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授業の内容がどうにも理解できず以下の内容が分かる方ご教授頂けないでしょうか。

1、西洋によるアジア侵略の衝撃を受け、中国と日本はそれぞれ違う道を歩んだのか。朝鮮を植民地にしようとした日本は、伝統の礼秩序を維持しようとした中国の間に何が起こり、それによって、東アジア諸国の関係はどのように変化したのか。

2、対華21か条の要求から、満州事変、日中戦争への突入に至る日本の侵略拡大において、日本のアジア主義はどのように変質したのか。日中関係にどのような影響を与えたのか。

分かりやすくまとめたつもりですが、分からない部分があればご質問よろしくお願い致します。

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A 回答 (4件)

中国と日本だけを見て、日中関係を認識するのは不可能です。

そういう時代は、邪馬台国の卑弥呼の時代で終わっています。

特に近代においては、南下政策をとるロシア帝国を無視して日中関係を理解しようというアプローチはナンセンスの極みというほかない。
現在、ロシア領の沿海州と呼ばれている地域は歴史的には外満州と呼ばれ、騎馬遊牧民族や北方少数民族が住む土地でした。清の時代には清の領土だったのです。一貫して漢民族の領土だったわけではないが、清の時代には中国の領土になっていたという話です。その外満州が1858年にアイグン条約によって清とロシアの共同管理地に定められます。それまでロシア帝国はバルカン半島方面の南下政策を推進してきましたが、1853年から1856年にかけてのクリミア戦争で英仏を味方につけたオスマン帝国に破れ、南下政策の矛先をバルカン半島方面から極東方面に切り替えたといったことなのです。ロシアはバルカン半島方面で南下しすぎて英仏が持つ利権と激突する羽目に陥った。それが英仏がオスマン帝国側で露土戦争に介入した理由です。英仏を敵に回しては勝てないと察したロシアはそれから極東方面に眼を向けた。その手始めがアイグン条約なのです。さらに2年後には北京条約を強要して、外満州をロシア領にしてしまいます。共同管理地というのは一時の方便で、侵略を既成事実化する為の方便だったのです。ロシアはまったく同じ手口で樺太も侵略しました。1855年の日露和親条約で樺太はこれまで通り、両国民の混住の地と定められて明確な国境線は引かれませんでした。しかし江戸時代を通して樺太アイヌが居住する南樺太は、松前藩が統治していたのです。樺太は北部・中部がウイルタ・ニブフなどの北方少数民族が居住し、南部が樺太アイヌが居住していました。そのように樺太は外満州と似た地域事情で狩猟・遊牧を伝統的生業とする原住民はついに近代国家を形成しなかった土地柄でありました。しかし弱小大名に過ぎない松前氏に無頼のロシア人の樺太侵略を食い止める力はありません。それは幕末の徳川幕府にとっても同じことでした。徳川幕府は日露和親条約でお茶を濁すしかなかったわけです。明治維新で明治政府が樺太に眼を向けたときは既に手遅れで、日本は1875年の樺太千島交換条約でロシアの樺太侵略を容認せざるを得ませんでした。ロシアの強大さと歴史的経緯を知らない当時の日本国民は樺太千島交換条約を屈辱的な売国政策だと非難しましたが、北海道さえ寒くて開拓していなかった当時の日本に樺太を防衛することは所詮不可能だったのです。元々、寒冷な国土で育ったロシア人にとっては樺太でさえ温暖な気候に感じられるのに対して、寒がりの大和民族に樺太で暮らすことなど不可能です。北海道でさえ冬の寒さに耐え切れず、開拓団から夜逃げする農民が後を立たなかった。江戸時代は大和民族が樺太で越年する時は松前奉行に越年届けを出すしきたりがあったぐらいです。そういうことを知らない無知蒙昧な日本国民は、むざむざと領土をロシアに売り渡す売国奴だ、国賊だと当時の政治家を罵倒したのです。

日中関係を理解するには、ロシアの南下政策だけでなく、話の通じない愚かな日本世論も理解する必要があります。

日本と清は李氏朝鮮で甲午農民戦争を機に対立を深め、日清戦争に至ります。[伝統の礼秩序を維持しようとした中国]と教えている教師もいるのかも知れませんが、伝統の礼秩序などとっくの昔に破綻しています。アヘン戦争、アロー戦争、清仏戦争と清は連戦連敗で、英仏との外交のトラブルにロシアに便乗されてアイグン条約、北京条約で外満州を失っていた。維持するも何も伝統の礼秩序が欧米列強に通用しないことははっきりしていたのです。それを性懲りも無く清は李氏朝鮮の宗主国という面子に拘った。しかし日本にも面子はあった。そういう対立が日清戦争なのです。

