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昔清朝をたてた満州族は300万人程度しかおらず、当時の明は
3億人くらい人口があったそうですが、歴史の本を読んでもなぜ
1%程度の人口で満州族が征服できたのか、いまだに不思議です。
いくら明の国内が疲弊していたとはいえ。
モンゴルも同じですが、なぜ北方民族はこういうことが可能なのでしょうか。
秀吉が20万近い鉄砲で武装した精兵で朝鮮をせめても、撤兵せざるを
えなかったですよね。
ちかくには日中戦争でも日本軍は苦戦しましたし。

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A 回答 (9件)

色々理由はありますが、簡単に書くと・・・


1.明が一つにまとまっていなかったから。
2.優れた指導者が明におらず、清には優れた指導者がいたから。
3.清軍が分裂した勢力をうまく取り込んだから。
4.清が明より民衆に優しく、民衆としては自分やその家族が暮らしやすくなったから。

明が一つになって清に対抗できていれば、清が明を倒す事などできませんでした。
しかし、あまりに明の腐敗が酷く重税で民衆を苦しめており、あちらこちらで大規模な反乱が起きました。
しかも、兵士に与える筈の給金、食料までが上官に不正に搾取されるなどして、兵士達が反乱に加わっています。
明の宮廷では清との戦いや反乱軍鎮圧のための軍費を賄うために、民に臨時の重税をかけ、それに反発した民衆が反乱を起こし、それを鎮圧するために新たな軍の徴集と新たな税が取り立てられるという、重税、軍拡、反乱という最悪の悪循環の拡大再生産が繰り広げられました。
つまり、この時、明は軍の全てを清軍にあてる事ができなかったのです。
また、明の第17代皇帝の崇禎帝が有能な人材を処断してしまったという失敗もありました。
名将の袁崇煥を処刑したのは大きな失敗でした。

「袁崇煥」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E5%B4%87% …

そして反乱が拡大していき明の軍が反乱軍に敗北し首都北京も攻められた結果、明の第17代皇帝、崇禎帝は李自成率いる反乱軍の前に自殺します。
つまり、この時、明は内憂外患の状態であり、清軍が首都に攻めてくる前に、既に首都は反乱軍に占領され、皇帝は死亡していたのです。

そして清と対峙していた明の呉三桂将軍は、皇帝の死を知った結果、明を見限り敵対していた清軍に味方しました。もともと清軍は呉三桂を味方に引き入れるために、大きな褒美を申し出ていたようです。実際、後に呉三桂将軍は大きな領地と地位を得ています。
他の明の将軍の中にも呉三桂将軍のように清に味方するものが出ました。
皇帝が死に反乱軍が首都を占領したとあっては、自分とその部下達の身の振り方を考えねばなりません。清での新たな成功と生活を望んだというところでしょう。
なお、清軍は明と戦う時に兵士に「抵抗しない者は殺すな。捕虜から衣服をはぐな。女を奪うな」という命令を出したり、首都北京に入った時も、兵士に民家への立ち入りを禁止して略奪を戒めたり、明の官吏に対してはその身分の保証をしました。
さらに占領した後の政策としては民衆に対して税の大きな軽減を行っています。明の時は臨時の税が何種類もありましたが、それを全て廃止し、税自体の軽減も行いました。
つまり、民衆にとっては明の時代より住みやすく、生活しやすくなりましたし、官吏も身分を保証され安堵しました。
これでは抵抗の意思も鈍ろうというものです。

首都を占領した反乱軍は李自成が皇帝となり順王朝を始めますが、呉三桂将軍らに攻められ倒されます。
明を回復しようという動きは南部にいた明の王族を中心にありましたが、圧制により民衆の支持が得られなかった事もあり、呉三桂将軍や元明軍の将軍とその部隊が主力となって平定していきます。

つまり、腐敗して内部分裂を起こしていた明を清がうまく料理したというところです。
もし、呉三桂将軍らの元明軍が味方しなければ、清の中国制圧はかなり難しくなったでしょう。
もしかしたら失敗したかもしれません。
味方に引き入れる事に成功した清の方策が旨くいったというところです。

ところでモンゴルが中国を制圧した時は、中国は西夏、金、宋の三ヶ国に分裂しており、やはり一つにまとまっていませんでした。
モンゴルはそれを利用して、互いに争わせたりして、各国の力を弱め制圧していきました。
金を滅ぼした時は、宋と共同で攻撃しています。モンゴルは一カ国づつ料理していきました。

いつの時代にも中国の北には常に北方民族がいます。しかし、全ての時代で全ての北方民族が中国を支配化に置いてきたわけではありません。成功する時は必ずと言っていいほど、その時の中国が数カ国に分かれているとか、内部分裂などしており、そこにつけこんでいます。

なお、呉三桂将軍が清に味方した事については、女性が原因であるという話があります。
陳円円という好きな女性がいたけれど、首都北京を占領した反乱軍の将軍に奪われ、それに怒った呉三柱将軍は清に味方する事にしたという話です。
「陳円円」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%86%86% …
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この回答へのお礼

