村上隆のことをよく知りませんが もし次のような意味であれば 表題のように考えられるのではありませんか?
すなわち あとにかかげる解説の中の次の説明文です。
▲ 現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものである。
▲(ヰキぺ:スーパーフラット) ~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC% …
§ 概要
スーパーフラットという言葉は日本の消費文化独特の浅はかな空虚感をはじめ、日本における様々な時代の様々な種類の平面絵画、アニメーション、ポップカルチャー、ファインアート、キャラクター文化といったものを示すときに村上が使用する言葉である。日本のアートムーブメントであり、欧米に向けられたブランド性をもったアートの現象であり、ニッチ市場販売の成功例でもある。
特徴として、平面的で二次元的な絵画空間を持ち、余白が多く、また、遠近法などの技法をあまり使わないことが挙げられる。これは日本の伝統的な絵画から現代の漫画・アニメにまで共通してみられる、画面の立体感のなさ、平面性、装飾性、遊戯性を示すものであり、
また現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものである。
平面作品だけでなく日本のアニメーション関連の立体作品(フィギュアなど)もこれに含まれる。
~~~~~~~~~~~
☆ むろん 《現代の》というのは 制度としての身分制が廃止されたことをもって言うのだと見ます。逆に言いかえると 身分制が敷かれていたとしても 権威としては 《おほやけ=公共性ないし普遍性》をになっていたのが アマテラシテ天皇である。一君のもとに万民が平等であるという思想であり建て前である。
しかもこの平等性は 誇って言うこともあれば おそらく皮肉って言うこともある。身分制がその中身として敷かれたのも然ることながら やはりお二階さんは威張っているからには建て前に過ぎないと見られることもあるからである。
でもヰキぺ氏は 《階層性の無さ》と言っている。
この質問の前身は 【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか? それとも パロディなのか?】でしたが それを閉めたところ あらたに疑問が起こりました。
くわしい方がいらっしゃれば おしえてください。
なお同じヰキぺ解説の中に 例の浅田彰による評言もしるされています。その内容についてわたしは 批判的なのですが それは どうしてそのような見方が出て来るのかがピンと来ないというような状態での批判的見解であるに過ぎませんので やはりくわしい方がおられれば さらに解説をしてくださいますか?
▲(ヰキぺ:スーパーフラット) ~~~~
§ 評価
浅田彰は渋谷パルコギャラリーで開催された「SUPER FLAT展 at PARCO」とそのコンセプトブックについて、
「日本の伝統美術の中からとくに平面性を取り出してくるのも、それ
をアニメの平面性とつなげてみせるのも、世界市場に向けてのマーケ
ティング戦略に過ぎないことは、言うまでもない。
それを、『自虐史観』(彦坂尚嘉)を逆手にとった捨て身の戦術と言
うこともできるだろう。
さらに問題なのは、それが『自閉的〈村〉空間』(同)に根ざして
いるところだ」
と評した。さらに浅田自身も先行して1987年にアメリカで行った短い講演「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」のなかで「資本主義の幼児化」によって「日本の子供のポストモダニズムこそ世界の未来を先取りする」と発表していたことに触れながら、その講演から13年後に現れた村上隆のスーパーフラット宣言については
「ただ、彼が『日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいま
は super flat。』と宣言するとき、そこにはもはやシャープなアイ
ロニーは感じられない。
それは、いわば『スーパーフラット』なアイロニー――つまりはナイ
ーヴな自己肯定に基づく、『J-POP』とほぼ同レヴェルでの『Jアー
ト』の自己主張なのだ」
と、日本文化に対する自己言及性や批評性すらも平板化し、後のクール・ジャパンを思わせる日本文化の輸出を目論んだ一種の商標にすぎないことを指摘した。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ この中で
● 『自虐史観』(彦坂尚嘉)
☆ は一応わかっています。前身の質疑応答の中でおそわりました。ただしわたしの感触としては そういう感じ――自虐性や自嘲性――はあまり受け取りませんでした。例の《マイ・ロウンサム・カウボーイ》なる作品についてです。
● 『自閉的〈村〉空間』(同)
☆ についてはまだ知りません。ただこの場合は――つまり日本で《村》という場合は―― まだ経験合理性にもとづく思惟と行為の形式を身につけた近代人の登場して来ない・自己閉鎖的な社会だと推し測られます。
そしてこの評言内容と スーパーフラットとが どのようにつながるのか。これが分かりません。前近代人ならば ふるい慣わしによって生活しており 或る程度は上下の格差があることを前提としているとも思われるからです。
しかしてさらには 次の浅田の評言はどういうことを言っていますか?
▼ 「資本主義の幼児化」によって「日本の子供のポストモダニズムこそ世界の未来を先取りする」
最後に 次の評言については 別の意味でそのとおりのように質問者は思っていますが 果たしてどうでしょうか?
▼ 彼(=村上隆)が『日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまは super flat。』と宣言するとき・・・
☆ つまりは 上に触れられていた《資本主義の幼児化》というのは 分かり難いのですが こちらの命題そのものとしては いまこの質問における天皇制の問題からしてかかわりがあり それだけにとどまらず 天皇制というかたちに社会形態をおさめさせた古代日本人の知恵がひそんでいるのではないか。こう考えるからです。
○ 日本は世界の未来かもしれない。
☆ これは 社会が対話型として成り立っており その中の一部分の――のちにアマテラス公民となるそれはそれは優秀な――人びとが 自分たちに社会の経営を任せてくれと言って来たときに そのまま《くにゆづり》をしたというスサノヲ市民たちの思想(生活態度)が 世界の未来であろうと予感されるからです。
社会にも神棚をこしらえて そこにアマテラス公民を住まわせた。つまり二階建ての造りとした。お山の大将に成りたいと言って聞かないものだから そのおねだりに《くにゆづり》した。
その結果 国家の権力者あるいは権威としての特別の存在――《おほやけ》――をまつりあげつつ しかもそのほかは 公地公民であってみな平等だという・建て前だけとしてでものスーパーフラット社会。
果てさて 村上隆とは関係ないところへ脱線してしまったでしょうか? そうでもないでしょうか?
