あなたの映画力を試せる!POPLETA映画検定(無料) >>

明治期にできた国立銀行は1)不換紙幣をやたらと発行しないようにしたいという目的と、2)不換紙幣を兌換紙幣に改める準備のために設立されたと聞いております。

しかし、1876年に条例を改正して不換紙幣の発行を許可し、兌換の義務を取り除いたのはなぜでしょうか。教えてください。

*質問文の中も間違いがある可能性があります。それも含めてご教授ください。

A 回答 (1件)

詳しくはwikipediaに記載されていますので、参照してください。



基本的には、まず兌換貨幣を止めるべくナショナルバンク制度を取り入れようとしたようです。
当時日本は金の流出が進んでいたのは有名で、それを打開する策として建議されていました。

1876年の条例改正は、金との兌換の必要を失くすことで、多くの資金を流通させることが可能となるので、今で言うところの金融緩和を狙った策です。大隈重信が大隈財政として展開しています。
この結果、全国に銀行が増え、各銀行がそれぞれ紙幣を発行する事態となり、インフレとなったため、日本銀行に発券銀行を統一するという、今のスタイルになったようです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B% …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

大変ありがとうございました。深く理解できました。また教えてください。お願いいたします。

お礼日時:2012/03/20 17:46

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q兌換紙幣と不換紙幣って??

高3です。
日本史の授業で今日先生が言っていた「兌換紙幣」と「不換紙幣」の意味がよくわかりません・・。
金や銀に換えることのできる紙幣、というようなことを言っていたと思うのですが、どういうことなのかいまいちイメージがわかないのです。。
こんな私にもわかるようにかみ砕いて説明して頂けませんか?
よろしくお願いします(>_<)

Aベストアンサー

 再び失礼します、No.7です。

 不換紙幣の発行理由ですが、自信がなかったので検索をかけてみたら、こんなページを見つけました。下の方に書かれています。

 このページは分かりやすいと思います。(わからない部分があれば、また補足をください。可能な限り回答します。)

 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。

参考URL:http://www.findai.com/yogo/0013.htm

Q太政官札

太政官札とは、初の全国通用貨幣であるということと習いましたが、
この太政官札が発行されたことの意義はどんなことがあげられますか?
何か検索すると江戸時代の貨幣が存在していたから、その貨幣との兼ね合いで発行されたという感じのことが書かれてあったのですが、
江戸時代の貨幣というのは、金貨であれば両、分、朱ですよね?
ちょっといまいちなので教えてください。

Aベストアンサー

#2です。お礼ありがとうございます。

大政奉還が為されたといっても、まだ幕府と新政府は戦争をしていました。例えは悪いですが、今のイラクと同じ状態です。

この時点では、幕府→新政府と外国への窓口は変わりましたが、各藩はどちらにつくか決めかねていました。もちろん軍事力も温存しています。

新政府としては、とにかくはやく日本国内に主権を確立しなければなりませんでした。そのために太政官札を発行し、通貨と経済をコントロールできるようにしたかったのです。これが第1段階です。しかし、太政官札には信用がありませんでした。
その後、天皇の勅旨と各藩がそれに准じるという約束を経て、ようやく太政官札に信用が生まれます。ようやく国内通貨としての地位を確立するのです。これが第2段階です。
そして、通貨単位の変更(円・銭・厘)が行われ、日本国内の通貨体系がひとつになります。(江戸時代は、関東が銀本位制・関西が金本位制で別の通貨体系、藩も藩札など、それぞれ別の通貨体系を持っていました)これで3段階です。
そして、日本銀行券(今の日本の紙幣と同じ)の登場です。ここまで15年かかっています。

最初の太政官札は、どちらかというと借金のために発行したという意味合いが強いのです。新通貨体系に成ってから発行した太政官札は、確かに金や銀の兌換を保障し、藩札の回収や金本位・銀本位をひとつの枠に収めることに成功しました。これは政府に信用があって初めてできることです。
そして、お金(紙幣に限らず)を回収することが出来て初めて、殖産興業にお金を回すことができます。最初は太政官札だけでなく国民銀行券(日銀ではない)もあったようですが、これも政府の信用があって、お金を回すことがでるということに注意が必要です。

#2です。お礼ありがとうございます。

大政奉還が為されたといっても、まだ幕府と新政府は戦争をしていました。例えは悪いですが、今のイラクと同じ状態です。

この時点では、幕府→新政府と外国への窓口は変わりましたが、各藩はどちらにつくか決めかねていました。もちろん軍事力も温存しています。

新政府としては、とにかくはやく日本国内に主権を確立しなければなりませんでした。そのために太政官札を発行し、通貨と経済をコントロールできるようにしたかったのです。これが第1段階です。しかし、...続きを読む