ところが皮肉なことにそれがロシアに乗じられることになってしまった。三国干渉で独仏を誘ってロシアは遼東半島を清に返還させた。ロシアはその見返りに内満州での鉄道敷設権、遼東半島の旅順・大連の租借権を清から獲得したのです。南下政策をとるロシア帝国を無視して日中関係を理解しようというアプローチは当時の日本も侵した過ちだったのです。

ロシアは、1894年の露仏同盟でフランスを味方につけて、フランスの資本と技術支援でシベリア鉄道敷設を推進しました。沿海州のウラジオストクがシベリア鉄道でモスクワと直結するだけでも日本の安全保証が脅かされるというのに、旅順・大連まで結ばれたら、日本の独立は風前の灯と呼ぶほかはない。

無知蒙昧な日本国民は勝った勝ったとはしゃいでいたけど、実際には日清戦争は血を流してロシアの南下政策を助けた愚かな外交政策の失敗でありました。その失敗を取り返すことが日露戦争の意義だったのです。

日露戦争はそれだけでなく樺太千島交換条約で手放した南樺太も奪回するという成果を挙げました。ロシアの極東方面への南下政策をくじいたのは大変な外交政策の成果であったにもかかわらず、無責任なマスコミは賠償金が取れなかったことを指摘して、屈辱外交だ、小村寿太郎は売国奴だと罵倒し、無知蒙昧な日本国民は暴徒と化して日比谷焼き討ち事件を起こしました。露土戦争で散々露西亜に煮え湯を飲まされ続けていたオスマン帝国は日本の快挙に手放しの賛辞を送った。またそれが欧米列強から日本が認められることになり、不平等条約の改正の成功にもつながったのです。

ところが日露戦争で極東方面の南下政策を放棄したロシアは再び、バルカン半島方面の南下政策を推進し、それがバルカン戦争、第一次世界大戦の原因となり、日英同盟でイギリスに世話になった日本は国際社会の荒波にもまれることになる。

ちなみに日露戦争では清は我関せずと何もしませんでしたが、日本人は血を流して内満州に駐留するロシア軍を追い払ったことが、日本国民に内満州を清が放棄するなら、代わりに日本人が進出しても良いのではないかという感情を起こすことにつながったのです。

こういった歴史的経緯があるにもかかわらず、日本の侵略とはなんたる言い草なのでしょうか。日露戦争で血を流して内満州をロシアの侵略から守ったのは中国人だったのでしょうか。それとも日本人だったのでしょうか。

江戸時代260年も鎖国をしていた日本の外交政策は稚拙なもので、百戦錬磨、海千山千の狡猾なロシア外交に比べて幼稚極まりない単純な政策で、必ずしも成功ばかりだったわけではありません。日清戦争という表向きは勝利を収めたにもかかわらず結果的に大失敗だったこともあります。しかし国際社会の荒波の中で、ロシアの南下政策に対抗しようとして精一杯頑張った歴史は率直に評価しなければならないだろうとも考えています。

私は質問者さんが受けた授業は受講していないので、実際のところ何を吹き込まれたかは承知していません。しかしながら、日本の偏った歴史学はデタラメなのだと断じてはばからないのが私の立場です。
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この回答へのお礼

遅くなりました!
詳しく記述して下さってありがとうございました!

お礼日時:2012/07/20 20:56

片方だけから考察すると、そのような授業内容にになるのでしょう。


#1回答者:misawajp さんの回答の通りですね、授業内容が理解
出来ない、疑問に思うのは、多角的な物の見方をされている質問者様
であれば自然な姿かと・・・

団塊の生まれである私は、戦争の体験は有りません、母と祖父は、
関東軍が逃げた満州から、8ヶ月かかって徒歩で命空柄、帰国して
来ました。
その二人を含めた、引揚者の話と、自分なりに学習した事を併せて
考察すると、#2回答者:hekiyu さんの回答に概ね賛同します。
負の遺産が今も問題になりますが、人間の歴史はこれの繰り返しで
無くなりませんです。
明治生まれの祖父の人生の大半は戦争でした、その祖父が「戦争は
いかん、日本の庶民も戦争の犠牲者なのだから」と言い残して、
亡くなりました。
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この回答へのお礼