○ スーパーフラット・村上隆・アートの世界と社会との関係・資本主義・天皇制 そしてこれらをめぐる浅田彰・彦坂尚嘉・・・
☆ これらを解きほぐしていただけますか?
No.22
- 回答日時:
便利さを追求すれば、確かに他者との関係性は薄くなっていくの
だろうが、生活コストの圧縮は必須の課題である。
個人的には、そのために、労働者の賃金を押し下げてていくのは
倫理的にも、風土的にも適していない気がします。
中間コストの圧縮やエネルギーに頼った生産性をあげるのが、やはり
望ましいのではないかと。
その為にはエネルギー開発と、分散化とインタラクディブ化によって、
中間コスト圧縮と省エネルギー化を同時に進めて、共同体自治と自然環境
を整えることで公共心を補い、そこから開発された優良なもので外貨を獲得
するというのが、いいんじゃないかと勝手に考えてはみたんですけどね。
どっかにむりがあるかもしれませんね。
ちょっとあきてきましたね。
もうやめますか。
ご回答をありがとうございます。
そうですね。そういうことをも――コスト削減といったことをも――考えていますか。新興国との価格競争では 大事になりましょうが。
もっとも無駄をなくすというのは つねに心がけねばならない。財政危機に面してもいる。
★ エネルギー開発 / 省エネルギー化 / 自然環境を整える
☆ これらは 専門家にまかしています。ここでは 回答者のお考えを聞くことに徹します。
★ 分散化とインタラクディブ化 / 共同体自治
☆ この課題にかんしては
○ インタムラ(村)イズム
☆ という考えを持っています。例のアマテラス公民圏のフタが取り払われる方向において その取り外しがかなう前にも それぞれのムラ(市町村)はすでに 自分たちとしても・また互いの連携においても 経済・文化の両面において交流し協力するという行き方です。
これには 企業をも巻き込んで行かなくてはならないと思います。
そして インタナショナルなインタムライズムにして行かなくてはなりません。
★ そこから開発された優良なもので外貨を獲得するというのが、いいんじゃないかと勝手に考えてはみたんですけどね。
☆ いまでは BOP ということが言われ出していますね。ベース・オブ・ピラミッドつまり 低所得者階層も 経済活動の一端を或る程度の比重を占めるまでにになうという経済の連携のかたちです。
ということは あまり外貨の獲得やら利益やらが望めないようなのですが けれどもこの運動は 息の長いものになるかと思われます。そのようにして たとえ大きな利潤があがらなくても 過疎のムラであってもそこに住む人びとが いくらかさらにゆたかで健康な暮らしを送ることができるようになれば それで世界は しあわせになります。その一歩 その一ミリの向上の努力も無視することは出来ない。
それもこれも 国際的なムラムラの連携が どれだけ自由に 人びとの生活基盤において 出来あがって行くかにかかっていましょう。ひとつのムラは 国内はもとより世界各国に 数か所のムラムラと連携することができればよいでしょうね。どないでしょう?
No.21
- 回答日時:
便利な世の中になった今となって、他者が介在する情動は
ただの動物的欲望と変化してしまった。
そのため、わずかにのこる他者と関連する情動である「人より優位
に立ちたい」、あるいは「他人へのやっかみ」を主なインセンティブ
とする弱肉強食的な情動の連鎖を新自由主義はもくろんだのだろう
しかしすでに「やっかみ」は「自己の努力不足の結果を否定する行為」
なのだから倫理にそぐわないと認知されているし、労働コストをおさ
えようと考える企業にすれば迷惑なことだろう。
努力によりパイ配分を分け与えられた安心な優越感にひたるスキゾサロン
に、もし一筋の光明があるとするならば、忘れ去られようとしている
たたき上げの公共心をもつ先輩との連携になるかもしれないが、
KYがもっとも嫌いな年代にそれを望むのは難しいのかもしれない。
この回答への補足
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~
便利な世の中になった今となって、他者が介在する情動は
ただの動物的欲望と変化してしまった。
~~~~~
☆ ほんとうですか? というより 情動としての内面的なうごめきは それ自体はむしろ動物的な欲望なのだとは思います。ということは 人間は それを人間として・またほかの人びとがどう考えどう振る舞うかを別としてわたしとして この情動をどう扱うか こういう問題は つねに――人間であろうとする限りで―― ありました。ということは この人間的な扱い方の部分が 無くなって来ているということなのですか?
何ごとも便利な世の中なのだから 情動とその発揮も 便利なかたちになってよいだろうとでも考えているということでしょうか?
