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鎌倉時代について勉強しています。
そこで元冦についてあったのですが、モンゴル帝国と元が意味分かりません。
日本史の教科書しかないので教えてください。

1.モンゴル帝国をいくつかにわけて、それぞれを孫が支配した。その一つが元である。
2.1271年に元ができたのに対し、日本に服属を要求したのは68年だから、モンゴル帝国の頃に服属を要求してきた。
3.なので、モンゴル帝国の頃に服属を要求→王朝にわかれて元ができる→元冦がおこる

この3つはあっていますか?

A 回答 (3件)

1→正しいとは言えません。


 チンギス=ハーンによって創始された帝国(モンゴル帝国)は,もともと遊牧民の国なので土地を分け与えるという感覚はあまりなく,チンギス=ハーンの一族や配下には,土地というより「何千戸」といった単位で人間が割り振られた,というのが実情に近いところです。
 それら一族のすべてを束ねる「大ハーン」の地位は,チンギス=ハーンの死後,2代オゴタイ(チンギスの三男),3代グユクの順に継承されましたが,3代グユクの即位には一族からの反対が強く,結局グユクは暗殺され,代わってトゥルイ(チンギスの四男)の長男モンケが4代の大ハーンに即位し,このときオゴタイの一族は大半が粛清されました。
 そして4代モンケの死後,その弟であるフビライとアリク=ブカが大ハーンの地位をめぐって争い(アリク=ブカの乱),この争いは結局フビライが勝つのですが,オゴタイ一族の生き残りであるハイドゥがフビライに反旗を翻し(ハイドゥの乱),この反乱は数十年にわたって続いたことから,この間にモンゴル帝国の分裂は決定的になってしまったのです。
 したがって,モンゴル帝国はチンギス=ハーンがその孫達に分けたということではなく,チンギス=ハーンの死後に一族間の争いが起こり,いつの間にか分裂してしまったということです。

2→時系列的には正しいですが,モンゴル帝国と元が別の国という訳ではありません。
 1271年,フビライは自らの帝国に「大元」という国号を定めましたが,これは「大モンゴル帝国」(モンゴル語では「イェケ・モンゴル・ウルス」)という国名を「大元大モンゴル帝国」(ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス)に改めただけのことであり,全く別の国に変わったというわけではありません。
 フビライの実質的な支配領域は,主に現在の中国を中心とする帝国の東方地域に限られていましたが,例えばフビライの弟・フラグが建国したイル=ハン国(現在のイラン,イラクなどを支配)はフビライに服属しており,元という国号を付けた後もモンゴル帝国という建前を捨てたわけではありません。

3→正しいとは言えません。
 フビライは,1261年にモンゴル帝国の第5代ハーンを名乗りましたが,ハイドゥを始め帝国西方の一族の多くはフビライの権威に服しておらず,1268年の段階では,既にモンゴル帝国は実質的な分裂状態に陥っていました。
 そして,1271年に元が成立したというのは,前述のとおり国名がちょっと変わったというだけですから,フビライによる服属要求の時期と元朝成立の前後関係は,歴史的には何の意味もありません。
 したがって,モンゴル帝国の第5代大ハーンを名乗るフビライが日本に対し服属を要求→フビライが自らの国名に「大元」を付ける→元寇が起こるという順番の出来事だったというのが歴史的実態です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
一番わかりやすかったのでBAにさせていただきました。

お礼日時:2012/01/18 22:36

1.について・・・



初代皇帝チンギス・ハーンは生前に長男、次男、三男に領地を分け与えていました。四男は末子であり末子相続という慣習から父チンギス・ハーンの領地が与えられる予定でした。

長男ジョチは親のチンギス・ハーンより先に死んでしまうので、その子が領地を継ぎ、それが後のキプチャク汗国となっていきます。
次男チャガタイの領地は後のチャガタイ汗国となります。
三男オゴタイの領地は後のオゴタイ汗国となります。

なおチンギス・ハーンの死後、末子トルイは皇帝になる事を辞退し三男のオゴタイが第2代皇帝になる事になります。

また、第4代皇帝の時代にチンギス・ハーンの孫でトルイの子フラグがイラン方面に攻め入り領地を拡大していました。その時、第4代皇帝が亡くなり第5代皇帝の座を巡って争いが起きます。そのためフラグはモンゴル帝国に帰還せず、その地で自立しイル汗国を建てました。

ですからチンギス・ハーンの死の時点で言えば、必ずしも孫に領地を分け与えたわけではありません。
また元の成立時点で言えば、元を支配していた皇帝フビライは確かにチンギス・ハーンの孫にあたりますが、他のキプチャク汗国、チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、イル汗国全ての君主は全員チンギス・ハーンの孫より後の世代になっています。

それぞれを孫が支配したというより、チンギス・ハーンの子孫が支配したと言った方がよろしいかと思います。


2.について・・・
その通りです。


3.について・・・

1260年に第5代皇帝クビライが即位した時には既に、キプチャク汗国、チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、イル汗国が成立しており、そして本家のクビライのモンゴル帝国がありました。
このクビライのモンゴル帝国が1271年に「元」と国号を改めます。
ですから、この時、王朝が分かれて「元」ができたわけではありません。既にその前の何十年も前に各汗国は成立しており、本家のモンゴル帝国が国名を「元」に改めただけの話です。
そして元寇となります。
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モンゴルウルス(モンゴル国)というのは、もともとウルス連合です。


具体的にウルスというのは、チンギスハンが出現するまでは、○○部族と言われたました。
モンゴル高原の中にいる、ある一つの弱小部族がモンゴルで、その親分がチンギスハン。チンギスハンのモンゴルが強くなったので、モンゴル高原中の諸部族が全部モンゴルと言われるようになります。

チンギスハンのあとは、チンギスハンはご親戚を中心に、遊牧する場所を分割します。
皇帝には皇帝の直轄のウルス(遊牧する場所と、遊牧する民と、遊牧させる家畜の集合)があるし、直轄でないウルスもあるが、直轄でないウルスの持ち主も、皇帝を皇帝として認める。
というような体制が、モンゴル帝国です。

1259年に モンケが死んで、中国本土に自分のウルスを持っていたフビライがモンゴルの皇帝になり、1271年に支配されている中国人に分かりやすいように自分のウルスを大元と名づけます。
皇帝を決めるのも、征服事業を決めるのも、クリルタイという会議で決めます。皇帝を決めたあとは、実際は皇帝の意思を承認する会議になるので、皇帝が決めたと言っても大きな間違いはない。

モンゴル皇帝直轄領というか皇帝になることに寄って継承する領土と言うかウルスはありません。
鎌倉幕府領というのがなくて、各御家人の領土だけがあり、選挙で有力御家人から将軍が決まるというような感じです。


1.モンゴル帝国をいくつかにわけて、それぞれを孫が支配した。その一つが元である。
いろんなウルスがあり、孫とかチンギスハンの弟の家系とか、いろんなウルスがあり、そのウルスの親分が選挙で選ばれたのが皇帝となっていた。中国本土を支配していたフビライが皇帝に選ばれて、自分のウルスを大元と名付けた

2.1271年に元ができたのに対し、日本に服属を要求したのは68年だから、モンゴル帝国の頃に服属を要求してきた。
モンゴル皇帝が服属を求めてきた。
日本人の中国歴史観だと、大元ができたので元がというけど、関係ない。


3.なので、モンゴル帝国の頃に服属を要求→王朝にわかれて元ができる→元冦がおこる
一貫して服属を要求していたのは、モンゴル皇帝です。
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