遅くなり申し訳ありません><
確かにちょっと疑問が多く残る講義だったので質問させて頂いた次第です。

ご回答ありがとうございました^^

お礼日時:2012/07/20 20:55

1,中国は曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らが


  洋務運動を押し進めようとしましたが、
  内部の権力闘争などで足を引っ張られ、上手く行きませんでした。
  それに対して、日本は成功しました。
  違い、といえば、そんな処でしょう。

  日本は朝鮮を植民地にしませんでしたよ。
  朝鮮から頼まれて併合しただけです。
 
  尚、日清戦争は朝鮮半島を巡る戦いでしたが
  日本は朝鮮を独立させようとしました。
  その意図は、独立させないとロシアに占領される
  しまう怖れがあったからです。

  あそこは日本とは目と鼻の先の隣国です。
  半島にロシアの軍事基地が出来たら、日本の安全保障
  はどうなるか、子供にも判ることです。
  半島を中国の属国にさせたままでおいては、朝鮮は
  ロシアに占領されてしまいます。
  それを阻止するために、日清戦争を起こしたのです。
  中国は、独立させたのでは、属国が失われ為、渋々
  戦争に応じました。

  日露戦争も、その延長と言えるでしょう。
  日韓併合はその仕上げです。
  だから日本は赤字を出してまで、教育港湾などの
  インフラを懸命に整えて、韓国を強化しようとしました。

  このお陰で、今の韓国があります。
  これは、戦後、日本を防共の防波堤にすべく、米国が経済援助
  したのと同じ図式です。

2,変質などしていません。
  露寇事件、アヘン戦争、日清日露戦争、大東亜戦争
  と、日本は一環して、西洋列強の
  侵略に備え、戦ってきたのです。
  日本があの大東亜戦争を起こさなかったら、満州や
  半島はロシア領になっていて可能性が高いと思います。
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この回答へのお礼

遅くなりました!詳しいご回答ありがとうございました^^

お礼日時:2012/07/20 20:53

質問者が偏見を持ってまとめたのか、教師が偏見を持って授業を進めたのか



偏見過多、自虐史観に毒さたあまりにも表面的過ぎる受取り方です
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。多少違うところはあれどそのままの言い方です。

お礼日時:2012/01/22 23:37

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Q中国について

中国と日本のつながりは何なのでしょうか?
それと、中国との貿易国ってどこですか?
中国の産業についても教えてください。

Aベストアンサー

 初めまして まず中国の貿易について
 輸出相手国は香港(国内としなければ)、日本、アメリカが多いですね。
 輸入相手国は日本、アメリカ、韓国、香港などです。

 輸出品目は機械類、衣類、繊維品が中心です。
 輸入品目は機械類、繊維品、今は鉄鋼が増えています。

 産業ですが世界の工場というだけあっていろんな分野で盛んです。
 生産量世界一の物はテレビ、カメラ、自動二輪車、ミシン、洗濯機、自転車、電話機等があります。中には国内向けでどうしても数が多いのもありますが。
 鉱業では石炭、鉄鉱石の生産が世界一位です。

 農業がすごいですね。
 りんご、なし、トマト、キャベツ、葉タバコ、米、小麦、サツマイモなどが一位、もしくはトップレベルです。他にもありますが。
 羊、やぎ、豚、馬、鶏の頭数それぞれ世界一です。すごいですね。それぞれの肉の生産、鶏卵の生産も世界1位です。
 中国と日本のつながりは、、、各分野でかなり密接です、、、としか、、、。

 ちなみに中国と貿易していない国ですがこれはつまり台湾と国交を結んでいる国が基本的だと思いますが(どちらとも貿易している事もよくありますが)。
 韓国も台湾と断交し、中国と国交していますが貿易しているでしょう。
 現在は台湾から中国に経済的な理由で乗り換えるのが世界的な流れですがアフリカのサントメプリンシペなど中国と断交し台湾に乗り換えたケースもあります。経済優先??のため?だといいますが。

 
 