わかりやすい長文のご回答、大変ありがとうございまいた。

お礼日時:2012/02/03 10:22

 モンゴルも満州族も含め,北方の遊牧民は狩りをして生活しています。

馬に乗って矢を射るなど,農耕民にとってはかなり訓練してもなかなかできない難事ですが,遊牧民は日々それをやっている(そのような技能がなければ生きていくことは不可能)ため,遊牧民の生活は毎日が軍事教練と同じようなものです。
 そんな遊牧民と農耕民(漢民族など)が戦った場合,古代から人間の数では農耕民の方が圧倒的に多かったはずですが,いわばボクシングのプロと素人が戦うようなものですので,10倍くらいの兵力差は容易に跳ね返してしまいます。
 中国王朝が健全に機能しているときは,北方に対し万全の防衛体制を敷いたり,政略で遊牧民の間に仲間割れを起こさせたりして,北方民族が侵攻してくることの無いように様々な対策を講じているのですが(逆に言うと,中国王朝の全盛時でも北方民族は警戒しなければならない相手だったのです),中国王朝が内乱や腐敗などで衰退してくると,北方民族に対する十分な警戒が出来なくなり,侵入や征服を許してしまうことになります。
 もっとも,漢民族の文化の素晴らしさは北方民族の比ではなく,北方民族が中国の土地を占領しても,いつの間にか漢民族の文化に溶け込んでしまい,中国全土を占領する頃には,北方民族出身の支配者も自分達は漢民族だと思い込むようになってしまい,漢民族に同化してしまいます。そういう観点で見ると,中国の歴史はほとんど北方民族による侵略と漢民族への同化の繰り返しです。
 その中でもモンゴルと満州族が特別視されるのは,彼らは征服のスピードが非常に速く,完全に漢民族に同化する前に中国全土の征服に成功したことによります。
 これに対し,日本人は農耕民族であり,中国人に比べ特に戦闘能力が高かったわけではありませんから,中国に戦争を仕掛けても通常は数の差で惨敗してしまいます。例外は日清戦争ですが,あれは政治や軍の近代化が進んでいた国とそうでない国の差です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大相撲でも日本人力士はモンゴル力士にかないませんから
納得です。

お礼日時:2012/02/03 10:25

 歴代の中国王朝が北方民族に支配される場合には以下の法則性があります



(1)既王朝内部が騒乱状態にある
(2)軍閥の弱体化
(3)特定宗教団体の影響力の拡大
(4)既王朝に対する敵意が浸透している
(5)飢餓・疫病などの物理的国内の疲弊状態

 これらの状況を利用して征服することが可能だった、というのが実情でしょう

さて、誤解されているようですが、北方民族の征服は、彼ら独力で為されることは皆無です。

簡単にいえば、
 侵攻する北方民族を支援・味方する漢民族・内通者が存在するからこそ征服が可能だと思うのが現実的でしょう。

 実際モンゴルを代表として、北方民族は概して篭城戦を苦手として局地的には、征服できなかった地域が散見される現実もあります。
 これらの征服できなかった地域は、補給線上の危険性がない限りは、強行突破(スルー)して王朝の要衝地だけを征服するのが一般的です。
 北方民族は、面的支配の必要性の高い補給の問題が少ないがゆえ、上記のような要衝だけを抑える侵攻方法を採用できるようです。(要は線上の支配で十分だったわけです。)

 そして、ある程度要所を支配してから、既王朝を支配することで、政治箇所の支配を行い、その後、命令・指示系統の麻痺に応じて、周辺を蹂躙する・・・・という形態が多く確認されます。

 このような戦術展開の根底にあるのは、離反者を厚く遇する人事制度によって、内通・離反者を確保しえた背景があるでしょう。
極端にいえば、徹底抗戦する敵兵・敵軍は徹底的に(非戦闘員まで)虐殺し、その逆に、内通・離反者には、本領安堵・報奨を与えるなどを行うことによって、「敵対するよりも味方についたほうが実利がある」と理解させることに努めていたことが大きいように思われます。

 儒教・道教的な倫理・道徳では、忠誠心が重視されますが、北方民族たちのような利害関係に実直な人事では、既王朝では厚遇されなかった人材が嬉々として北方民族に内通した、と史料も指摘しています。


 逆に、内通者が少なかった南宋末期は、元王朝の支配拡大速度が落ちていることなどを考えれば、征服の根底には、内通者・離反者の協力が多大であった、というべきでしょう

なお、このような傾向は、中華に限らず諸外国に見られる傾向であって、人口差・軍事力差よりも「人心把握力が国防力」というのが近代以前の国防の本質と見るのが妥当でしょう。
(もちろん極大化した軍事技術の優劣が決定因子になりえるでしょうが、それだけでは限界は早いでしょう)


ちなみに、史料を見る限りは、北方民族の戦術展開には必ず敵方に逃げ道を用意する傾向があり、敵兵を死兵(死に物狂いで戦闘する兵士)化しような配慮などが行われていることも特筆するべきでしょう。

