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阪急梅田駅の歴史をあれこれ検索しましたが、国鉄の南側にあったターミナルがいつ北側に移動工事したのかがつかめません
国鉄線路を跨いでいた跨線を下に切り替えるのは1932年から、その後の歴史が見つかりません、説明のHPがありましたら満点ですね
宜しくお願いします

A 回答 (5件)

No3です。



> 昭和47年の北側移転完了時には、この地図の「旧プラットホーム」はやや北よりにあってその後
10両編成の電車が止まれように「現プラットホーム」まで伸ばしたと云うことでしょうか

「旧プラットホーム」は添付地図の位置にありました。
要は移転前の、国鉄の南側に阪急梅田駅があったころのホームの位置です。
写真はその位置を撮影しています。
駅を国鉄南側から北側に移転するときに、初めから10両編成が止まれる長さのホームを作っています。

そのようにNo3の回答に書いたつもりでしたが、文章がまずかったでしょうか。

>もう1点は「49機もの自動改札機がずらりと立ち並び」原武史著「民都大阪対帝都東京1998から引用」とありますが、この様子は今はもう無いのでしょうか、いつまで「ずらりと立ち並び」と見られたのでしょうか
「梅田駅構内案内図pdf」によると2Fに「茶屋町口改札口」と「2階中央改札口」そして「3階改札口」の3カ所のようです、これは現在かつ阪急百貨店ビルの建替工事後もこれだと原氏の描写は過去のこと、1998年当時は3Fに「49機もの自動改札機」が1列に並ぶとは壮観だったでしょうね、映画とか写真を見たいものです、世界中でこんなのあるでしょうか

ワンフロアに自動改札機が49台並んでいるかどうか数えたことはありませんが、現在でも3階改札口と2階中央改札口には自動改札機がずらっと並んでいます。
もっとも、両端に駅事務室、真ん中に切符売り場があるので10面9線のホームの横幅いっぱいに並んでいるわけではありませんが。
茶屋町口改札は両側に1階へ降りる階段があるので改札機の数はやや少ないです。

阪急梅田駅と阪急百貨店の敷地はは現在ではJRの線路によって完全に分かれていますので、阪急百貨店ビルを建て替える際に阪急梅田駅の建物をいじる必要はありません。

googleの画像検索で「阪急梅田駅 改札口」で検索していただくと、雰囲気がある程度わかるような写真が出てきます。
3階改札口と2階中央改札口全体を写すには超広角レンズでも難しいかもしれないくらいの幅なのですが、探せば全体が写った写真があるかもしれません。

機会があれば実際に来ていただくと、いちばんよくわかるのですが。
「阪急梅田駅はいつ国鉄線の北側に移動したの」の回答画像4
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この回答へのお礼

再々度ありがとうございます 添付地図で確認できました

その後「大阪駅の北ヨドバシ梅田ビル計画」や大阪のあちこち
http://saitoshika.blog119.fc2.com/blog-date-2011 …
など見ると「梅北」はすごいゼネコン稼ぎ場ですね、これは見にいかないとあきませんね

また高山禮蔵著「大阪・京都・神戸私鉄駅物語2004」も読んでます、7年前でも古い感じ
それでまだ閉め切らずにまた質問させて戴くかもしれません
まずはお礼まで

お礼日時:2011/11/24 08:57

#1です。


先の回答でお示しした「阪急梅田駅の歴史」を詳しく見ると「旧ホーム」の謎が解けると思います。
簡単に整理すると、
■1926年(大正15年)・・・阪急梅田駅を高架化する。このとき国鉄はまだ地上にある。
梅田駅は国鉄の南側にあり、北端が国鉄線に接する形だった。
「阪急梅田駅の歴史-1」第四期の図。
ただしその後、ホームが北に延長されたのか「阪急梅田駅の歴史-2」の」冒頭「切り替え工事直前の写真」を見ると阪急ホームが国鉄線の上にまで伸びている。

■1934年(昭和9年)・・・国鉄線の高架化に伴い阪急線は強制的に地上に降ろされた。
国鉄高架線はそれまでの位置よりも北にずれた。阪急線はほぼ同じ位置で地上に降りた。
「阪急梅田駅の歴史-2」の「切り替え工事直後の写真」を見ると、阪急ホームは国鉄線よりも少し北に張り出しているように見えます。
質問者様がご提示されたサイト「鉄道遺構 番外編」にある「旧プラットホーム」とはこのときの張り出している部分のことと考えられます。
ちなみに「番外編」にある「昭和5年に地上駅に移転した。」は正確には「昭和9年」の間違いのようです。
下記の「阪急電鉄グループの事業年譜」(公式ぺーじですね)でも「1934年6月1日 梅田駅北側国鉄線立体交差切替工事完了」とありますので。
http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/company/nem …

■1967年(昭和42年)頃~・・・阪急梅田駅のホームがこれ以上延長できないため、国鉄の北側へ移転開始。神戸線、宝塚線、京都線と順次移転。
1973年11月23日梅田駅拡張第4期工事(京都線ホーム1線増設)竣工。にて全面移転完了。
(上記「阪急電鉄グループの事業年譜」より。)
現在の形となる。

これでおわかりと思いますが、「旧プラットホーム」がそのまま北に延長されて「現プラットホーム」になったのではなく、「旧」は古い地上プラットホーム、「現」は全く別の高架ホームです。