Qどうしても使い方がわからない・・・such as とlike

こちらのサイトでも調べてのですが、どうしてもわかりませんでした。 ~のような というときのsuch asと likeの使い分けです。例を用いてなるべく簡単にわかりやすく説明してくださる方いらっしゃいませんか?すみませんが教えてください。

Aベストアンサー

such as ~ のほうは「例えば ~ などのようなもの」という例を挙げるもので、

like ~ のほうは「~ に似ているもの」という類似性を示すもの、

という印象の違いがあると思います。

日本語で「~のようなもの」という言葉には、例を挙げている場合と、形や様子が似ているものを挙げている場合があいまいに混じっているので、和英のときに一緒にまとめられてしまうのですね。

Q1930年の金輸出解禁がどうして不況につながるのか

教科書には「金輸出解禁で日本が不況になった」とぶっきらぼうに書いてあります。金輸出の意味はだいたい分かっていますが、それがどうして不況につながるのでしょうか。教えてください。

金輸出解禁を旧平価で行い、円高になったからでしょうか?だとすると、当時の日本も輸出に頼っていたということなのでしょうか?

よろしくお願いいたします

Aベストアンサー

まず、日本の産業の脆弱性が挙げられます。第1次世界大戦中の欧米の輸出能力の減少で、日本はアジア市場を席巻しただけでなく、大戦による世界的な船舶不足の中で造船業や原料の製鉄業が伸張し、欧米からの化学製品の輸入が途絶したために化学工業も勃興し、日本は重化学工業化に成功することになります。しかし、このような事態は鳥なき里の蝙蝠で、日本の製品は欧米製品の代替品に過ぎず、品質・価格面で欧米製品に太刀打ちするだけの力を持ちませんでした。大戦が終了し欧米の製品がアジア・日本市場に回帰するようになるとアジア市場を奪還されたのみならず、日本市場においても重化学工業品を中心に輸入が急増し、貿易は輸入超過に陥ります。さらに大戦中の設備の増加と、在庫の増加を適正に解消できず(供給過多の状況)、戦後恐慌が発生していました。打撃を受けた企業・銀行の中では中小企業を中心に企業・銀行の倒産が相次ぎ、また倒産に至らない企業・銀行でも粉飾決算が行われ、不良債務は潜在化しました。政府は日銀券を増発し、産業救済を行いましたが、逆に経済破綻を先延ばしにしただけで根本的な解決にはなりませんでした。更に関東大震災とその後の震災手形とよばれるモラトリアムや、日銀の再割引手形(実質的な日銀特融)の中に戦後恐慌による不良債権が紛れ込み、それまでの問題点がより潜在化します。さらに復興のためもあり、輸入急増により在庫が増加し、産業の整理は進まず、工業製品の国際競争力の不足と、日銀券の増発などによるインフレの傾向により、貿易赤字は増大し、慢性的な不況下にありました(このような状況下で旧財閥への集中が進みます)。昭和2年には金解禁の目標もあり、震災手形の処理を行おうとした方策のまずさから昭和金融恐慌が起こり、田中義一内閣の高橋是清蔵相によるモラトリアムの発令で、かろうじて金融システムの崩壊を食い止めたほどです。しかし、この政策も結局のところ日銀券の増発により弥縫策でした。ですから1920年代を通じて産業の合理化・整理は進まず、競争力のない企業は残り、慢性不況の中、日銀券の増発により、破綻を回避する弥縫策を続けてきたことになります。当時はマネーサプライとの考えはありませんでしたが、結局のところマネーサプラを増加させたことにより競争力のない企業・産業を存続させ、不良債権を先延ばさせ、さらに増加はインフレ傾向を生み出し、貨幣価値を減少させ、為替相場の下落(円安)と国際競争力の低下をもたらすという悪循環に陥っていました。そのため為替相場は第一次世界大戦時の金輸出禁止前の1¥:0,49875$から最安1¥:0,38$台を底値として円安傾向にありました。このように連続的不況・恐慌に陥った1920年代を恐慌の時代とも呼びます。
さて、金解禁は金の輸出解禁ではありますが、輸出代金の決済のために正貨(金貨及び金の地金)の輸出を解禁することです。同時に金の兌換の再開でもあり、金本位制への復帰でもありました。さらに金本位制は為替の固定相場でもありましたから、金平価(通貨交換比率)を維持するために、貨幣価値を維持する必要があり、そのためにマネーサプライは抑制的になりやすい性格がありました(平価の値にもよります)。特に当時の日本は戦後恐慌に始まる慢性的な不況状況にあり、マネーサプライを増加させることにより破綻を回避しているような状況は前記の通りでしたから、金解禁に伴ってマネーサプライの減少、不良債権の処理が促進されることは必然でした。つまり、今までと真逆の政策を実施することになります。
