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他のアジア諸国がいとも容易く列強に植民地化されていた当時、日本も江戸幕府が脆弱になり内戦が起きていた頃です。 薩長対江戸幕府の争いに乗じてイギリスやフランス、アメリカ、ロシアはなぜ侵略行動を起こさなかったのか、又は起こせなかったのかを教えてください。 当時の列強の国内事情及び列強間の関係、日本の事情を重ねて教えていただけると幸いです。

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A 回答 (14件中1~10件)

 当然ながら、侵略行動を起こしています。

その方法は、今までインドなど人工の多い国の場合と同様の伝統的な方法で行っています。

 インドでは、敵対的な関係の藩王国に、イギリス・フランスなどがそれぞれ借款による資金提供・兵器輸出をして戦争をさせ、提供した資金の返済に「徴税権」などを担保にして、停戦後にその国の税収を差し押さえ、統治機構を徐々に乗っ取っていきました。(借金返済を拒否すれば、資金提供・武器輸出をしてもらえなくなり、敵対国に負けて自国が消滅してしまうので、欧米列強に対して、自国経済の切り売りをしてしまいました。)

 日本でも、薩摩・長州にはイギリスが、幕府にはフランスが支援し、内戦が長期化しても資金提供(後で返済を要求されますが)・武器供与を継続しますという申し入れを受けていました。

 それに対して、徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いで幕府内の主戦派に「鳥羽伏見の戦い」を戦わせて、幕府の自力では内戦に勝てない実態を体験させた後、戦闘行為を放棄し内戦を事実上終結させてしまいました。

 幕府内主戦派には、幕府の必勝作戦として、薩摩・長州軍が江戸に進軍した時点で、当時東洋一といわれた幕府海軍によって、東海道を遠江・駿河で上陸作戦を行い、物資輸送を遮断し、江戸に入場した朝廷軍を干し上げる戦略が提唱されていました。

 これが実行されていた場合、江戸に侵攻した朝廷軍が壊滅し、フランス兵器で武装した関東の幕府軍とイギリス兵器で戦う薩摩・長州などを主体とした名古屋以西の朝廷軍が対峙し続ける長期戦となり、イギリス・フランスに対する借金がどんどん増えて行き、戦争に勝とうとすれば、日本の国家主権にかかわる領土・権利を担保に、お金を借り続けることになっていたでしょう。

 明治維新時に、日本が植民地化されなかった背景には、欧米列強のアジア侵略のパターンを知っていた人々が、『如何に内乱を短期・小規模化して、政権交代をするか。』という点について、努力を重ねたからです。
 戦力を持ちながら、ほとんど戦わずに政権を移譲した「徳川慶喜」は、日本の植民地化を防いだ、隠れた功労者と言えます。(朝廷側が政権を確立するまでに幕府兵力とまともに戦ったのは、鳥羽伏見と上野の彰義隊程度で、合計二日しかありません。)

この回答への補足

要するに日本国内の亀裂が浅く、また維新時の内戦処理がすばやかったということですね。 その後、列強に隙を見せる間もなく、富国強兵が成功したのかな。 前半部分のご回答にあるフランスとイギリスが共謀して日本を半分づつ植民地化しようと考え行動を起こそうとしたような史実はないですか?

補足日時:2012/02/11 19:57
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 #8です。

追記の形になりますが、当時のイギリスとフランスでは「統治組織としての日本」に対する認識が異なっています。
 初代駐日英国公使であるラザフォード・オールコックの日本滞在記録は『大君の都』(原題:The Capital of The Tycoon)と示されているように「統治組織としての日本」つまり「国家としての日本」とその「最高権力者」が誰だったのかを端的に示しています。
 外交交渉においての交渉相手に誰を指名するかによって結果が左右されます。イギリスが相手に選んだのは「大君」つまり天皇を擁する開国派であり、フランスは対極に位置する幕府だった、ただそれだけのことです。
 イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・ロシアなどの列強が興味を寄せていたのは日本そのものではなく地理的条件として日本に近い中国でありインドやインドシナ半島です。そこには「地下資源」と豊富な労働力があり同時に巨大な市場として経済搾取が可能です。端に「人口が多い」だけでは「交渉相手」とはなりません。
 19世紀のヨーロッパは前世紀の産業革命を受ける形で経済活動もピークに近い段階にありました。それは同時に「より多くの富」を必要とするために「より多くの市場と原材料の調達」が必要であり、尚且つ「エネルギー供給地」としての補給ポイントを必要とします。幕末期の貿易産品として日本の主力が何だったと思いますか?。原材料として輸出していたモノは「生糸」です。ヨーロッパからみれば「この程度か」の認識にしかなりません。もしこの頃に鉱工業品としての石炭があったならば、認識も変わったかもしれません。
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大航海時代の日本の事情を良く知ってるからです。


再度、ペリーが訪れた時、封建制が健全と残っていました。
欧米諸国が繁栄を謳歌できたのは封建制度のためです。
そのため欧米諸国は封建制=先進国という解釈を持っていました。