なお、一般的に、北方民族の侵攻にはある種の法則性があって、
威力偵察行動によって敵方に自軍戦力を認識させてあらかじめ、徹底抗戦か?降伏か?という選択の余地を残すような傾向が多くみられます。
威力偵察行動の後、敵方が交戦の意思があれば、蹂躙するわけですが、農耕民族の民衆支配に対して政治配慮の感覚がない彼らは、徹底的に略奪・虐殺を実施します・
そのような戦果を大きく喧伝することで、侵攻先の降伏を誘発するなどの「戦わずして勝つ」という展開が多く史料上で確認できます。

農耕民族的な軍事感覚では理解できない論理・展開から、様々な戦術的ミスマッチを含めて蹂躙されてしまう・・というのが大きな視座で指摘できそうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。法則性大変分かりやすかったです。

お礼日時:2012/02/03 10:23

民族・国家・宗教etc,,,は、非常に恣意的で不合理なモノです。


その時代、地域によって複雑に入り組んだ人と人との感情が入り乱れた結果生まれた「差別」。
よって、その時々に民族なんてのは変わります。

例えば、ヒトラーは「アーリア人のみが優れた血統だ」という「アーリア主義」なんてのを掲げました。
しかし、「アーリア人=今のドイツ人」なんて根拠はどこにもない。
むしろ、考古学や人類学などでは否定される証拠のが多い。
でも、ヒトラーのアーリア主義は多くのドイツ人を魅了しました。
それは何故かといえば、ヒトラーがそう国民を教育したからです。(あるいは、そう信じないもには不利益をもたらす。つまり脅しで反対意見を抑えつける)

※アーリア人(=白人)という意味で、現ヨーロッパ人の共通の祖先だと設定されたもの。
そして、ドイツ人のみが最も純血なアーリア人だと主張したのがヒトラーです

そもそも、民族という言葉の定義も曖昧なものです。
ざっくり大きく分けても次のように定義つけることができます。

・文化・風習などを共有する団体(ethnic group)

同種の文化・風習・伝統などを共有する集団。
必ずしも統一された政治的公的共同体を形成する必要はない。
また、多くの場合はあまり意識されることはない。
ただ、別の文化・風習・伝統などを共有する集団を目の当たりにした時に、意識上に現れてくる。
世界の地域を区別する時に、よく指標として用いられる(アジア(東南アジア・東アジアなど下層分類もできる)・ヨーロッパ・北米etc,,,)


・政治的血縁的共同体意識(nation)

こちらは、上記とは逆に自らが属する国家・宗教・血縁関係などが強く意識され共有された集団。
そこには、自分たちの属する集団以外を排斥したり蔑視したりしようという意識がある。
古代ギリシアなんかでは、自分たち以外をバルバロイと呼び区別したし、中国でも「夷狄」という考えはあった。
また、宗教の違いから民族の違いを意識する場合も多々ある。
ヨーロッパでのユダヤ・キリスト・イスラム教の関係や、インドのヒンドゥー教と仏教の関係、日本の仏教と神道の関係なども、民族問題といえる。
さらに、近代以降に国民国家という意識が芽生えてくると、「国民=同一民族」でなければならないといったような極端で偏狭な思想なども現れる。

得てして、歴史が物語れる時は後者の意味合いが強いことが多い用に思います。
つまり、誰かが都合よく「ethnic group」的なものを印象操作し「nation」をつくる。
もちろん、「誰か」というのは独裁者であることもあれば、特定の人物ではなく、社会全体の意思だったりします。
つまり、「民族(とくにnation)」は、恣意的なモノなので、その裏側に隠された意図を読み解くことが必要になります。

満州族で言えば、昔の史料に出てくる女真族の末裔ではないかと言われています。
しかし、それを証明することは非常に困難です。
というのも、歴史というのは散逸的に残る歴史史料(多くは文字史料、たまに物)を分析して作られる物語です。
物語である以上、誰かがなんらかの意図を持って語っているわけです。
つまり、本当に当時3億人の人口がいて、為政者はその1%にしか満たない満州族が牛耳っていたのか、(遺伝子的には同じでも)一部のエリート層が他人を差別するために「満州族」をでっち上げたのかは分からないでしょうね。

※遺伝子分析でも使えば解析できるかもしれませんが、現段階では「民族差別につながる」という理由でタブー視されていますし。

でわでわ、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変参考になりました。

お礼日時:2012/02/03 10:17

すみません。

気持ち的に書き足らないので、また回答させていただきます。

イギリスやフランス、スペインはどうして、世界中に植民地を得ることができたのか?
この回答は、秀吉、また江戸幕府がキリスト教を禁教にした理由でなぞが解けます。

私の記憶が正しければ、フロイスの日本史に書かれていたのですが、

日本人が船員に聞きました。
「何故、イギリスやフランスなどヨーロッパ諸国は、日本と同じくらいの領土なのに、世界中に領土を持ているのか?」
すると船員は、失言してしまいます。
「まず、宣教師をその国に派遣します。
そして人口の三分の一くらい信者が増えたところに、神の兵として我が国の軍隊を派遣します。戦うのは、その国の国民同士です。すると私たちは血を流すことなく、その国をおさめられるのです。」
それを聞いた日本人は大慌てで、秀吉に報告し、宣教師を日本から追い出したのです。

ちなみにその宣教師はカトリックでした。ヨーロッパの文化を受け入れたい家康は、カトリックと敵対するプロテスタントのオランダを貿易対象国にして、カトリックを牽制したそうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。私もその逸話を聞いてから
外来宗教の布教活動を避けています。

