田中義一内閣の行ったモラトリアムについて細かく教えてください。

1 モラトリアムとは誰が誰に、なんのために支払いを猶予した事なんですか?2週間は台湾銀行が営業停止なのですか?
2 モラトリアムの2週間に勅令法ができたのか、勅令法ができてモラトリアムなのか?
3 全国の銀行の営業停止3日間はモラトリアムに含まれるのですか?
4 裏白紙幣はなぜ必要になったのですか?

インターネットで調べてみてもほぼ解明できませんでした。教えてください。よろしくお願いいたします。

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A 回答 (1件)

1 モラトリアムとは誰が誰に、なんのために支払いを猶予した事なんですか?2週間は台湾銀行が営業停止なのですか?



全ての銀行が預金者に対して500円以上の支払いを3週間の期限を限って猶予することです。
発券銀行である台湾銀行、当時の5大銀行の一角である十五銀行(華族の銀行として有名で、皇室の出資もあり絶大な信用を得ていた)や近江銀行が休業し、全国の銀行で取り付け騒ぎ(預金引き出し=現金の銀行からの流出)が起こり、日銀は銀行に対して現金の貸し出しを続けたが、手持ちの現金・紙幣が底をついたため。このまま預金者の支払いに応じられない銀行が続出し、休業する銀行が増えると、日本の金融システムが崩壊する可能性があったため。

2 モラトリアムの2週間に勅令法ができたのか、勅令法ができてモラトリアムなのか?

1、3の質問にも関連しますが、モラトリアムの期限は三週間です。4月21日の夜に緊急勅令にモラトリアムの方向が政府決定。それを受けて4月22日(金)と23日(土)は政府の要請により全ての銀行は一斉休業します(25日は日曜なのでもともと休業日)。この理由は緊急勅令の発布・施行の準備のための期間です。ただ、モラトリアムの終了日が5月12日(木)で、4月22日(金)から丁度3週間終了日になります。緊急勅令の原文を見ていないのでなんとも言えませんが、緊急勅令の起算日は22日であったのではないでしょうか。モラトリアムは緊急勅令ができてから施行になります。(実際上の施行は25日(月))
モラトリアムの内容は、500円以上の支払いを猶予することです。

3 全国の銀行の営業停止3日間はモラトリアムに含まれるのですか?




4 裏白紙幣はなぜ必要になったのですか?

1の中にも書きましたが取り付け騒ぎのために日本銀行は各銀行に貸し出す現金がなくなり、貸し出すことができませんでした。そのためによる22・23日の休業でもあったのです。25日には銀行を開け、500円未満の支払いには応じなくてはなりません。支払いに応じられない銀行があった場合にはその銀行は休業に追い込まれ、そのような銀行がいくつも出ると信用不安が拡大し、日本の金融システムの崩壊につながることにもなります。その対策としてモラトリアムの実施と、銀行の店先に現金を積み上げ支払能力をアピールして預金者の不安心理の沈静をはかる必要がありました。22日から24日の間に大量の現金をつくるために裏面まで印刷する余裕がなく、裏白の200円札が印刷されます。また、24日の日曜日、銀行に現金が届けられ、25日の営業再開に備えました。
銀行は預金を貸出しに回し、現金を手元にそれほど持っているわけではありません。そのため多くの預金者が預金の引き出しに走ると、手持ちの現金での支払いが困難になります。



海外にいますので緊急勅令の原文が見ることができず、隔靴掻痒ですが参考まで。
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Qナントの勅令はなぜナントで?

先日、フランスはナントに旅行に行ってきました。そこで友人と二人で話していたのですが、なぜわざわざこんなところで勅令を発布しなくちゃならなかったんだ、だってお城と教会以外ほとんど何もないじゃないか、という話題になり(失礼)、気になってその後アンリ4世のことをいろいろ調べたのですが、分かりませんでした。どうして彼はナントで勅令を出したのですか。ナントのブルターニュ大公と何か関係があったのでしょうか。それとも当時のナントは戦略上、何か重要な土地であったのでしょうか。