ザビエルが日本に到着した時、その組織化された精神に圧倒されたそうです。
鉄砲を伝えたところ30年間で当時で最も優れた鉄砲を作ってしまいました。
世界中を征服した欧州人ですが、封建制のあるところは日本だけでした。
しかも、しっかりとその優秀性を見せつけた。

江戸末期ならば火力の違いで圧倒できたでしょう。
しかし、彼らは植民地支配の難しさをよく知っています。
部族間の対立など期待できない日本においては
攻め込んでも内部でゲリラ活動に合うだけ。

核兵器を使えなければ、ベトナムと同じになるのです。
当然江戸末期に核兵器などありません。
農産物以外、何もない日本をそこまでして征服するメリットは有りません。
なお、ロシアは北海道の警護が手薄なので攻め込んでいます。
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質問者さんの歴史認識は事実と懸け離れています。

日本とて列強の侵略を免れることはできませんでした。江戸時代以前から松前藩が統治していた南樺太をロシアに侵略され奪われています。明治新政府が事態に気づいた時は手遅れで樺太千島交換条約を結び、ロシアの侵略を追認するしかありませんでした。ロシアは侵略行動を起こしていました。現代日本人は余りにも無知蒙昧過ぎます。他の欧米列強は日本に不平等条約を結ばせたことで満足していました。下関戦争で長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカ4カ国連合軍の戦争があったことで明らかなように、列強は他の列強と協調的で突出した態度はとらないというのが共通する対日外交方針であったからです。要するにロシアだけが、独自の侵略方針を持っていただけで、他の4カ国は他の列強に遅れを取らないことが目標だったのです。列強が下関戦争を戦った目的は列強の実力を見せつけて日本の攘夷方針を断念させることだけでした。くだけていえば列強は相互に牽制しあって、どこも抜けがけができなかったわけです。

なお、薩長対江戸幕府の争いなど存在しません。漫画の見すぎです。徳川慶喜は大政奉還で政権を返上しています。戊辰戦争の本質は、明治新政府が反乱勢力を討伐したことです。大政奉還によって江戸時代は終わっています。そういう急展開の時代の変化についていけなかった守旧派が明治新政府に逆らったわけです。

学校の先生は何を教えているんですかね。同じ質問が何百回も繰り返されています。

この回答への補足

薩長対江戸幕府の争いなど存在しません⇒現在の日本政府からみれば守旧派が明治新政府に逆らったということになっている。 しかし、鳥羽・伏見の戦いや東北各藩(奥羽越列藩同盟)と薩長土の戦いは実質薩長対江戸幕府(家臣団)の争いです。 歴史とは色々な立場・角度から考察していかなければならない。一方的見方しかできない方、また自分の見方が唯一正しいと思う方は歴史の考察に向かない。 教科書に書いてある内容を多方面から考察することを回答者さんにはお勧めします。

補足日時:2012/02/11 19:35
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詳しいことは知りませんし、研究者でもないですが、、、


占領して植民地にすることで得るメリットは、日本の場合なんでしょう。
江戸時代は全期を通じて寒冷な時代で、凶作や飢饉が絶えなかったし、欧米が欲しかった農作物は多くなかったでしょう。貴金属も産出量がもう厳しくなっていました。
http://www15.plala.or.jp/kuni-1/gakusyuu/edo/kik …
http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kisho/kish …
奴隷も、イギリス領諸島では1833年、スウェーデン属領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に廃止された状況ですから、労働力として日本人に魅力があったとしても、占領して人間を商品にはできなかったでしょう。(インド人、中国人、日本人を移民としてイギリスは砂糖栽培に使った)
日本の工芸品等には欲しいものもあったでしょうが、占領して植民地にするよりも、交易で有利な条件を得られれば、欧米としては良かったでしょう。
日本の江戸、大坂、その他城下町に高い文化の担い手がいても、所在地が限定的で絶対量が大きくはないので、交戦して都市部を破壊したら、意味がないでしょう。当時、幕藩体制ですから、九州の一地方が占拠されても、幕府や他藩の反応は、中国清朝がアヘン戦争、清仏戦争、アロー戦争で被ったようなショックは受けないでしょう。攻撃し占領する側からみると、江戸や大坂などの地域を攻めるのは、その結果を考えると二の足を踏むのではないでしょうか。
 
No.2 PENPENMAKKYさんの回答にあるように、当時の欧米は「いけいけどんどん」で極東の島に関心を向けていられる悠長な状況になかったのもあると思います。軍事力をちらつかせ、威信作戦を展開することで、良い条件で交易権や居留地を取れれば良かったのではないでしょうか。

