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私は、この前に、フィギュアの美と題して質問をしました。ここまでで私が、複数の回答者の投稿から、理解したこ と、推測したこと、想像を膨らませたこと、を書いておきます。その上で、最後に質問を書きますので、長文の最後まで、たどりついた方で、ご意見がある方 は、よろしくお願いします。

(1)萌えの定義
フィギュアとは、萌えの精神を表わすものである。萌えとは何か?――その定義は様々あるに違いない。しかし、私は次のような意見が、的確だと思えた。萌え とは、現代生活で生じたストレスを癒そうと希求する、若年者の精神様態を示す言葉である。このストレスとは、親、友人、学校、社会などの抑圧・排 除によって引き起こされた。ストレスの内実については、必ずしも、統計学的に論証できることではない。しかし、次のものが予想される。異性 との交流を禁止し、受験勉強をさせる親や学校。コミュニケーション不足になった家庭、また交友関係によって引き起こされた孤独。こうした孤独を潰す遊びとは、子供のベビーシッター代わりで作られたアニメや漫画なのである。

ストレスの結果、本来なら、子供の玩具を卒業し、大人の「文化」に接すべき年齢になっても、萌えの信奉者らは、子供のためのものに留まらざるをえなかっ た。敢えて言えば、萌えとは、「敗け組」のカルチャーである(※ここで説明の便宜上、「文化」を上位概念とし、「カルチャー」を下位概念とする)。しかし、彼らにも意地がある。「子供のためのもの」を「文化」と呼べるまでの段階として、提示して みたいという自尊心があった。子供っぽいなら、子供っぽいでよい。子供の玩具と言われるものにも、それなりに快楽がある。ならば、この快楽を汲みつくし、 日々の心の癒しとしようではないか。いっそ、子供らしいもの、未成熟なものを愛好しよう。そうした開き直りが、「萌え」である。


(2)フィギュアと萌え
「萌え」の象徴が、高値で取引されるフィギュアである。なぜ高値なのか。仮に「大人」と言われる連中の仲間になり、大金を稼いだとしても、大人の文化にお金を落とさず、子供の玩具とも揶揄される「カルチャー」にお金を落とすことで、かつて自分たちを排除した社会や「文化」に対する反骨精神を見せているのである。たとえば、ダンヒルなど のブランド物を買って、格好つけようとは考えないのである。もっとも、多くの者らは、そこまで考えてはいないかもしれない。しかし、 実質的に、彼らの「カルチャー」を牽引しているのは、実質的に「大人」に仲間入りした者らである。この者らとは、評論家だとか、スポンサー になりうるお金持ちのことである。敗け組から勝ち組に移行した者らが、萌えを取り仕切っているということは留意しておくべきである。

なぜ、フィギュアは、プラスチックで作られ、彩色されなければならないのか。それは、プラスチックが、プラモデルや、人形といった玩具を連想させるからで ある。大理石などでできていても、全然、面白くはない。童心と言うべきノスタルジーを刺激しなければならないのであって、あくまで、玩具の延長線上にある ということが明示されなければならないのである。


(3)萌えの文化的認知とオナニー
萌えが下位概念の「カルチャー」ではなく、一つの「文化」として認められた最大の事件の一つは、村上隆の「マイ・ロンサム・カウボーイ」なる巨大フィギュアが十六億円で売れたことである。十六億円とい う額で比較すれば、古典主義の彫刻や絵画よりも、場合によっては高い。価格的に、文化として、認められたということができる。
しかし、この村上のフィギュアは、一つのことを逆説的に証しだてた。この彫刻とは次のものである。ジャンプのマンガに出てきそうな金髪がツンツンの少年 が、全裸で、股間に手を当てている。股間から白いものがぶしゅっと飛び散っている。白いものは精液らしい。彼はオナニーしているのだ。しかし、この精液 が、少年漫画に出てきそうな奇抜な武器の形をしており、少年は剣を構えているようにも見える。少年は晴れやかに澄み渡る顔をしている。村上 は「すっきりした感じ」を表現したかったのだという。――では、萌えはオナニー文化なのだろうか?という疑問が思い浮かぶ。しかし、先に、このフィギュアの持つ効果を記述しておこう。

