新生活を充実させるための「こだわり」を取材!!

よろしくお願いします。

人は赤ちゃんで生まれてきて、やがて死にます。絶対に。

この、生まれてから死ぬまでの時間、
つまり、人生に「意味」はあると思いますか?
また、人生に「目的」ってあるんでしょうか?


「ひろ さちや」さんの著書の中にこんなことが書かれていました。

サマセット・モームの「人間の絆」という本のなかで、次のような逸話があるそうです。

とある国の国王が人間の歴史を知りたくなり、
学者(賢者)たちに命じて、500巻の人間の歴史の本を要約するように命じました。
20年が過ぎ、学者は500巻を50巻に要約しました。
でも国王は気力が衰え、読むことが出来ず、もっと要約するように命じました。
そして、さらに20年が過ぎ、学者は50巻を1巻に要約して国王の所に来ました。
しかし、国王は、もう臨終のベッドで、
学者は1巻の人間の歴史の本をわずか1行に要約して国王に、こう告げました。

「人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ、それだけです。
人生の意味など、そんなものは、なにもない。
そして人間の一生もまた、何の役にもたちません。」 と。

この引用は、かなりの極論だと思いましたが、
私は、子供を育て上げることさえ出来れば、その他にあまり望むものは無いなぁ、と、
そう感じました。

皆様はどのようにお考えますか?

どうか、よろしくお願いします。

教えて!goo グレード

A 回答 (26件中1~10件)

お釈迦様の解答です。



『この世は無常の世界である』
『そのため、この世は苦しみの世界である』
『なぜなら、この世は幻の世界だからである』
『だから、自分のものは何一つ無い』
これが『無常・苦・空・非我』の悟りです。


『人間は何のために生まれるのか。』


人間は過去の記憶から得た『貪瞋癡』によって生まれる。

貪=貪欲(性欲・物欲・自我)
瞋=瞋恚(怒り・恨み・嫉妬・不満など)
癡=愚癡(この世界が空であることを知らない無知。唯物論など)

もし、生きている間に『貪瞋癡』を滅することが出来れば、死後、寿命の長い天界に生まれることが出来る。

お釈迦様はこのようにいっています。
    • good
    • 5

こんにちは。



この質問の多いこと。

同じ質問なのに、それが指し示すものは多くの場合、
それを問うものの置かれた「身動きが取れない」という
状況を示しているに過ぎません。

例えば、あなたが子育て中で、仕事をしていない専業主婦で、
世の中に取り残されているような気がして、そんな質問をしたと
します。

すると、「生きる意味とは」という質問は、たちまち「あたしは
家の中で一人ぼっちで強いストレスを感じてる」という意味に
変わってしまいます。

古今東西、手を変え品を変え、でも必ず問うているのは

生きる「意味」、生きる「理由」、生きる「価値」。

こればっかり皆、あるのか、ないのか、と訊くのです。

でも、この三つの言葉は全て同じコトを指すコトバとして
使われていますよね。 何度考えてみても、結局同じ
根っこに辿り着く・・・

別な言葉に置き換えてみると、

「つまんないな。生きてて何かいいことあるのかな」

「私なんか、取るに足りないちっぽけなものだな、
何かイヤになっちゃう」

それをカッコよくテツガク的なコトバで置き換えてるだけで、
つまるところ、

堂々巡りしている状態

でしかありません。

「要するにヒマなんだ」という意見もある程度、的を得ています。

ところが、それを言うとたちまちバカでも見るような目で
薄い笑いを顔に貼り付けたりする人がいます。

暇人が生きる意味を問う程、愚かしいことはありません。

考えても見てください。

恋愛にも人生にも引っ込み思案で活力に乏しく、すぐに膝を抱えて
丸まってしまいがち。 中毒のようにPCのスイッチを入れて
テレビ同様目的も無くただ漫然と、ニコニコやYouTubeを漂い、
物悲しくなって「人生とは・・・」なんてショボショボと口ずさむ
引きこもり。

病室の一室で、重い病気や怪我で苦しみぬいて、苦しんで
苦しんで苦しみぬいて短い一生を生きて、死んでいく子供達の
親兄弟が「この子の人生とは・・・」と血を吐くようにつぶやく。

同じわけが無いでしょう?

