昨夜、NHK で宮崎あおいちゃん主演の オペラ蝶々夫人の「蝶々さん」を

みてたのですが、100円で 娼妓に売られる、、という内容でしたが、

明治20年代の100円って 現在でのいくらくらいになるのでしょうか?

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物価も現代とかなり違ったようですね。

下記サイトも参考になるでしょう。

・明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?│お金の歴史雑学コラム│man@bowまなぼう
http://manabow.com/zatsugaku/column06/

A 回答 (3件)

たとえば『長崎県統計書 明治20・21年/長崎県』によれば、


http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807980/164
「精米(1石)…(明治19年)6円47銭1厘(明治20年)5円98銭3厘(明治21年)5円73銭1厘」、
一方『東京府統計書 明治21年/東京府』では、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806568/116
「精米(1石)…(明治19年)6円39銭(明治20年)5円37銭(明治21年)4円98銭」と
若干地域差があります…

1石=10斗=100升=1000合=約180.39リットル、1合=約0.15kg、
0.15kg×1000合=150kgに基づいて一応単純換算してみますと、
「明治20年・長崎精米価格」…5.983円÷150=0.03988≒約0.04円/1kg、
当時長崎では100円で購入出来る精米が、100円÷0.04=約2500kg、
これを現在の精米価格400~500円/1kgに当て嵌めてみますと、
400~500円×2500=1,000,000~1,250,000円相当。

同様に「明治20年・東京精米価格」…5.37円÷150=0.0358≒約0.036円/1kg、
当時東京では100円で購入出来る精米が、100円÷0.036=約2777kg、
これを現在の精米価格400~500円/1kgに当て嵌めてみますと、
400~500円×2777=1,110,800~1,388,500円相当となって

精米換算では既回答者の皆様と同じく、概ね百万円余りの勘定にはなりますが、
現在の百万円と同等の価値と捉えるには無理があるようにも思います。

別な観点で捉えると、たとえば明治23年の長崎市での賃銭(賃銀)では、
『長崎県統計書 明治22・23年/長崎県』<163~165/322>
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807981/163
「農作年雇・女・一ヶ月給料/<明治23年>(上)2円50銭(中)2円00銭(下)1円75銭」
「農作日雇・女・一日賃銭/<明治23年>(上)8銭(中)7銭(下)5銭」
「機織年雇・女・一ヶ月給料<明治23年>(上)5円00銭(中)4円00銭(下)3円50銭」
「下女・一ヶ月給料/<明治23年>(上)1円50銭(中)1円00銭(下)70銭」などから、
明治23年当時の100円は、長崎市での場合、
農作年雇女性(中)の50ヵ月分給料相当、機織年雇女性(中)の25ヵ月分給料相当、
下女(中)の100ヵ月分給料相当の価値があったとも言えます。

上記を単純に現在に当て嵌めてみますと、
農作業1ヵ月2万円、機織1ヵ月4万円、三食部屋付下女1ヵ月1万円、
果たして現在このギャラで働く女性はいるでしょうか?
現在なら日当でもおかしくない金額ですよね^^

以上のとおり 社会・経済構造や価値観に相当ひらきのある時代同士の比較は
結構難しいようです。
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この回答へのお礼

回答 ありがとうございます。

細かい計算までしていただき ありがとうございます。

農作業1か月2万円、、、となると、100万円では、約4年分。

やはり現在の1000万くらいの感じなんでしょうねぇ~。

>以上のとおり 社会・経済構造や価値観に相当ひらきのある時代同士の比較は
結構難しいようです。


そうですねぇ~。

でも、現在との対比も面白いですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/20 21:56

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>当時の1円はどれくらいの価値があったのでしょうか?

天璋院 / 篤姫(てんしょういん / あつひめ)が明治16年(1883年)11月20日に死亡されましたが、その時、所持金は3円゛だったと言われています。現在の価値にすると3万円だとされています。

従って、同じ年代ですので、

1円=1万円位だったのではないでしょうか。

従って、10,000×100円=100万円くらいでしょうか・・・。
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この回答へのお礼

回答 ありがとうございます。

天璋院が、江戸城を去った頃は、倒幕運動に加担した島津家からの

援助は拒否した、、、と聞いてます。

「自分は、徳川の人間である」という 気構えだったのでしょう。

しかし、家計は厳しかったんですね~。

3万では、、。

今の3万とは、また価値が違うかもしれませんが、それにしても

少ないですね。

蝶々さんの 100万も 現代なら 1000万くらい、、?

