」「決定されてる」どちらも両極端です。実際は、
1.「過去の行為の結果に対しては決定されてるので拒絶できない」
2.「しかし、それをどう受け止めるかは自由である」のです。

現実には、ほとんどすべての人が過去の行為の結果(謂わゆる運命)や、物質現象、生理現象に「振り回されている」ので、見かけの上では「自由意志が存在するように見えるものの、それは決定されたものにすぎない。」ように見えるのです。
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Q自由意志は存在しない 脳科学の常識ですか?

リベットは、自由意志が存在するかどうかを確かめようと思って、
「被験者に好きなときに手首を動かしてもらい、その時の脳活動を観察する」実験を行いました。

しかし、結果は一般の常識とは違ったものでした。
被験者が「動かそう」と意識する約0.5~1秒前に、
脳が手を動かす「準備」を始めていることが明らかになったのです。

このことは、意識は、無意識に脳がすでに行ったことを、
遅れて認識したにすぎないということを意味します。

どうやら自由意志というのは存在しないというのは、ほぼ脳科学の定説と見てよい。

本当は「自由意志」なんて無い?〜常識を覆す脳の話〜 - NAVER まとめ
<http://matome.naver.jp/odai/2136826856775566301>


「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果|WIRED.jp
<http://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/>

Aベストアンサー

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論 ジュリオ・トノーニ (著), マルチェッロ・マッスィミーニ (著), 花本 知子 (翻訳)

まずはここら辺をお読みになって下さい。現在の脳科学では,記憶・意識・意志はトリーニの2004年に提唱しました「統合情報理論」に従えば,脳のシナプスで結合したニューラルネットワーク内の興奮にあるといった考え方です。つまりどこかに保存されているものでも無く,どこかが発信しているものでもありません。

この学説はもはや定説になりつつあります。ノーベル賞受賞者の利根川進博士や理研を初めとした多くの研究所でその理論の正しさが証明されています。現在はその考え方に基づいて,光遺伝学で記憶の書き換え等の意識・意志に関した実験も行われています。マウス等では利根川博士等は記憶の書き換えに成功しています。

Q人間に自由意志はあると思いますか?

こんな質問はおそらく科学的には答えられないことであって、哲学の問題なのかもしれません。でも、哲学のカテゴリーで質問すると、あまり根拠のない私見しか得られなくなりそうなので、こちらで質問します。

なるべく科学的・実験的な根拠を基にした意見を下さい。もちろん、はっきりとした答えは求めてません。ある程度の根拠を基にしたうえであれば、自分の意見でかまいません。見識深い皆さんはどうお考えか教えてください。

ちなみに、私は・・・わかりません。でも、脳だって物質から出来ているのだから物理法則は免れないはずなので、自由意志なるものが介在しえるのかなぁと思います。

Aベストアンサー

こんにちは。
科学的にどうかということですが、一応現在では、「人間の自由意思は存在する」ということになっていると思います。そして、そのことを証明するために、「自由意思とはいったい何か」などといった問題を論ずる必要は一切ない、科学はそう述べています。

自然科学の分野では、恐らく18世紀頃からですが、かなり長い間、人間に自由意思というものはありませんでした。それは、この世のあらゆる運動の法則を司る、ニュートン力学に於ける「確定論」が自由意思の存在を否定していたからです。ですが、20世紀になって、量子力学に於ける「不確定性原理」なるものの発見により、人間の自由意思は、ようやくその存在が許されるということになった、というのが科学史上の出来事です。申し上げるまでもなく、「ハイゼンベルグの不確定性原理」は、「アインシュタインの相対性理論」と頭を並べる20世紀屈指の大発見ですよね。
「ニュートン力学の確定論」と「ハイゼンベルグの不確定性原理」、名前からして全く正反対の主張ですよね。そして、これがどういう意味で歴史を二分する哲学的対立になるのかということですが、要は一言で述べるならば、不確定原理の発見によって、量子力学は単なる電子工学に於ける基礎理論の変革に留まらず、それまで古典力学によってガッチリ支配されていた世界観を覆し、「自由意思の存在」という、人類に全く新しい人間原理をもたらしてしまった、ということになると思います。

ここでは、自由意思存在の正否は、「未来が確定している」か、はたまた「未来は不確定であるか」か、このふたつだけに依存しています。
未来が既に確定しているものであるならば、そこに人間の自由意思は存在しません。未来が確定しているのであれば、人生の全ての出来事は予め定められたレールの上で順番通りに出現する、単に時系列的な現象に過ぎません。そこに如何なる意思決定が成されようとも、全て決まっていたことなのですから、それを我々の意思と呼ぶことはできませんし、それによって何が起ころうと、それは自分の意思が反映した結果ではありません。
しかし、未来が未確定であるならば、自由意思の存在は許されます。未来が確定していないのであれば、我々の意思決定は来るべき未来の結果に反映します。
右に行くべきか左に行くべきか、そのとき自分がどのような判断を下したかによってもたらされた未来は、それがどのような動機であれ結果であろうとも、少なくとも自分の意思によって選ばれたものであるということになるわけです。