でも、言葉の上では、全く同じことを言うんですよ。
言い回しを変えようが、単語を変えようが同じことです。

全く同じ概念、同じ言葉で同じ文脈を語るのに、その中身は
全くの別物です。

コトバを一切使わずに「思考」出来ますか?

そうすれば判ります。

自分の感情、情動、印象、などなど、コトバとリクツという
仮面を剥いだ、自分のリアルな素顔が何を表に顕さんと
しているのかを。

生きる、というのはコトバではありません。

肉体は日々、生命活動を継続していますが、それが
奇跡のような凄いものだと実感できるのは、死の恐怖を
感じる時だけです。 暇な人は、ですが。
だからスリルを求める。 つまらない刹那的なドキドキを
求める。

では、精神は?

これも、肉体同様、自分がむごたらしく破壊される恐怖と
向かい合わなければ理解できない、なんて馬鹿馬鹿しい
妄想に囚われてしまうほど、変化に乏しい場所にいる人は
コトバ遊びを暇つぶしにやってしまうんですよ。

本当に「生きる」と言うことを「思考」したいのなら、コトバなど
使っていては迷宮に迷い込むだけです。 何故なら、コトバの
置き換えを延々と繰り返すだけでは、グー・チョキ・パーを
ぐるぐる堂々巡りさせるだけの閉じた輪の中を歩き続ける
だけだからです。

考えている本人は、無限回廊でも歩いている気になりますが、
それは延々と閉じたループの中をぐるぐる回っているだけなのです。

あなたの言語によらない「思考欲求」やら「好奇心」やらは、もっと
地面に近いところでアイドリング状態を続けています。
「無限回廊」の中に、あなたは実は、いないのです。

それを「ヒマ」の一言で切り捨ててしまうのは実も蓋も無いかも
知れません。

けれども、例えばレーサーが高速コーナリング中に順位を競って
居る時、或いは音楽家が音の海に泳ぐ魚と化して居る時、
色彩やモチーフの形状を「言語」として高速思考している芸術家。
或いは、ぬかるみのような、真っ暗な人生に苦しみながら、
もがいている名も無い人々。

そういう、精神の本体がブンブン音を立ててドライブしている、
そういう状態を感じること無しに「生きる」ということを捉えようと
していること自体が、極めて空疎である、という視点を持つことが
重要だと考えます。

長々と書きましたが、要するに、もっともっと精神全体のタコメーターの
回転数を上げましょう、ということです。

「レッドゾーン・ダンシング」という言葉をご存知ですか?
エンジンの、これ以上廻したら壊れるよ、というエンジン回転計の
レッドゾーンに、常に針を置くようにエンジン全開で疾駆することです。

生命は、肉体と言うシリンダーの中で、精神と言う燃料を燃焼する、
物凄く精緻な「エンジン」です。

間違っても、閉じこもって猿人になってたりしてちゃ、ダメです。

ちゃんとシフトギアを入れて、ブレーキから足を外して、アクセルを
踏み込まなければ、あなたの質問には何一つ、手ごたえのある
回答は得られないでしょう。

コトバを脱ぎ捨てて、知覚・感覚で思考してみることをオススメします。


起動せよ、エンジン!

にゃごにゃご。
    • good
    • 6

人間が絶対に逃れることができない、と思われている「死」から


逃れるための方法を作り出すことが究極的な人類の目的である。
したがって、研究者ではないただの凡人でも懸命に働き、消費
をし経済を活性化させ研究資金を稼ぐために生きることには
重大な意味があるといえる。また子供を生み未来の研究者候補
を育てることは目的を達成するための最もだいじなプロセスである。
    • good
    • 0