 初めまして まず中国の貿易について
 輸出相手国は香港(国内としなければ)、日本、アメリカが多いですね。
 輸入相手国は日本、アメリカ、韓国、香港などです。

 輸出品目は機械類、衣類、繊維品が中心です。
 輸入品目は機械類、繊維品、今は鉄鋼が増えています。

 産業ですが世界の工場というだけあっていろんな分野で盛んです。
 生産量世界一の物はテレビ、カメラ、自動二輪車、ミシン、洗濯機、自転車、電話機等があります。中には国内向けでどうしても数が多いのもありますが。
 鉱...続きを読む

Q中国と日本の歴史的力関係

現在、中国のGDPは日本を抜き、世界2位となりましたが、
全体的な総合力を考えれば、日本の方が若干成熟しているのかなと考えています

しかし、今日の日本文化を考える際、
過去、中国からの影響(文化・思想・技術など)を多大に受けてきたことを、
忘れてはいけないと思います
そこで、過去の中国と日本の力関係とはどのような変遷を辿ってきたのか、
ご教示いただけたらと思います

私の現在の主観的な認識は以下のようなものです

「以前は、中国(隋、唐など)の方が力が上で、
それに対して日本が従属(植民地という意味ではない)していたが、
徐々に、日本の国力も向上していた
その力関係に大きな変化が生じるきっかけとなったのは、
明治維新による欧米文化との接触であり、
そこから、中国に対して日本が追い上げ、世界大戦を経て、
日本は経済大国となり、力関係を逆転させた
ただし現在は、市場開放政策の影響もあり、中国が日本を猛烈に追い上げており、
数年後は再び中国が上位に戻る可能性が極めて高い」


専門の方からすれば突っ込みどころ満載だと思うのですが、
よろしくお願いします。

現在、中国のGDPは日本を抜き、世界2位となりましたが、
全体的な総合力を考えれば、日本の方が若干成熟しているのかなと考えています

しかし、今日の日本文化を考える際、
過去、中国からの影響(文化・思想・技術など)を多大に受けてきたことを、
忘れてはいけないと思います
そこで、過去の中国と日本の力関係とはどのような変遷を辿ってきたのか、
ご教示いただけたらと思います

私の現在の主観的な認識は以下のようなものです

「以前は、中国(隋、唐など)の方が力が上で、
それに対して日本が従属...続きを読む

Aベストアンサー

 何かイデオロギッシュな珍答もあるようですが、この質問では「文化」と「国力なる不明な定義」が混同して使われている部分に問題があります。
 表立っての「国交」は菅原道真の思い込みで一時的に頓挫した事実はありますが、国家対国家の関係など民間での交易や文化交流に比べれば微々たるものです。
 中国からの影響が1868年以前の殆どに及んでいる事実に対し、スペイン・ポルトガルそしてオランダが中心となった南蛮との出会いは信長より少し以前に始まり、徳川政権下ならば三代から七代までは殆ど門戸を閉ざされてもいます。そして西洋との邂逅は19世紀初頭を待つ以外にはありません。
 むろん「個別レベル」としての藩単位ならば松前等の事例もありますが、その藩単位ですらも民間には遅れをとるケースも多い。
 あの徳川が支配のモデルとしたのは間違いなく儒教それも朱子学的規範です。「文化」と言うと一般には「目に見える具体的な事物」に着目しがちですが、実際の「文化」は社会構造の土台を構築する「精神文化」や「政治文化」といった深層を流れる「思想」の方が影響としては、より大きい効果を持つといえます。
 明治維新を乱暴な表現で括るなら、当時は未だ前近代構造の上に成り立っていたアジアに対し、俄作りで西欧化した日本がドヤ顔で上がり込んでいった形です。その俄作りも政治システムおよび社会構造においては江戸時代の残滓を引きずったハリボテにも似た形で、西洋からすれば「どっちもどっち」で、生産工場とマーケットの規模からすれば広大な国土を有する中国に「より多くの魅力」を感じるのは当然でしょう。
 ただ現在の中国が現実的に抱える問題は「バブルがいつ崩壊するか」との懸念と「格差」であり、文化の問題は毛沢東により、日本がかつて経験した「廃仏毀釈」により既に崩壊状態です。
 豊かな議論の土壌を有したかつての百家争鳴の名残はどこにもなく、また戦後日本が模倣したアメリカ文化のコピーを更にコピーしているだけでオリジナリティはどこにもなくなってしまいました。従って、現在の中国が持つのは「単なる拝金思想」だけとしか形容しようがありません。
 現在の中国はもはや「清朝末期」と同じでしょうね。BRCISといっても現実にはR(ロシア)だけが超大国として存続する可能性を持っているだけでしょう。
 かつて「経済一流、政治は二流」と揶揄された日本同様、中国も「財布の中身も危うく、文化は背筋が凍る」状態でしょう。その両者をどの基準で比較するのかとの部分が欠落し、意図的に混同させているため、答の出しようがない、というのが正答でしょう。
 日本も一部の跳ね上がりが復古調を礼賛していることも同じで、困ったものです。未成熟ですねアジアは。