オナニー青年のフィギュア「マイ・ロンサム・カウボーイ」は、場違いであることによって、既存の価値観を冷笑する力がある。フィギュアの青年がすっきりしているのは、既存の価値観をぶち壊しにするというダダイストじみた快楽があるからなのかもしれない。しかしザーメンではあるから、生殖のシンボルでもある。何かしらの生産性があるのかもしれない。だが、それが女の子宮で受胎することはないだろう。しかし、いや、それでも構わない。自分たちはオナニストでいい――このような開き直りをフィギュアは示しているように思える。

無論、萌えが常に、オナニー的な不毛さに終始するとは限らない。しかし、村上隆のフィギュアが少なくても、次の一点を示した。すわなわち、萌えはオナニー文化である、と時として、説明せざるを得ないということである。
そもそも、萌えは元々敗け組の「カルチャー」であった。しかし、十六億円も支払える勝ち組みらの前に引き出されてきた時、自嘲的にも、「我々はオナ ニーしているし、オナニーで結構だと開き直っています」と自らを説明することでしか、認知を求めることができないのである。

(4)オナニストと敗け組
こうした開き直りは、古典的な意味での「崇高さ」とは無縁であって、精神性と呼ぶことに抵抗がある。しかし、オナニーを見せつけるとは、自尊心に邪魔され、そう簡単に獲得できる境地でもない。かくして、ある意味、村上が提示するのは、稀有な境地に達した青年の内面なのである。

そして、プライドが高く、自己弁明ができない、敗け組の萌え信奉者らに、村上の彫像は、結果的に、次のように呼びかけていると思われる。「勝ち組の連中にあれこれ言われたら、開き直りたまえ。我々はオナニーしている。それで何が悪いか?そうすると、勝ち組の連中らは、キミを恐れるだろうし、キミに十六億円の価値を見出 すかもしれない」と。この言葉は、フィギュアの少年のように、晴れ晴れとした顔で宣言されなければならない。取り付くしまがないくらい、快活な表情をして いなければならない。
この時、フィギュアによって象徴された「萌え」の果たす役割とは、勝ち組に対する自己弁明であるというだけのことではない。それ以上に、勝ち組と自らの階級差を明示し、溝を穿つ装置として機能する。たとえ、誰かが、社会と没交渉だと批判して来ようが、一向に構わないのである。なぜならこれは、階級闘争というべき社会的溝の反映なのだから。確かに、フィギュアの王となった十六億円のオブジェは、萌えの信奉者の生き方を象徴的にあらわしているのである。

【質問】萌えは、どのような階級闘争か?
さて、上記のように見る時、萌えの信奉者らは、某かのルサンチマンを抱えているには違いありません。つまり、次のようなことです――「自分たちは、敗け組である。勝ち組からすれば、所詮は、オナニストというレッテルを貼られる に違いない。しかし、こうした屈辱をいつか、晴らしてやろう」と。だが、萌えの信奉者がためているルサンチマンは、最終的に、どのような形で社会に現れてくるのか。革命なのですか? どうも違う気がするのです。この問いは予測を立てるためのものですから、萌えの信奉者以外の方も答えてください。

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A 回答 (4件)

bragelonneさんの質問において、あなたは岡本太郎の名を挙げていらっしゃいますね。


だからこれを受け、今回私はフィギュアを呪術に供するための像や道具とみなそうと思いつきました。

それはつまり、太郎がその非日常的で魑魅魍魎とした価値観──呪術性(笑いや爆発)でもって覆しようのない西洋中心の権威主義的なシステムや日本の美術界へ挑んだとするなら、フィギュアのほうには、自分の「道」を極め偏愛し癒され、繊細で、男性間の賞賛や牽制を求めてやまない強い願いが込められているかのようでもあり。
それが女性の眼にはどことなく排他的であり、強い愛着や執着の対象としてのフィギュアは、時として妙な呪術性を帯びて映ることも場合によってはあるのです。