英国…一番力を持っていたけれど、すでにたくさんの地域に介入していて、それだけでも大変で、日本にそれほどの力を割く気持ちにはなれなかったでしょう。
イギリスの海外での活動は、【中国】1840年から42年にかけてのアヘン戦争と、1856年から60年のアロー号戦争をおこない、中国を半植民地化 【インド】18世紀後半からイギリス東インド会社が領土を拡大していたのですが、インド人の大反乱を鎮圧したのち、1877年インド帝国をつくり全インドを支配下に入れた 【エジプト】スエズ運河を買収。スエズ運河はエジプト領内にあるのですが、運河はイギリスのものになる。やがて、イギリスはスエズ運河の警備という名目で、軍隊をエジプトに駐屯させ、エジプトを事実上支配する。 カナダ連邦(1867)、オーストラリア(1901)、南アフリカ連邦(1910)を作り、原住民を押しのけてイギリス人が住み着いて生活基盤をつくった
これらの地域の広さに比べると、日本はとても小さい。大農園・放牧地・プランテーションを作る好都合の場所には思えないです。
 
フランス…メキシコにかかりっきり
オーストリア…斜陽
ドイツ諸邦…統一戦争中
イタリア…統一戦争中
米国…南北戦争で国家が疲弊
ロシア…戦争や内戦で国が疲弊

この回答への補足

当時でもかなり進んだ文化を持っており、人口もある日本は列強にとって非常に魅力的であったことは間違いありません。 

補足日時:2012/02/11 19:39
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 19世紀の欧米列強諸国は,先進的な文明と技術力で世界を席巻していましたが,彼らは東アジアのみならずほとんど世界中に進出していたので,高度な軍事技術により個々の戦闘では勝てても,中国をはじめとする東アジア全土を征服するにはとても人口が足りません。


 中国(清)の植民地化といっても,実際には欧州諸国が清を完全に滅ぼしたわけではなく,清から香港を始めとする重要拠点を割譲させて,そこを拠点に貿易上の利権をむさぼることで満足するしかなかったわけです。インドにおいては,イギリスがムガル帝国を滅ぼしていますが,これはムガル帝国内部の分裂に乗じて徐々に勢力を広げていき,現地人にもかなりの協力者を得たことで最終的に実現しています。
 欧米諸国も,日本に興味がなかったわけではありませんが,日本は(中国ほどではないにせよ)相当の人口を抱えている国ですので,どの国であっても日本を完全に征服するには,内紛に乗じて日本国内にも多くの協力者を得る必要がありました。
 仮に明治維新が成功せず,江戸幕府と薩長などの内紛が何十年にもわたって継続していれば,欧米諸国もそのいずれかに荷担するなどして介入し,そのうち欧米諸国の植民地と化すことは免れなかったと考えられますが,そのような事態になることを恐れた幕末の志士たちが中心となって明治維新を起こし,幸いにして幕末の内乱は十数年程度で片が付いたわけです。
 それだけでなく,明治政府下の日本は,他のアジア諸国では類を見ないほどの速さで政治・軍事・経済の近代化に成功し,わずか数十年で欧州の強国・ロシアに勝つほどの実力を付けるに至ったため,結果として欧米諸国に付け入る隙を与えず,独立を維持することができたものと考えられます。
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 幕末当時の日本は西欧から見れば「清の向こう側にある島国」程度の認識です。

でも太平洋を隔てたアメリカから見れば「中国との貿易」にとっての「格好の中継基地」です。イギリスの場合はインドや香港を既に拠点としている意味からも日本には興味はありません。フランスも同様です。但し英仏両国の間には「払拭しがたいライバル意識」があったことも事実で、一方が開国派と取引するなら他方はその相手と取引せざるを得ないとの思惑があります。でも彼らには「日本」は魅力のある市場でもなかった、「眠れる獅子」として広大な版図を有する中国が本当のターゲットであり、だから「日本なんぞ」は意識の外にあった、この程度です。
 ロシアは体制そのものを巡っての革命前夜ですから「そんなことにかまけている場合などではない!」が本音でしょう。
 日本の士の数などは問題とはなりません。個別の白兵戦などに拘っていた武士などが近代装備に太刀打ちできると思いますか?。三浦半島に姿を現したペリーの艦隊を見て腰を抜かした程度の集団ですから。
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是非はありますが、軍事的にソコソコの能力はあった…と。

すなわち、軍事的な制圧をするためには相当の兵力を本国などから派遣しないとならない…そこまでして、なんかメリットあるのか?って列強も認めたのだと思います。
それに、運良く列強同士で牽制しあっていた…。

加えて…日本の当時の庶民の教育レベルは、列強各国が驚くほど高かったようです。
(庶民でも寺小屋などで手習いをしていたりして…)
ですので、少ない大使や代表をおいただけでは、国民全部を思いのままに操れ続けることは難しい!って理解したんでしょうね。
軍事で制圧しても、その後に支配続けないとならないですものね…権益を独占し続けないと、植民地化しても意味無いですし…
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これは専門家の間でも議論の分かれるところです。