Aベストアンサー

ナント市はロワール河口にあるヴァンデ地方の
最重要都市で、新教徒(ユグノー)が多い町です。
これはユグノーの多くが貿易や商業に関わる
職業だったためで、都市部に集中して住んでいました。
しかし西部フランスの周りの田園地帯では逆にカトリック人口が多く、
ちょうど離れ小島のように敵に囲まれた格好になっていて
新旧両派の戦いが激しかった場所なのです。

そういう象徴的な場所なので、信仰の自由を認め
新旧両派に平等の権利を認める勅令を発したわけです。

ブルターニュ公とは関係ありません。
ブルターニュ大公家は断絶していますし。

Qミラノ勅令の重要性について

311年の「ガレリウスの寛容令」は、キリスト教を公認する内容だったと思います。
そして、その後も迫害を続けていたマクシミヌス=ダイアの寛容文書も、312年末に出されたと本で読みました。

つまりミラノ勅令以前に迫害は終了していて、「公認」もされていたということになります。
そうすると、ミラノ勅令は一般に言われるほど大きな意味をもっていたのでしょうか??

Aベストアンサー

コンスタンティヌス帝がキリスト教に帰依したのは、
337年の臨終のときです。
しかもこれは家族の懇願を受け入れてのことで、本心からではなく、
本人は厳密に言えばキリスト教徒ですらなかったと
考えられています。
ただ帝は新約聖書の編纂を命じた張本人ですけど。
(聖書が異教徒の命令作られたというのはキリスト教徒が認めたがらない真実ですね)

コンスタンティヌス帝が発布したミラノ勅令は、
”すべての宗教”に信仰の自由を与えるという内容です。
(当時、キリスト教以外にもメシアを崇拝する似たような宗教がいろいろありました)

対して、ガレリウスの寛容令はディオクレティアヌスが出したキリスト教迫害勅令を
無効にするためのものです。ここが違います。
しかもガレリウスは東の皇帝の一人にすぎないので、勅令の効果も東のみでした。
寛容令以前は、ガレリウスはキリスト教の迫害を続けて言いました。

ちなみにコンスタンティヌスは元は西の皇帝で、
彼の母親はエルサレムから西欧に真の十字架の断片を持ち帰ったほどの
熱心なキリスト教徒で、妻もそうでした。
身内にキリスト教徒のいる彼は最初から迫害には積極的ではなく、
帝国の統合の過程で、あらためて信仰の自由を認めることを公認したわけです。

キリスト教以外も対象にしているところが、ミラノ勅令が完全に政治的な動機から
行われたことがはっきりわかるところでしょう。
(キリスト教ではなくて)信仰の自由を認めたという点において、
ミラノ勅令は大きな意味がありますよ。
後に新旧宗教戦争が起こったときも、この勅令のもつ精神がみなおされることになります。

コンスタンティヌス帝がキリスト教に帰依したのは、
337年の臨終のときです。
しかもこれは家族の懇願を受け入れてのことで、本心からではなく、
本人は厳密に言えばキリスト教徒ですらなかったと
考えられています。
ただ帝は新約聖書の編纂を命じた張本人ですけど。
(聖書が異教徒の命令作られたというのはキリスト教徒が認めたがらない真実ですね)

コンスタンティヌス帝が発布したミラノ勅令は、
”すべての宗教”に信仰の自由を与えるという内容です。
(当時、キリスト教以外にもメシアを崇拝する...続きを読む

Q養老令の仮寧令の内容を知りたい

http://wiki.okwave.jp/wikipedia/index/仮寧令

Aベストアンサー

こちらなどは如何でしょうか?

◆『国史大系 第1-17巻/経済雑誌社編/経済雑誌社/1897-1901』
「[第12冊]第12巻 令義解 類聚三代格 類聚符宣抄,続左丞抄」
令義解>(巻第九)假寧令第廿五 凡壹拾參條
147~148コマ/880(二百六十六~二百六十八頁)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991102/147

◆『令集解[第2冊]第2/国書刊行会編/国書刊行会/大正1-2』
「卷第四十闕  假寧令」
227~233コマ/256(445~457頁)
假寧令第廿五 凡壹拾參條
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949630/227

◇養老令 假寧令
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/rituryou/yourou/yourou25.htm

