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昔清朝をたてた満州族は300万人程度しかおらず、当時の明は
3億人くらい人口があったそうですが、歴史の本を読んでもなぜ
1%程度の人口で満州族が征服できたのか、いまだに不思議です。
いくら明の国内が疲弊していたとはいえ。
モンゴルも同じですが、なぜ北方民族はこういうことが可能なのでしょうか。
秀吉が20万近い鉄砲で武装した精兵で朝鮮をせめても、撤兵せざるを
えなかったですよね。
ちかくには日中戦争でも日本軍は苦戦しましたし。

A 回答 (9件)

色々理由はありますが、簡単に書くと・・・


1.明が一つにまとまっていなかったから。
2.優れた指導者が明におらず、清には優れた指導者がいたから。
3.清軍が分裂した勢力をうまく取り込んだから。
4.清が明より民衆に優しく、民衆としては自分やその家族が暮らしやすくなったから。

明が一つになって清に対抗できていれば、清が明を倒す事などできませんでした。
しかし、あまりに明の腐敗が酷く重税で民衆を苦しめており、あちらこちらで大規模な反乱が起きました。
しかも、兵士に与える筈の給金、食料までが上官に不正に搾取されるなどして、兵士達が反乱に加わっています。
明の宮廷では清との戦いや反乱軍鎮圧のための軍費を賄うために、民に臨時の重税をかけ、それに反発した民衆が反乱を起こし、それを鎮圧するために新たな軍の徴集と新たな税が取り立てられるという、重税、軍拡、反乱という最悪の悪循環の拡大再生産が繰り広げられました。
つまり、この時、明は軍の全てを清軍にあてる事ができなかったのです。
また、明の第17代皇帝の崇禎帝が有能な人材を処断してしまったという失敗もありました。
名将の袁崇煥を処刑したのは大きな失敗でした。

「袁崇煥」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E5%B4%87% …

そして反乱が拡大していき明の軍が反乱軍に敗北し首都北京も攻められた結果、明の第17代皇帝、崇禎帝は李自成率いる反乱軍の前に自殺します。
つまり、この時、明は内憂外患の状態であり、清軍が首都に攻めてくる前に、既に首都は反乱軍に占領され、皇帝は死亡していたのです。

そして清と対峙していた明の呉三桂将軍は、皇帝の死を知った結果、明を見限り敵対していた清軍に味方しました。もともと清軍は呉三桂を味方に引き入れるために、大きな褒美を申し出ていたようです。実際、後に呉三桂将軍は大きな領地と地位を得ています。
他の明の将軍の中にも呉三桂将軍のように清に味方するものが出ました。
皇帝が死に反乱軍が首都を占領したとあっては、自分とその部下達の身の振り方を考えねばなりません。清での新たな成功と生活を望んだというところでしょう。
なお、清軍は明と戦う時に兵士に「抵抗しない者は殺すな。捕虜から衣服をはぐな。女を奪うな」という命令を出したり、首都北京に入った時も、兵士に民家への立ち入りを禁止して略奪を戒めたり、明の官吏に対してはその身分の保証をしました。
さらに占領した後の政策としては民衆に対して税の大きな軽減を行っています。明の時は臨時の税が何種類もありましたが、それを全て廃止し、税自体の軽減も行いました。
つまり、民衆にとっては明の時代より住みやすく、生活しやすくなりましたし、官吏も身分を保証され安堵しました。
これでは抵抗の意思も鈍ろうというものです。

首都を占領した反乱軍は李自成が皇帝となり順王朝を始めますが、呉三桂将軍らに攻められ倒されます。
明を回復しようという動きは南部にいた明の王族を中心にありましたが、圧制により民衆の支持が得られなかった事もあり、呉三桂将軍や元明軍の将軍とその部隊が主力となって平定していきます。

つまり、腐敗して内部分裂を起こしていた明を清がうまく料理したというところです。
もし、呉三桂将軍らの元明軍が味方しなければ、清の中国制圧はかなり難しくなったでしょう。
もしかしたら失敗したかもしれません。
味方に引き入れる事に成功した清の方策が旨くいったというところです。

ところでモンゴルが中国を制圧した時は、中国は西夏、金、宋の三ヶ国に分裂しており、やはり一つにまとまっていませんでした。
モンゴルはそれを利用して、互いに争わせたりして、各国の力を弱め制圧していきました。
金を滅ぼした時は、宋と共同で攻撃しています。モンゴルは一カ国づつ料理していきました。