 何かイデオロギッシュな珍答もあるようですが、この質問では「文化」と「国力なる不明な定義」が混同して使われている部分に問題があります。
 表立っての「国交」は菅原道真の思い込みで一時的に頓挫した事実はありますが、国家対国家の関係など民間での交易や文化交流に比べれば微々たるものです。
 中国からの影響が1868年以前の殆どに及んでいる事実に対し、スペイン・ポルトガルそしてオランダが中心となった南蛮との出会いは信長より少し以前に始まり、徳川政権下ならば三代から七代までは殆ど門戸...続きを読む

Q日本文化における中国の影響

日本文化における中国の影響について質問させて頂きます

古代、日本は中国の文化(思想・技術など)に大きな影響を受け、
現在の日本文化の礎が築かれたと私は考えています
もちろん、土着的な文化もあったと思いますが、当時の国力差から考えると、
中国文化の方が先進的で、より魅力的であったのではないでしょうか

よって、日本文化は中国の文化に大きな影響を受けている以上、
日本特有の文化といえども、その起源には何かしら中国文化の影響力やが残っている場合が多いといえます
この場合、日本文化とはどこからどこまでの範囲を指すのでしょうか?

グローバル化に伴い、「わび」「さび」の日本文化が称賛されることが多くなり、
日本人自身にも、日本文化への表面的な回帰も見られます
しかし、合理化が進む我々の実生活の中で、これらの日本文化に基づいた生活を送っている人は、
少ないと思います(どちらかというと日本びいきの外国人のほうが多い気がします)

やや話がずれてしまいましたが、日本文化における中国文化の影響、
そして、日本文化とは一体何を指し、他の文化と区別する意味は一体何のためなのか、
教えていただければと思います

近年、ネットを中心に、中国や韓国を忌避する傾向が強くなり、
日本の文化は、日本固有な崇高な文化であり、中国や韓国といった国々からの影響は少なかった、
という意見も少なからず見られます

しかし、私としては、中立的な立場で、日本文化はどこから到来し、どのように発展してきたか、
歴史的事実として興味があり、このような質問をさせて頂きました
盲目的な日本文化への賛美や懐古にはやや疑問も感じます
私としては、そのなぜその文化を賛美したり、懐古するのか、
その文化的背景や根拠を知りたいのです

散文となりましたが、ご回答よろしくお願いします。

日本文化における中国の影響について質問させて頂きます

古代、日本は中国の文化(思想・技術など)に大きな影響を受け、
現在の日本文化の礎が築かれたと私は考えています
もちろん、土着的な文化もあったと思いますが、当時の国力差から考えると、
中国文化の方が先進的で、より魅力的であったのではないでしょうか

よって、日本文化は中国の文化に大きな影響を受けている以上、
日本特有の文化といえども、その起源には何かしら中国文化の影響力やが残っている場合が多いといえます
この場合、日本文化とはど...続きを読む

Aベストアンサー

>日本文化における中国文化の影響、
そして、日本文化とは一体何を指し、他の文化と区別する意味は一体何のためなのか、
教えていただければと思います


「文化」というのは、そもそもの元をたどればオリジナルは決して多くはありません。せいぜい古代の4台文明ぐらいが文化の発祥といえるぐらいでしょう。後は、アメリカ大陸のマヤ民族やネイティブ・アメリカンあたりが独自の文化でしょうか。

そうなると、中国の周辺である、日本や朝鮮半島・モンゴル・ベトナムは中国の文化圏ですし、タイやインドも影響を受けている、と言えます。しかしベトナムならベトナムの文化がありますし、モンゴルにも日本にも「独自」と言われる文化があります。

