出産前後の痔にはご注意!

ドイツは第一次世界大戦前に世界政策(3B政策?)を展開し、その途上で、同じくバルカンを狙うオーストリアと同盟しました。ドイツは、同じようにバルカンに進出しようとしていたロシアとは条約を更新せず、オーストリアと同盟を継続させた理由は何でしょうか。ドイツから見て、ロシアではなくオーストリアと提携することを選んだ背景にはどういった事柄があげられるのでしょうか。地理的な条件や、大ドイツ主義的な感情など、何かありましたらお教えください。

ちなみにロシアとオーストリア間でバルカンを巡る利害対立があったことはわかります。

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A 回答 (4件)

長文続けてすみませんが



ビスマルクは独墺同盟を恒久的同盟とは考えていませんでしたが
墺洪二重帝国の産業界にはドイツ資本がかなり流入していました
とはいえかつての墺を取り込む統一前の大ドイツ主義的な考えは持っていませんでした
なぜなら普仏戦争の小ドイツ的統一のずっと以前の1834年の墺を排除したドイツ関税同盟結成で既に経済的小ドイツ主義的統一は果たしており
またビスマルクの目指した独は英仏と対等な国民国家の独であり多民族国家ではないからです

墺洪二重帝国側も特にハンガリー側が独との同盟を望んでいたのです
二重帝国は墺と洪の内政不干渉の対等な国家連合であり
帝国の施政最高機関は共通閣僚会議で
出席者は共通外相、共通陸相、共通蔵相と墺、洪両国の各々の宰相、国防相、蔵相で共通宰相は存在せず
事実上のイニシアチブは共通外相が取っていました
ベルリン会議以降二重帝国の共通外相はアンドラーシやティサ等ハンガリー系でした
農業中心の洪が墺に対し対等な位置を示すにはどうしても独資本の洪に対する投資が不可欠だったのです

一方露は1880年代は独が墺とともに反露路線に走らぬ様な控えめな外交政策を取っていましたが
露の産業界では独からの資本も流入していましたが
しだいに金融資本主義国家の仏の積極的な資本投入で英独を圧倒しました
仏の資本輸出の実に4分の1が露に向けられました
これでは独のつけいる隙はありませんでした

独墺同盟は対象国は特定せず一方が攻撃されたら他方が好意的中立の立場となる防衛的同盟でしたが
対する露仏同盟は対象国を独と特定し一方が独と交戦状態となったら他方は即時【全力】で独を攻撃するという攻撃的同盟でした

独が1890年代に露と和解し同盟を結べる可能性は低いでしょう

しかしながら意志疎通がうまくいかないながらも墺と露は
1897年に墺露協定、1904年には墺露中立条約を締結したりもしています
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まず3B政策は日本の学者が勝手に作った造語で日本以外の国では使用されていません


実態がないからです
1903年に独資本によりイスタンブール~バクダット鉄道が完成しますが
それによって独が例えば第一次大戦後の英仏の様にオスマンの領土を分割支配したわけでもないです

独の世界政策はまだ植民地化されていない空白地域に向けられていましたが
独主要輸出品である金属・機械・電機等工業製品の市場は英米仏白の中心工業国や外資依存度が高く中間財輸入せねばならない露伊墺端日等周辺工業国であり
空白地域からの原材料輸入も採算の合う地域は殆どなく
唯一中国のみが採算の見合う進出ヵ所で英と英独協商を締結したりしました
従って独のバルカン政策というものは見受けられません
寧ろ独は墺のバルカン政策に巻き込まれないようにしていました

1883年にルーマニアを三国同盟側に引き込んだにも関わらず
墺が第一次バルカン戦争後にルーマニアと対立するブルガリアも引き込もうとしルーマニアが脱落してしまうことを墺に警告したり
同じくセルビア、モンテネグロが独立するアルバニアの北部スクタリを占領した時
墺がセルビアに予防戦争を仕掛けようとしたのを抑制したのも独でした
また英軍将軍指揮下の英独仏墺伊のスクタリな進駐する国際共同軍にも参加し

墺がセルビアから主要輸出品の豚を禁輸し経済封鎖した時も墺に代わり独がセルビアの豚を買い支え
バルカンでは独は強調路線をロンドンの六大国大使会議まで続けていました
また大戦勃発後も独は墺とセルビアの戦争に局地化しようしたことが見受けられます
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NO.1の続きです。