★ ~~~~
そのため、わずかにのこる他者と関連する情動である「人より優位
に立ちたい」、あるいは「他人へのやっかみ」を主なインセンティブ
とする弱肉強食的な情動の連鎖を新自由主義はもくろんだのだろう
~~~~~~
☆ だとしたら それは 動物よりも劣ってしまったということでしょうか? 動物の素直さをも捨てて 人間の見にくさのみによって しかもあたかも想像力を駆使して 何かと金儲けをたくらむ。しかし そのとき《やっかみ》を持ちそれを《堂々と》おのれの評論に中に組み入れるという場合もあるようですから どっちがどっちだか 分かりません。両方とも 異なる地点から 同じような銭儲けをたくらんでいる。自分の評論が賛同を得て売れればよいと考えているとしたら そうなる。
★ ~~~~
しかしすでに「やっかみ」は「自己の努力不足の結果を否定する行為」
なのだから倫理にそぐわないと認知されているし、労働コストをおさ
えようと考える企業にすれば迷惑なことだろう。
~~~~~~
☆ そうでもありましょうし しかもそうではない一面も出て来る。すなわち 一般にスキャンダルをも売りものとするたくましい商売精神。やっかみを材料としても 商売は出来る。ともくろんでいる。のではないか?
★ ~~~~
努力によりパイ配分を分け与えられた安心な優越感にひたるスキゾサロン
に、もし一筋の光明があるとするならば、忘れ去られようとしている
たたき上げの公共心をもつ先輩との連携になるかもしれないが、
KYがもっとも嫌いな年代にそれを望むのは難しいのかもしれない。
~~~~~~
☆ KY 世代は そういう好き嫌いがあるのですか? だったら はあとまいんどさんの診断に逆らって まだ脈があるとわたしは考えます。《嫌い》なら まだ広義の愛は 活きています。だいじょうぶです。
たぶん 《美》が―― 美術作品でもスポーツの出来事でも 何やかやでもその一編の美が――現われれば ハッと我れに還りましょう。だいじょうぶですよ。
次へ行きます。
いま 【Q:魂】質問での応対に時間を取られています。
ふたつ寄せてもらっていますが お時間をください。(朝からまだ食べていなあい。昼食もありますから)。
No.20
- 回答日時:
すこし整理したいのですが。
情動とは(他者との関係において発生する欲望)であり、けっして充足しない
するものではない(ずれ感が残る)。
便利な社会構造の変化により他者との関係がなくとも、充足してしまう欲望に
かわってきた。
もしかしたら、これを浅野氏は資本の幼児化といっているのかもしれない。
それとは別に、オタクは作品に込められた物語を消費して欲望の充足しようと
するが、これは情動(他者との関係の欲望)といえるのだろうか。なんらかの
バーチャルな倫理感(スノビズム)をともなっているのだが、ちょっとよく
わかりません。
資本の幼児化はもう少し調べてみないとわかりません。
ご回答をありがとうございます。
だとしたら
○ 情動とは 特には両性の関係として起こるものであり 性愛関係ではあるが その交わり(もしくは 声をかけること)に到るまでのこととして捉えられたものであり それとして起こる情欲の発動といったところでしょうか。
★ ~~~~
情動とは(他者との関係において発生する欲望)であり、けっして充足しない〔し〕
するものではない(ずれ感が残る)。
便利な社会構造の変化により他者との関係がなくとも、充足してしまう欲望に
かわってきた。
もしかしたら、これを浅田氏は資本の幼児化といっているのかもしれない。
~~~~~~
☆ 《資本主義の幼児化》とは このような事態を言っているのかも分かりません。まだ分かりませんが その中身について 微妙に違った感覚がありますので そのことに触れます。
○ ~~~
情動は そのみづからの要求をどこまでもつづけるとは思えない。
ただし その欲求がつづくかぎりでは 《他者との関係がなくとも 充足してしまう》とも思えない。
~~~~~
☆ 微妙というよりも よく分からない領域であると考えられます。
情欲が昇華するといったことはありうると考えられていますね。情動も いつまでも その欲求を人に突きつけ続けるとも思えません。
★ それとは別に、
☆ ということですから 別としなければならないことですが 次の事態は おそらくそのまままさに情動とは別だとわたしも見ます。
★ ~~~~
それとは別に、オタクは作品に込められた物語を消費して欲望の充足しようと
するが、これは情動(他者との関係の欲望)といえるのだろうか。なんらかの
バーチャルな倫理感(スノビズム)をともなっているのだが、ちょっとよく
わかりません。
~~~~~~
☆ 《作品に込められた物語を消費して欲望の充足をしようとする》ことは 情動とは別だと見ます。両方が別々にありうるという意味です。
★ なんらかのバーチャルな倫理感(スノビズム)をともなっているのだが、
☆ ということで 別の行動だと見ます。
★ 情動(他者との関係の欲望)
☆ はそれとして ある。と言わなければならないと考えます。
★ 資本の幼児化はもう少し調べてみないとわかりません。
☆ 同じくです。
No.19
- 回答日時:
話がまた脱線してしまいました。
(いつもそうなんだけど)「サブカルに見る社会問題の警鐘」についてですが、
最近の一つの例として「右傾化した若者たちの花王不買運動」があり
ました。これは、「グローバル化によるエムアンドエーへの反発」の
内在化の曖昧さ回避の行動という認識をしています。
つまりエムアンドエーによって、企業は設備投資コストを欠けずに
他社の経験からくる知的財産や技術を得ることができます。
これがグローバル化の評価すべき面だと考えられていると思いますが。
これを批判的立場でとらえるとすると、ます、人間を育てる機会を
のがしてしまい、そこから発生する負の連鎖による社会コストは膨らみ
ます。また、全体からみた知的財産や技術は成長して膨らむどころか、
縮小していく方向に進みます。
技術や知識の融合をこころみたところで、深い部分で融合されなければ
(つまり損得抜きな信頼関係において共通の目的を目指すことができるか
ということですが)、また、その目的そのものが、そもそもサロン的目的化
してしまわないかという面もあります。こういう傾向が加速すると、さらに
社内が機能独立化していき、目指す目的がますますみえにくくなってしまい
ます。
かつては、個人の逃走としていたオタクの「サブカル」は、逃走への受け口
としての機能は変わることなく、いまは逆に社会状況の変化による孤立化から、
バーチャルな共同体を求めて、悲壮感を伴ったゼロから集団の熱狂に変貌し
つつあるのかもしれません。
はあとまいんどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
★ かつては、個人の逃走としていたオタクの「サブカル」
☆ ということだったのですか? なら例の浅田彰が『逃走論』を著わしたのですから そのかんがえの線で来ているのでしょうか? わたしはまったく知りませんでした。
★ オタクの「サブカル」は、逃走への受け口としての機能は変わることなく、いまは逆に社会状況の変化による孤立化から、
☆ 《孤立化》していたのですか?