国土が小さく、資源もないから、メリットが無かった
とか、日本の武力を怖れた、とか、色々です。

そんで、私見ですが。

1,天皇制があって、幕府の受け皿があった。

2,当時、日本にいた英国人などは、日本の
 武士、特にローニンを極度に怖れていた。
 彼らの残した手記には、それを示すものが
 沢山残されています。

 一つだけ例を挙げておきます。
「英国人。夜間台所で物音がしたので、部下の英国人
 兵士に銃を持たせ、調べに行かせた。
 しばらくしたら絶叫が上がり、すぐに静かになった。
 おそるおそる、台所に行ったところ、くだんの兵士
 の首が切離され、血の海にのたうっていた。
 ああ、ローニンが、あの恐ろしい刀を持って
 襲ってきたのだ。もう駄目だ・・・」

 この英国人は、幸運にも助かったのですが
 こういった手記が沢山残っています。
 当時、数十万のローニンがいて、植民地など
 にしたら、ゲリラ、テロで収集がつかなくなる
 だろう、と判断したのではないでしょうか。

3,中国のような大陸と異なり、無理して植民地
 にするメリットが無かった。
 
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 今風に言えばコストパフォーマンスが宜しく無いからってことでは。



 アメリカはその当時アジアに植民地を持つなんてことは全く考えていませんから考慮に入れる必要なし。ロシアは色気はあったでしょうが、シベリヤ鉄道が開通していなかったのですから現実性なし。後は英仏となりますが、あなたの仰るように日本の兵力は侮れません。武士階級は200万人ぐらいと言われていますから、このうち15%が動員可能として30万人。本当に外国が侵略してきたら庶民だって武器を取ったでしょう。長州の例を持ち出すべくも無く。海軍力は雲泥の差でしょうが、陸上戦闘での火器の輸入は相当進んでいますから、それほど劣らなかったでしょう。これを鎮圧し、占領を維持するにはどうしたって、10万単位の兵力が必要。本国からこれだけの兵力を極東に連れてくるなんて余裕は、両国とも無いですよ。だいいちそんな海上輸送力が無い。アジアやアフリカの占領地から徴収しても、頭数は揃っても烏合の衆。勝てると考えるほどアホでは無かったでしょう。

 考えられるとすれば、対馬等の離島を占領して租借地にすること。ロシアなんかはそれを狙ったようですね。軍事的に可能だったでしょうが、さて、その経済的メリットは?
 英は薩長に付き、仏は幕府に付き、それぞれを勝たすことによって貿易でのメリットを最大化するというのが現実的で唯一の選択ではなかったでしょうか。
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Qなぜ日本は植民地にされなかったのですか?

19世紀、他のアジア諸国は欧米列強の植民地にされたのに
なぜ日本は植民地にされなかったのですか?
日本の教育水準が高かったからですか?
それとも単に運がよかったからですか?

Aベストアンサー

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。今もそう呼ばれてます。伊豆代官江川が引き継いで、青銅砲でない鋼鉄砲をつくる高熱の製鉄炉(反射炉)をつくろうとしたり(大砲、兵学などはなんとかヨーロッパの技術においつこうというカンジ)、日本人は形式・格式でガチガチのバカな武士社会の中でも一部の有能な、志ある人たちに助けられてなんとか西洋とわたりあえる学術・軍事・文化・行政制度をもっていたのです。
(ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは)

ペリーが来航した時も(一年前くるっていったのに来ないと思って内緒にしちゃったバカな幕府上層部のせいで大慌てしたが)、一年後返事をもらいにくる、といったあと年明け10ヶ月にきた時には、無防備だった江戸湾に砲台島を築かせて防衛体制つくった(江川が指揮)
これが砲台場、今の「お台場」です。
これにはペリーも驚いた。
あと吉田松陰みたいに単身(2人だったけど)黒船に乗り込んで
「我アメリカに行かんと欲す」と叫びまくって返ってきた若者とか。
こんな人他のアジアの国にはいなかった。

日本は天文、数学、測量でもヨーロッパの文献研究したり、和算でも微分積分できたらしい。水準高かったンですよ。富豪商人は学問する人たちが多いとか、そういうこともあったらしいし、町民文化も小説、演劇、レベル高かったです。

アメリカと国土交渉する際もペリーが小笠原はアメリカ人住んでる、国際的に通じる文書で証明しない限りアメリカ国土だ、といった時、フランス語版・林子平著三国通覧図説をだして、出版年からも日本領土だと証明。
松平定信が迫害した林子平の著作が、大黒屋光太夫一行のうちロシア日本語学校教師にのこった一人とドイツ人言語学者の手で訳されて、小笠原諸島をまもったわけですね^^

ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。
・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった
・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである)
・一部の蘭学者のおかげで、外国の情勢なども在る程度はつかんでいた?!ジョン万次郎がいたといなかったじゃ、また違ったろうなぁ
江川さんがいなかったら大変だったと思うよ
・穏健バランス派の阿部が老中(筆頭?)だったのもよかった。水野忠邦だったらボロボロだったんじゃないかなぁ
最後は大分大胆に物事運んだけど。
・武士階級、常時帯刀武装してる階級が行政してる、というのはなかなかすごいかも^^
・シーボルトが日本の文化レベルを紹介する書物を発表してくれていた
(ペリーもちゃんと読んでた)→日本は交渉するレベルの国だと思ってもらえた。おそらく礼砲をちゃんと返せる国なんてアジアで日本ぐらいだったでしょう。

兵力でいえば、この前NHKでもやってましたが薩摩とイギリスの争い、中国のイギリス艦隊きた時は薩摩ボロ負けですよ。海戦は特に。
最初、不平等条約だったのもしゃーない。
しかし、交渉のテーブルがある、というのは在る程度、相手を認めてのことだし、全面開戦しなかった、というのはお互いのメリット、リスクも含めて必然だったのかも。
まぁ頑張りましたね、当時の日本^^

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。...続きを読む

Qなぜ19世紀日本は植民地支配されなかったのか?

題の通りなんですが、なぜ19世紀日本は植民地支配されなかったのでしょうか?

植民地支配されてもおかしくない状況であったのに欧米が進出してこなかったのにはどんな理由があるのでしょうか?

どんな意見でもかまいませんので回答していただけると光栄です。

Aベストアンサー

とにかくヨーロッパから遠かった。
欧州各国は手近な順でアメリカ→アフリカ→中近東→南アジア→東南アジアと植民地化してきたゆえに、極東の島国は一番最後になった。
19世紀前半から中盤は欧米でゴタゴタが多く、各国とも勢力拡大に力が入っていなかった。(南北戦争、ボーア戦争、クリミア戦争、フランス第2帝政...etc)
また、隣国に中国と言う”おいしい”土地があるので、あまり日本が目に入らなかった。

植民地化の取っ掛りには、キリスト教の布教が使われるが、日本では禁教されていたため侵入がむずかしかった。
仏教、神道がの生活の隅々まで行きわたる一方、当時の日本人は宗教の”まやかし”の部分もちゃんと理解していた。

当時、日本の文明のレベル(特に底辺のレベル)が高く、西欧文明を日本流に取り入れることに成功した。
実は、他の植民地となった国々はこれが出来ず、欧米人の思うようにコントロールされてしまっている。
例えば、日本人はヨーロッパ人以上の識字率を誇っていた。
一部のインテリが欧米を見て知識を得ると、すぐに翻訳したり本を書いたりして、
それを印刷(江戸時代からの木版印刷、貸本屋のインフラがあった)し、あっという間に全国民に広めた。
寺子屋の伝統があったので国民皆教育の立ち上げも早かった。
市場経済のインフラもすでにあったので、欧米の商人と対等に渡りあえた。

明治維新が驚異的に早く終結した。
たいていの国々は封建制→中央集権制の変換に100年はかかり、
この間に国土は荒れ、富も消耗し、人材は消失し、国民の間に憎悪だけが蓄積する。
この間に先進国にいろいろな利権を奪われる。
これが最小限で済んでしまった。
また、幕府側も新政府側もそのことを熟知しており、さっさと手締めした。

とにかくヨーロッパから遠かった。
欧州各国は手近な順でアメリカ→アフリカ→中近東→南アジア→東南アジアと植民地化してきたゆえに、極東の島国は一番最後になった。
19世紀前半から中盤は欧米でゴタゴタが多く、各国とも勢力拡大に力が入っていなかった。(南北戦争、ボーア戦争、クリミア戦争、フランス第2帝政...etc)
また、隣国に中国と言う”おいしい”土地があるので、あまり日本が目に入らなかった。

植民地化の取っ掛りには、キリスト教の布教が使われるが、日本では禁教されていたため侵入がむずかし...続きを読む

Q何で日本は戦国時代に植民地にされなかったんですか?

大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む

Q日本は何故植民地にされなかったのでしょう?

結構みんな疑問に思ってると思うんですけど、探したけど無かったので質問します。
アメリカ大陸やアフリカ大陸、アジアの他の国って、
国交樹立もクソもなく問答無用で植民地にされたと思うんですけど、
日本って、不平等ではあるけれど条約結んで、割と対等に近い関係で独立を保ちましたよね。
例えばイギリスは、鹿児島だけ攻撃とかまどろっこしいことをせずに、一気に日本全土制圧とか何故しなかったんでしょう?

