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主題に関して2点質問です。

(1)伊勢街道への布陣について
関ヶ原の戦いの布陣図を見ると東西両軍どちらも伊勢街道に兵が置かれていませんが、なぜでしょうか?
西軍側からみますと、西軍は笹尾山-天満山-松尾山-南宮山のラインで鶴翼の陣形とされていますが、伊勢街道(桃配山の南側)の部分だけ空いており、不自然に見えます。
東軍側からみますと、西軍の退路を断つという意味でも、伊勢街道に兵を置いても良いのではないのかな、と思いました。

(2)南宮山の軍勢の伊勢街道への迂回について
南宮山の毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できなかったとされていますが、南宮山の南側にまわって伊勢街道を進み、東軍の側面を突けたのでは???と思うのですが、いかがでしょうか。
(長宗我部については戦意がなかった可能性もありますが)

宜しくお願い致します。

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A 回答 (4件)

(1)について・・・



西軍・・・鶴翼の陣形というのは必ずしも最初の位置に留まるというものではありません。鶴翼は敵を包囲殲滅する事を目的としており、両翼、もしくは片翼が動きます。
そのため西軍右翼の小早川秀秋が動き東軍の左を突けば、伊勢街道と東軍の間に小早川勢が立ち塞がる形になります。
それに伊勢街道に兵を配置しては、東軍は北国街道に展開する石田隊や宇喜多隊と挟撃される形になるため、東軍に警戒され関が原の奥深くにまで東軍を引き付け袋の鼠にする事が難しくなるやもしれません。だから伊勢街道に兵を配置するよりも、空けておいた方が東軍を誘いやすくなります。

東軍・・・家康は小早川秀秋の裏切りを計算に入れています。家臣の奥平貞治を目付けとして小早川秀秋の陣に派遣してもいます。つまり、小早川秀秋は東軍の最左翼を構成します。そのため小早川秀秋が攻撃に出れば、西軍は北に追いやられ伊勢街道に出るのは難しくなるわけで、西軍が撤退、または敗走するにしても自軍の後方である北国街道を利用する方が自然です。つまり敢えて兵を配置しなくても、戦局の推移から自然と伊勢街道は東軍に塞がれ退路としては厳しいものになります。
島津義弘みたいに前方を突破し逃げおおせたというのは、稀な例であり幸運でした。全滅していてもおかしくありませんでした。

(2)について・・・
できない事はありませんが、ただ難しいと思います。

吉川広家は吉川とは言っても、毛利元就の次男が吉川家に養子に入り、そこでできた子であり、毛利元就の孫です。毛利元就の孫という事では毛利秀元も同じですが、吉川広家は秀元より18歳も年上で数々の戦を経験し毛利家の重臣でもあります。要は年上で自分よりも戦の経験が豊富で実績も上げている重臣の親族に秀元が反抗できるか否かが問題です。これは毛利家に限らず、このような立場に置かれた若輩はどこのお家でも反抗するのは難しいのではないかと・・・
もし秀元が動いたとしても広家がすっ飛んできて止めるのではと思います。いざとなったら家康に内応している事を秀元に話したり、毛利家当主輝元も内応は承知の事とか言って説得するのではないかと思いますが・・・

そして毛利が動かなければ兵力の問題から、長束、安国寺、長宗我部ら8千の兵が動くのは難しいと思います。
長束、安国寺、長宗我部は南宮山の東の平地におり、東軍と対峙していました。
南宮山の備えに配置された東軍は池田輝政と浅野幸長、山内一豊ら1万2千をこえます。
この中で池田輝政、浅野幸長ら1万の兵は、長束、安国寺、長宗我部らの陣から3キロ以内におり、浅野は長束と戦を始めていました。
つまり、この池田、浅野の兵をどうにかしないといけません。
長束、安国寺、長宗我部の兵力だけでは難しいでしょう。毛利の兵力も是非欲しいところです。
だから、長束、安国寺、長宗我部が伊勢街道経由で東軍の側面を突くのは難しいと思います。