じつは
【Q:《オタク》は 他者性を避けているか】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5021239.html
を問うたことはありましたが――これは 大澤真幸の議論に接してのことでしたが―― あとは テレビで《電車男》を見たくらいで 何も知りません。
★ 〔* 孤立化したあと〕バーチャルな共同体を求めて、
☆ この《バーチャルな共同体を求めて》というのは もともとあったのではなかったですか? コミケとか言った集まりがあったと聞きましたが? あるいは同人誌をつくっているのだとか。
★ 〔* 孤立化したあと〕バーチャルな共同体を求めて、悲壮感を伴ったゼロから集団の熱狂に変貌しつつあるのかもしれません。
☆ まづ
★ 悲壮感を伴ったゼロ
☆ これが《孤立化》のことですか? 何だか追い詰められていたかのように響きますが? それが
★ 集団の熱狂に変貌しつつあるのかもしれません。
☆ 何ですって? 最近おぼえた言葉で言えば もとはしづかな《萌え》であったのが 派手な《燃え》に変わったということでしょうか? 変わって来ているということでしょうか?
たぶん いまでもどちらもあるのでしょうが 萌えだけでは 存在感がうすいといったことでしょうか?
そうしますと
★ 「サブカルに見る社会問題の警鐘」
☆ は どうなりましょうか。
★ 最近の一つの例として「右傾化した若者たちの花王不買運動」がありました。・・・
☆ になるのでしょうか?
★ これは、「グローバル化によるエムアンドエーへの反発」の内在化の曖昧さ回避の行動という認識をしています。
☆ 要するに 《萌えは萌えとしてよいが ただ黙っているだけでは それもだめだ。行動するのだ》といったところなのでしょうか?
★ ~~~~
技術や知識の融合をこころみたところで、深い部分で融合されなければ
(つまり損得抜きな信頼関係において共通の目的を目指すことができるか
ということですが)、
~~~~~~
☆ といったことですと 例によってその用語を使うとすると スサノヲ庶民の言葉の通用する世界に根差した信頼関係やそれにもとづく文化でなくてはだめだと。そういう声を挙げはじめた。
★ ~~~~
また、その目的そのものが、そもそもサロン的目的化してしまわないかと
いう面もあります。こういう傾向が加速すると、さらに社内が機能独立化
していき、目指す目的がますますみえにくくなってしまいます。
~~~~~~
☆ 小さな集団として内向きでまとまってしまうのもダメだ。内と外との区別〔だけ〕で 自分たちの同一性を見い出すようではまだダメなのだと。
そもそも草の根スサノヲ市民は 進取の気風に富んでいるものだ。誰が何と言おうと言うことを聞かんというくらいに 突き進むものである。小さくまとまるなかれと。
★ ~~~~~
これを批判的立場でとらえるとすると、
(1) ます、人間を育てる機会をのがしてしまい、そこから発生する
負の連鎖による社会コストは膨らみます。
(2) また、全体からみた知的財産や技術は成長して膨らむどころか、
縮小していく方向に進みます。
~~~~~~~
☆ この二点については どうでしょう? M&A によってことごとくこのような弊害がもたらされるかと言うと わたしはそうでもないように思いますが いづれにしても問題はあるだろうといったところでしょうか?
