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お茶の歴史について調べていて、疑問に思ったのですが、
鎌倉時代に栄西が抹茶を中国から伝えて、日本で抹茶が飲まれるようになったと、色々なところに書いてあるのですが、そのときの抹茶は今のような緑色だったのでしょうか?
それとも茶色だったのでしょうか?

お茶の色が緑色になったのは、永谷宋円が茶葉を蒸して揉んだことで緑色が得られて以降という説明が書いてあるところろもありました。
つまり、それ以前は抹茶も茶色だったのか?という疑問が出てきました。

もし、茶色であったなら、よくテレビドラマなどで利休が鮮やかな緑色の抹茶をたてているシーンがありますが、これは嘘ということなるのでしょうか?

詳しい方、教えてください。よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

静岡のお茶専門店向けの問屋をやっております。



実のところ、戦前で、今の中蒸しのお茶が出来るまで緑の水色のお茶はありませんでした。
国立、県立の茶業試験場でも未だに良いお茶の表現としては、「金色透明」とよくいわれます。
水食が金色に見える黄色で、底に粉がないお茶が良いと言う表現です。

戦後だいぶたってから深蒸しが出来たわけですが、それはお茶の生葉を蒸して揉んでいって荒茶を農家さんが作っていくのですが、その蒸し度を高温でやることでお茶を蒸気で焼くイメージです。
つまり、もともとは赤いお茶が深蒸しで、その後、緑のお茶ということで中蒸しが出来ました。
ただほとんどが細かいお茶を深蒸しというイメージが広まっているのは間違ってる部分での事実です。

さて、お茶はもともとが中国からですが、最初は団茶といって団子状のお茶から広まったものです。
その後レンガ上に固めたもので、広い中国で流通に適した形になったようです。
その後宋代に、朱元璋が安く製造して広めるためということで、製造を今のような葉っぱのままの形で作りました。散茶です。
で、今に至るわけです。

で、今の利休の時代ですが、まず製造方法の変化はうちは抹茶を作ってないので、わかりません。

ただ現代ではお茶は販売する前の段階の、農家さんから仕入れた段階でうちなどは木箱に真空窒素ガス封入で冷蔵庫に保管して、順次仕上げ加工し、お客様に販売するお茶の加工し、加工後も真空窒素ガス封入してお客様が茶袋を開封する直前まで品質を落とさないようにしてあります。
つまり近代までそのような保管方法がなかったわけです。
当時では冷蔵庫もなく土蔵、しかも湿気予防にお茶を壺に入れ、紙を敷いて上に石灰を入れて湿気予防をしていたそうですので、その場合は湿気を防ぐことは完全に出来なく、また酸化し、湿気による劣化も今とは比較にならないと思われます。
そのため緑だったかどうかということは、出来たばかりの新茶で作った場合は緑で、徐々に劣化し黄色になっていったとはいえると思います。
京都の場合などは秋まで土蔵などで熟させて使うそうなので、(茶道で言う口切の儀はこれで、秋に新しいお茶の口を切るという儀式ですね。つまりそこまで寝かせてるわけです)そのあたりまでは緑、もしくは黄緑ぐらいかと思います。
ですが冬を越して気温が高くなってきた場合は、徐々に黄色に変異すると思いますが、黄色!という色まで劣化したかどうかはわかりません。
ただどちらにしても今の真緑のような緑にはなかなかならなかったのではないかと思います。
ちなみに日本の伝統色というページを見ると、抹茶色は今の抹茶の色ではなく、もっとくすんでいます。
これは昔はこの色だったということの説明になるところだと思います。
茶色は茶色なのは、茶渋の色から出たという話もありますし。
ホカにもいろんな色で説明できる部分がるので参考までに。
http://www.colordic.org/w/
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今、会社で黒いコーヒーを飲んでいます


(^^;

 私も永谷園のご先祖が「緑茶」を作って、江戸の山本山が大々的に売り出して以来、茶は「緑色になった」という記事を、たぶん日経新聞で読んだことがあります。

 そこには、「それ以前の茶は、薄い茶色がかった色だった」という意味のことが書いてあったと記憶しております(言葉づかいは正確ではありません。とにかく私はその文章を見てオレンジ系の色をイメージし、紅茶的だったわけだと頭にインプットしました)。

 新聞に書いてあることが正しいとは限りません。私も江戸城の二重橋と、日本最古の毎月分配型ファンドについて間違いを日経新聞に送ったことがあります。

 しかし、この件は信じるにたる理由があると思っています。

 お茶はほっておけば、発酵して、ウーロン茶や紅茶になって、オレンジになってしまいますから、どこかで発酵を止める作業を発明しないといけないわけです。

 また、私が覚えているうんちくとして、イギリスで紅茶が一般的になったのは、船で運んでいるうちに発酵が進んでしまったせいだという話を覚えています。

 つまり、英国がインド・中国へきて茶を輸入しだしたころは、発酵を止める技術はあちら(中国)にはなかったのではないかと推測しています。

 で、私は永谷園のご先祖が茶葉を蒸して緑色に保つ方法を発見したという話を信じています。

 それ以前の茶は、茶色系だった、と。

 だから、「茶色」なんだと。(ちゃ色を茶色と書くのは当て字ですかね?)


 さて、抹茶の製法ですが、いったん蒸します。つまり茶葉の発酵を止めてから乾燥させます。

 つまり、永谷さんが蒸す方法を発見するまでは、抹茶も茶色系の色をしていたのではないか、と推測してます。


 もしかしたら逆で、抹茶の、蒸す方法を改良して緑茶を作り出したという順番なのかもしれません。

 が、少なくても(中国で抹茶を作っているという話は聞かないので)茶葉を蒸す方法は日本で考え出されたものでしょうし、それ以前の抹茶はやっぱり茶色系の色だったのじゃないか、と思います。

 そう考えるのが、あの色をなぜ「茶色」と呼ぶのか、もともとお茶は緑でなくて「茶色」だったのではないか、という疑問が氷解することになります(当て字かもしれませんが)。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

ご存知とは思いますが、茶は中国の漢の時代に日本へ伝わったと言われています。
当初は、中国でも漢方薬の一種と考えられ「苦い」ものでした。

色については、茶葉で出した茶は当初より「緑色」をしており、「緑茶」とも呼ばれました。

これに対して、同じく漢方薬として用いられた「ハト麦茶」や「烏龍茶」は「茶色」でした。

従って、緑茶や抹茶は「緑色」でした。
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