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江戸幕府5代目将軍 徳川綱吉が行った【貨幣の質を低下させてどうなったか】という仕組みを子どもに簡単に教えたいのですが、以下の内容であっていますでしょうか?

その頃のお金は、例えば10gに何g金や銀が含まれているかどうかで質が決まっていた。
「お金を増やせば、経済が良くなる」と、考えた綱吉。
今のお金でいう10円が、当時1枚10gだとしましょう。
去年まではその10gに含まれていた金の量が1gだとしたら、お金を倍に増やしたいとき、金の量は、少しケチって0.5gにすれば、今までの倍のお金を作ることができます。

しかし、いままで1杯10円で売っていたおそばやさん。
【去年までの金が1g含まれた10円】と、【今年の金が0.5gしか含まれていない10円】
同じ10円を支払ってもらうときに、どちらが欲しいかといえば去年のお金が欲しい。
確実に金が1g含まれた貨幣を手にするには、今まで10円で売っていたそばを、20円にすれば手に入れることができます。
なので物価は上がり、人は物を買わなくなり、経済が悪化する一方でした。

知人から聞いたのですが、うろ覚えで自信がないのでお願いします。

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A 回答 (5件)

質問者の方の認識は、正しい認識です。


たとえば、1両に1gの金が含まれていたものを、1両に0.5gに金の量を減らしたらどうなるか。
想像しただけでわかりますね。
ここで問題になるのは、2011年発行の1両には、1gの金が含まれているのに、2012年の1両には、0.5Gの金しか含まれていないとなった場合、経済はどうなるでしょうか?
買い物をして、値段が、2011年以前の金貨では1両なのに、2012年以降の金貨では2両となってしまいます。
2011年以前の金貨を使う場合と、2012年以降の金貨を使うのでは、価値がことなってしまいます。
店では、2011年以前の貨幣では、同価格ですが、2012年以後の貨幣は2倍に設定します。
しかし、給金を現金でもらう人は、同一価格として、新しい2012年通過でもらうことになります。
これにより、物価は、実質2倍に跳ね上がることになってしまいます。
すると、当然庶民の購買力が落ち、経済が悪化することになります。
2011年通過で給金をもらっていれば、物価水準は上がっていないのに、2012年通過でもらうと物価が2倍になるという現象がおきるのです。

江戸時代、藩札が失敗したのは、みなこれが原因です。
藩が藩士に支給するのは藩札で、藩札と市場通貨との乖離で、藩士の貧困がより進んでしまったのです。

1番の方の理論は、近代経済学の理論ですが、近代経済学は、机上の空論であり、現実との乖離がはなはだしい経済理論です。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい、申し訳ありません。
簡単な説明で、歴史に詳しくない私にもわかりやすいご回答、ありがとうございました!
よってベストアンサーにさせていただきます。

お礼日時:2011/12/12 01:23

物価が下がるような相当なデフレ状態であった所へ改鋳+小判の増量(+165%)


を行ったのでギャロッピング・インフレを引き起こし、一時期、経済パニックに陥りました。

その後経済回復した。(物価が安定し、流通量も増えた)のです。
(元文のインフレーション)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。
リンクなどありがとうございました。
参考にさせていただきました!

お礼日時:2011/12/12 01:18

ご質問の意義からズレた回答ですが。



同時に錬金術、化学や科学技術の発展も教える方が良いかと思います。

金を作り出そうと色々な金属や薬品を色々な方法で組み合わせた過程の副産物で発見された技術や薬品など。

使用する金の量を減らしていかにして質の良い高機能な物を作るか。
半世紀ぐらい前の大量の部品が使われたいたコンピュータの性能と比べ物にはならないぐらい軽量化され高機能になった現代のコンピュータを比較した科学技術の発展も同時に教えた方が全体的な歴史や科学、文学の繋がりも見えて来て良いかもですよ。

金を貯める方法プラスアルファでさらに使い方、増やすための運用方法も同時進行で説明された方が聞く側も興味を持ちそうですしね。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。
予備知識どうもありがとうございました!
参考にさせていただきました。

お礼日時:2011/12/12 01:19

後半がおかしい



一年間で そばが 1000杯売られている時に必要なお金が 10g(金)名目
だとしたら、翌年 2000杯売られるために必要な流通貨幣は20g(金)名目が必要です。経済規模に対して流通するお金が不足すれば、金詰りになります。

家綱の時代までは、家康がため込んだ金があったので、どんどん設備投資しましたので、お金が世間に流通しましたが、金も産出量が減り、経済規模が大きくなったので、お金が不足したので、綱吉はお金の流通量を増やしたのです。