すでに育った人間たちが 自分たちのほうから M&A を求め そこまで育てた会社を売り払ってしまい 自分たちはまた 別の課題に取り組むということだってあると思いますし。
おそらく《サブカル》も フタが明けば もっと大胆に振る舞うでしょう。とひとこと多い反応で お応えします。
No.18
- 回答日時:
はい、お考えはだいたいわかりました。
何回もありがとうございます。
コンプライアンス不況というのは、やはり新自由主義の言い分だと
思います。メディアの問題は確かにあると思いますが。
規制(お二階さんのとりきめ)というのは、やはり短期的な経済性
だけを考えて決めるものであってはならないと思います。
今これから日本が飲み込まれようとしている市場原理は、必ずしも
長期的な消費者の健康や安全を考えてはいないのです。
利益を長期的に考えるほど普遍的倫理に近づきます。そもそも、
それが法律ですから。
グローバル化が進むと企業は利益を追求するあまり、顧客利益の目線
にたった創造ができなくなります。そうなると市場が読めずに結果
として、ものが売れず労働価値がさがりデフレをまねきとなり、
言い分としてコンプライアンス不況といいたくもなるでしょう。
視聴率が取れないメディアも同じいいわけしてましたよ。
原発問題なんかも考えるとよくわかりますよね。
今の規制の全てが、今の世の中にあっているとまではいいませんが、
こういう時代は特に原理的に倫理的に慎重に考えたほうがいいと思い
ますけど。
ながながと、たくさんおつきあいくださってすいません。
勉強させていただきました、ありがとうございました。
いつ閉めてもらってもかまいませんよ。
ご回答をありがとうございます。
書き込まれている議論は 大政奉還論としてのフタのはづれとは別の 現場に即した技術的・手続き的な各論だと思います。
もちろん細かく短期的な課題に対応するのではなく 長期的な視野に立って基本的な理論を持って大きく対応するべきだとはおっしゃっています。そのご主張には賛成です。賛成ですが その議論にやはり大きくさらにかぶせるようにして このような長期・対・短期のたたかいも フタ取りゲームの結果いかんにかかっているとも見るわけです。
長期的で人間の生活に根差した理論とは やはりスサノヲ人間語を――練り上げつつ磨きつつ――活かした思惟と経験からもたらされると考えます。
だとすると 逆立ちしている A-S 連関制なるフタをはづして 逆立ちの逆立ちを実現すること これが 基本の基本になると思われます。
言いかえると TPP やあるいは安全保障の問題などなどで アメリカと交渉しなければなりませんが そのアメリカを説得することができるというのは もっとも長期の視野をとれば 日本がまづ――おそらく世界に先駆けて――このフタはづしに成功したというときです。
それまでは 言い方を落とすことによってみづからの品格を落とすかたちで言ってしまえば 小手先の議論に終始するのではないか? 討論をし互いの国益をかけてたたかうというパイの配分に過ぎない問題に終わるのではないかと見ます。というより 悪貨は良貨を駆逐するのごとく 《短期》に押し切られてしまうでしょう。
経済の発展にまだ希望がのこっていたときには それでもよかった。そろそろ
★ こういう時代は特に原理的に倫理的に慎重に考えたほうがいいと思いますけど。
☆ になるかと考えます。
メディアと言えば 先ほど 逆立ちの逆立ちと言いましたが このメディアを洗脳しなければならないでしょうね。つまりは すでに逆立ちによって洗脳されていますから この洗脳の洗脳をしなければならない。アマテラス公務員を《われに還らせる》ことと このマスコミの《洗脳返し》と どちらが むつかしいでしょう? どっちもですって? そりゃぁ そうなんでしょうね。凝り固まっているのでしょうね。
こういうときには 《愛》のお話もいいでしょうけれど むしろ《美》が一点突破に有効であるかも知れません。なでしこジャパンの世界カップ優勝も 美といえば美なるひとつの作品でしたね。ただしその運営や人間関係が逆立ちしたままのアマテラス語体制のもとにあるとしたら 一瞬のあだ花に終わるかも知れません。
縄文の火焔型土器には スサノヲ語のいきほひという うつくしさがあると思いましたが あまり賛同を得られませんでした。評判がわるいというのでもないのでしょうか。あるいは おまえ(=ぶらじゅろんぬ)がそれを言うなという牽制が含まれていましょうか。まあ ここまで嫌われたら このままさらに突っ走りますが。
いましばらく開いたままにします。
No.17
- 回答日時:
日本においては、階級闘争は成功しないといいたいのです。
違法建築の問題についても、もともとは規制緩和から発生した
問題です。日本は地震が多い国です。
だから他の国にくらべれば自由度は低いですが、しかし風土に
もとづく規制という縛りの中でだからできる発想や知恵はある
はずなんです、それがコミュニティのアイデンティティです。
空気というのは確かに規制のような役割をしますが、それを
無視したら公共の利益がひっくりかえってしまいます。
国民背番号制には、私も反対です。
今の情報技術をもってすれば、理論的に必要ありませんし、
それよりも、セキュリティ性の高い公共のオフライン物流
システム(郵便)は、今後のネットセキュリティシステムを
構築する際にも補完的役割として重要になるに違いないと踏
んでいます。たぶん年金問題で必要となりそうなOCR技術も
そこが一番進んでいるかもしれません。
長期的な展望においても、規制の置換には慎重になるべき
だと思います。
今はスピーディーにとかリーダーシップ十分条件論で世論を
あおっていますが、それが空気を支配しているのなら、
もっと世論が逆に監視をするべきでしょう。
ご回答をありがとうございます。
★ 日本においては、階級闘争は成功しないといいたいのです。
☆☆(No.8お礼欄) ~~~~
おまけ:
だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。
逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。
だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。
☆☆(No.8補足欄) ~~~~~
〔* 欧米のような〕競争型社会においては その社会でのアマテラス公民とスサノヲ市民とのあいだは その連関制が けっきょくこれも競争・闘争型になるようです。A-S 連関制がその上下が回転(レヲ゛リューション)します。
そして〔* 日本のような〕対話型社会では この回転は ないようです。くにゆづりのあと ゆづりっぱなしです。
~~~~~~~~~~~~~~~
★ 違法建築の問題についても、もともとは規制緩和から発生した問題です。・・・
☆ いえ 緩和か規制の強化かの是非やあるいはそもそもの成立の事情について言っているのではありません。強化へと変わったときに どのような要因なり理由なりが取り上げられたかの問題です。中で クウキが大きく取り上げられているという問題です。風土や技術の問題を超えているのではないかとさえ思わせるという問題です。
ちょうどいまその話題についてほかのところで書き込みがあったのをお借りしまして:
○ コンプライアンス不況
▼ (クウキが法律の改正をうながしたこと) ~~~
建築基準法改正当時の「空気」については、以下の証言がある。
「法改正にかかわった元慶應義塾大学教授の村上周三・建築環境・省エネルギー機構理事長は国交省不況に対する批判に対してこう反論する。
『姉歯事件の後、国会もメディアも日本中がヒステリックに
建物の安全を求めていた。今になって規制が強すぎだと批判
されるが、皆が規制を求めたあの空気の中でどうすればよか
ったのか』
」日経ビジネス2008年5月12日
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ 国民背番号制には、私も反対です。・・・
☆ これは 必要か否かのみを問題としています。必要だとなれば それでもその設置を阻止しようとする黒幕としての力がクウキとなっているのではないかと言っているのみです。必要でないとなれば 忘れてください。筋違いの例示をしたことになりますので。
技術がどうシステムがこうという問題としては取り上げていません。
階級闘争をせずその意味での政治革命をも取らないとすれば どのようにフタがはづれるか?