その上、為替相場の実勢が1¥:0,465$の中で旧平価(金輸出禁止前の平価)1¥:0,49875$で金解禁(実勢価格以上の円高)を実施しようとしたのですから、実勢価格以上の円高平価ですから、貨幣価値を維持するためにはマネーサプライを減少させ、貨幣価値を上げる必要がありました(デフレ要因となります)。在野の高橋亀吉・石橋湛山などは平価切下げ=実勢ルートでの金解禁を主張しています。
また、金解禁の準備として昭和4年度の当初予算より5%、1億円弱の削減をし、さらには昭和5年度予算案も削減後の予算と同規模とするなどの緊縮財政を行い、マネーサプライを減少させ、貨幣価値を上昇させ、円高誘導のための方策をとっています。(デフレ要因となります)
さらに緊縮財政は物価の引き下げも目的としており、それにより産業の合理化、国際競争力を高めようとしました。
そもそも第1次世界大戦までは日本をはじめ主要国は金本位制を採用していたわけですが、大戦に伴い次々に離脱します。大戦後に主要国は金本位制に復帰しますが日本だけが復帰できずにいました。金本位制への復帰=金解禁は国際的な要請でもあったわけです。ただし、平価を切り下げて金解禁を実施した国も多いのですが。
また、金本位制へ復帰していないことは管理通貨制にあるということで、マネーサプライの増加に金本位制の時ほど気を遣わなくて済むことになります。戦後恐慌等を日銀券の増発という手段で救済する訳ですし、逆に金本位制へ復帰できない要因にもなるわけです。
為替相場は当時の日本経済の実勢で展開し、大きく変動しますが、多くは円安に振れることにより、輸入が抑えられ、輸出が促進されたはずですが、財界を中心に金解禁により実質固定相場制に移行し、為替相場を安定させ、貿易を促進させることを望む声が強くありました。
このように当時の日本経済は戦後恐慌・関東大震災などにより恒常的な不況の中にあり、産業の整理・合理化は進まず、国際競争力に乏しい企業が温存されました。それを日銀券の増発、マネーサプライの増加により救済しているような状況でした。そのため、インフレが進み、為替相場は円安傾向で不安定な状況になり、放漫財政に陥っていました。このような中で主要国中唯一金解禁を実施していない日本に対して金解禁を求める内外の圧力は高まっていました。
このような背景の中から浜口内閣の井上蔵相は表裏の関係にある財政緊縮・金解禁を行うわけです。その財政・金融政策の方針は、財政緊縮による放漫財政の是正、物価の引き下げ、産業の合理化・経済の抜本的な整理、国際競争力の強化、為替相場の安定などを目的とし、金解禁を実施します。
上気したように、日本経済は日銀券の増発というマネーサプライの増加により破綻を防いできたわけですが、緊縮財政によるデフレ的な政策の上に、同じくデフレ色の強い金解禁を実施することは、新平価(円を実勢価格で金解禁)であったとしても、デフレ不況の色合いの濃い政策ですので、さらなる不況・企業の倒産・失業者の増加の可能性が高かったと思います。企業・産業の整理・合理化はつまるところ企業の倒産・合併により競争力の高い企業産業を残すことですから、最初から企業の倒産・失業者の増加は見込まれていたことになります。
まして、日本の実力以上の円高である旧平価での金解禁ですから、より多くの企業倒産と失業者の増加は避けられなかったと思います。
さらに、1929年の10月24日が世界大恐慌のきっかけとなった暗黒の木曜日で、ほぼ一か月後の同年11月21日に30年1月11日からの金解禁の実施発表、そして発表通りに旧平価による金解禁ですから、恐慌に輪をかけた実施としか言いようがない状態となったわけです。

長くなりましたが以上、参考まで。

まず、日本の産業の脆弱性が挙げられます。第1次世界大戦中の欧米の輸出能力の減少で、日本はアジア市場を席巻しただけでなく、大戦による世界的な船舶不足の中で造船業や原料の製鉄業が伸張し、欧米からの化学製品の輸入が途絶したために化学工業も勃興し、日本は重化学工業化に成功することになります。しかし、このような事態は鳥なき里の蝙蝠で、日本の製品は欧米製品の代替品に過ぎず、品質・価格面で欧米製品に太刀打ちするだけの力を持ちませんでした。大戦が終了し欧米の製品がアジア・日本市場に回帰す...続きを読む


人気Q&Aランキング