>萌えの信奉者がためているルサンチマンは、最終的に、どのような形で社会に現れてくるのか

男性同士が闘争しなくなったら、どうでしょう、既存に抗する新たなジェンダーの感覚の一つでも創出されそうな気も致しますが。

この回答への補足

私も自分の書きたいことを書き散らして、人を啓発するかのような事態にならんとも限らんから、これでやめます。一応、階級闘争という言葉が、皆に馴染みがなかったかもしれない。だから、これを定義しておけば、もう少し、議論は円滑に進んだかもしれない。No1のような回答はなかったかもしれない。

当人がオタクであるNo3から出てきた話は、階級闘争というほどに、横のつながりがないというものだった。そういうアグレッシヴなものではなく、もっと気の抜けた虚無感に近い、という指摘であった。大人に絶望した、社会に絶望した、というロマン主義者みたいな話であった。サボタージュというより、ストライキをしているらしかった。
たとえば、それは次のようなことなのかもしれない。自分たちの愛好したアイドルらが、アダルトヴィデオに出演することになっても、特に抗議も、何にも起きない。やりたい放題の大人の前で、ただ呆然と絶望し、いっそ、アイドルらのヌードでオナニーをする。こうすることで、生殖を拒否し、オナニーによる断種というストライキを夢見ている。大人らの顧客になると見せかけて、腹の中では、裏切ってやろうと考え、自分の怒りを慰めている。

しかし、「大人」に片足を突っ込んだオタクの主導者らの目線は、もっと違うかもしれない。自分たちの金蔓として、カルチャーの地位をあげ、普及させようと思っているかもしれない。こういうのは、「萌え」ではなく、「燃え」だとNo4さんが教えてくれた。二つは対立していると読めた。燃えが萌えを食い物にしているという印象を受けた。
しかし、横のつながりのないオタクらが、繋がるとすれば何か。No2の方のいうように、フィギュアを自慢しあうということを通じてできたコミュニティーが一つ、ありうるかもしれない。しかし、このコミュニティーはただの同好会ではない。異性を共有するホモソーシャルな関係である。同じ女に憧れる求愛者同士の同好会的な感覚である。これは「燃え」なのだろうか。「萌え」だろうか。おそらくそのどちらでもあって、「燃え」と「萌え」の対立を解消させてくれる契機となる可能性を含んでいる。しかし現状では、そのような統合を果たすフィギュアは存在しない。

私にとって象徴的だと思われたのは、ネット広告でみた、ゲームだった。そのネットゲームでは、お好みの女神を国家元首とし、プレイヤーは一戦闘員として、戦うという設定である。女の好みという棲み分けによって、一つの軍団、すなわちカテゴリーができる。このカテゴリーの構成員は、(当人らは何とも自覚していないに違いないが)、傍から見ると、同じ女神に対して欲望を持っているのであり、ホモソーシャルな関係を結んだ連中と評論できる。
しかし、女神は何人もいる。だから、女神の間同士で派閥ができ、闘争が起きているのである。こういう仮想の同士討ちで、敗け組の憂さ(=ルサンチマン)を晴らしているのかもしれない。

だが、仮に、全部を統合できるアイドルが登場したら、どのようなことが発生するか。同士討ちをやめて、ルサンチマンは、勝ち組に向かうのではないだろうか。その結果、階級闘争が、消極的ではない形でおきるのではないか。――という想像力をめぐらしたが、何だか、ライトノベルの革命家の言い草になってきた。真のフィギュアを作ると革命が起きる、とかいうキャッチフレーズにまとめられそうな、お話しになり始めた。そしてそのフィギュアを作った果てには、闘争が成功するかもしれないが、No2さんのいうように、生殖機能を放棄した男性という新しい性別が登場するのである。さて、十分想像する快楽を味わったので、私は、ここらでやめましょう。

補足日時:2012/01/10 07:38
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この回答へのお礼

岡本太郎が普通の階級闘争をしている人だってことはわかりました。それと比較すると、同じく呪術的なアイテムとしてのフィギュアを持っていても、萌えの信奉者らは違う道をたどっているということもわかりました。しかし、どういう道なのかが、今一つ、明確にわかりませんでした。以下に確認してみます。

>自分の「道」を極め偏愛し癒され、繊細で、
そうですね。これは、そのままです。

>男性間の賞賛や牽制を求めてやまない強い願いが込められている
ふーん、自分の愛玩の対象であるモノを、他の男の欲望の対象としてさらすことに快楽があるっていうことでしょうか。セジュウィックのホモソーシャルな関係が成立する可能性がある。