まづクウキとして アマテラス公民の《支配》は終わったとする流れが現われましょう。そうしてさらに このようなクウキとして人びとの共通の理解が得られるというかたちは もう古いという議論が湧き上がりましょう。
そのような過程において 或る時点で どんでん返しが起こりましょう。
あとは しかるべき手続きを踏んで アマテラス圏からスサノヲ圏への《大政奉還》が成し遂げられましょう。
(別にこのようなことを いつも考えているわけではありません。しかるべき経過をたどって あとは成るように成りましょう。自然史過程をあゆむと見ています)。
このフタがはづれなければ リーダーシップ論もへちまもない。このようにさえ考えます。
No.16
- 回答日時:
自由化の盲点についてですが。
「もっと自由を」と叫ぶ、声の大きさは、既に自由化されているということです。
声の大きさが競争原理である以上、蓋ははずれないのが道理です
若い人には大志を持ってほしいですが、その為にもコミュニティーを持続可能に
しておかなくてはならないのです。
ご回答をありがとうございます。
自由化の問題は――つまり規制緩和にしろあるいはむしろ逆に規制強化にしろ―― いまわたしとしては、まったく考えていません。
その上でご返答しますが わたしの見方は こうです。
☆☆(No.15お礼欄) 自由化をしようがしまいが 蓋がそのまま覆いかぶさっているなら 情況は変わらないでしょう。
☆ つまり 自由化と《フタが外れること》とは何の関係もないと見ています。
違法建築でしたか きわめて杜撰な設計やら建築技法やらでひどいマンションの実態が明るみに出た。そのあと 法律順守を声高にさけぶ意見が挙がってコンプライアンスが求められました。その結果 なかなか家やビルが建たなくなった。コンプライアンス不況であると。
これも クウキが支配したそうです。
ぎゃくに コイズミ・エコノミックスによれば 自由化が為されたわけですが これも 経済事実としての後押しもとうぜんあってでしょうが そのようなクウキに世の中がなってしまった。
つまりは 規制の緩和も強化も 社会全体のクウキによって左右される部分がかなり大きい。
言いかえると この《クウキ》が フタです。
スサノヲ市民圏の中から出た意見や思潮の場合でも まづはお二階さんの協議を経てそのお墨付きが得られれば クウキが成立します。上からどうのこうのと言っていることについて 下の人びとの世論が後押しすれば それでお墨付きが得られた格好となります。
つまり スサノヲ市民も 決して放ったらかしにされているわけではないけれど 要はお二階さんの意向にしたがって クウキがかたちづくられ これに人びとは従うことになる。
これは 民主主義的であって よいことのように思われますが 問題は緩和にせよ強化にせよ 行き過ぎる場合です。あるいはまた 行き過ぎない場合でもけっきょく同じように 人びとの協議というときの中身が そのときの勢いつまりクウキに流されてしまうことがありはすまいかという点だと思われます。
あるいは 国民共通番号制などは いくら議論をしても 最後に待ったがかけられる。これは ウラの世界からの黒いクウキではないかとうたがわれます。
既得権益はまもられるべしという黒いクウキは まだ健在であるようです。
こういったフタが 問題だと見ます。
はづれませんか?