>三国協商はともかく何故に三国同盟はこの形で落ち着いたんだろうな・・?なんていう壮大な疑問が浮かんできたので・・・


落ち着いたわけではありません。ドイツはフランスを封じ込めるというビスマルク外交の方針の一貫としてオーストリア、イタリアを勧誘しただけです。自陣営に加えておかないとイタリアがフランスと結んでしまうかも知れない。それは避けたいわけです。イタリアもドイツと戦いたくないからとりあえずドイツ側の振りをしていただけです。イタリアはイギリス・フランス・ロシアと利害対立する問題があったわけではありません。といってイギリス・フランス・ロシアと利害が一致する問題があったわけでもない。先進国の一員として列強の仲間として認められたかっただけなのです。ドイツやオーストリアと利害が一致する問題があったわけでもない。とりあえずドイツ・オーストリアと結んだのは安全保障だけが動機だったのです。声をかけられたら、あえて断る理由もないという程度です。イタリアは元々日和見主義的な体質があります。サルジニア王国がクリミア戦争でオスマン帝国側に立って参戦したのは、英仏がオスマン帝国側にたって参戦したからであり、イタリア統一戦争をフランスに助けてもらうためにフランスの歓心を買うためだったのです。サルジニア王国自体はバルカン半島方面に利権があったわけでもないし、ロシアと対立する問題があったわけではない。フランスに認めてもらうための手伝い戦だったわけです。それだけの動機でサルジニア王国は何も関係がないクリミア戦争に参戦している。そういう国なんです、イタリアは。

三国協商が新興国として台頭するドイツ帝国の封じ込めという明確かつ共通の利害がイギリス・フランス・ロシアにあったのに対して、三国同盟には何も共通の利害が存在しない。帝国主義時代に遅れを取った後進国がとりあえず手を結んで、先進国に追いつこうと考えたといったことが三国同盟の意味だったに過ぎません。オーストリアは追いつくどころか衰退する一方で、拡張するどころか防戦一方でありました。18世紀末のポーランド分割のあたりまでがオーストリア帝国の最盛期であって農業国のオーストリア帝国は帝国主義時代の流れに乗れず、市民革命もなく、古い体制のままだったのです。とにかく多民族国家であり、オーストリア国民というアイデンティティが存在しない。ハプスブルク家を盟主に仰ぐという共通点以外は何もないのです。19世紀後半はオーストリア帝国はいかにして帝国解体を防ぐかというだけで精一杯だったわけです。

三国同盟といっても、ドイツ、オーストリア、イタリアは国情が全く違うし、同盟を結んだ思惑もまったくばらばらでありました。

>オーストリアの民族主義に対する反対・・というのはバルカン諸国の汎スラヴ主義に呼応した二重帝国内のナショナリズムの高揚に対する反対・・・みたいな感じなんですかね・・??

そうです。ここでナショナリズムは国家主義という意味ではなくて、民族主義という意味です。民族主義に対抗するオーストリア帝国の国家理念が存在しません。帝国を維持する為には民族主義を否定するしかなかった。ソ連や中国も多民族国家でしたが、共産主義、中華民族という理念で民族主義を抑圧して帝国の瓦解を防いでいる仕組です。ところがオーストリア帝国には、帝国を成立させる大義名分が何も無い。ハプスブルク家の勢力が衰えてしまうと帝国の意味がなくなってしまう。そういう極めて脆弱な国家だったわけです。19世紀、オーストリア帝国はドイツ統一を巡ってプロイセンと戦って敗れる。イタリア統一を巡ってサルジニア王国と戦って敗れる。なんせオーストリアの帝国軍というのはハプスブルク家が雇ったスイス人の傭兵部隊です。そういう中世的な軍隊ですから、時代の変化に全くついていっていないのです。負けるのは当たり前なのです。傭兵部隊では近代化した国民軍とは勝負にならない。所詮、給料目当てで戦っている兵隊だから士気の盛り上がりが比較になりません。

中世は、皇帝という印籠を振りかざしただけで無知蒙昧な農奴は、ははーと土下座してひれ伏した。しかし19世紀ともなるとさすがに印籠も効力を失った。てやんでえ、何が皇帝だ、誰のおかげで偉そうな顔をしてやがるんだとハプスブルク家の威光もすっかり色褪せていました。

ドイツが勢力拡大を図るためには、そんなオーストリア帝国でも自陣営に組み入れておいた方が利益があったのです。同盟国であるオーストリア帝国を支援するという大義名分を掲げてロシアと戦争することができる。三国同盟の意味もドイツにとってはビスマルク時代とヴィルヘルム2世時代で全く変わっているのです。ビスマルク時代は安全保障の為の同盟であり、フランスを孤立化させることが目的だったのです。ところがヴィルヘルム2世時代は、ドイツ帝国の帝国主義的拡張政策のために利用するための同盟だった。その変化にオーストリア帝国、イタリア王国がどこまで気づいていたのかは私は分かりません。気づいていても、あえて解消する利益も無いという判断があったのだろうと考えている。

