よく加賀百万石とか徳川三百万石と言いますが、これは籾でか
又は玄米でか、その他か教えて下さい。

A 回答 (3件)

籾の状態でです。



今のように保存設備がないので籾を精米すると保存が利きませんのでそのころは全て籾単位だったはずです。
実際には加賀百万石といってももっと石高があったようですが。
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この回答へのお礼

私もそう思いますが、戦前 戦後 俵で供出する時は玄米で出荷いたして
おりました。

お礼日時:2001/05/05 21:15

>私もそう思いますが、戦前 戦後 俵で供出する時は玄米で出荷いたして


>おりました。

俵の扱いの違いです。
一旦収穫が終わった物はまず全て籾で出荷されます。
そして検分が行われ、ここから色々なところに配分されます。
その後商人の手もしくはその中間のにて玄米にされました。

これは石高の査定後、今で言う流通の際に出来るだけ軽く、小さくしてより多く運べるようにするためにされたものです。
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この回答へのお礼

やはり そうでしょう。参考になりました。

お礼日時:2001/05/06 10:40

石高とは藩主が農地面積を測量(検地)して、この土地だったらこれぐらいは


収穫できるだろうと仮定し、税率をかけて年貢(税金)を算出し、藩の総収入を決めた制度です。従って当然籾による収量となります。検地のあと新たに開墾すれば
次の検地まで農家は潤うことが出来たし、藩の財政状況が良い時は、これらの隠し田は大目に見てもらえたようです。又米の収穫がないか、少ないところは(山間部、漁村など)当然他の産物で年貢を納めたので、石高の実態は藩によって違ったようです。
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この回答へのお礼

長州藩など幕末には、 貿易で実質百万石以上の財政に
なったと聞きましたが、martinbuhoさんの
言われる事が理解できました。

お礼日時:2001/05/06 10:50

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家光「しからば言って聞かせよう。祖父も父も生まれた時は単なる武将の息子であった。
 しかし余は違う。余は将軍の子として生まれた。生まれながらにして将軍の子である。
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もしも現在、どこかの、日本を代表するような大会社の創業者の孫が、社長就任の直前に、古参の重役に向かって
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と思っていたのでしょうか?

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 記憶のみなのですが、現社長(トヨタ自動車の創業者の孫)が就任した時なんか、記者が「創業一族による世襲人事ですか?」と意地悪な聞き方したら、いけしゃあしゃと「トヨタ社員一同は豊田家の方に社長就任していただけた事を誉れである考えています」と答えてました。

 大企業だとそんなに多くないですけど、中小企業なんかだと創業者の一族で役職を独占し世襲している企業なんて珍しくないですし、創業者一族の若手が入社したら、将来の社長だと言ってゴマすり人間に囲まれている何て良くある事です。

 「俺は生まれた時から将来の社長だ」なんて直接口に出すかは、個人の性格差が有るでしょうが創業者一族の人間なんて皆考えている事です。
 だからこそ英才教育に耐えられるのですし、相応の人脈も築かれる訳ですし…。

 ちなみに、ヨーロッパの企業も創業者の世襲なんて珍しくないです。
 (ファッション関係の企業は殆どそう。)
 うつろ、創業者の一族が世襲していないと、途中で経営に困窮した証拠だとして、企業評価が下がります。

 内心はともかく、江戸時代の世襲将軍に仕える大名よろしく、世襲社長に仕えるサラリーマンって今でもいっぱいいます。


>伊達政宗は本心から家光に感心、服従したのでしょうか? それとも内心「このバカ殿め」と思っていたのでしょうか?

 逆らえない己が立場の矮小さを、自虐的に痛感させられていたと思いますよ…。
 いくら反感を持とうと、逆らう事なんて出来っこないのですから…。

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