いつの時代にも中国の北には常に北方民族がいます。しかし、全ての時代で全ての北方民族が中国を支配化に置いてきたわけではありません。成功する時は必ずと言っていいほど、その時の中国が数カ国に分かれているとか、内部分裂などしており、そこにつけこんでいます。

なお、呉三桂将軍が清に味方した事については、女性が原因であるという話があります。
陳円円という好きな女性がいたけれど、首都北京を占領した反乱軍の将軍に奪われ、それに怒った呉三柱将軍は清に味方する事にしたという話です。
「陳円円」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%86%86% …
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この回答へのお礼

わかりやすい長文のご回答、大変ありがとうございまいた。

お礼日時:2012/02/03 10:22

 モンゴルも満州族も含め,北方の遊牧民は狩りをして生活しています。

馬に乗って矢を射るなど,農耕民にとってはかなり訓練してもなかなかできない難事ですが,遊牧民は日々それをやっている(そのような技能がなければ生きていくことは不可能)ため,遊牧民の生活は毎日が軍事教練と同じようなものです。
 そんな遊牧民と農耕民(漢民族など)が戦った場合,古代から人間の数では農耕民の方が圧倒的に多かったはずですが,いわばボクシングのプロと素人が戦うようなものですので,10倍くらいの兵力差は容易に跳ね返してしまいます。
 中国王朝が健全に機能しているときは,北方に対し万全の防衛体制を敷いたり,政略で遊牧民の間に仲間割れを起こさせたりして,北方民族が侵攻してくることの無いように様々な対策を講じているのですが(逆に言うと,中国王朝の全盛時でも北方民族は警戒しなければならない相手だったのです),中国王朝が内乱や腐敗などで衰退してくると,北方民族に対する十分な警戒が出来なくなり,侵入や征服を許してしまうことになります。
 もっとも,漢民族の文化の素晴らしさは北方民族の比ではなく,北方民族が中国の土地を占領しても,いつの間にか漢民族の文化に溶け込んでしまい,中国全土を占領する頃には,北方民族出身の支配者も自分達は漢民族だと思い込むようになってしまい,漢民族に同化してしまいます。そういう観点で見ると,中国の歴史はほとんど北方民族による侵略と漢民族への同化の繰り返しです。
 その中でもモンゴルと満州族が特別視されるのは,彼らは征服のスピードが非常に速く,完全に漢民族に同化する前に中国全土の征服に成功したことによります。
 これに対し,日本人は農耕民族であり,中国人に比べ特に戦闘能力が高かったわけではありませんから,中国に戦争を仕掛けても通常は数の差で惨敗してしまいます。例外は日清戦争ですが,あれは政治や軍の近代化が進んでいた国とそうでない国の差です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大相撲でも日本人力士はモンゴル力士にかないませんから
納得です。

お礼日時:2012/02/03 10:25

 歴代の中国王朝が北方民族に支配される場合には以下の法則性があります



(1)既王朝内部が騒乱状態にある
(2)軍閥の弱体化
(3)特定宗教団体の影響力の拡大
(4)既王朝に対する敵意が浸透している
(5)飢餓・疫病などの物理的国内の疲弊状態

 これらの状況を利用して征服することが可能だった、というのが実情でしょう

さて、誤解されているようですが、北方民族の征服は、彼ら独力で為されることは皆無です。

簡単にいえば、
 侵攻する北方民族を支援・味方する漢民族・内通者が存在するからこそ征服が可能だと思うのが現実的でしょう。

 実際モンゴルを代表として、北方民族は概して篭城戦を苦手として局地的には、征服できなかった地域が散見される現実もあります。
 これらの征服できなかった地域は、補給線上の危険性がない限りは、強行突破(スルー)して王朝の要衝地だけを征服するのが一般的です。
 北方民族は、面的支配の必要性の高い補給の問題が少ないがゆえ、上記のような要衝だけを抑える侵攻方法を採用できるようです。(要は線上の支配で十分だったわけです。)

 そして、ある程度要所を支配してから、既王朝を支配することで、政治箇所の支配を行い、その後、命令・指示系統の麻痺に応じて、周辺を蹂躙する・・・・という形態が多く確認されます。

 このような戦術展開の根底にあるのは、離反者を厚く遇する人事制度によって、内通・離反者を確保しえた背景があるでしょう。
極端にいえば、徹底抗戦する敵兵・敵軍は徹底的に(非戦闘員まで)虐殺し、その逆に、内通・離反者には、本領安堵・報奨を与えるなどを行うことによって、「敵対するよりも味方についたほうが実利がある」と理解させることに努めていたことが大きいように思われます。