んで経済音痴がそのあと金融政策をしたので、デフレになりました。お金を使わない方が、将来物価が下がるので、あとで たくさん買える。ということで不景気になります。

さすがに吉宗も反省して
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%96%87% …
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい、申し訳ありません。
リンクまでありがとうございました。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2011/12/12 01:21

 荻原重秀が金貨を改鋳したのは正解です。

経済が発展して来るとGDPの大きさに比例して通貨の量が増えてくれないと景気を冷やしてしまい、折角の好景気をフイにしてしまいます。よく通貨の質を悪くするとインフレが起きると言われますが、これは経済オンチの人が言う世迷い言であり、インフレが起きるのは通貨の発行量が多すぎたときに起きる現象なのです。その事は現在では表示価格よりは明かにうんと安い紙製の通貨でも立派に通用しているのを見ればよく分りますよね。

 紙幣の場合は必要などんどん印刷できますから、発行しすぎによるスーパーインフレを起こさないよう、日銀は細心の注意を払っています。しかし江戸時代には金貨、銀貨ですから、おいそれとは増やすわけにはいかず、通貨を増やすには改鋳しかなかったのであり、その発行量が適切である限り、これは正しい経済政策なのです。

 これによって幕府は多大の財源を得ることになるのですが、実は世界の通貨を発行している米国は同じ利益を蒙っています。ドルをどんどん発行して経済を維持しており、実はこれは発行量が世界のGDPの伸びに見合っている限り、むしろ必要不可欠な行為なのです。

 通貨は価値の証明書であり、それ自身が価値を持っている必要は何もないのです。そしてその証明書は政府の保証という裏付けがあるので皆が安心して使っているのです。もしジャンジャン刷って発行するようなら、インフレで価値がさがりますから信用を失ってしまい、大変なことになります。実は終戦直後の日本でそういうことが起きたのですよ。その名残りが1ドル100円というとんでもない交換率になっているのです。

 江戸時代は世界でも希有なほどの発達した経済社会が実現していました。ですから、改鋳で起きたのは比較的緩やかなインフレであり、それはむしろ望ましいことであったといえるのです。借金が目減りしますから、みんなが積極的になれますからね。日本の高度成長期がこれでした。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
丁寧にご回答いただきありがとうございました!
参考にさせていただきました。

お礼日時:2011/12/12 01:20

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Q質の悪い貨幣が流通すると物価が上がる理由

こんばんは。
今日日本史の勉強をしていたら、江戸時代末期の開国後の日本で『金が国外に流出し、質の悪い貨幣が流通した結果、物価の上昇を招いた』というような記述があったのですが、まず質の悪い貨幣とはどういうものですか、またなぜ質の悪い貨幣が流通すると物価が上がるのでしょうか??
よくわからないので、どなたか教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします。だけど受け取る人は、質の悪い小判だったら2枚じゃないと1万円の価値のあるものと交換しないよ、と言うでしょうね。
だから額面上の物価があがるのです。
もうひとつのことわざ、悪貨が良貨を駆逐する。
理由はお分かりですよね。
因みに今の紙幣も昔は兌換紙幣と言って、例えば1万円(当然当時の額面は銭の単位でしょうけれど)の紙幣を日銀に持っていけば1万円分の金と交換してくれました。現在は不換紙幣なので交換してもらえません。兌換紙幣の時はインフレは起こりませんよね。
これは質問と関係ありませんでしたね。

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします...続きを読む

Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Q株仲間って何ですか? 簡単な言葉で教えてくださいm(_ _)m また水野忠邦が株仲間を解散させたの

株仲間って何ですか?
簡単な言葉で教えてくださいm(_ _)m

また水野忠邦が株仲間を解散させたのはなぜですさ?

Aベストアンサー

株仲間は、同業者の組合・団体です。

例えば、AコーラとBコーラが、販売するコーラの値段に関して相談し(談合といいます)、200円にしようと決めれば、
コーラは200円でしか買えないことになります。

この談合は、多くの場合消費者・一般庶民にとって、高めの価格が設定されたり、安くならないという不都合が生じます。
談合(組合・団体の会合)で値段を決めた場合、一方ではそれ以下で販売すると組合から除名されたり、仕入れ等にも影響を与えるからです。

株仲間を開催させた理由は、談合が行われ、健全な商業活動が阻害されていたからです。
価格に関しては、先に述べましたが、質問者さんが仮にコーラを製造販売したいと考えた場合に、その株仲間に入らないと、
開業できない状態になっていたからです。

自由に商売ができないと、経済全体が停滞し、商業自体が成長しませんし、消費者は渋々一定の少し高めの価格で購入する必要があり、
生活に影響を与えるからです。

時代的には、米・味噌・酒などが、談合により、高めの価格が設定されていたとすれば、経済を活性化し、庶民を守るためには
無用の長物だったのが、株仲間だったということになります。

参考までに。

株仲間は、同業者の組合・団体です。

例えば、AコーラとBコーラが、販売するコーラの値段に関して相談し(談合といいます)、200円にしようと決めれば、
コーラは200円でしか買えないことになります。

この談合は、多くの場合消費者・一般庶民にとって、高めの価格が設定されたり、安くならないという不都合が生じます。
談合(組合・団体の会合)で値段を決めた場合、一方ではそれ以下で販売すると組合から除名されたり、仕入れ等にも影響を与えるからです。

株仲間を開催させた理由は、談合が行われ...続きを読む

Q歴史 大塩の乱が起きた原因とその影響は?