Aベストアンサー

 基本的に、問答無用で植民地となるのは近代国際法において「無主の地」となる、いかなる形態の政府も存在しない土地に限られます。
 国としての実体がある土地は、アフリカであれ西アジア・南アジア・東南アジアであれ南太平洋の島々であれ、はたまた北米のインディアンの土地ですら問答無用で植民地、となってはおりません。
 多くの場合、インカ帝国・アステカ帝国を滅ぼした16~17世紀スペインのやり口を除き、国交樹立=条約締結(不平等条約であることはいうまでもない)→何らかの口実を設けて欧米諸国による政治介入(内政干渉)を制度化→保護国化、と手順を踏んで、最後に植民地化されています。

 ちなみにアフリカの場合、19世紀まで各地に現地人による国家が存在し、奴隷などの交易品(!)は現地王国を通じて欧米と取引されていました。現地王国が健在である間は、基本的に欧州諸国は港湾+周辺地域程度の植民地しか獲得していません。
 19世紀前期に新規の奴隷輸出が停止されるまでに2000万人以上の黒人が奴隷として輸出された結果、黒人社会が崩壊したことから、欧米による植民地化に抵抗できる勢力が衰退してしまったことが19世紀半ば以後植民地化をとめられなかった大きな原因です。
 なお、黒人諸王国の中の例外として、エチオピアはアドワの戦い(1896)でイタリア軍に大勝し、独立を維持しました。エチオピアの独立維持は、同国が高原地帯の国で侵攻しにくかったこと、聖書の時代以来の伝統あるキリスト教国家であったこと、金やダイヤモンドなどの欧米が欲しがる資源がなかったためイタリア以外の列強が食指を動かさなかったこと、なども幸いしたと思われます。

幕末期~明治初期に日本に大兵力が送られなかった理由は距離の問題がまず第一でしょう。それでもたとえば中国あたりで兵員を募ることで日本侵攻軍を編成できたと思われますが、英仏露米ともそこまでする予算も余裕もありませんでした。

 基本的に、問答無用で植民地となるのは近代国際法において「無主の地」となる、いかなる形態の政府も存在しない土地に限られます。
 国としての実体がある土地は、アフリカであれ西アジア・南アジア・東南アジアであれ南太平洋の島々であれ、はたまた北米のインディアンの土地ですら問答無用で植民地、となってはおりません。
 多くの場合、インカ帝国・アステカ帝国を滅ぼした16~17世紀スペインのやり口を除き、国交樹立=条約締結(不平等条約であることはいうまでもない)→何らかの口実を設けて欧米諸国...続きを読む

Q植民地にならなかった訳

植民地にならなかった訳

日本の歴史の中で、イギリス、フランスなど外国から圧力をかけられていた幕末、
太平洋戦争で敗戦してアメリカに占領された事。
などなど、いつ植民地にされてもおかしくない状況がありました。
アジアは欧米列強により、次々に植民地化されてる中で

なぜ、外国は日本を植民地にしなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

乱暴な言い方をすれば、「そこまでの魅力はない」というのが真実なんじゃないかと思います。

まず世界の中の場所で考えれば、ファー(遠い)イーストつまり極東の端の端で、さらに東にはもう太平洋が茫洋と広がりその先はまあ「ない」と考えてもいいほどです。
他のアジア諸国とのつながりについても離れていてほとんど接点や交流がありません。せいぜい朝鮮半島とくらい。さすが世界の海を支配したイギリス人は目のつけどころが違って上海や香港、シンガポールという要地をバッチリ抑えています。
日本ではあえていえば博多が他のアジア諸国と日本国内も含めて場所がいいくらいで、東京あたりなんぞ僻地過ぎて他のアジア諸国との接点がありません。
国内は平地が極めて少なく大陸の民族から見ると肥沃だなんてお世辞であってもいえないし、おまけに資源が全くといっていいほどありません。金はいうほどない(南アフリカなどに比べると比較の対象にさえならない)し、銀は石見銀山などがありましたが江戸時代にはもう枯渇していました。北九州では石炭を産していましたが、この日本の石炭、実は世界的に見ると非常に質が悪かったのです。イギリスのヨークシャー炭鉱とかドイツのルール炭鉱なんかに比べるとね、ボタ山みたいなもんでした。戦前の日本がなかなか工業国となれなかった一因がこの「質の悪い石炭」だったのです。

これでフィリピンのようにこれといった統一王国もなく各部族がバラバラに住んでいるだけなら無人の地みたいなものですから「とりあえず取っておくだけ取っておくか」となるのでしょうが、どういうわけかある程度文明があって統一された王朝がある。ヨーロッパ人から見るとそれほどでなくても武装はしているしそれなりに整備された軍隊組織もある(戦士が勝手に戦うような原始じゃないということです)。そうなるといちいち戦争をするにもそれなりにちゃんとした部隊をそれなりの数送らなければなりません。「そこまでカネかけてやることかあ?」ということだったと思います。カネかかる割に実入りが少ないということだと思います。

乱暴な言い方をすれば、「そこまでの魅力はない」というのが真実なんじゃないかと思います。

まず世界の中の場所で考えれば、ファー(遠い)イーストつまり極東の端の端で、さらに東にはもう太平洋が茫洋と広がりその先はまあ「ない」と考えてもいいほどです。
他のアジア諸国とのつながりについても離れていてほとんど接点や交流がありません。せいぜい朝鮮半島とくらい。さすが世界の海を支配したイギリス人は目のつけどころが違って上海や香港、シンガポールという要地をバッチリ抑えています。
日本ではあえ...続きを読む

Q日本は強かったの? 他国から歴史をみたら日本なんてなんてことない国だったの?