 儒教・道教的な倫理・道徳では、忠誠心が重視されますが、北方民族たちのような利害関係に実直な人事では、既王朝では厚遇されなかった人材が嬉々として北方民族に内通した、と史料も指摘しています。


 逆に、内通者が少なかった南宋末期は、元王朝の支配拡大速度が落ちていることなどを考えれば、征服の根底には、内通者・離反者の協力が多大であった、というべきでしょう

なお、このような傾向は、中華に限らず諸外国に見られる傾向であって、人口差・軍事力差よりも「人心把握力が国防力」というのが近代以前の国防の本質と見るのが妥当でしょう。
(もちろん極大化した軍事技術の優劣が決定因子になりえるでしょうが、それだけでは限界は早いでしょう)


ちなみに、史料を見る限りは、北方民族の戦術展開には必ず敵方に逃げ道を用意する傾向があり、敵兵を死兵(死に物狂いで戦闘する兵士)化しような配慮などが行われていることも特筆するべきでしょう。

なお、一般的に、北方民族の侵攻にはある種の法則性があって、
威力偵察行動によって敵方に自軍戦力を認識させてあらかじめ、徹底抗戦か?降伏か?という選択の余地を残すような傾向が多くみられます。
威力偵察行動の後、敵方が交戦の意思があれば、蹂躙するわけですが、農耕民族の民衆支配に対して政治配慮の感覚がない彼らは、徹底的に略奪・虐殺を実施します・
そのような戦果を大きく喧伝することで、侵攻先の降伏を誘発するなどの「戦わずして勝つ」という展開が多く史料上で確認できます。

農耕民族的な軍事感覚では理解できない論理・展開から、様々な戦術的ミスマッチを含めて蹂躙されてしまう・・というのが大きな視座で指摘できそうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。法則性大変分かりやすかったです。

お礼日時:2012/02/03 10:23

民族・国家・宗教etc,,,は、非常に恣意的で不合理なモノです。


その時代、地域によって複雑に入り組んだ人と人との感情が入り乱れた結果生まれた「差別」。
よって、その時々に民族なんてのは変わります。

例えば、ヒトラーは「アーリア人のみが優れた血統だ」という「アーリア主義」なんてのを掲げました。
しかし、「アーリア人=今のドイツ人」なんて根拠はどこにもない。
むしろ、考古学や人類学などでは否定される証拠のが多い。
でも、ヒトラーのアーリア主義は多くのドイツ人を魅了しました。
それは何故かといえば、ヒトラーがそう国民を教育したからです。(あるいは、そう信じないもには不利益をもたらす。つまり脅しで反対意見を抑えつける)

※アーリア人(=白人)という意味で、現ヨーロッパ人の共通の祖先だと設定されたもの。
そして、ドイツ人のみが最も純血なアーリア人だと主張したのがヒトラーです

そもそも、民族という言葉の定義も曖昧なものです。
ざっくり大きく分けても次のように定義つけることができます。

・文化・風習などを共有する団体(ethnic group)

同種の文化・風習・伝統などを共有する集団。
必ずしも統一された政治的公的共同体を形成する必要はない。
また、多くの場合はあまり意識されることはない。
ただ、別の文化・風習・伝統などを共有する集団を目の当たりにした時に、意識上に現れてくる。
世界の地域を区別する時に、よく指標として用いられる(アジア(東南アジア・東アジアなど下層分類もできる)・ヨーロッパ・北米etc,,,)


・政治的血縁的共同体意識(nation)

こちらは、上記とは逆に自らが属する国家・宗教・血縁関係などが強く意識され共有された集団。
そこには、自分たちの属する集団以外を排斥したり蔑視したりしようという意識がある。
古代ギリシアなんかでは、自分たち以外をバルバロイと呼び区別したし、中国でも「夷狄」という考えはあった。
また、宗教の違いから民族の違いを意識する場合も多々ある。
ヨーロッパでのユダヤ・キリスト・イスラム教の関係や、インドのヒンドゥー教と仏教の関係、日本の仏教と神道の関係なども、民族問題といえる。
さらに、近代以降に国民国家という意識が芽生えてくると、「国民=同一民族」でなければならないといったような極端で偏狭な思想なども現れる。