そんなわけで第一次世界大戦が始まると日和見主義のイタリアは三国協商側と密約を結んで、さっさと裏切ります。イタリアにとってはイギリス・フランス・ロシアと戦う利益が何も無かったわけです。未回収のイタリアを回収させてあげるよと人参をぶら下げられると、あっさり三国協商側に寝返ってしまうわけです。そういう極めて脆弱な同盟が三国同盟であった。

とりあえず、こんなところで。
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独露再保障条約の目的はフランスを孤立化させることでした。

ロシアとフランスの同盟を妨げる為にドイツはロシアのバルカン半島方面の南下政策を容認する外交方針を取った。それがビスマルクの外交方針だったわけです。独墺同盟の目的も同じです。やはりロシアとフランスが同盟することを避けようとしたのです。ドイツにとってはロシアとフランスに挟み撃ちにされて二正面作戦を強いられる事態は絶対に避けなければならなかった。それがドイツの安全保障政策の絶対命題でありました。そもそもドイツは1870-1871年の普仏戦争の勝利でプロイセンが中心となってドイツ統一が叶った訳です。その普仏戦争の戦果でアルザス・ロレーヌ地方を獲得しました。アルザス・ロレーヌ地方は鉄鉱石と石炭を産出する有数の鉱工業地帯ですから、当時文明開化・殖産興業・富国強兵に励んでいたドイツとしては絶対に手放したくない地域であったわけです。それはフランスも同様であって、フランスはなんとかして奪回してやろうと虎視眈々と機会を窺っていました。そのフランスの野心につけいる隙を与えないことがビスマルク外交の至上命題であったわけです。とにかく国力充実が最優先であって、戦争は避けたいの一心といってよいでしょう。

そのビスマルクが1890年にヴィルヘルム2世に解任される。

この時、ヴィルヘルム2世はまだ31歳です。世間知らずのボンボンで、ビスマルクの苦労を理解しようともせずにやたら決起に逸る青年将校で、一刻も早くドイツ商店を拡張したい野心に燃えた若旦那といったところ。先代から仕えている大番頭のビスマルクが煙たくてしょうがない。ビスマルクは今は国力充実が肝要ですぞ、まだ外に打って出る時期ではありませんぞとヴィルヘルム2世の野心を牽制しようとします。ビスマルクは保守的・守備的な路線を主張しますから、ことごとく路線対立します。煩い爺だ、お前はもう首だ。それが1890年のビスマルク解任劇だったわけです。

ここからドイツの外交方針は180度変わってしまう。3B政策はヴィルヘルム2世によって推進され、独露再保障条約の更新はヴィルヘルム2世によって拒否されました。へ?イギリス?ロシア?フランス?なんぼのもんじゃー。大ドイツ帝国に怖れるものは何も無い。文句があるなら束になってかかってこい。怖いもの知らずの思いあがりというか、余りにも馬鹿すぎというか。

ヴィルヘルム2世には先代に負けない輝かしい業績を挙げたいという野心があっただけです。その対外拡張政策にとって、独露再保障条約が邪魔だったが、独墺同盟は足がかりとして必要だった。オーストリアにとってもロシアとの対立を抱えているだけにドイツと結ぶ利益はあったわけです。ヴィルヘルム2世の野心むきだしの拡張政策によって、ドイツ・オーストリアvsイギリス・フランス・ロシアという対立の構図が鮮明になっていくのが1890年から1914年までの時代の基本構造といえます。

19世紀中ごろは、イギリス・フランス・ロシアは対日進出の先陣争いをするなど、必ずしも協調的であったわけでもない。バルカン半島方面でクリミア戦争で英仏はオスマン帝国側についてロシアと戦いのロシアのバルカン半島方面への南下政策の野望を挫いた。ロシアが南下しすぎて英仏の利権と衝突してしまったわけです。それ以来、ロシアは英仏に近代化で遅れをとっていることを悟り、バルカン半島方面への南下政策の方針を変えました。軍事至上主義では英仏に勝てないので、バルカン半島方面のスラブ系諸民族の民族意識を掻き立て、ロシアがスラブ民族の盟主の振りをして利権を獲得するという戦略です。それがロシアとオーストリアの潜在的な対立要因になる。オーストリアにすれば自国領内に多くのスラブ系諸民族を抱えているので、そういう民族主義は認められないわけです。