人間の意思決定によって未来の結果が変わるのは、未来とは未確定であると共に、それは「確率の集合」でしか記述することができないからです。量子力学では、未来とは、「出現し得る可能性のある、ありとあらゆる事象の確率の集合」です。「現在」に於ける我々の自由な意思決定は、その確率を変化させることによって未来の結果に影響を及ぼします。

ニュートン力学では、位相空間上の6次元座標によって全ての物体の運動を記述することができます。つまり、未来の結果を計算によって導き出すことができるわけですね。そして、ニュートン力学の絶対的な信望者であった数学者のラプラスは、「神の計算機があれば宇宙の未来を予言することができる」と主張しました。
未来が既に確定しているものであるならば、それは何らかの手段で予知できるはずです。もしも、現象を構成する物質の力学的な初期状態の全てを分子レベル、原子レベルで計算することのできる超ス―パ―・コンピューターがあれば、それで誰でも事前にサイコロの目を予知することができるということになりますよね。サイコロを構成する原子全数の運動量と、それに伴う温度・湿度・空気抵抗などとなれば、如何に神のコンピューターであろうともその手に余る膨大な計算になりますが、ラプラスの主張は、それが量的な問題である限り原理に反することはないということです。
しかしながら、未来を知ることができないのは、それがまだ未確定であるからです。20世紀になってから量子力学によって開拓された分子や原子などの超ミクロ空間は、そんな万能の運動法則・従来のニュートン力学が通用しない全く未知の世界でした。

不確定性原理を簡単に述べると、ミクロの世界では「観測」という行為そのものが物質の状態に影響を与えてしまうため、観測以前にその状態を決定することはできないということです。例えば、電子の運動量を決定しようと思えばその位置が決定できず、場所が分かれば運動量が分からなくなる。観測によって電子の位置を確定したとするならば、その時点でスピンが不確定になります。従って、そのスピンがそれまで右周りだったのか左周りだったのかは50%・50%の確率でしか示すことができなくなります。
余り正確な説明ではありませんが、要は、ミクロの世界では全ての運動量を決定することができないということであるならば、この時点で「確定論者・ラプラス」の主張は覆されたことになります。そして、未来とは、観測という行為によって初めて現在として確定されるものであり、それまでは出現可能な、無数の事象の確率の集合でしかないということなんです。
従って、未来を予知することはできません。同時に、未来は未確定であり、人間の自由意思は晴れてその存在を許されるということになりました。これが、量子力学が導き出した結論であり、科学史に於いては、これを、200年以上の長きに渡り人類を拘束し続けた「確定論の崩壊」と位置付けることができます。

未来は予知することはできませんが、予測することは誰にでもできます。それは、未来の可能性が押し並べて蓋然性を持っているからです。如何に未来が無数の可能性を秘めているとはいえ、確率の高い事象が高い確率で出現するのは我々の経験に反するものではありません。ですから、崩壊したとはいえ、21世紀のこんにちでも万有引力によってリンゴは下に落ちますし、現在でもニュートン力学を使って人工衛星の軌道計算ができるのは、通常の世界では当たり前のことなんですね。そして、「不確定な未来」によって自由意思は保証され、我々は行為の選択によってより可能性の高い未来を選択することができるわけです。
「現在」とは、観測によってひとつに決定された、未来の可能性です。これを、「観測による確率の収縮」と言います。

さて、最初に申し上げましたが、ここで興味深いのは、人間の自由意思が存在するか否かに就いて回答を求めるために、古典力学も量子力学も、共に「自由意思とは何か」ということに就いて一切論じていないということです。自由意思の存在は未来の確定・不確定に依存します。つまり、自由意思の存在に、その意義は全く関係がありません。まして、「人間の自由意思」という定義そのものが無意味なんです。

量子力学がミクロの世界の不確定性を論じたならば、それを拡張したのは「カオス理論」とうことになります。全ての現象には誤差が生じ、それが指数関数的に増大するという考え方は、未来の不確実さという概念を継承しているばかりではなく、現在を基に過去を逆算することもまた不可能であるとも述べています。
60兆の細胞を持つ人間のそのときの体調を分子レベルで測定し、投げたサイコロの初期運動量に反映させるのは、正に「ラプラスのパラドックス」に匹敵する神業です。ですから、その時々で人間の脳が判断を下す意思決定には常に膨大な誤差が発生しているということになります。
これは、中枢神経でも自律神経でも同じことですから、誤差と神経の反応は全ての動物の行動に共通です。例えば、昆虫のアリが巣穴を出て西に行くか東に行くかは、そのときのアリの気分しだいだと思います。そして、たまたま西へ行ったアリは餌にあり付くことができました。これは、アリが西に向かった時点で初めて収縮された事象であり、確率としては含まれていましたが、アリが巣穴を出る前には決まっていなかった未来です。
ではここで、未来が確定しているものであるとするのであれば、アリが西へ向かって餌を採るというのは既に決定されていた事象であり、アリはただ決められたレールの上を歩かされただけということになります。
ですが、未来が不確定であるならば、アリが西へ向かったという行動の選択が、餌の獲得という未来に反映したことになります。つまり、未来が不確定であるならば、アリの自由意思もまた立派に存在するということですね。
科学的な原理・検証というのはこういうものではないでしょうか。未来が不確定である限り、全ての生物に自由意思は保証されます。更に付け加えるならば、不確定な未来が自由意思の存在を保証するという帰結に基くならば、単に人間の思考が他の動物よりも複雑であるという理由で自由意思の構造的な問題に目を奪われる必要は全くありません。