得てして、歴史が物語れる時は後者の意味合いが強いことが多い用に思います。
つまり、誰かが都合よく「ethnic group」的なものを印象操作し「nation」をつくる。
もちろん、「誰か」というのは独裁者であることもあれば、特定の人物ではなく、社会全体の意思だったりします。
つまり、「民族(とくにnation)」は、恣意的なモノなので、その裏側に隠された意図を読み解くことが必要になります。

満州族で言えば、昔の史料に出てくる女真族の末裔ではないかと言われています。
しかし、それを証明することは非常に困難です。
というのも、歴史というのは散逸的に残る歴史史料(多くは文字史料、たまに物)を分析して作られる物語です。
物語である以上、誰かがなんらかの意図を持って語っているわけです。
つまり、本当に当時3億人の人口がいて、為政者はその1%にしか満たない満州族が牛耳っていたのか、(遺伝子的には同じでも)一部のエリート層が他人を差別するために「満州族」をでっち上げたのかは分からないでしょうね。

※遺伝子分析でも使えば解析できるかもしれませんが、現段階では「民族差別につながる」という理由でタブー視されていますし。

でわでわ、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変参考になりました。

お礼日時:2012/02/03 10:17

すみません。

気持ち的に書き足らないので、また回答させていただきます。

イギリスやフランス、スペインはどうして、世界中に植民地を得ることができたのか?
この回答は、秀吉、また江戸幕府がキリスト教を禁教にした理由でなぞが解けます。

私の記憶が正しければ、フロイスの日本史に書かれていたのですが、

日本人が船員に聞きました。
「何故、イギリスやフランスなどヨーロッパ諸国は、日本と同じくらいの領土なのに、世界中に領土を持ているのか?」
すると船員は、失言してしまいます。
「まず、宣教師をその国に派遣します。
そして人口の三分の一くらい信者が増えたところに、神の兵として我が国の軍隊を派遣します。戦うのは、その国の国民同士です。すると私たちは血を流すことなく、その国をおさめられるのです。」
それを聞いた日本人は大慌てで、秀吉に報告し、宣教師を日本から追い出したのです。

ちなみにその宣教師はカトリックでした。ヨーロッパの文化を受け入れたい家康は、カトリックと敵対するプロテスタントのオランダを貿易対象国にして、カトリックを牽制したそうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。私もその逸話を聞いてから
外来宗教の布教活動を避けています。

お礼日時:2012/02/03 10:16

個人的な考えですが、参考にしていただければ幸いです。



>1%程度の人口で満州族が征服できたのか

もし、今日本で反乱が起きて、他民族に政権が移ったなら、あなたは命を捨てて戦いますか?
政権が変わっても、あなたの周りの環境がさほど変化が無ければ、むしろ良くなるんだったら、たとえ他民族でも武器を持って戦わないでしょう。
明は疲弊しきっていて、役人の間では賄賂は常識で(現代もそうですが。)民には重税に継ぐ重税で、皆誰か反乱を起こしてくれないかな?と願っていた時に北方民族が取って変わったんでしょう。
島国の日本人の感覚では、受け入れられないかも知れませんが、他の回答者さんがおっしゃっているように、中国は陸続きでいろんな民族が混在している生活なのであります。「中国は中国人が治めなければならない!」というプライドはおそらく日本人よりも希薄かも知れません。まぁプライドを高く持っていても、いざ戦うとなると、私ならおそらく参加しないですね。
「誰が治めてもいいから、好きにやって、その代わり自分の身内に手を出したら承知しないぞ!」
って感じだと思います。

>呉三桂は明の有力な将軍だったのに、なんで自分の民族を裏切ったんでしょうか
不思議です。中国人は中華意識が強いそうですから、北方の蛮族に屈するなんて
たえられないでしょうに。落ち目でも明は100万人くらいの軍隊は動員できたと
思いますが。

豊臣秀吉の話が出たので、それを参考にすると、秀吉没後の関が原の合戦で、何故武将達は石田光成を裏切ったのか?
大儀名文を掲げるなら、家康につくはずがございません。確かに石田光成は人間的に魅力が無かったのかも知れませんが、秀吉の遺児は残っていました。それに、光成なんか武将たちにとって赤子同然です。今は陣頭をとらせていても、戦後は実力で政権を奪い取れば良いだけです。
単純に言うと、皆実力があり強い者にまかれたのです。誰しも命は捨てたくないし、家族は守りたい。負けた後は、自分のみならず、一族の生きる場所を失います。強者につくのは当然の心理だと思います。