★ 若い人には大志を持ってほしいですが、その為にもコミュニティーを持続可能にしておかなくてはならないのです。
☆ 社会の存続は この今の情況・いまの国家財政あるいは国際関係にあっても同じく国家財政の危機などなどの情況をかかえる段階に来ると フタをはづさない限り 見込みはなさそうだという見立てです。
やがておそらくアマテラス当局は 握っていた操縦桿から手を離すようになるかも分かりません。それでも お二階にとどまろうとするかも知れません。という状態を思うならば フタがはづれないかぎり 突破口は見い出せないと思われます。
スサノヲ市民たちよ くにの経営は きみたちにまかせたいとかれらが言う前に スサノヲ市民らは そろそろおれたちに何もかもをまかせなさいと言ってやるのがよいと考えます。
No.15
- 回答日時:
1。
はいわば、組織の公共心で2。はコミュニティーの公共心です
1。の場合は、私企業、公組織とわず、本来は自分達の為ではなく、
顧客の利益を作り出すことを考えなければならないのですが、
前述したように、サロン化する程、それは難しくなるのが道理です。
特に日本の風土は、そうなりがちです。(他の国も追随してくると思いますが)
公組織は公僕精神で自らそれを補っていけばいいのですが(三権分立もあるし)、
私企業もわずかにPL法などの規制がありますが、
フラットな市場に目をリセットすることは、なかなかできないでしょう。
現在も日本の中でも、さらなる自由化を訴える人がいますが。
その全てが自己実現を妨害された閉塞間に反抗している人というわけでなく、
どちらかというと、そういう目的意識を失ってしまった組織への苛立ちをかかえる
正義感の人が殆どではないでしょうか。そして自由化はサロンの目を覚ます力に
なるだろう希望をもっているのだと思います。
でも、それは誤りだと言いたいのです。
自由化はサロン化をさらに深刻に進めるだけです。
足下を見えるようにするのが一番の近道だといいたいのです。
ご回答をありがとうございます。
★ 自然でいいぢゃないか
☆ と《もっと自由に》とは 同じことですよ。特には規制に反対しそれを取っ払おうという意味は考えていません。一般論ないし総論として言っています。そのあとに規制をどうしようかという問題が来ます。
★★ ~~~~~
★ ~~~~~~
若いときに、あんまり変にどっちかに偏って教育しなくても
自然でいいんじゃないかと思ったのです。
~~~~~~~~~
☆ 自由に。もっと自由に。もっともっと自由に。さらに自由に。と。
~~~~~~~~
☆ つまり
★ 自由化
☆ は考えていません。いまの議論においてはです。
英語を幼いころから話せるようにするか それともあとでよいと考えるか。この問い求めに際して いづれの方法をも容れる自由で行けばよいのではないかと言ったまでです。
★ ~~~~
自由化はサロン化をさらに深刻に進めるだけです。
足下を見えるようにするのが一番の近道だといいたいのです。
~~~~~~
☆ 《サロン化》の問題は アマテラス語世界という覆いつまり蓋をどうするかの問題だと見ます。自由化とは別であろうと。
《足下を見えるようにする》のも 蓋を取っ払えばそれで済むとさえ見ています。自由化をしようがしまいが 蓋がそのまま覆いかぶさっているなら 情況は変わらないでしょう。
この《蓋》は おおきく日本という国にかぶさっていると見ますが それだけではなく その規模を小さくした相似形が 組織という組織 集団という集団の到るところに出来上がっている。こう見ます。クウキという問題でもあります。
そのフタが取れれば あとは おのづから スサノヲ市民らは躍り上がって 自由に振る舞うでしょう。けんかしながら 社会をあらためてかたちづくり直して行きましょう。それでおしまいです。現代人が当面する課題としては それでおしまいです。
No.14
- 回答日時:
公共心なんていうのは、本来は他人への共感みたいなもので
「そんなことしたらかわいそうだな」とか、誰もがもってい
るものが、視野が広がるにつれて少しづつ広がりをみせる様
な、ごく自然な感情からはじまるわけなんだけど。
1。ある共通の目標の為にという、近代的スポーツ的公共心
2。コミュニティの為、村社会的公共心
現代は二極化が進み社会も混乱してますから、本来は
1(外側の公共の利益の為)に近くならなければならないはずが、
2(内側の利益)に近くなってしまったり
2(足下の内側の利益を考えなくてはならないのに)
1(自己実現的に外側にばかり目がいってしまったり)
とちぐはぐになっていますし、今は特にこういう時代ですから、
若いときに、あんまり変にどっちかに偏って教育しなくても
自然でいいんじゃないかと思ったのです。
ご回答をありがとうございます。
そのとおりだと思いますよ。
★ ~~~~
公共心なんていうのは、本来は他人への共感みたいなもので
「そんなことしたらかわいそうだな」とか、誰もがもってい
るものが、視野が広がるにつれて少しづつ広がりをみせる様
な、ごく自然な感情からはじまるわけなんだけど。
~~~~~~
☆ 仲間であることの感じから始まって その仲間意識――これは fellow-feeling などとしてA.スミスか誰かの書物にも出ていたと思います――となり 友情あるいは愛情という概念として持たれ さらに抽象化されて倫理規範にまで高められる。つまりは スサノヲ人間語から アマテラス学術語へと抽象化されるのだと見ます。自然から 非自然としての文化へと。
○ 自分のして欲しくないことは 人にもするな。あるいは 自分のして欲しいと思うことを 人にもおこなえ。
☆ といったごとくに。
ただし このアマテラス学術語ないしアマテラス人格語は けっきょくあくまで抽象化した概念とすでになってしまっているしろものなのですから それを知っているからと言って 立派な人間が出来たわけではなく むしろ知ったばっかりに その知識〔のみ〕を重要視してしまいがちでもあります。
他我が 社会性においては 愛であるとか何とか言っていますね。精神的充足が大事だとか何とか。こんなことは 小学生でもいちどおぼえれば誰でも言えることです。アマテラス普遍語を知識として持つことくらいは 序の口です。
したがって 慈悲とは どういう経験現実であるのか? とか 愛とは どこまで人間にとって実践しうる意志行為であるのか? などという問いを わたしたちは一人ひとりがおのれの文体としてかたちづくって行くしか道はないものと考えます。それぞれ考えもあり方法もあるでしょう。またその成果を このような質疑応答の場でも提出しあって 互いに啓発していけばよいのだと考えます。