見当違いなら御容赦下さいm(_"_)m

Q国会開設の勅諭

国会開設の勅諭が決まってからの政府の動きを教えてください。
国会を政府の有利な方向に動かすために
憲法を作ったり、天皇主権を宣言したりと…。
調べていると「世論の緩和をはかろうとした」
ということが分かったのですが、
どうやって暖和をはかろうとしたか等がわかりません。
少しの情報だけでも良いので、是非教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「世論の緩和」の意味がよくわかりませんが、「勅諭」後の政府の動きとしては、
1.憲法制定に備え、憲法調査のため伊藤博文を派遣する。
2.国会開設に向けた制度・組織作り
3.自由民権派への弾圧と懐柔
があります。

2.については、華族令、内閣制度のほかに、次のものがあります。
○「市制・町村制」(1888、M21) 制限・間接選挙による市長および市会、市参事会、町村会の設置
○「府県制・郡制」(1890,M23) 間接選挙による府県会、郡会の設置

これによって、自由民権運動に参加していた地方有力者には市会・府県会という「地方自治」への途が開かれます。その点では、地方政治とはいえ具体的な政治参加が実現するわけです。

しかしこれらは、内務省(山県有朋)の主導のもとに進められた、中央集権的な地方自治制度でした。山県の狙いとしては、自由民権運動の一翼を担っている地方名士、名望家を民権運動から切り離し、国家主導の下で府県会・郡会に組織することでした。それによって「国家の組織を堅緻にし立憲政体の基礎を強固にする」とともに「かくのごとき老成着実の人士」によって帝国議会を形成しようとするものでした。

とはいえ、この山県の目論見は、地方名士の多くが民党(自由党、改進党)へと参加することで裏切られることになります。

3.については、政府は自由党・改進党の幹部を懐柔します。幹部と下部党員との離間策をとるわけです。
具体的には板垣の洋行(1882,M15)、自由民権派の大隈・板垣・後藤象二郎らへの叙爵(1887,M20)、および入閣【板垣=第二次伊藤内閣の内相、後藤=黒田清隆内閣(1889,M22)、大隈=伊藤内閣の外相(1888,M21)】などです。
「世論の緩和」とは、少々異なりますが、薩長政府とすれば、自由民権派のシンボルを取り込むことで「挙国一致」内閣としてアピールしようとする目論見があった、といえるでしょう。

なお、当時の内閣(総理大臣)は、現在のような議院内閣制ではなく、「薩長有力者によるたらい回し」、のちには総理経験者(元老)による推挙、という方法で決まっていたことに留意する必要がありますね。

ご質問に的確に答えているか疑問ですが、ご参考までに。

「世論の緩和」の意味がよくわかりませんが、「勅諭」後の政府の動きとしては、
1.憲法制定に備え、憲法調査のため伊藤博文を派遣する。
2.国会開設に向けた制度・組織作り
3.自由民権派への弾圧と懐柔
があります。

2.については、華族令、内閣制度のほかに、次のものがあります。
○「市制・町村制」(1888、M21) 制限・間接選挙による市長および市会、市参事会、町村会の設置
○「府県制・郡制」(1890,M23) 間接選挙による府県会、郡会の設置

これによって、自由民権運動に参加していた...続きを読む

Q奉遷歴勅とはなんですか?

奉遷歴勅とはなんですか?

神奈川県大磯町の国府祭の事です。

Aベストアンサー

1。  奉遷
    とは神体などを他所に移すこと、で用例は下記にあり、歴勅とは離して書いてあります。 
    http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=786&cd=1209229&scd=&npg=0

2。  歴勅
    とは、複数の勅命を経て、という意味だろうと思います。この二句を続けた例は、大磯の六諸神社の由来にも、下記のように出ています。
    「崇神天皇の御代、櫛稲田姫命を守護神とし創建され、当時は柳田大神と称しました。大化改新後、奉遷歴勅を以て相模國八郡神祇の中心たる相模國の総社として現鎮座地に遷座いたしました。この時より、相模國総社六所神社と称されるようになりました。」
    http://www.wedbew.co.jp/produce/rokusyo.html

    ですから、国府祭の場所となる六所神社の成立過程を述べた、二つの表現の組み合わせと思われます。


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