お礼日時:2012/02/03 10:16

個人的な考えですが、参考にしていただければ幸いです。



>1%程度の人口で満州族が征服できたのか

もし、今日本で反乱が起きて、他民族に政権が移ったなら、あなたは命を捨てて戦いますか?
政権が変わっても、あなたの周りの環境がさほど変化が無ければ、むしろ良くなるんだったら、たとえ他民族でも武器を持って戦わないでしょう。
明は疲弊しきっていて、役人の間では賄賂は常識で(現代もそうですが。)民には重税に継ぐ重税で、皆誰か反乱を起こしてくれないかな?と願っていた時に北方民族が取って変わったんでしょう。
島国の日本人の感覚では、受け入れられないかも知れませんが、他の回答者さんがおっしゃっているように、中国は陸続きでいろんな民族が混在している生活なのであります。「中国は中国人が治めなければならない!」というプライドはおそらく日本人よりも希薄かも知れません。まぁプライドを高く持っていても、いざ戦うとなると、私ならおそらく参加しないですね。
「誰が治めてもいいから、好きにやって、その代わり自分の身内に手を出したら承知しないぞ!」
って感じだと思います。

>呉三桂は明の有力な将軍だったのに、なんで自分の民族を裏切ったんでしょうか
不思議です。中国人は中華意識が強いそうですから、北方の蛮族に屈するなんて
たえられないでしょうに。落ち目でも明は100万人くらいの軍隊は動員できたと
思いますが。

豊臣秀吉の話が出たので、それを参考にすると、秀吉没後の関が原の合戦で、何故武将達は石田光成を裏切ったのか?
大儀名文を掲げるなら、家康につくはずがございません。確かに石田光成は人間的に魅力が無かったのかも知れませんが、秀吉の遺児は残っていました。それに、光成なんか武将たちにとって赤子同然です。今は陣頭をとらせていても、戦後は実力で政権を奪い取れば良いだけです。
単純に言うと、皆実力があり強い者にまかれたのです。誰しも命は捨てたくないし、家族は守りたい。負けた後は、自分のみならず、一族の生きる場所を失います。強者につくのは当然の心理だと思います。

>秀吉が20万近い鉄砲で武装した精兵で朝鮮をせめても、撤兵せざるを
えなかったですよね。
ちかくには日中戦争でも日本軍は苦戦しましたし。

それはまた別の理由です。秀吉以下武将たちは、地の利がありませんでした。それなのに、ただ、ただ、攻めろ!と命令されるばかりで、政略するビジョンもあったかどうか?武将たちも武功をあげることしか頭に無く、耳を狩ることに執着していました。
信長なら、耳の量で武功を判断するような馬鹿なマネは決してしなかったでしょうね。おそらく明智光秀にしたみたいに、統一されていない九州を褒美として渡すという感じで、数いる武将たちに「褒美は朝鮮半島だ!」って叫んでいたかも知れません。

日中戦争で苦戦したのも、あたり前です。あんなに広い土地をどうやって治めるのですか?
まぁ清は治めたじゃないか!と反論するかも知れませんが、それは清の兵士が強いのでは無く、日本人が横暴だったからです。中国人に自分達の文化を押し付けたのです。
自分の生活や家族を、一族の歴史をないがしろにされたら、私も武器を取って戦います。死んでもかまいません。子供や妻を守ることができたなら、自分一人でも犠牲になります。

中国人民を全て敵にまわすか、政府官僚だけ敵にまわしたかの違いだったんでは?
私はそう思います。長文ですみません。
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この回答へのお礼

複数ご回答ありがとうございます。確かに自分の身におきかえると、
そう思います。

お礼日時:2012/02/03 10:14

中華思想というのは、民族意識とは本来関係ない(民族という概念自体が、この200年程度の歴史的な概念)



中華文化の保有者が中国人であって、地理的に中国に住んでいる人間が中国人ということはない(すくなくとも、100年以上前は)
孫文が 三民主義とか大声で叫んだのは、みんなが気付いてなかったからです。

たとえ正統な王の息子でも刺青という中華文化を否定することをすれば、中国人ではない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)

呉三桂の意識では

明の皇帝 > 後金の王 > 農民一揆の首領 李自成

明の皇帝が農民一揆に殺されたなら、農民一揆の首領を倒すのがベターというのが呉三桂の判断。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。伝説では、恋人の陳円円が盗賊に
奪われたため、清側についたということですが、真実かは疑わしい
ところがあるようですね。

お礼日時:2012/02/03 10:01

清朝まで遡らなくても、アメリカのオキュパイ・ウォールストリート運動のように


1%が99%を支配するのは、現在でも見られる現象です。
日本も世襲の富裕層がカジノで遊んで100億円の大損とか、不条理がまかり通ってます。

また質問者さんが上で日本と中国のスケールの違いについて質問して、答えようとしたら
締め切られてしまったので、こちらに書いておきますが、日本の家康もあちらで評価されてるので、
そんなに卑下することもないかと思います。