それを 紋切型の説教で回答するなどというのは もってのほかです。
次の一点に対しては 反対します。
★ ~~~~
・・・本来は
1(外側の公共の利益の為)に近くならなければならないはずが、
~~~~~~
☆ このように当為の議論として話をすすめると なかなか自由な意見が出なくなってしまいます。もともと アマテラス人格語は いわばただの骨格を示しているだけだとも考えられるわけですから――抽象化された結果ただ骨だけを示しているに過ぎないとも捉えられるわけですから―― 一人ひとりが実地に肉づけをして行かねばなりません。つまりは やはりスサノヲ人間語として・スサノヲ人間語の基礎に立って 肉づけをしなくてはなりません。
つまりは これこれのはずなのに そうはならなかったというような事例は もともと出て来てあたりまえだとして構えていなくてはならないと思われます。
つまりは いつでも 一から始めればよいという覚悟でいるとよいのではないでしょうか? スサノヲ人間語は どこまで行っても ふんぞり返ることは出来ないように出来ているようです。
昔 積み木くづしということが話題となりました。アマテラス科学語ないしアマテラス人格語〔だけ〕で建てた城は 砂の城だというわけです。一から始めなければならなくなります。
そういう意味合いにおいて
★ ~~~~
若いときに、あんまり変にどっちかに偏って教育しなくても
自然でいいんじゃないかと思ったのです。
~~~~~~
☆ の意味を捉えています。
自由に。もっと自由に。もっともっと自由に。さらに自由に。と。
スーパーフラット状態は あんがいその素地が成っているのではないかと考えます。
No.13
- 回答日時:
時代という川の流れに、飲み込まれていくのは運命
の様なものですが、しかしそうであれば「公共心」は
相対的なものであるから実社会で身につければいいこと
ですが、人間の基礎の減価償却しない部分については、
やはり大人の責任だと思いますよ。
だからどっちかっていうと「実学」に傾くのも反対です。
外国語も会話重視は反対です。読み書きヒヤリングは前倒し
できるし、国語文法とのタイミングに併せて文法の方がいい
気がするんですけど、どうなんでしょうね。
できれば、子供の時代は尊敬して信頼できる他人の大人と
出会えた方がいいと思うんですけどね。
なんか、かわいそうですよね
ご回答をありがとうございます。
投稿ほやほやですね。
そうですね。
反応をそのままつづってまいります。ぶっきらぼう丸出しにて。
★ 時代という川の流れに、飲み込まれていくのは運命の様なものですが
☆ これはですね。この世は 必然の王国というくらいですから 自由にあたらしいことを思いついても 過去からの必然の河の流れに棹差さなければ何ごとも たしかに 実現がかなわないでしょうね。
ただし その必然性というのは あんがい人には分からないものです。何が必然の流れなのか それは長期的にみれば 分からないものです。
《ものの片寄り・曲がり(クリナメン) あるいは ひねくれものの出現》というひとつの道筋もあるやに思われます。
言いかえると 事後的に流れを分析・検証して これこれが必然の道だったと分かるのであって 事前にはなかなか分からないものだとも思います。ベトナム戦争のときに ベトナムの共産主義化は 時代の必然であると言われていました。じじつ北ベトナムの共産党が勝利を博しましたが 経済制度としては 話が違って来ました。コミュニズムという思想は 或る程度まで・或るところまで 歴史の大きな必然の流れだったのでしょう。
そのような意味で あらがい難い流れがあっても それは一時的なものに終わるということもじゅうぶん考えられますし 事前にはなかなか分からないし決めつけがたい こう考えます。
★ ~~~~
「公共心」は
相対的なものであるから実社会で身につければいいこと
ですが、人間の基礎の減価償却しない部分については、
やはり大人の責任だと思いますよ。
~~~~~~
☆ いえ じつは この見解にはわたしは真っ向から反対です。自由にさせればよい。このひと言が わたしの見解です。なぜなら わたしは わたしの文体としてその自己表現の動態を生きている。それこそが 責任と言うのなら責任だと考えるからです。
子どもに対しては まちがったことについては その場でそのつど おしえてやる必要があるとは考えます。身でも心でもおぼえて行けるように。
★ ~~~~
だからどっちかっていうと「実学」に傾くのも反対です。
外国語も会話重視は反対です。読み書きヒヤリングは前倒し
できるし、国語文法とのタイミングに併せて文法の方がいい
気がするんですけど、どうなんでしょうね。
~~~~~~
☆ わたしはこの問題については それぞれの考えに従ってやる。つまり やはり自由という見解を持ちます。小さいころから話し言葉で外国語にしたしむのもいいであろうし 文法をしっかりとまなぶという方式もよいだろう。こう考えます。
★ 「実学」に傾くのも反対です。
☆ いくらか社会見学や社会体験などなど実地のものごとをまなんでおくのもよいと思いますが この《傾くのは反対》に賛成です。数学や理科一般について 将来あまりかかわらないと思われる場合でも 基礎をまなぶのがよいと考えます。そりゃあ 度量がちがってくると思われますから。
日本語については やはりこの場合は会話は要りませんから 文法をしっかりとまなぶ必要があると考えます。そうすると ほかの外国語の文の成り立ちがよく分かります。日本語は その点特殊であって ほかのどの言語に対してもいわば出発点となっていて 幅広くその応用が効く成り立ちをしていると考えるからです。
(ハ格とガ格の構文などなどですが そしてそのような特徴がこれまでにも取り上げられ論じられて来ていますが そのもっとも納得の行く説明をしたのは まだわたしの仮説のほかに見たことがありません。そのわたしの見解として 日本語の文の成り立ちをしっかりと会得すると 万能鍵のごとくううんと役に立つと考えるからです)。
★ ~~~~
できれば、子供の時代は尊敬して信頼できる他人の大人と
出会えた方がいいと思うんですけどね。
~~~~~~
☆ わたしの喧伝する日本のるねさんすに対してもそうでしたが 悲観的な見解が多いですね。
立派な大人に出会えることは いいことですし あるいはまた たとえ出会えなかったとしても 出会えた場合と同等に大人になって立派な人間になることは じゅうぶん出来ます。心配ご無用だと思いますが どうでしょう?
どうでしょう?
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