それでも、もし、毛利秀元が動くとしたら、まずは池田、浅野と戦って潰すか、浅野、池田は長束、安国寺、長宗我部に任せ自分は伊勢街道を行くという手になるかと思います。いずれにしろ、西軍は毛利が動いた事で活気付くでしょうし、東軍は追い詰められる事になるでしょう。
なお秀元が池田、浅野と戦わず伊勢街道を行った場合、長束、安国寺、長宗我部の戦いぶりで動向は変わってく可能性があります。浅野、池田を食い止めていればよいですが、あまりに早く敗退すれば、浅野、池田が毛利の背後に食いつくかもしれません。
それと、家康も毛利の動向は非常に気にして物見など派遣してると思うので、毛利が動けばその動向はすぐにわかると思います。だから関が原に毛利が雪崩れ込んでくるよりも早く、南宮山と松尾山の間の鳥頭坂あたりに徳川本隊から何隊か派遣し陣を敷き迎撃にあたる可能性もあるのではないかと。または状況不利と見て兵を退くか・・・
いずれにしろ毛利がどの時点で動くかでも変わってくるでしょう。小早川の裏切りもそれよってどう転ぶかわかりません。そして戦場の様相も色々と考えられかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

南宮山の軍勢は中山道の東軍と睨み合っていただけと思っていましたが、実際は戦っていたとは知りませんでした。
軍勢の一部を残していたとしても、中山道の東軍の数もそれなりにいたことから、やはり伊勢街道を進むのは難しいかもしれませんね。
(他の方の回答にもあるとおり、南側に山越えするのも大変そうですし)

歴史が好きなので、これからもいろいろ調べて勉強してみます。

お礼日時:2011/12/23 13:55

南宮山へのハイキングコース


http://www.geocities.jp/ootaka502/nanguu.htm
あるいはGoogle Mapで見てもいいのですが
南宮山は、北方、中山道への斜度は緩いが、南方、伊勢街道への斜度はきつい。
なので、毛利軍も、南宮山の北斜面に配備されています。

南宮山の北麓に毛利勢が配備されている。
西軍主力が伊勢街道を通過する
南宮山の南麓を移動することは難しい

東軍の諸将のスタンス
三成を倒したい。この目的を叶えてやらないと、いつへそを曲げて裏切るかもわからない
だから、娘婿の池田輝政は、(信用できるので)毛利への備えとして南宮山の北方に配置しています。
三成を打つというインセンティブがなくても池田は徳川から離れないと踏んだからです。
岐阜城攻撃で福島とならんで先陣争いをした池田が、関ヶ原で第二戦線配備で納得したのは、家康本人がいい含めたんじゃないかな。婿には悪いことはしないと。
軍功を上げる可能性が低い、伊勢街道に回すだけの兵力がなかったというのが、東軍の真相ではないか。

西軍から考えると、そもそも笹尾山城-天満山-松尾山城 というように前の段階から簡易城塞を築いていたから、このラインが想定ラインかと。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/12/23 13:57

(1)


西軍からみますと、伊勢方面の東軍は、決戦当日に南宮山にいた部隊によって、すでに一掃されており、伊勢街道を警戒する必要がなかったのではないでしょうか。南宮山の南は西軍にとって安全圏で、決戦前夜に関ヶ原へ安全に移動できたのも、南宮山南のルートを取ったからです。西軍の敗走時も、伊勢街道を逃げた者たちは逃げ延びています。(安国寺は京に潜伏中、捕らえられました。京までは無事だったわけです)
東軍からみますと、伊勢方面へ向かっても、大坂へは大軍の移動に不向きな伊賀越えをしなければなりません。退路を断つといっても、南宮山の西軍は大軍で、せっかく戦意を示さないのだから、逃げるに任せ、素直に東軍は、佐和山城を落としにかかるのが当然の選択であろうかと考えます。