というわけで、少しわかりにくいけれど、男性同士の闘争が解消される、って寸法ですか。しかし、ルサンチマンはどうなります?。フィギュア好き同士は、ホモソーシャルな関係を結ぶかもしれませんが、勝ち組と負け組の対立構造から起きるルサンチマンは解消されないのではないでしょうか。それから、女性がイケメンのフィギュアを拝んでいるってこともある世の中じゃありませんかね。

ともあれ、どうもありがとう。しかし、nonameって、アサシンがきたみたいで、ドキッとしますね。

お礼日時:2012/01/10 03:53

 萌えは、猫と同じく、階級には無頓着で、天然な猫とは違って人の場合、階級的な仕組みや階級意識からの逃避は快楽で、だから萌えや萌える人々は階級的なものなんかとは無関係なのだと思ったけど、なるほど階級的なものを無視したりあえて距離を置くというのは、そういうかたちでの階級との関わり方なのだと思う。

無関心に徹するという関心の向けかた、ゼロもひとつの数みたいな発見。

 いつかテレビで見た光景に萌える人が出ていて、それはとある男子学生の深い萌えの思い出で、かれは現実生活で心を傷め破綻しそうな気分になっていた頃、ふと、萌え絵に描かれていた女性の、とてもとても優しい顔に愛を感じ、その母性的なまなざしに救われたのだそうな。
 ファンタジーに心を救われる人々がいて、ディズニーランドは精神疾患を癒しているという。鉄道模型を好きな少年たちも、鉄道模型に触れることで静かな楽しみの中に何か大切なものを育んでいるように見える。猫や萌えキャラクターはこちらがそちらを愛することを許してくれる。そういうものに触れることは治癒になったり、繭のような尊い期間になったり、同性たちとの意識の共有を伴ったり、自己を感じる時間になったり、ふさわしいものを好きに選べることの自覚を養ったり、心にふさわしい言葉の選び方を学ぶ期間になったりしそう。
 少年男子や青年たちは思春期以降もう実母からの愛を直接的には得られず、かといって彼女がいないとしたら、さらにクラスメイトともよそよそしいなら、現実の愛のない世界にいて死ぬほど寂しい。どんな異性からも選ばれない者であるといことは痛い。その痛みにつぶされないために、辛うじてでも人間ら示唆を失わないために愛をどこからか補給しないと、どこから、それはアイドルであったりエロゲであったりりアニメであったりフィギュアであったりマンガだったり架空の世界であったり、そこではオタクという消費者の存在と意志と選択と欲望が作り手たちから大切にされ、愛が約束されているはずで、エヴァンゲリオンとかは違ったけど、コスプレもフィギュアも同人誌も、愛してくれるし愛させてくれるし、包んでくれる、そういう作品世界に触れられるモノだから所有するし、手に入れる。アクセスする。愛情を感じ、愛情を信じれて、こちらからも愛情を表す。時を使いカネも使い、身を粉にする。
 愛がじっさいないときは、美がどうしても必要で、外在する何らかを強く肯定したり賛美したりしなければ、心は生きていけない。