第一次、第二次世界大戦の時代
私は今まで、日本はアメリカに負けたけど、日本は戦争に強かった。と思っていました。零戦とか戦艦大和とか聞くし、神風特攻隊を出撃させたのは、作戦には疑問を持ちますが、とにかく日本は強かったんだと思っていました。でも、実際そうなんでしょうか?戦争に関して知識は豊富ではないですが、昔のVTRなどをみていると、簡単に言うと、ずるい方法をとったりしていたようにいわれてました。(約束破り?)
私は日本で日本の歴史を勉強するので日本は負けたけど、すごかった、強かった、というような感じを受けるものが多いですが、ほかの国から歴史を見たら、日本なんてなんてことなかった かのような存在だったのでしょうか?教えてください

Aベストアンサー

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸軍は弱かった、人命無視のムチャクチャな作戦をやって自滅して行った…という悪いイメージがありますが、仔細に見るとそうでもありません。

A) 支那事変は、蒋介石率いる国民政府が、上海周辺にドイツ軍事顧問団の指導で建設した第一次大戦型の塹壕陣地(第一次大戦の常識では『突破不可能』。ゼークトラインと呼ばれた)を建設した上で、上海に駐屯していた海軍の上海特別陸戦隊を襲撃し、救援にやってくる日本陸軍を、上海周辺の塹壕陣地に誘致して殲滅する、という計画で始まりました。

蓋を開けてみますと、上海特別陸戦隊は意外なほど頑強に戦って陸軍の援軍が来るまで持ちこたえ、杭州湾に上陸した日本陸軍3個師団は、国民政府が頼みにしていたゼークトラインを「浸透戦術」を巧妙に用いることで少ない損害で突破し、国民党軍を包囲殲滅しながら国民政府の首都である南京へ進撃しました。

これは蒋介石にとって全く予想外のことで、国民政府軍は総崩れとなりました。日本陸軍は、上記のランキングでは「ランキング対象外」の国民政府軍より「遥かに強かった」と言えます。

ウィキペディア 第二次上海事変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

B) ポツダム宣言受諾の「後」に、ソ連軍が北方から千島と南樺太に侵攻しました。
千島列島の北端である占守島、日本領であった南樺太には、比較的装備が良く、兵員も充実した守備隊が残っていました。
8月15日以降のソ連軍の攻撃に対し、占守島と南樺太の陸軍部隊は善戦し、
「占守島においては、上陸したソ連軍をもう少しで海岸に追い詰めて全滅させるところまで戦う」
「樺太においては、ソ連軍の南下を食い止め、南樺太の日本人が北海道へ逃げる時間をかなり稼ぐ」
という戦いぶりを見せています。

<海軍について>
日本海軍については、アメリカに次いで世界第二位の戦力を持っていたのは異論がない所で、戦前においては、東太平洋は「日本の海」でした。

「空母機動部隊」はアメリカと日本だけが編成して運用できたものですし、18インチ砲搭載の戦艦を建造できたのは日本だけです。第二次大戦終結までに完成させた大型空母の隻数で言えば、アメリカが圧倒的に多いわけですが、次に多いのは日本です。第三位のイギリスにかなり差をつけているはずです。

無限の物量と高度な技術を持つアメリカと戦っては、昭和19年のサイパン沖海戦で日本空母機動部隊が壊滅し、レイテ沖海戦で航空機の援護のない「レイテ湾への特攻」を命じられた水上部隊がろくな戦果を挙げられずに甚大な被害を受け、「沖縄への大和特攻」(坊の岬沖海戦)で終わったわけですが、アメリカ海軍相手にここまで戦える海軍は日本海軍だけだった、というのは紛れもない事実でしょう。

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸...続きを読む

Q何故、欧米列強は日本・中国を植民地化しなかったのか

近代において、欧米の列強は、アフリカなどを植民地としていきましたが――
日本や中国に対しては、不平等条約の締結や土地の租借程度に済ませました。

それは半ば植民地と同等の扱いではありますが、逆に言えば、形式的ながら日本や中国を国として認めているわけですよね?

