プロが教えるわが家の防犯対策術!

江戸時代の交通手段についてしらべています。
どんなものでもいいので、教えて下さい。
できたら、何故馬車が明治時代まで日本になかったのかも教えて下さい。
お願いします!

A 回答 (4件)

牛車があるのに,なぜ馬に曳かせなかったのでしょうか.まず牛のようにゆっくりでないと,車の輪が持たなかったのかもしれませんね.馬のよ

うに走るのは乗り心地が悪かったことも一因でしょうか.大八車があったと思いますが,それを応用することもなかったデすね.それと人力車の発明は日本ですが、馬に曳かせなかったことも不思議です.日本は山や川の凹凸の多い国で、山では上がりはいいけれど,下がりの調節とか、戦略で橋をつけさせることをしなかったこと.また道が曲折したり、狭いことで、馬車が発達しなかったことではないでしょう.むしろ北前船や,菱垣船,千石船などが、利用が多かったのではないでしょうか.か..それと農家の民には,旅行できる余裕--農地に縛り付けられて-ができなかった.生かす殺さずという武士の考えで,江戸の末期には,それが緩んで.伊勢校参りとか盛んになったが,金がかかること,追いはぎに遭うとか,合ったそうです.
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この回答へのお礼

大変参考になりました!
ありがとうございました!

お礼日時:2001/05/09 13:16

こんばんは



陸上でしたら、まず籠があります。
街道筋のほぼ宿場毎に籠屋があり、宿場と宿場の間をつなぎます。
利用するのは、主に町人や商人、旅人です。主に太い竹を組み合わせ、すだれやござのようなもので囲うという簡単な構造のものは、旅人や町人が使用します。又、木を組み合わせて箱状にしっかりと作り、扉などをつけたものは、主に商人が利用します。御殿医や特に裕福な商家のだんな衆ともなると、漆で塗った立派な専用の籠を持っていることがあります。さらにお殿様ともなると、蒔絵や彫金細工を施し、内側には高級な輸入織物を貼った非常に豪華なものを所持しています。竹組みの粗末なものは、普通二人で担ぎますが、大名用では、六名くらいで担ぐのが普通です。江戸時代の籠も、現代の車のように、裕福な方ほど、立派なのを所持していますね。
川や湖では、小さな和船が主な交通手段となります。船頭が櫓をこいで進みます。
何故馬車が明治時代まで無かったのかは、解りませんが、恐らく、馬車という乗り物自身の発想が無かったのが、一因ではないでしょうか?。どなたか詳しい方、フォローしていただければありがたいのですが。お願いします。
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 基本的に旅行というものは庶民には日本では一般的ではなく、伊勢参りなども村の代表者が行って村全員分をお祈りしてその費用(お祈り・お守り)の為にお餞別というのが生まれたと何かで読みました。


また、基本的には足で急ぐ武士などのごく一部の人間のみ馬を利用していました。かごは急な峠等ではタクシーなどのように距離がしであったようですが、これも一般的ではありません。とにかく足でした。
 馬車は、日本は世界的に雨が多く道がぬかるんでいる時期が多いことや、石などでの舗装が進んでいなかったため普及しなかったそうです。
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全くのシロートですから信用しないでください。



・吉原へは、「猪牙舟」という快速船、「四つ手篭」で行ったようです。四つ手は恐らく4人で担ぐのでしょう。恐らく両方とも速いが料金は高い。江戸時代の黄表紙には「猪牙四つ手」という表現がよく出てきます。

・有名な「高瀬舟」は底が平らな荷物運搬船のようです。京都では盛ん用いられました。

http://ww1.tiki.ne.jp/~t-ikeda/takasebune.htm

・北前船などの大型帆船は衆知のとおり。

・江戸、大阪とも水の都で、縦横に川+運河が張り巡らされていた。今も東京には「○○橋」の地名が多く残る。明治通りも元は川(=古川)。

・馬の役割:荷物運搬などに盛んに用いられた。今高輪の「物流博物館」で展示あり。

・牛の役割:荷物運搬用に盛んに用いられたが、牛車として使われた。錦絵などに描かれている。

・何故馬車が明治時代まで日本になかったのか?
想像でしかないが、当時の日本の馬は非常に小さく、速いだけが取り得で、舟や、牛の大量運搬には太刀打ちできなかった。しかも当時は道が舗装されておらず、馬に車を引かせても滑らかに動いたかどうか疑問。

幕末には既に外国人が馬車を持ち込んでいたのでは?
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