この回答への補足

ありがとうございます とても参考になりました
質問の内容から外れますが、阪急で通勤通学する方、特に南海沿線に行く方は梅田駅で乗り換えするしかありませんね、検索しますと御堂筋線も環状線へも同じ9分かかるようです、難波でも7分かかるようです、堺筋線乗り入れがありますか
このようなのは東京ですとほとんど都心部の地下鉄を中にして両方の私鉄が乗り入れしてます、関西の事情は多少学びましたが阪急ー御堂筋線ー南海ぐらいは利便性を考えないものでしょうかね
阪神なんば線と近鉄奈良線乗り入れは2009/3開通と云うのは最近しりました、乗降客の多い阪急と南海は何か動きがあるのでしょうか、線路幅だけでしょうか
別建ての質問でしょうが、ご存知のこと教えていただけますか
ありがとうございました

補足日時:2011/11/27 10:01
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No2です。



>北側に移動したあと更にプラットホームが北上しているようです
http://www.tetsuhai.com/bangai1.html
>このページの中程に地図がありますが、でもその年が不明、

このサイトの項目5のことですね。

写真の場所はたしかに移転前の梅田駅のプラットホームがあった場所ですが、地図の「旧プラットホーム」の位置が間違っています。
写真の場所はJRの線路よりも南で、1階の通路を南向きに撮影しています。
通路の右側が阪急百貨店、左側が阪急グランドビルです。

旧国鉄の北側に移転した当初から、現在の阪急梅田駅のホームは10両編成の電車が止まれるように作られています。
移転のそもそもの目的が、連結両数の増加に応じてホームを延ばすためでした。
旧駅のままでホームも延ばそうとしても、南へは大通りと阪神百貨店があるので延ばせないし、北へは国鉄の高架が邪魔で延ばせないので、仕方なく国鉄の北側に駅を移転したわけです。

なお、現在阪急百貨店ビルの建替工事をしていまして、写真の通路は幅が半分になっています。

この回答への補足

再度ありがとうございます また2点ほどお聞きしたいのですが

>地図の「旧プラットホーム」の位置が間違っています。
 昭和47年の北側移転完了時には、この地図の「旧プラットホーム」はやや北よりにあってその後10両編成の電車が止まれように「現プラットホーム」まで伸ばしたと云うことでしょうか

もう1点は「49機もの自動改札機がずらりと立ち並び」原武史著「民都大阪対帝都東京1998から引用」とありますが、この様子は今はもう無いのでしょうか、いつまで「ずらりと立ち並び」と見られたのでしょうか
「梅田駅構内案内図pdf」によると2Fに「茶屋町口改札口」と「2階中央改札口」そして「3階改札口」の3カ所のようです、これは現在かつ阪急百貨店ビルの建替工事後もこれだと原氏の描写は過去のこと、1998年当時は3Fに「49機もの自動改札機」が1列に並ぶとは壮観だったでしょうね、映画とか写真を見たいものです、世界中でこんなのあるでしょうか
宜しくお願いします まいどすみますん

補足日時:2011/11/23 09:33
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阪急京都線沿線で育ち、今も在住している者です。



他の私鉄ではよく自社のサイトに自社の歴史を載せるのですが、阪急はそれがないようですね。
紙の書籍の形では阪急電鉄自身が編集した阪急の歴史を残しているのですが。

北側への移設は、1934年(1932年ではありません)に一夜で現JRとの交差をオーバークロスからアンダークロスに切り替えたのと違い、路線ごとに順次行われました。
昭和44年にまず神戸線が移転、次に宝塚線、最後に京都線という順番でした。

私は京都線がとりあえず北側に移動した頃に物心がついたのですが、京都線が北側に移設したてのころは現在の1号線はまだできておらず、京都線梅田駅は2線で運用されていました。
それ以前から京都線梅田駅の線路の数は少なかったと本で読んだように記憶していますが、京都河原町からの普通電車はそのせいで梅田まで入れず、十三で折り返しでした。十三駅にはそのための7号線が駅のいちばん東側にあったのをよく覚えています(7号線の跡地は6号線ホームの拡幅に使われました)。
地上時代の梅田駅は全く知らないのですが、十三行きの普通電車によく乗ったこと、また現梅田駅1号線ホームが工事中だったこともよく覚えています。

梅田駅1号線が完成、使用開始したのは昭和48年、これでようやく河原町からの普通が梅田に乗り入れるようになりました。その後も十三折り返しの普通は5年くらい残ったように覚えていますが。

信頼性に欠けるといわれればそれまでですが、年表的な話はWikipediaを参考にされればいいかと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E7%94%B0% …

この回答への補足

ありがとうございます 具体的な記憶、数字の指摘、国道や十三のことなどとても興味深く読みました
私は大分育ちの東京住まいなので関西にはとても未知の魅力を持ってます、永年の「関西に滞在しての散策」の夢が実現できず残念です
以下はNo.1さまへの補足と同じですが、こちらも宜しくお願いします
北側に移動したあと更にプラットホームが北上しているようです
http://www.tetsuhai.com/bangai1.html
このページの中程に地図がありますが、でもその年が不明、
これは後日、別建てで質問したほうが良いでしょうかね、先に見つけられましたらおねがいします、ありがとうございました

補足日時:2011/11/22 10:13
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下記に非常に詳しいサイトがあります。

「阪急梅田駅の歴史」
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-118. …

ちなみに「阪急梅田駅歴史」とググればトップに出てきます。
これによると、梅田駅が完全に国鉄線北側に移動したのは案外新しく昭和47年のようです。
(阪急梅田駅の歴史-3)

この回答への補足

ありがとうございます このサイトも読んでいたのですが昭和47年が移動完了とは見逃しました
北側に移動したあと更にプラットホームが北上しているようです
http://www.tetsuhai.com/bangai1.html
このページの中程に地図がありますが、でもその年が不明、
これは後日、別建てで質問したほうが良いでしょうかね、先に見つけられましたらおねがいします、ありがとうございました

補足日時:2011/11/22 09:57
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