 もともと萌えは猫のようであるし、ネコミミはまさに萌えなのだった。インターネットを始めた時、あるサイトでオタクの大人の人がたしかにネコミミのイラストを毎日あつめては興奮しているようだったので、ああ本当に萌えていると思った。星の数ほどある萌え絵が日々新たに生まれてくる、その膨大な数から彼はたしかに自らの琴線を震わすものを探しだし、選びとってはそれを称賛する。そのゆるぎない誠実さと習慣と厚顔ぶり。人から感動や欲望は感染するもので、ネコミミキャラが乳や尻や縞柄パンツなどをチラ見せしている絵を男性が見て没入し興奮しているさまを思い描くと、嫌悪感と共感のないまぜが起き、辛うじてある細い共感の通路から彼の欲望が注ぎこんでくる、感染するから自分もそういう絵を見て興奮して射精することができるようになる。僕の性欲はそうして何から何までパッチークのコピー世代。自分はあんまり萌えをマスターしなかったけれど、萌えより射精を優先して性依存な馬鹿だけれど、誰かが何かに萌えているのを見て萌え方を知り、心の萌やし方を学び萌えが伝わることに上下関係はなく、対等で透明な性欲の伝播がおきるばかりで、父親からのものではないたしかに同世代的な男性欲望を獲得する。何かを好きになることはいくら素敵なことであっても、オナニーのしすぎは性依存症の一部らしいので、本当にげんなりする。
 オナニー中毒者は自殺のような自己断種で滅びに向かい、けれども萌えは滅びではなく、不毛な消費というよりは必要な愛で健やかで、逃避でありながら求めであって、破壊的ではない関わりようをはぐくみ愛することの準備段階が、二次元への萌えなのだと思いました。萌えは父性にとっても自然な気持で、前父性であり娘を持つであろう父親の気分を擬似体験しているのかも知れず、またそれは家庭的愛情を実際に宿し営む前のままごとだったり、あるいは過去に不足していた母親からの愛情を青年期以降に取り戻すための儀式だったりするかも知れません。母性的なものと安らいで対峙し、何の敵愾心も不安もなく、互いに見守りあう確かな対の感覚は。退行して得るに値する癒しの時間で。哺乳類の。
 イヌは官僚のように群れるときっと上下関係を持ち、飼い主とも主従関係を築いて立場を自覚しているという、階級的意識いっぱいなのはイヌで、男性原理です。猫のほうは自分勝手でわがままで唯我独尊で、丸くておばちゃんでドラえもんで、ツンデレで、ヒエラルキー意識があんまりなさそうだから楽だし萌えだしなごみます。本気だすと強いですが、ネコも萌えも母性的な癒しで、癒しが必要なほど疲れているのは愛の不足とオナニーのしすぎからで、オナニーのしすぎによる疲労を萌えや非萌えオナニーによって癒すという中毒スパイラル……性欲が湧いたらそれは萌えではないという説もあり、
 娘なるもの、男の娘なんか分からない、神木君には充分萌えたけれど、母性原理的かつ未熟な対象――愛娘的なキャラクターに対してこちらは男性と母性のあいのこのような存在として接し、見守る。愛しかたが実際まだ下手だったりする。現実に他者をどう愛せば良いのか、その手探りの仕方さえ分かり始められない孤独にある場合、未熟な愛情享受表現や愛情表現欲求、愛情内発欲求の混沌が若いからだの中で行き場を求め、一応の発露を萌えという、オタクという、マニアという、オナニーという既存の簡素な方法を仮にでも択っているだけなのかも。やがて関る他者や状況の数だけ実際に分化するであろう愛になる前の準備貯蔵庫のような、仮の幻としての愛の幼生としての萌え。そしてとうとう何者にもなれないままきっと腐り果てるその貯蔵庫。

 猫にたいし人が犬のようにひれ伏し、猫はつねに猫らしく愛くるしく媚びず、天然であり気高く、美なる、猫のことをヒトはお猫様と呼び、へりくだるので階級的な気分が生じるも、そこに人とペットの身分認識が逆転しているから、徳川時代の犬将軍みたいなあほで、現実社会にありがちな階級感覚がお猫様という言葉と態度によって揶揄・異化され現実の放擲・解放が起きて、イヌたちの管理するイヌすぎる社会でオタクたちは、したたかでしなやかな個らは猫の下にひざまづき、猫の下に人々の平等が生じている。猫の下での平等から遠いところへ社会人のヒエラルキーは追いやられている。未熟と退行が許される母性原理の輪にあって、萌えや猫に見守られながら関係は丸いものになる。世界観も心も表現も柔弱になる。
 オタクな人は若い時には恋愛弱者ではあると思うけれど、もうすっかりカネ持ちオタクがおおいらしい。雄々しさにおいては負け組でも、負けて負けて戦いから降りて退行して、母性を求めたりベーシックインカムを求めたりしている。世界をより良い方に変えているのはオタクたちで、かれらの中には男性原理一辺倒ではない感性がある。