そこで疑問なのですが、何故、列強は、日本や中国を侵略して、植民地化しなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

 時代が明記されていないのでぼんやりとした回答にならざるを得ませんが、コストパフォーマンスと国力の限界が主因と考えます。
 東アジアは欧州からすれば最も離れた土地であり、そこへまとまった兵力を送り込み、かつその戦力を維持するには膨大なコストが必要です。

 中国は中世末期は世界一の先進国でしたし、国土も広く人口も多いため強国とみられています。アヘン戦争に敗れてからはその評価は一気に低下しますが、それでもあれほどの広大な国土と膨大な人口を有し、かつ一応近代的な兵器を持った軍隊を有する以上、中国を占領するにはどれだけ少なく見積もっても数十万の陸上戦力を送り込まねばなりません。

 日本も欧州にその存在が具体的に知られたのは戦国時代に入ってからであり、当時の日本は毎年国内で戦闘を繰り返しながら経済成長を続け(経済成長云々は欧州と交流が出来てから以降に限定しての話です)、群雄割拠の時代にあって一人の武将だけで二十万もの常備軍を有し、しかも小さな島国の癖に短期間で世界一の鉄砲保有国(当時の欧州全土にある鉄砲の数より日本一国が持つ鉄砲の数の方が多かったと言われています)になった・・・当時の欧州の常識からは考えられない、まるで悪魔のような側面を持つ国です。
 その後、幕府という統一政権の支配が確立してからは鎖国し、その実力は低下の一途をたどります。しかし戦国時代の日本の状況を想定すれば、この島国を植民地支配するためには少なく見積もっても数十万もの陸上戦力を送り込まねばなりません。

 地球の反対側に数十万もの兵力を送り込み、そしてその戦力を支えるための海上補給線も含めて戦力を維持するコストと、植民地化した中国や日本から得られるであろう利益は到底吊り合いません。
 欧米が植民地化できた地域は少ない戦力で支配可能な地域に限られています。
 欧州は欧州で互いに戦争もありましたし、アメリカも隣国との戦争や内戦を繰り返しています。新たな植民地獲得に乗り出せるほどの強大な戦力の余裕などそもそもありません。
 もしも中国や日本に侵攻できるほどの戦力に余裕が出来たら、隣国とのミリタリーバランスが明らかに崩れてしまいますから軍拡競争が始まって結局侵攻できなくなるか、先に隣国との戦争が始まってしまいます。
 だから、最小のコストで最大の利益を享受するためには、不平等条約や土地の租借程度しか出来なかったのです。

 時代が明記されていないのでぼんやりとした回答にならざるを得ませんが、コストパフォーマンスと国力の限界が主因と考えます。
 東アジアは欧州からすれば最も離れた土地であり、そこへまとまった兵力を送り込み、かつその戦力を維持するには膨大なコストが必要です。

 中国は中世末期は世界一の先進国でしたし、国土も広く人口も多いため強国とみられています。アヘン戦争に敗れてからはその評価は一気に低下しますが、それでもあれほどの広大な国土と膨大な人口を有し、かつ一応近代的な兵器を持った軍隊を...続きを読む

Qタイはどうして植民地にならなかった

タイはどうして植民地にならなかったのでしょうか?
また、第二次世界大戦ではタイは戦ったのでしょうか?
ぜひお教え下さいませ。

Aベストアンサー

基本的には、「英仏の緩衝地帯」という見方でよいと思います。

当時、イギリスはビルマとマレー半島を植民地化していました。フランスは仏領インドシナと呼ばれる、現在のベトナムを含めたインドシナ半島の東側を領有していました。
この間に挟まっているのがタイで、双方どちらかがタイを植民地化してしまうと、国境を接してしまうことになるのでよろしくない・・ということです。
ただ、もうひとつ見方があり、それはタイ自身で独立を勝ち取ったという見方です。タイ自身も、あの時代外国人誘致による近代化を進めており、自身の力での独立維持という見方も、わずかながらあります。

さて、第2次世界大戦についてですが、あまり知られていませんがタイは枢軸国として参戦していた日本の数少ない味方国です。(以降は以前の回答から持ってきたものですが、そのまま回答になっています)。
イギリスの爆撃や、B-29の空襲も経験しています。関係としては、日本が仏印(今のベトナムを含めたインドシナ半島の東、つまりフランス領です)に進駐したころから、歩調を合わせ始めています。その前は第2次大戦について中立宣言をしていました。その後、日本が参戦するとほぼ同時に、宣戦布告を行っています。
しかし、最後には完全にそれを翻し(というか日本との同盟など、参戦した理由をうまく自国からそらしたのです)、ついには敵国条項(第2次大戦における連合軍の「敵」リストとでも考えてください)にすら名を連ねていません。これはタイの外交手腕の勝利といえます(今でもそうですが、タイという国は非常に外交が上手です。第2次大戦の前後におけるタイの外交は非常に巧妙で、見事といえます)。
なお、現在の日本との関係は友好的ですね。

基本的には、「英仏の緩衝地帯」という見方でよいと思います。

当時、イギリスはビルマとマレー半島を植民地化していました。フランスは仏領インドシナと呼ばれる、現在のベトナムを含めたインドシナ半島の東側を領有していました。
この間に挟まっているのがタイで、双方どちらかがタイを植民地化してしまうと、国境を接してしまうことになるのでよろしくない・・ということです。
ただ、もうひとつ見方があり、それはタイ自身で独立を勝ち取ったという見方です。タイ自身も、あの時代外国人誘致による近代...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む


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