中国で「徳川家康」が大人気、山岡荘八氏の著書、爆発的な売り上げ記録―英紙報道
小説「徳川家康」の中国での評価は高く、40社を超える中国メディアから「2008年度最優秀外国書籍」に
選ばれた。これほどの人気の原因は、ある評論家をして「家康の忍耐や知恵、軍事的策略や鉄の意志を
中国の若者は学んで欲しい」と言わしめるほどの、家康への共感にあるようだ。
http://www.recordchina.co.jp/group/g29282.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。山岡荘八作品は私も愛読していましたが、
今になって中国で大人気とは知りませんでした。

お礼日時:2012/02/03 09:39

なぜ満州族は中国を征服できたか。



近くに住んでいて、
■アタック回数が多いから。
■中国側協力者がいたから

成功して中国本土の王朝になったものだけが歴史で語られますが、「天高く馬肥ゆる秋」(今年も秋で、北方遊牧民が攻めてくるから気を付けよう)というように、毎年のアタックです。

またモンゴルはまずは、漢人(北方の金の支配下にあった中国人)を征服してから南人(南宋の中国人)を征服していますし、清も呉三桂が関を開いて、引き入れられて侵入しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
呉三桂は明の有力な将軍だったのに、なんで自分の民族を裏切ったんでしょうか
不思議です。中国人は中華意識が強いそうですから、北方の蛮族に屈するなんて
たえられないでしょうに。落ち目でも明は100万人くらいの軍隊は動員できたと
思いますが。

お礼日時:2012/01/27 11:56

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Q満州族と漢民族の顔

 一般に中国史で、満州族と漢民族の違いのような表現が
 出てきますが、われわれ日本人にとってはなかなかぴんときません。
 そこで質問です。
 いわゆる満州族とはどんな容貌の特徴があるのでしょうか? 
 漢民族はどういう特徴があるのでしょうか?
 もちろん個人差はあるでしょうが、それを度外視して
 いちがいに言って「こういう容貌」と言えるような特徴をご存知の方が
 あれば教えていただきたいと思います。
 (たとえば日本人から見れば、韓国人は(一概に言って)肌が薄く色白で
 体毛が薄くうりざね顔の美人系というような特徴です)
 さらに
 歴史上の部族、たとえば突厥、女真、鮮卑族などの容貌の
 特徴についてもご存知の方があれば、教えていただきたいと思います。
 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

wikiに少し載ってましたよ。

満州民族の最も顕著な(人種としての)特徴は、顔立ちがはっきりしており、目が小さく、一重瞼であるか二重であっても判別できないくらいのものである。眼の間隔が比較的近く、直鼻型、長方瞼型の人が比較的多く、肌の色は比較的浅い。もう1つの特徴は、B型の血液型が特に多いことで、総人口の40%前後を占める(漢族人中のB型の比率は、人口の20%強しか占めない)。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E6%97%8F#.E6.BA.80.E5.B7.9E.E6.B0.91.E6.97.8F.E3.81.AE.E7.89.B9.E5.BE.B4

Q女真族と朝鮮族の歴史の展開

女真族は中国史といってもいいくらい密接で支配されたり、逆に漢民族を支配することもあります。

朝鮮族はそれに比べて、清の属国説がありますが(私は検証してません)、自民族の歴史を展開してます。

やはり地理の差でしょうか。

また高句麗の時代は隋を撃退してますが、李氏朝鮮の時代は清に攻め込まれるれてます。

これも何か違うのでしょうか。

Aベストアンサー

No.2です
補足を頂戴しましたので、追加で説明させて頂きます。

>逆に遼は契丹人で、3民族は連動性があるとかいえ、なぜ契丹、女真はほぼ中国史で朝鮮族は半島の歴史っぽくなってしまうのかというところが議員です。

おそらく歴代の中国王朝にとって、平地が少なくて物なりの悪い半島地域には余り興味がなかったのではないのでしょうか。
おとなしく朝貢してくる限りは捨て置けという感覚だったのではないのでしょか。

高句麗との闘争も遼東地域の覇権争いです。
遼東地域は平坦で水も豊だったので、東北地方の覇権を狙うどの民族も狙っていたようです。

日本も日清戦争の後遼東半島を手に入れたものの列強の圧力で変換させられています。
日露戦争の際もロシアから離れた旅順で広瀬中佐が戦死して、尋常小学校の唱歌になりました。
大航海時代以降帝国主義の時代に到るまで、ヨーロッパ諸国も日本には興味を示しますが、なぜか半島には興味を示していません。
ザビエルも半島へは行かず薩摩に上陸しています。
小西行長の頼みで初めて宣教師を派遣しています。
朝鮮を併合した時にはさほど文句は言わなかったのに、満州となった途端に文句を付けてきました。

歴史的には、積極的に独自化したというよりも、結果として独自化したと考えた方が良いようです。
朝鮮民族も、もう少し海に興味を持っていれば歴史も変わっていたのではないのでしょうか。
やはり、北方から移動してきた騎馬民族のDNAですかね~