中学で歴史を学んでします。
大塩の乱が起きた原因とその影響について、分かる方具体的に教えてくださいませんか?
お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の改革」を見習って、あの「三大改革」の中でも最も一番厳しい改革だったんです。

そんな中、当時「天保の飢饉」というのがあって、各地で深刻な「米不足」が起こりました。米不足の影響で、いろんなところで一揆などが多発していて、世間は大混乱な状態だったんです。
その飢饉の影響はもちろん、大塩平八郎が住む「大阪」にも及びました。彼は飢饉で苦しむ聴衆を救うべく、自らの著書(彼自身、有名な陽明学者だったので、彼の著書は結構なお金になりました。)を売って、貧しい民衆に分け与えるなどの活動をしていました。ところが、それは奉行所から「売名行為」だと判断され、処罰されることになったんです。

それだけなら、まだ良かった・・・さらに大きな問題があったのですが、何と、その大阪の奉行所が飢饉なのにもかかわらず大量にお米を買い上げて「独占」していることが分かったんです。というのは、当時江戸のような主要都市でも深刻な米不足に陥ってたので、大阪の奉行所がそのお米を買占め、江戸に搬送していたんです。でも・・・苦しいのはみんな一緒。それなのに、結局将軍様が江戸にいるからって、そのためにお米を買い占めて良いのか?良いわけありませんよね?大阪の人々に生活はさらに苦しくなるって言うのに、それを無視しても良いのか?

そこで大塩平八郎は、奉行所にこう訴えました。

「あなたたちが米を買い占めているせいで、民衆の生活がさらにひどくなっているんだ!彼らに少しでもいいから、お米を分け与えてやってくれ!」

ところが奉行所は「そんな余裕はない!生活が苦しいなら、苦しいなりに自分たちでどうにかしろ!」と言って、拒否したのです。というのは、やはりこういう世情だったんです。「天保の改革」は民衆などに「自分たちの生活が悪いのは、自分たちが無駄遣いなんかをするから悪いんだ。だから、自分でどうにかしろ!政治のせいにするな!」っていうようなスタンスだったんです。だから、奉行所もこう言って大塩平八郎の言うことなんかに耳を貸さなかったんですね。

利益を目先に米を買い占め、それを売る「豪商」、今の世情に大塩平八郎の怒りはついに頂点に達しました。そこで先ほど言ったとおり、彼はすべての著書を売り、民衆にお金を分け与え、そして家族や知人とも縁を断ち、すべてを覚悟して「決起」に望んだというわけです。これが、「大塩平八郎の乱」です。

しかしこの計画は奉行所のほうに未然に発覚していたために、わずか半日でつぶされるということになったのです・・・彼は諦めて探索方に囲まれた中で自害をしました。

でも、大塩平八郎の意思を継ぐものはたくさんいました。それを「大塩残党」とか言ったりするのですが、その中でも有名なのは「生田万」という人物です。彼もまた、大塩平八郎の意志を継ぎ、「生田万の乱」というのを起こします。

さて、ここからがおそらくどの教科書にも載っていない部分です。その後、幕府はこの混乱をどうにかしなければ!と思い、「豊作祈願」のために儀式を行うことにしました。ですが儀式にも大量のお金が必要で、今のご時世に幕府にそんな余裕はない。そこで幕府は「朝廷」に費用を求めました。これがいけなかったんです。今まで幕府と朝廷の間には、お互いのやることに口出しはしないというような暗黙の了解みたいなものがあったのですが・・・幕府が「朝廷」に費用を借りようとする、ということでそのルールが少し崩れ始めていくことになるのです。そして、その影響はあのペリー来航の際に、欧米諸国と条約を結ぶのに、朝廷の許可を得ようとまでするようになり、幕府と朝廷の間にそのような均衡がなくなることになります。そして、それが影響して公武合体論、尊王論、そして・・・倒幕へと歴史は足を進めることになるのです。

というようなことなのですが、分かったでしょうか?

まぁ、ここまで中学のレベルで知る必要はありませんし、おそらく高校にいってもここまで詳しくはやらないと思います。こんな感じなんだよーっていうのを「なるほどー」っておもって聞いてくれればいいです。

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の...続きを読む


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