脳の話が出ていますので、もうひとつ例を取ります。
人間の脳は大変複雑な神経ネット・ワークによって演算を行なっています。先にカオスの誤差という問題を取り上げましたが、これは「複雑系」に於ける「複雑さ」によって発生するものであり、人間の脳に限らず、生物の構造そのものが複雑系なのですから、それは膨大な誤差によって成り立っていると言っても嘘にはなりません。
さて、ここで人間の脳から誤差というものを全て取り除いてしまったらいったいどうなるでしょうか。
それは、膨大な思考力を持ち、一切の過ちを犯さない極めて正確な超巨大スーパー・コンピューターということになりますよね。これは物凄いことです。
ですが、この脳は絶対に間違いを犯しません。それがどういうことかと言いますと、計算の結果、即ち答えは常にひとつしか出て来ないということです。幾度計算しても必ず同じ結果しか出しません。
では、全く決まった答えしか出せない脳を持つ人間に自由意思があると言えるでしょうか。つまり、脳が間違いを犯さなければ人間に自由意思などないということになります。

さて、自由とは何でしょうか。
それは、拘束されないということですよね。
これまで長々と述べましたように、未来が既に決定していたり、脳の出す結論が予め決まっていたりするならば、そこに自由意思はありません。
自由意思というのは、自分の意思を外に反映させたり、コントロールできたりすることではありませんし、人間の知能が高等だからといってそこに宿るものでもありません。少なくとも、脳を自分でコントロールできないのであるならば、自由な意思決定であると言えないなどといった考え方は全くのナンセンスです。つまり、自由意思とは、拘束されないこと、即ち「不確定」であらねばならないということなんです。そして、量子力学は未来は未確定であるという結論を出しましたし、カオス理論に基くならば、間違いを犯さない脳はあり得ません。
ということですから、どちらかと言えば、我々はかなりいい加減な意思決定によって、常に偶然の未来を確率的に手に入れているということになるわけなのですが、決して定められたレールの上を歩かされているわけでもなく、答えの決まった結論を出しているわけでもありません。ですから、誰が何と言おうと我々は自由なんです。

他の回答者さんも書いておられましたが、このような量子力学に於ける人間原理は、現在「強い人間原理」といった考え方にも発展しています。
未来は観測によって収縮し、観測者の意思決定が反映されます。現在、宇宙の物理法則がかくあり、太陽系の構造が地球環境を生物の存在を可能にしているのは偶然ではなく、観測者である地球生命の存在によるものであるというものです。
私はこれに就いては詳しく説明できませんが、「強い人間原理」「ロバート・ディッケ」などのキーワードで検索すれば情報を集められると思います。
先に、未来は確率の集合であり、我々はより高い確率の未来に基づいて行動選択する術を知っていると述べました。これにより、誰でも自分の望む未来の確率を高めることもできます。また、観測者の意思決定が結果に反映し、あろうことか宇宙の物理法則まで決定してしまうというのであるのならば、未確定な未来は観測者の思うままということになります。
ですが、この問題を論ずるときに、私は最後に何時もこう付け加えるのですが、観測とは、少なくとも世界60億人の入れ子状態で行なわれていますし、仏教ではこれを「平等の境地」と定義し、一切の利己的な動機に基く観測、即ち煩悩を廃してこの世の全ての生物が成仏しなければならないと解いています。万人の望む未来は席に限りがありますし、それを手に入れようとすること事態が煩悩なのだそうです。
ですから、人生が欲してままならないのは、どうやらその為らしいです。

また、ついつい長くなってしまいました。
ごめんなさい。

こんにちは。
科学的にどうかということですが、一応現在では、「人間の自由意思は存在する」ということになっていると思います。そして、そのことを証明するために、「自由意思とはいったい何か」などといった問題を論ずる必要は一切ない、科学はそう述べています。

自然科学の分野では、恐らく18世紀頃からですが、かなり長い間、人間に自由意思というものはありませんでした。それは、この世のあらゆる運動の法則を司る、ニュートン力学に於ける「確定論」が自由意思の存在を否定していたからです。です...続きを読む


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