(2)
毛利勢は大軍なので、南宮山の南側へ回るには、いったん山を降りる必要があります。もし山越えで南側へ向かったなら、軍勢はバラバラになりますから、南へ下山後、戦闘用に隊伍を立て直している途中で東軍に急襲され、壊滅するのでは?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

布陣図に気をとられて、毛利勢が伊勢街道を制圧して進んできた合戦前の経緯など、全体が見えていませんでした。
勉強になりました。

お礼日時:2011/12/23 13:47

関が原の布陣を明治時代の陸軍のドイツの教官に見せた後、東軍が


勝利したのだと告げたら信じられないといった顔した事が伝わって
ますね、ジパングは魔化不思議な所と思ったみたいです。
国対国の戦であるヨーロッパやイスラムの世界と日本の国内の内乱である
戦国時代の戦は模様が違うのです。
戦国時代の戦は、戦う前に勝敗が決まっており、出陣して合い対峙するのは、
武士の面子の上でするだけなのです、そこが他の国には理解出来ない戦争なのです。

他の国では負けると奴隷にされますが、日本では、疎の様な事はないのです、
殿様とその一族は殺されますが、家臣と領民は殺されません、孫子の兵法にある
諜略が、お互いが傷つかず一番の事なのです、その一番の使い手が豊臣秀吉で、
配下の、竹中半兵衛と黒田官兵衛が諜略に優れてました、従って、死ぬ心配の
無い秀吉の家臣は一生懸命に働きました。

戦国大名の登場以前の時代の戦は、兵を養う財力がないので、小規模なので
兵の配置とか作戦が重要ですが、戦国大名の時代は経済力で優劣が決まります、
従って、殿様を殺すだけで、家臣と領民は大事にしました、ここが東の大陸とは
違うところでして、赤い5星の国は、朝日の国に、朝貢を要求しました。
そして、貴族(両班)は身の保身の為に自国の民を奴隷に差し出しました・・・
韓流ドラマを見て、見て日本に生まれて良かったと思ったのは、私だけでしょうか。
決して韓国を卑下してはいないのです歴史的に敗者の国は古今東西を問わず、敗者
の民は奴隷になってますので。

戦国時代の時代考証は信長公記、甲陽軍記などの、戦国大名が配下に命じて書かせた
物を元にしており、鰐調されたのが多いのです。
殿様と一族を殺せばOKで、城を燃やすのは経済的にも本意でないのです。

肝心の関が原ですが、家康と三成だけが本気、他の参加した戦国大名達は模様
眺めで参加したのに過ぎず、その為の布陣なので、通常の戦とは面向きが違います。
家康はヨーロッパの軍事の参謀が信じられない、素人でも解るような不利な中央を
進んだのですが、当然勝算が有った訳で確固たる自信があったのだと思います。
家康は生涯に一度だけ負けた武田信玄に多くを学んだとNHKで放送してました
一理有るなと思いましたよ。

結論、関が原の配置図は形だけの物で西軍側にとっては、あわよくば、もしかしたら
石田三成が有利になったらの配置図であって作戦的には、三成にとっては虚しいもの
で、戦による死者は、ほとんどが逃げ出して、僅かのようです。
だから短時間で終わったのです。

蛇足ですが。
戦国大名と年貢を集配して貴族に納付する代理人の大名とは別ですよ。

日本の歴史上、最大の戦は、第5次川中島の決戦で甲斐と越後で2万人の
死傷者が出たようです。
経済力と経済力のぶつかり合いで、お互いに作戦と智謀を巡らした、大戦です。
これを、知らずして戦国時代を語るなかれ。

最期に、石田三成は天才であり官僚として、日本の歴史上、最高の人物です。
石田三成が作った5大老5奉行は江戸幕府に受け継がれ、システムは明治政府
に受け継がれ、現代の平成まで受け次がれています。

400年前に、今の世の元を作った、三成の功績を讃え、今の不甲斐ない政治家を
選んだ民として情けないと反省しきりです。

陣営の布陣とは違った回答にになりましたが、時代で戦が違う事を知って戴きたく
投稿しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/12/23 13:43

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Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

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