No.2です
補足を頂戴しましたので、追加で説明させて頂きます。

>逆に遼は契丹人で、3民族は連動性があるとかいえ、なぜ契丹、女真はほぼ中国史で朝鮮族は半島の歴史っぽくなってしまうのかというところが議員です。

おそらく歴代の中国王朝にとって、平地が少なくて物なりの悪い半島地域には余り興味がなかったのではないのでしょうか。
おとなしく朝貢してくる限りは捨て置けという感覚だったのではないのでしょか。

高句麗との闘争も遼東地域の覇権争いです。
遼東地域は平坦で水も豊だったので、東北地方...続きを読む

Q中国の今までの王朝の民族を教えてください 

中国の今までの王朝の民族を教えてください 

Aベストアンサー

■全土統一以来漢民族による朝代は漢と明のみではないでしょうか。
 歴代王朝の民族は、以下ご参考。

■たてまえの通説。
Wikipediaに詳細がありますが、要点は以下の通り。
部分引用しました。
・漢民族以外の民族による「征服王朝」とされているのは、
遼朝  916年 - 1125年 契丹人(キタイ人)
金朝 1115年 - 1234  女真族(ツングース系民族)
元朝 1271年 - 1368年  蒙古族(モンゴル高原を中心としたモンゴル語の民族)
清朝 1644年 - 1912年 満洲族(ツングース系民族)
  注:期間については学説により異論あり。
・五胡十六国時代の諸国や北朝は「浸透王朝」・・・全土を支配していなかった
  注:五胡十六国は304年の漢(前趙)の興起から439年の北魏による華北の
    統一まで。当時中国華北に分立興亡した民族・国家の総称。
    十六国とは北魏末期の史官崔鴻が私撰した『十六国春秋』にもとづき、
    実際の国数は16国を超える。詳細は、
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD
  この間参与した国名と始祖、民族名が頁の下部に一覧があります。
  漢族も含めて匈奴、羯、鮮卑、羌etc.多種あります。

■以上の他に他民族王朝説があるのが、
・秦朝 現青海省~新疆方面の西戎(西方にいた遊牧民族)、羌(きょう)族。
・隋・唐王朝も鮮卑拓跋部出身貴族の楊氏・李氏。
      漢人出身を主張するも紛糾した。
・宋の太祖趙匡胤は漢民族ではなく突厥(トルコ系)。

■更に、
有史以来、周の時期(秦朝以前)までは全国統一されていませんでしたので、
現在とは版図も国の概念も異なりますが、
中原を中心に、おおむね漢族が権威をもって成立した政治と見てよいでしょう。
もっとも、当時の長江沿岸以南は漢族とは言えず、文化の淵源も異なります。

■おまけです、
こうしてみると、5000年?の歴史で、
漢民族が治めたのは細部はともかく周の時代まで、
以降については、漢代、明代のみが漢族国家と私は考えています。
北方民族の蹂躙を受け続け侵入を許してきたのが実態で、
それに抗して成功したのは、漢の劉邦と明の朱元璋、一時成功しかけた
のが李自成、3人とも南方出身です。
そういうわけで「中国の英雄は南から出る」と言う中国人が
現在も結構居るのです。
好悪は措いて、毛沢東もどういうわけか南方の湖南省出身です。
更に、「代」を付すのは漢民族の漢代と明代のみ、
他は全て異民族で「朝」だと主張する中国人もいます。
このような環境で、漢民族の文化を堅持してきたということは驚嘆に
値します。おそらく、春秋時代の諸賢が築いた成果によると考えます。

参考:中国の歴史・・・丁寧にリンクを辿るといろいろ見えてきます。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2

■全土統一以来漢民族による朝代は漢と明のみではないでしょうか。
 歴代王朝の民族は、以下ご参考。

■たてまえの通説。
Wikipediaに詳細がありますが、要点は以下の通り。
部分引用しました。
・漢民族以外の民族による「征服王朝」とされているのは、
遼朝  916年 - 1125年 契丹人(キタイ人)
金朝 1115年 - 1234  女真族(ツングース系民族)
元朝 1271年 - 1368年  蒙古族(モンゴル高原を中心としたモンゴル語の民族)
清朝 1644年 - 1912年 満洲族(ツングース系民族)
  注:期間については...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Qモンゴル帝国の滅亡について

チンギスハンが興したモンゴル帝国はなぜあんな大きな帝国ができたのですか。その当時の国はどうして対抗できず滅んだのですか。また、これは教科書にもなかったのですが、なぜあんな巨大帝国が後に滅んだのですか。滅んだ過程がわかる方ぜひともお願いしますむ。中学や高校の教科書で断片的な知識しかなく、ぜひともお願いします。

Aベストアンサー

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができるのは精鋭くらいなもので、精鋭であっても錬度の面で馬上で生まれ馬上で死ぬ遊牧騎馬民族にはとてもかなわない)です。
また、都市という概念がないので食料とかもすべて(生きた状態で)持って移動していますから、「補給」という軍隊において最も重要で最も面倒くさく最も維持しにくいものを維持する必要がないため、桁外れの機動力を持ち合わせていました。
また、その機動力を余すことなく使用する戦術(代表的なものは偽装撤退。城攻めの必勝戦術でもありまして、相手に撤退すると見せかけて追い討ちさせ、それを迎え撃つという戦法です)を保有していました。
そのため、どんな強国でも優秀な指揮のもとで統制された遊牧騎馬民族にはかなわず、ホラズム(この国はモンゴル帝国の侵攻直前まで領土を拡張し続けており、決して弱い国ではないのです)や金も、敗北しています。ちなみに、この強弱関係がひっくり返るのは火器が積極的に導入されてからです。