>秀吉が20万近い鉄砲で武装した精兵で朝鮮をせめても、撤兵せざるを
えなかったですよね。
ちかくには日中戦争でも日本軍は苦戦しましたし。

それはまた別の理由です。秀吉以下武将たちは、地の利がありませんでした。それなのに、ただ、ただ、攻めろ!と命令されるばかりで、政略するビジョンもあったかどうか?武将たちも武功をあげることしか頭に無く、耳を狩ることに執着していました。
信長なら、耳の量で武功を判断するような馬鹿なマネは決してしなかったでしょうね。おそらく明智光秀にしたみたいに、統一されていない九州を褒美として渡すという感じで、数いる武将たちに「褒美は朝鮮半島だ!」って叫んでいたかも知れません。

日中戦争で苦戦したのも、あたり前です。あんなに広い土地をどうやって治めるのですか?
まぁ清は治めたじゃないか!と反論するかも知れませんが、それは清の兵士が強いのでは無く、日本人が横暴だったからです。中国人に自分達の文化を押し付けたのです。
自分の生活や家族を、一族の歴史をないがしろにされたら、私も武器を取って戦います。死んでもかまいません。子供や妻を守ることができたなら、自分一人でも犠牲になります。

中国人民を全て敵にまわすか、政府官僚だけ敵にまわしたかの違いだったんでは?
私はそう思います。長文ですみません。
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この回答へのお礼

複数ご回答ありがとうございます。確かに自分の身におきかえると、
そう思います。

お礼日時:2012/02/03 10:14

中華思想というのは、民族意識とは本来関係ない(民族という概念自体が、この200年程度の歴史的な概念)



中華文化の保有者が中国人であって、地理的に中国に住んでいる人間が中国人ということはない(すくなくとも、100年以上前は)
孫文が 三民主義とか大声で叫んだのは、みんなが気付いてなかったからです。

たとえ正統な王の息子でも刺青という中華文化を否定することをすれば、中国人ではない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A …

呉三桂の意識では

明の皇帝 > 後金の王 > 農民一揆の首領 李自成

明の皇帝が農民一揆に殺されたなら、農民一揆の首領を倒すのがベターというのが呉三桂の判断。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。伝説では、恋人の陳円円が盗賊に
奪われたため、清側についたということですが、真実かは疑わしい
ところがあるようですね。

お礼日時:2012/02/03 10:01

清朝まで遡らなくても、アメリカのオキュパイ・ウォールストリート運動のように


1%が99%を支配するのは、現在でも見られる現象です。
日本も世襲の富裕層がカジノで遊んで100億円の大損とか、不条理がまかり通ってます。

また質問者さんが上で日本と中国のスケールの違いについて質問して、答えようとしたら
締め切られてしまったので、こちらに書いておきますが、日本の家康もあちらで評価されてるので、
そんなに卑下することもないかと思います。

中国で「徳川家康」が大人気、山岡荘八氏の著書、爆発的な売り上げ記録―英紙報道
小説「徳川家康」の中国での評価は高く、40社を超える中国メディアから「2008年度最優秀外国書籍」に
選ばれた。これほどの人気の原因は、ある評論家をして「家康の忍耐や知恵、軍事的策略や鉄の意志を
中国の若者は学んで欲しい」と言わしめるほどの、家康への共感にあるようだ。
http://www.recordchina.co.jp/group/g29282.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。山岡荘八作品は私も愛読していましたが、
今になって中国で大人気とは知りませんでした。

お礼日時:2012/02/03 09:39

なぜ満州族は中国を征服できたか。



近くに住んでいて、
■アタック回数が多いから。
■中国側協力者がいたから

成功して中国本土の王朝になったものだけが歴史で語られますが、「天高く馬肥ゆる秋」(今年も秋で、北方遊牧民が攻めてくるから気を付けよう)というように、毎年のアタックです。

またモンゴルはまずは、漢人(北方の金の支配下にあった中国人)を征服してから南人(南宋の中国人)を征服していますし、清も呉三桂が関を開いて、引き入れられて侵入しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
呉三桂は明の有力な将軍だったのに、なんで自分の民族を裏切ったんでしょうか
不思議です。中国人は中華意識が強いそうですから、北方の蛮族に屈するなんて
たえられないでしょうに。落ち目でも明は100万人くらいの軍隊は動員できたと
思いますが。

お礼日時:2012/01/27 11:56

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