文化がその当時の先進的な国から伝わってくるさい、必ず起きる変化があります。それは流入-受容-改良です。
 流入とは、日本が遣隋使を送ったように求めて輸入するものもあれば、中国の漢民族が満州族に征服された清の時代の辮髪のように、強制的に文化を押し付けられる場合もあります。
 そして、その流入から2世代から3世代経つ頃には、その文化が一般的になり疑問を感じないようになったころに「受容」が完成すると言えます。
 しかし、元々他の地域の他の文化ですから、そのままでは利用しにくく、受容したもののそれを自分たちの文化や気候・生活スタイルなどに合わせて「改良」していくようになります。

そしてこの「改良」がひとつの形になったときが、その民族や地域の文化の形ができた、ということになるのが一般的です。

たとえば日本の場合、飛鳥時代から平安時代まで大陸の文化を輸入し、受容しつづけてきました。法律は律令制を倣い、宗教は仏教、文字は漢文と当時の大国である隋や唐を手本に受容し続けたといえます。まあ、仏教はインドから隋が受容したものですが・・

ところがこれをそのままにしておくと、日本の風土に合わないものが出てきます。たとえば律令制などはすぐに良くない影響がでました。そもそも律令制を維持するためには、国内の優秀な人材を集め活用するために科挙が一緒にくっついてくるはずなのですが、日本の場合すでに天皇を頂点とした貴族階層があり、彼らが行政を握っていましたので、科挙で庶民を活用することはできなかったのです。

そのため、法律的に可能な部分だけ律令を取り入れ、制度的に受け入れられない部分は日本の風土に合わせたものに変革しました。
これは明治憲法などでも同じことがおきており、そもそも憲法を作るときに西洋各国の憲法から国家元首の権力の強いワイマール憲法を参考にしたと言われています。
つまり流入と受容そのものに、取捨選択があるのです。

また文字についても、輸入した文字をそのまま利用してる民族はほとんどありません。たとえば世界最古の文字と呼ばれる楔文字はシュメール人が開発したものですが、シュメール人はこれをひらがなのように音節文字として利用していました。これを受容したアッカド人は中国語と同様、音節と意味が一体になっている表語文字として利用できるように工夫し、さらにアッカド語を受容したヒッタイトでは音節文字として利用したために、日本語の漢字・仮名の書き分けというか、万葉仮名の書き分けのような複雑な法則で記されることになったようです。
アルファベットを使っている西洋諸国でもドイツのウムラウトのように独自の文字を足したり、記号を利用したりして自国語を表記するのに改良しています。

この「楔文字」ひとつとっても、発明したシュメール・表語文字にしたアッカド・さらに複雑に受容したヒッタイトのように、それぞれの民族の文字といえるほどに変化しています。これがそれぞれの文化になるわけで、「楔文字だからぜんぶシュメール文化」という乱暴な区分けはできないのです。


これらの法則にしたがって、中国文化を受容し改良した日本をどこで区分けするかと言う点については、大体平安時代が区切りとなってその後は日本文化としての改良になっている、といえるでしょう。そして明治維新前後の西洋文明の受容があり、その改良は現在も続いているといえます。

個別に中国文化から日本文化に切り替わった時点を見てみると
・政治権力 5世紀には中国の皇帝に朝貢し、その威光を借りて権力に正当性をつけていたが、100年ほど朝貢が中断した後、再開された遣隋使では、有名な「日出ところの天子・・」という文章があり、この時点で大和朝廷が、大陸の後ろ盾がなくても国の権力を収めていることが伺えます。
 このときの隋の煬帝は返書で「皇帝問倭皇 使人長吏大禮・・・」と倭皇(王ではない)と認めており、政治権力としては日本の文化的独立が6世紀には成立していた、と言えさらにその王朝が現在まで存続していることを考えれば天皇制と天皇の勅許で政権を開く権力構造は「日本文化」と認定しても良いと思います。