 村上隆さんのぶっかけチンポ汁は萌えじゃないと思う。そっちはいわゆる燃えに近いかも知れない。おっぱい縄跳びも萌えじゃないと思う。あれは狂気だ。ちんぽの方もどうも狂気。戦闘機と美少女の合体の奴も何だか怖いから狂気。個人的にヤンデレには萌えない。
 萌えはもっと可愛い。猫のように丸い。ネコへの愛は萌え。狂気じゃない。娘への愛情も萌え。年寄りの孫を愛でる心も萌えなのかな。それは日常の静かな感覚で、非日常ではない。萌えフィギュアは精緻であっても、激しいような芸術ではない。燃えではないから。

 結ろんは、萌えを知るオタクたちは既存の社会にいくらか傷ついた者たちだから、射精のすくない萌えによって癒されたかれらが階級闘争をしかけるとすれば、それはこれまでの男性型社会から母型の社会へ制度も価値観も空気も変えていくたたかいで、既に経済的にも勝ち組なオタクは多いらしく、勝算はありそう。

 サイコロさんはツンデレだから萌え。
「フィギュア、萌え、階級闘争」の回答画像4
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この回答へのお礼

どうもありがとう。キミはサーヴィス精神旺盛だねぇ。具体例が豊富で、とても読みやすかった。発見があって、なにより。「何もしないオナニー野郎に徹して開き直る」のも抵抗のあり方だ、という話しが、受けてくれたみたいだ。ふーん。階級差って、あまり感じなかったんだ。私も階級闘争の意味を定義しなかったし、それをやると長くなるので省略したけれど、No1の投稿のように、思った以上に、理解がされにくいらしいと感じていた。統制する側にしてみたら、寝ている子供を起こしたくないだと思う。犬と猫の比喩に、そんなに深い意味があったとは知らんかった。

>萌えは父性にとっても自然な気持で、前父性で あり娘を持つであろう父親の気分を擬似体験しているのかも知れず、またそれは家庭的愛情を実際に宿し営む前のままごとだったり、あるいは過去に不足してい た母親からの愛情を青年期以降に取り戻すための儀式だったりするかも知れません。

手に入らないものは、恋人だけじゃないんだね。家族でさえも手に入らない。だから、それもまた、萌えは創造するわけだ。そして、インセストタブーのイメージは、射精のし過ぎを抑制する機能を持っているらしい。

>僕の性欲はそうして何から 何までパッチークのコピー世代。(……)何かを好きになることはいくら素敵なことであっても、オナニーのしすぎは性依存症の一部らしいので、本当にげんなりする。

確かに、現代は射精のスポットが多いと思う。たとえば、ネット上でいくらでもポルノは手に入る。加えて、社会的にストレスを受けている人間の主体は薄弱になり、性の快楽で憂さを晴らすことに走りがちだ。そうした射精しすぎの「危険」から身を守るために、自分で自分の好みを細かく規定し、好みから外れたものは歯牙にもかけないとすることで、現代の青年らは身を守っている。
しかしこうやって、「萌え」と言って身を守る連中がいる一方で、他方、ポルノをどんどん発信している連中がいる。

>村上隆さんのぶっかけチンポ汁は萌えじゃないと思う。そっちはいわゆる燃えに近いかも知れない。(……)階級闘争をしかけるとすれば、(……)既に経済的にも勝ち組なオタクは多いらしく、勝算はありそう。

こうした「燃え」と「萌え」の差は何か。起きた連中らが「燃え」で、すでに成功している。起きたくないなぁと迷っている連中らが「萌え」という印象をもった。漢字の使い分けは中々いいね。何を勝利とするのかはあいまいだし、定めようがそもそもない問題だが、キミのいう通り、今の劣悪な状況を改善できる糸口はあるのかもしれない。しかし、結局、萌えと燃えが同士討ちになっているのが、現状である。いや、「燃え」が「萌え」を食いつぶそうとしているのかもしれない。だから「萌え」派は、「あれは萌えじゃない、これは萌えだ」と選り好みに余念がない。身を防衛する必要があるからだ。

そのサイコロって人は、投稿してくれないのかねぇ。

お礼日時:2012/01/10 06:58

 腐った頭の「大人」の解説に感謝。

さぞ、恥ずかしかったろうに。自覚は無いか。
 こりゃ「大人」が大人だと自負している呪縛からとけないね。う~恥ずかしさに背筋が寒い。

 「大人」が我利我利で本番をやり尽くした結果への嫌悪。
 強い判断力と独断、そしてご立派な実行力。結果に対する無責任。

  子供の文化云々じゃなくて、繰り返すようだが「大人」の裏なんだよ。だから精神活動のレベルが高くならざるを得なかったような気がするな。

>【質問】萌えは、どのような階級闘争か?