ですかね?

bungetsuさんの「佐渡流人悲話集」随分前に 読んだことあります。


回答 ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/20 21:46

貨幣価値の比較には色々な手法があるでしょうけど



例えば主食であるお米の価格で比較する方法で考えると

明治中頃の白米10Kgの一般的な価格が50銭ほどだそうです <-つまり0.5円
とすると、100円は、お米2、000kgと成ります。

今現在の白米価格は、10kgで4~5千円ほどでしょうか?計算が楽な様に5千円とした場合
5千円x200倍となり、100万円ほどと言うのが一つの目安でしょうかね。

随分安いと思われますが、昔はお米の価値が高かったのと、人の価値というか労働力というか(ハッキリ言うと女性としての)価値が低かったのでしょうね。
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この回答へのお礼

回答 ありがとうございます。

100万ですか、、。

たしかに安い感じですし、それぐらいなら払えるでしょう、、

とも思いますが、女性の価値が低かった、、という処も

大きいのでしょうねぇ~。

今なら、1000万くらい の感覚でしょうか?

これも、お金持ちからみれば、「安い」でしょうし、

「高い」と思う方もいるでしょうし、、、。

でも、だいたいの「感じ」が掴めました。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/20 21:32

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といっても、実際に幕末の文献を読んでみますと、sometimesを福沢諭吉は「サモタイモス」とカナ表記にはしていますが、役人のそれは「ソメチメス」となっていて、前者が「耳で聞くことに依る、より原語に近い発音表記」を可能としていたが、後者のそれはオランダ語やゲルマン語のそれに近く、しかも「文字で書かれた言葉を読む」との姿勢に終始していたことをうかがい知る事もできます。
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 尚、日本の文書に仮名表記が見え始めるのは鎌倉時代以後であり、それは武家に文字を書くだけの力量がなかったことによる現実的な理由からで、漢文で書かれている当時の文書は「祐筆」と呼ばれる専門の書記官的役人による代筆であり、ほとんどは本人直筆のものではないとのことも知られています。
 外国人が日本語を自らの国の言葉に置き換えて理解することを目的とした辞書の一つが『日葡辞書』と呼ばれる史料的価値の高い文献です。

 「ワシントン」を「華盛頓」としたのは、実際に「(ホヮ)シントン」もしくは「ファシントン」と聞こえたからでしょう。

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なぜ西郷隆盛に欧州視察を勧めなかったのでしょうか?
   ↑
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暴れます。

現代でも、クーデターは国王なり、独裁者なりが
外国へ出かけた隙に発生している場合が多いです。




「おまえも欧州を見てくれば征韓論なんて到底無理だと分かる。」
    ↑
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Aベストアンサー

フランス語に関しては横濱佛蘭西語傳習所と呼ばれる翻訳官や通訳の養成所が1865年4月1日(元治2年3月6日)に横浜に設けられていました。
幕末に江戸幕府は、当時ナポレオン軍の歴史を引くフランス陸軍の制度を導入しようとしていました。
軍隊を新たに作りますから、当然教官であるフランス軍将校の言葉を理解する必要があることから設けられていました。

同様の動機で各藩でも藩校の中に英語やフランス語を学ぶ講座を設けてイギリス人やフランス人を招聘していました。
古くは御承知の通り長崎にはオランダ語を学ぶ私塾は沢山ありました。
外科手術を主体とした蘭方医を養成していました。
幕末には頻繁にオランダ以外の国の船舶が来航していましたので、長崎では早くからオランダ語以外の言葉が学ばれていました。
ということで、必要に応じて最低限の通訳は手当てができていました。

富岡製糸所のみならず、明治初期に来日した外国人は、むしろ日本語を勉強して何とか自分の技術や知識を伝えようと努力してくれました。
生徒である日本人も貪欲に言葉を学び、技術や知識を吸収していきました。
(そうは言っても実際には、相当いい加減な金目当ての山師のような連中もいたようではあります)
まぁ~当然スタートはお互いに片言で身振り手振りではあったでしょう。
言葉というのは、その場で必要に迫られれば意外に短時間でマスターできます。
ただし、受験程度の切迫感ではダメです。生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い込まれなければダメです。

尚、江戸時代は全く聾桟敷であった訳ではなく、漂流や難破で海外生活を余儀なくされた人達が沢山いて外国語をマスターして帰ってきていました。
有名な大黒屋光太夫はロシア語を完璧にマスターして帰ってきています。
ジョン万次郎は英語をマスターして帰ってきています。
幕府は必要に応じてこれらの人達を使っていました。
ただし、制度化されたのは幕末ギリギリで直ちに明治時代に突入してしまいました。

>現金は円で払ったのですか?それともまさかのフランですか?
記録上は円で記録されていますが、本人がどうしたのかは実際のところは良く分かっていません。
そもそも明治政府は外貨を持っていません。
おそらく有史以来の国際通貨である金銀に両替されていた可能性が一番高いかと思います。
これを交易で日本へきていた商人を経由して自国通貨に変えていたのではないのかと推定されます。
国内にいる間は両替の必要は全くなかったことに注意して下さい。

蛇足
日本の通貨は計数通貨でしたが国際的には金銀の秤量通貨でした。
結果として、日本の銀貨である丁銀や小粒は、海外へ持ち出せば日本国内で小判に変えるよりも多い重量の金が手に入りました。
これで一儲けしたのがタウンゼント・ハリス」です。
外交官というよりも政商としての才能に長けていた男のようです。

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