・政治制度 日本の王朝は6世紀に成立したとして、しかし遣隋使を派遣することで仏教や法律・建築学・天文学そしてその他の学問を吸収し始めたわけですから、この時点で日本の文化がすべて独立していたと見ることは無理があります。
 政治制度については、この時点から律令法を学び始め、平安時代に大宝律令として完成を見ます。この大宝律令には律令を支えるはずの科挙がなく、またそれ以外にも換骨奪胎したものが多くありましたので、中国の法律を学びながらも日本の風土に合う改良がくわえられていたと言えます。この程度では「文化」とはいえませんが、それから30年程度で「墾田永年私財法」ができ、律令の本筋から離れていきます。
これを「改良」というかはともかく、日本的な風土に合わせた変化とこの法律がやがて武士の発生を促したことを考え合わせれば、8世紀の中庸には日本的な法律文化が形成され始めていた、といえるでしょう。
なお、この墾田永年私財法の法的概念はその後の日本の法律に強く影響を与え、現在でも土地収用に時間と費用がかかる原因になっています。「文化」というのそれぐらいの影響があって初めて「独自の文化」といえるのではないでしょうか。

・宗教 7世紀の大化の改新については一定の疑問があるものの、嵩仏派の蘇我入鹿一派が勝利し、仏教受容に動いたことは間違いなさそうです。これにより日本は「国策」として仏教を輸入しついでに学問も輸入していきます。仏教の受容から1世紀経った8世紀ごろから、各地で神宮寺が建てられるようになっていきます。つまり神社に付随したお寺を建てると言う方法です。
 これには国策となった仏教と、各地の豪族がそれまで信仰していた地域の神とを習合させるものであり、この結果日本は神と仏が同列に並ぶ宗教体系を得ることになりました。この改良を「神仏習合」と呼ぶのですが、これ以降の日本の宗教観は世界のどことも似ていない独自の文化になっていきます。
 しかし、習合自体はそれほど珍しいことではなく、たとえば古代ローマは多神教で各地に道祖神の祠が立っていたものを、ローマがキリスト教を国教化した後、道祖神をキリスト教の聖人になぞらえて、祠を維持したという例もあります。これはキリスト教でもイタリアにしかない独特の文化でしょう。

・学問 まず文字については、万葉仮名からひらがな・かたなかが開発され日本語を表記する形式が整った時点で「日本文化」と言うべきでしょう。その後、源氏物語などの宮廷文学も生まれています。
 それ以外の学問に関しては平安時代までに大学寮が設置され、数学や天文学・薬学・法学などを学べるようになりましたが、基本的には大陸の書物を中心にしていたようです。
 それが武家政権の鎌倉幕府以降は、もともと庶民である武士階級を中心に学校が開かれるようになり(足利学校など)必要なことを教えるようになっていきました。しかし、江戸時代まで四書五経が中心でしたので、江戸時代の中庸、和算の発達などの例外を除けば、学問が独自の文化として定着したかについては、学問ごとに見るしかないのかも知れません。
 しかし、逆に面白いのは雅楽や宮廷作法などの平安時代までに大陸から輸入されたものが、大陸では長い間に消失し、日本にだけ古来の姿で残っている、ということです。(韓国にもありますが、遺産としてです)
これを日本文化とみるか、大陸の遺産と見るかは難しいところです。

これらをみてみると、どの国、地域でも文化が周辺の大国から流れてくるのは間違いの無い事実でしょう。しかし、それをそのまま受容している国家や民族というのはほとんどなく、いずれその地域の風土や生活スタイル・道徳観などと触れ合って、変容していくものです。
その変容が一定のスタイルとしてその民族に世代を超えて伝えられるようになったときが「文化」なのだと思います。

現代でもアニメーションなどは外国で開発された手法であるのに、すでに受容してから100年以上経ち、手塚治や富野 由悠季・宮崎駿などの天才たちを通して日本的なアニメになっています。これは明らかにディズニーアニメとは違いますし、他の国でまねしても同じものが作れるわけではありません。
アニメ自体が日本的な手法や考え方、そしてそれらを産業として支える仕組みによって、独自のものになっているからです。

こういうのを「オリジナルの文化」っていうんじゃないでしょうか。

>日本文化における中国文化の影響、
そして、日本文化とは一体何を指し、他の文化と区別する意味は一体何のためなのか、
教えていただければと思います


「文化」というのは、そもそもの元をたどればオリジナルは決して多くはありません。せいぜい古代の4台文明ぐらいが文化の発祥といえるぐらいでしょう。後は、アメリカ大陸のマヤ民族やネイティブ・アメリカンあたりが独自の文化でしょうか。

そうなると、中国の周辺である、日本や朝鮮半島・モンゴル・ベトナムは中国の文化圏ですし、タイやインドも影響を...続きを読む


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