 ルサンチマンはあるけど、それに反骨した反戦運動みたいな社会運動とか革命みたいな積極的なもんではないね。単純に蛆虫のわいた「大人」の裏。必然の発生なんだよ。

 階級闘争なんてないし、いわゆる「大人」であることが如何に恥ずかしいかが自覚されることも少ないだろうしね。その無反省の前で、「大人」に生殖された息子たちが「萌え」ている図式。

 その息子は生殖せずに「大人」も滅び去る美学かもね。

 
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この回答へのお礼

>子供の文化云々じゃなくて、繰り返すようだが「大人」の裏なんだよ。

案外、キミって若い人なのかもね。ま、いいか。キミの主張は、キミ自身のことについては、そうかもしれないね。キミの意見を汲んであげなくてごめんね。だけれど、キミだけじゃないから。一般的なことを書いているの。キミの意見を言いたいときは、「――な奴もいるかもしれないが、俺は違う。おまえは狭い範囲のことしか見ていない。少なくても俺が一つの例だ。他の例もある。(例示)」ってやらないと、説得できないよ。
ここでは【論述が明確でないものは存在しない】と思ってくれていい。するとますます、キミは私の頭が腐っていると思うだろう。私のアカウントをご覧。最初からそういう意味のアカウントなんだよ?もう開き直っているからねぇ。大人ってそういうもんさ。

>階級闘争なんてないし、いわゆる「大人」であることが如何に恥ずかしいかが自覚されることも少ないだろうしね。その無反省の前で、「大人」に生殖された息子たちが「萌え」ている図式。
>「大人」が我利我利で本番をやり尽くした結果への嫌悪。強い判断力と独断、そしてご立派な実行力。結果に対する無責任。

大人であることが恥ずかしい理由をもうちょっと、ちゃんと説明して御覧。キミがご両親に失望しただけなんだろうな、ということくらいしか読みとれない。政治が悪い、社会が悪いとかいう抽象的な話しは、キミとあんまり関係ないんじゃないかな。関係あるっていうなら、それを説明してくれないとわからないよ。大人と話す時は、相手が頭が腐っていないかもしれないなどと期待をもつのはやめることだ。私も子供が、私の望むほどに、きちんと論述できるとは思っていないのだが。

しかし、何となくキミの意見からくみ取ると、
・生殖しない
などのストライキを決行しているのかもね。
・勉強しない
・働かない
というニートの理屈も、これで説明ができそう。
ストライキも、階級闘争の手段である。

お礼日時:2012/01/10 04:11

>萌えは、どのような階級闘争か?



いいえ、萌えは階級闘争の回避です。

犬の世界に入らない猫たちの世界です。

この回答への補足

次、直観で断定するような詩的な回答が来たら、やめようと思います。アンケート調査しに来てるんじゃないんだから。

補足日時:2012/01/10 02:23
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この回答へのお礼

おや、No1さんに、二票入っていますね。ということは、三人が読んでくれたわけか。長いのに、どうもありがとう。

私の意見を全面否定ですか。「どのような」と聞いたけれど、そもそもが違うっていうんだからね。これは部分否定じゃなくて、全面否定だ。しかし、理由が書いていませんねぇ。私が長ったらしく理由を書いたから、おまえさんも長ったらしくとまでは言わないけれど、犬とか猫とか意味不明なことを言わずに、的確に書くのが礼儀ってもんじゃないですか。

一応、私は前の問いで、リサーチめいたことをしたつもりではあり、相応の労をとっていると思っていますよ。おまえさん、本当は、ちゃんと書ける人なんでしょう?

あーそれから。階級闘争って、現代思想では多様化して、回避もまた、階級闘争の一つの仕方であるとみなされているようです。闘争の回避っていっても、完全にしないってことじゃなくて、喩えて言えば、冷戦みたいなものもあるわけですから。

お礼日時:2012/01/10 01:42

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