しかし、滅びたのもまた遊牧騎馬民族である面が大きい、ともいえます。
遊牧騎馬民族というのは、都市の概念がないですから、そもそも「国」という概念が希薄です。
それをかなり変えたのはやはりチンギスなのですが、それでもモンゴルの伝統である末子相続(つまり末っ子が遺産を引き継ぐ)、そして後継はクリルタイという族長会議で決定(ただ、このクリルタイ、モンゴル帝国では2年くらいかかるんです・・・なにせ、あの広い領地から集まってくる上、このクリルタイも半分宴会みたいなものでして・・)というのがありました。
そのため、チンギスは生前に嫡子4人に領地を分配します。長男であるジュチ家(後のキプチャクハン国)、次男であるチャガタイ家、三男であるオゴタイ家、そして四男であり、モンゴル高原を直接的に保有するトゥルイ家です
そして、三男のオゴタイが継ぎました。しかし、その次が問題でして、グユクというのは酒癖も悪く評判が悪かったのですが、母親の根回しもありハーンとなりました。しかし、これを一番嫌ったのが長男家の当主で一族の長老であったバトゥ(また、四男家も、譲歩したとはいえ面白くはなかったようです。逆にグユクの側にいたのが次男家)。グユクは彼に暗殺されたとも言われています。
その後、トゥルイ家のモンケが継ぐのですが、これが面白くなかったのがチャガタイ家とオゴタイ家。このあたりから兄弟家の間での不和が表面化します。
そして、日本でも有名なフビライの代で分裂は決定的になります。彼は、いままでの方針を破って、全族を集めないで(支持者だけを集めて)クリルタイを行った上で即位、また即位を宣言した弟を倒して、ハーンとなりました。これが気に食わなかったのが長男、次男、三男の家。とくに三男の家当主であるハイドゥとは軍事衝突に発展しています。
そうなると、もうあとは各地の地方政権ですから、ほかの歴史上の国と同様、隣国、兄弟家同士でたたきあったり(オゴタイハン国はチャガタイハン国に叩かれて消滅)、支配民族が反乱を起こしたり、ほかの異民族に倒されたりで、消滅していきました。

また、モンゴルの政権といってもほとんどその妻は現地人のため、代を重ねるにつれどんどんモンゴル人から離れていって、しまいにはハーンがイスラム教徒になってハーン位を捨てたり、はてまたキリスト教に染まったり・・
そういう具合に、自然とその地に溶け込んで、消滅していったのです。

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができ...続きを読む

Q日本のミサイル防衛にTHAADが無いのは何故?

【ワシントン共同】米陸軍当局者は26日、米領グアムに配備した高性能の地上発射型迎撃システム「高高度防衛ミサイル」(THAAD)が完全な稼働状態に入ったことを明らかにした。との報道です。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130427/amr13042709290001-n1.htm
一方日本の場合イージス艦から発射するミサイルとPAC3でTHAADはありません。
日本の場合THAADは無くても良いのですか?


 

Aベストアンサー

>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

はい、必要ありません。

THAAD (Terminal High Altitude Area Defense) Missile は射程 200km、射高 40km~150km の地上発射型迎撃 Missile で、High Altitude Area Defense (高高度域防御) の部分だけを見て ICBM (Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道弾) をその頂点付近の宇宙空間で迎撃するかのように誤解されがちですが、Terminal (末端の/終末の) のいう言葉が示すように、目標に向かって高度を下げて大気圏 (成層圏よりも上の 40km~150km にある化学圏) に突入してきた最終段階での弾道弾を撃墜する Missile です。

一方、日本が Aegis 艦に搭載している SM3 (Standard Missile 3) 161B Block IA は射程 400km、射高 250km で、先端部が Kinetic 弾頭と呼ばれる高機動弾頭になっているように、空気のない大気圏外での超高速運動能力を持たせたものとなっていて、THAAD よりも高性能な Missile になっています。

http://www.youtube.com/watch?v=Clny6teU5ik&feature=youtu.be

最初に海上自衛隊に配備された「こんごう」の SM3 161B Block IA は高度 160km を飛行する模擬弾道弾の直撃撃墜に成功していますし、現在は日米共同開発になる Block IIA の地上試験を終えて来年に飛行試験、2018 年には現在の Block IA を Block IIA に置き換える予定になっています。

http://www.youtube.com/watch?v=A6CIu9fRk3k

地上発射型で射程が 200km しかない THAAD では幅数百km 長さ 2000km 余りの日本列島に数十基の発射機を配置しなければならず、何時 Terrorism だの過激な反対運動の前に壊されるか判ったものではないのに比べ、SM3 は部外者など近付けない Aegis 艦の中にありますし、相手国の Missle 発射機から 400km 以内の海域に派遣すれば 1 隻で事足ります。