あるんだったら、教えてほしい。

そんなもんない。
    • good
    • 0

たとえ話でいうと、「きょう、千代の富士は勝った?」というのは質問として成り立ちますが、「きょう、土俵は勝った?」というのは質問になっていません。

力士に勝ち負けはあっても、土俵に勝ち負けはありません。土俵は、勝ち負けを成り立たせる場にすぎません。

これと同じように、人生のなかの出来事の一つ一つには、目的も意味もあります(というか、考え出すことができます)。「これはあれの役に立った」「あれが回りまわってこうなった」とか。二つ以上の出来事を結びつけることができるからです。

でも、人生というのは一つきりの全体です。ですから、他の何物とも結びつけることができません。人生というのは、一つ一つの出来事を成り立たせる土俵です。

ですから、「人生(生まれてから死ぬまでの全体としての)に目的や意味はあるか」という質問に対しては、「その質問は意味をなさない」というのが、ひとつの答えになると思います。

いっぽうで、土俵同士を比較したり、結びつけたりすることも、まったく可能なことです。「国技館が武道館を助けた」とか。「私の生き方は、誰それの役に立つ」とか、「私は死後、神のなかに抱かれる」とか、自分の人生の外側に立って、他のものと結びつける視点に立てば、人生には意味も目的もあります。あるいは、「こうだったかもしれなかったのに、こうだったなあ」というふうに、空想と実際を比較しても、意味や目的は生じます。

つまらない言語の分析みたいで申し訳ないですが、字面から考えると、そういうお答えになるのではないかと思います。

子どもを育てあげ、自分で自分の人生に満足する(ある時点の自分が、自分の人生の全体を思い浮かべて満足する)、というのは、このうえなく立派なことであると思います。お子さんにとっても、あなた自身にとっても、唯一無二の、すばらしい人生だと思います。
    • good
    • 0

面白そうなので私も混ぜて下さい。


「人生には意味があるかないかのどちらであるのか」という切口を取り替えて、「人生を楽しく生きても構わないし、苦しく生きても構わない。ところでどっちを選ぶか?」ということで人生を捉えなおすということを提案いたします。
「楽しく生きる道を選ぶ」とするならば、「人生の意味」を考える暇もなく「もっと楽しくする途」を工夫することになるでしょうね。「どんな喜びが私と周りの人々のために工夫できるか」想像するだけでも楽しくなるでしょうね。
    • good
    • 4

人生の意味なんか人それぞれですよ



僕は生きていて楽しいと思えばそれでいいです
    • good
    • 0

まづは ひとつの先入見を持って存在の理解に挑みまし


ょう.読書などによって得た新たな解釈は,それでもな
お,先入見へと戻るのでしょうが,そこでは自然との間
に距離や矛盾を感じると思います.そしてそれは自己の
経験に基づいて解決されていくでしょう.

そうすると つぎに読書や対話などによって新たな解釈
を得るときに,ひとつの理解が先行しておこなわれるよ
うになり,それが新たな理解を生むこともあります.

それが脱自的時間性であり,自然世界内に自分を投棄
する,ひとつの契機でもあります.自分を投棄するという
ことは,つまり将来(非のある自分)へと向かう,現存在
としての自分を踏み越えることであり,将来を引き受ける
ことでもあります.

自分の踏み越え(脱自的時間性における自己の踏み越え)
によって,自分の中でおこなわれることは,過去の経験
を解体し将来へと再構築するおこないです.そしてそれは
共同運命としての世界内存在の自分になることです.

これが,死を遠ざける行為の連続であり,これによって
我々は死をある程度忘れることができています.
これだけでも生きることは可能なのですが,
欲をいえば意味も無くただ有る自然を,愛すること.
それは人間的な,あまりに人間的な愛である.(´ω`;)
    • good
    • 0

サハラ砂漠の砂粒一つに意味はなかろう。



金持ちであろうが秀吉並みの人物であろがおなじである。

砂粒1個の存在。
    • good
    • 0

やりたいことをやる。



悪行も慈善も、それがやりたいことだからです。

人はやりたいことしかしません。
したがって、全ての行為に普遍的な価値はありません。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

教えて!goo グレード

関連するカテゴリからQ&Aを探す


人気Q&Aランキング