ロシアは一方で極東方面への南下政策を推進しました。中華思想にこだわる大清帝国と英仏のトラブルに便乗して、1860年の北京条約で外満州を清から割譲させました。ロシアは日清戦争に便乗してフランス・ドイツを巻き込んで三国干渉で遼東半島を日本から清に返還させた。その遼東半島の大連・旅順を租借地として入手して内満州への侵略を図りました。

独露再保障条約廃棄後の1894年についてに露仏同盟が結ばれる。あほなヴィルヘルム2世のおかげでビスマルクが怖れていた事態が現実化してしまった。アルザス・ロレーヌ地方奪回を悲願とするフランスはせっせとロシアの極東方面への南下政策を助けます。シベリア鉄道敷設の技術支援や資金援助です。しかしロシアの極東方面への南下は、イギリスの利権と衝突します。だからイギリスは日英同盟を結び、露仏同盟を牽制しようとしました。1904-1905年の日露戦争でロシアが敗れ、ロシアは極東方面への南下政策を断念し、再びバルカン半島方面への南下政策に注力するようになる。第二次百年戦争でイギリスに敗れたフランスは一貫してイギリスに対して宥和政策を取り、イギリスと対立する事態は避けていました。イギリスは新興国として台頭するドイツとの対立(3B政策と3C政策の激突)が最重要課題となったので英仏協商を結びます。また日露戦争後にロシアが極東から撤退したことで英露の対立が解消し英露協商にもいたります。

結局、全部あほなヴィルヘルム2世のせいなのです。ヴィルヘルム2世が対外野心をむき出しにしたため、露仏同盟が結ばれ、日露戦争が起きた。日露戦争の日本の勝利によって三国協商が完成し、ドイツ・オーストリアvsイギリス・フランス・ロシアが構図が確立したわけです。

以上のように、1870-1871年の普仏戦争、1890年のビスマルク解任、1904-1905年の日露戦争の3つの出来事が契機となって国際関係が大きく変わっていったと理解してください。

ちなみに英仏露は対日進出を争っていたにもかかわらずバルカン半島方面のクリミア戦争にかまけていたせいで、アメリカに漁夫の利をさらわれて、対日進出で遅れを取ってしまいます。そして、そのアメリカは米西戦争、米比戦争やアメリカ大陸のキューバ、パナマ運河への利権獲得にかまけていたせいで対中進出におくれをとってしまう。それでアメリカは日露戦争に便乗して、日本を支援する見返りに利権のおすそ分けを手にいれようとします。

ちなみにオーストリアはバルカン半島を狙っていたというわけではなくて、多民族国家であるオーストリア帝国を守る為に民族主義に反対していただけです。民族主義に反対するという意味では、オーストリアとオスマン帝国では立場が同じです。オーストリア帝国では支配階層であるドイツ民族は少数派であり、オスマン帝国では支配階層であるトルコ民族が少数派です。

1832年にギリシャの独立は列強から承認され、1909年にブルガリアは独立を承認される。ギリシャもブルガリアもオスマン帝国領だったわけです。そういう具合ですから、オーストリア帝国領内の弱小小数民族にも独立の気運が盛り上がってくるわけです。オーストリア帝国領内の弱小小数民族は、歴史的にいえば、異教国であるオスマン帝国に支配されるよりは、同じキリスト教のハプスブルク家に支配されたほうが良いと考えて肩を寄せ合って、つつましく暮らしていたわけです。それが19世紀の民族主義の勃興とオスマン帝国の退潮によって、何もハプスブルク家に頼らなくても、独立してやっていけるかもという考えが生まれてくるわけです。それにつけこんだのが露西亜帝国でありまして、独立するなら同じスラブ民族のよしみで助けてやっても良いよと裏で独立をそそのかす。それがサラエボ事件の背景だったわけです。

ちょっと話を膨らませすぎたかも知れないが、それぞれの国や民族にはそれぞれの思惑や事情もあったのです。それがどう変わって行ったか。それなりに説明したつもりです。普仏戦争後、ドイツが新興国として台頭していきましたが、必ずしもドイツ中心に世界が回っていたわけでもないことを理解してください。
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この回答へのお礼

詳しく書いていただいてありがとうございます。
確かにドイツに視点をおきすぎていたかもしれませんね。三国協商はともかく何故に三国同盟はこの形で落ち着いたんだろうな・・?なんていう壮大な疑問が浮かんできたので・・・
オーストリアの民族主義に対する反対・・というのはバルカン諸国の汎スラヴ主義に呼応した二重帝国内のナショナリズムの高揚に対する反対・・・みたいな感じなんですかね・・??
すいません、ここら辺は全くといってよいほどわかっていないです。
まあいろいろ調べてみようと思います。

お礼日時:2011/12/09 21:36

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