相手国が日本に向けて発射する Missile の Course は決まっていますので、日本列島近海に配置する Aegis 艦の数も数隻あればよく、既に海上自衛隊は上記「こんごう」型 Aegis DDG (Missile 護衛艦) を 4 隻、次級の「あたご」型 Aegis DDG を 3 隻運用していますので、2~3 隻が定期整備中であっても常時 4~5 隻は緊急配備に就くことができるようになっています。

>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

はい、必要ありません。

THAAD (Terminal High Altitude Area Defense) Missile は射程 200km、射高 40km~150km の地上発射型迎撃 Missile で、High Altitude Area Defense (高高度域防御) の部分だけを見て ICBM (Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道弾) をその頂点付近の宇宙空間で迎撃するかのように誤解されがちですが、Terminal (末端の/終末の) のいう言葉が示すように、目標に向かって高度を下げて大気圏 (成層圏よりも上の 40km~150km ...続きを読む

Q在日韓国人などの人はなぜ祖国へ帰らないのですか?

よく在日韓国人の人は日本人と交わりたがらないくせに権利ばかり主張しているように思います、そんな彼らをみて「そんなにいやだったらさっさと国へ帰れよ!!文句いいながら日本にいすわるな!!ただ日本の経済力目当てだけにいるだけではないのか??」と正直思ってしまいます、帰化などもするようなきもないようですし。 戦後すぐには朝鮮半島が荒れていてかえれなかったという話なら十分わかるんですが最近は韓国も成長してきていっぱい職などもみつかりそうな気がするんですが・・・・。

ちなみに私は韓国や中国に対する戦前の行いはいくら建前を日本がつくろうが侵略だったことにはかわりないと思っています、が、戦後50年日本は謝り続けたにもかかわらず今現在も謝罪謝罪謝罪、日本は鬼だといいつづける彼らが正直好きではないです(中国の勝手な軍事行動や韓国の竹島の占拠などの態度もかんがみて)

荒れそうな質問ですがなるべく荒れないような真摯なご解答があると嬉しいです。

Aベストアンサー

質問:在日韓国・朝鮮人はなぜ帰化したくないの?
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=996194

質問:在日朝鮮人を帰国させるように政府の方針を変えることは出来ないのでしょうか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=397244

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q満州国建国の目的を教えて下さい。

なぜ日本は満州国という独立国を建国したのですか?当時の国際事情や国内事情などを踏まえながら、建国の目的を教えて下さい。

Aベストアンサー

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされたブロック経済化により日本製品は欧米やその植民地の市場では高額の関税を課せられる事となったために、その重要性がかなり誇大に意識されるようになっていたのです。
誤解を恐れず敢えて言えば「戦後の日本における一時期の憲法9条」のように、その是非を議論すら許されないという風潮があったのでした。
しかしながら第一次大戦以降の世界的なナショナリズムの高まりにより、中国においても列強に奪われた利権を奪い返す国民運動である「「国権回復運動」が起こりました。
ただしこのようなナショナリズムに根ざす運動は、現在でもそうですがしばしば過激化し、外国勢力への排撃運動に近いものになる事もよくありました。
その結果、日本人の多くは中国で獲得した利権が危機にさらされており、それが日本という国家の生存すら危うくしかねないという(現在の視点からすれば)かなり大げさな意識がもたれていました。
これは戦後の日本でも「日米安保は戦争の道」「PKO活動で日本は軍国主義化する」とか後から見ると馬鹿馬鹿しい話が大きな政治問題になったことを考えれば、理解しやすいのではないかと思います。

ただし満州事変当時の日本政府はまだ国際協調路線を取って、交渉で穏便な事態解決を望んでいました。
ところがその前にロンドン軍縮条約で引き起こされた「統帥権干犯問題」のため、政府は軍の統制を取ることが出来ず、満州事変により日本軍は政府の不拡大方針を無視して満州の殆どを制圧し、一気に「特殊権益問題」の解決を図ったのでした。
この行為は現在では「軍の暴走」とされますが、当時の日本ではマスコミは拍手喝采して支持し、事態の不拡大を計った「政府の弱腰外交」を非難しています。
そしてこの国民世論の後押しを受けて建国された満州国について、欧米との対決を望まなかった当時の犬養毅首相は承認を渋りますが、五・一五事件で暗殺され(犬養は統帥権干犯問題を引き起こしてこの事態を招いた張本人のひとりであるので、自業自得の一面もあります)、日本政府は軍の暴走と国民世論に引きずられる形で満州国を承認、欧米との全面対決、そして国際連盟脱退へと向かってしまいます。

このように満州国の建国は決して日本が国家意思として行ったものではなく、当時の日本人の「満蒙の特殊権益」に対する過剰な意識と中国側の反発、そして軍の統制問題などが絡み合ったために、一部の暴走を国家が追認するという非常に危ういものでした。
しかしそれが当時は「大成功」を収め、国民からも高く評価されてしまった事で、その成功体験が後の日中戦争、そして太平洋戦争の遠因となり、大日本帝国を滅ぼしてしまうのです。

なお満州事変当時の日本国民の意識について論じた本で、簡単な書籍としては「日米もし戦わば―戦前戦中の「戦争論」を読む(光人社)」などがあります。

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされた...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む


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