織田信長と豊臣秀吉のの関係ってなんなんでしょうか…。
織田信長って全国を統一したんでしたっけ?
それとも豊臣秀吉でしたっけ?
もしよければ、織田信長と豊臣秀吉のおこなった事をくわしく教えていただけませんか?

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A 回答 (7件)

1.織田信長公と豊臣秀吉公の御関係は、主君と侍です。



2.織田信長公はモンゴル大帝国に続く、文字による世界史上二度目であり、古今東西にモンゴル大帝国と北方ユーラシア無文字文明以外に例のない「世界帝国」を目指していらっしゃいました。
織田信長公は南方の海づたいにヨーロッパを落とす戦略をお持ちでした。
織田信長公は、それゆえに、ローマ教会の命令で宣教師の謀略で暗殺されました。
つまり、当時の日本とヨーロッパ全体が戦争すると、日本が勝っていたということを示すということです。

3.それに対して、豊臣秀吉公は、織田信長公の遺志を継いでいるつもりでいらっしゃいましたが、支那文化圏という狭い範囲で「皇帝」になることを目指していました。
それゆえに、豊臣秀吉公は「明出兵(「朝鮮出兵」ではありません。朝鮮になど何もありはしなかったのですから。)」という陸上戦略をとってしまいました。
飛び石戦略で織田信長公の戦略通りに南方の港港を抑えて、陸上戦はヨーロッパ大陸でヨーロッパ諸国とだけ行えばよかったのです。
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織田信長は、戦国時代でもっとも天下統一を志した人です。


三大武将で最年長であり、豊臣秀吉はその家臣です。
信長が上司で秀吉が部下。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」
上記の詩は
織田信長が天下を取るための勢力の準備をして(織田がつき)
豊臣(羽柴)秀吉が天下を取って(羽柴がこねし天下餅)
徳川家康が二度と戦国の争いが起こらぬように総仕上げとして幕府を開く(座りしままに食うは徳川)
質問でいくと、天下を取ったのは、秀吉でしたが、実質最終的には徳川が今の世を作りだしたというのが簡潔な答えでしょう。
信長の統一事業は
簡単に言うと、数々の末恐ろしい大名を後の乱にならないように滅ぼした。
秀吉は
それを引き継いで天下を統一した後、戦乱でぼろぼろになった農家や商業を復興させ、農民一揆が起こらないよう、刀狩を行っています。
(徳川家康は武士の総取締役である征夷大将軍になり、幕府を開きます)
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織田信長は天下を目前にして本能寺の変で家来の


明智光秀に殺されました。

信長は1560、桶狭間の戦いで今川義元を殺した。
安土城を建てて楽市楽座の令を出しました。
山城の国一揆や、延暦寺の焼き討ち、3千挺の鉄砲の
長篠の戦い、室町幕府を滅ぼす。のようなこと
をしました。

豊臣秀吉は信長の使いになり太閤というところまで
出世しました。
高松城の水攻め、墨俣の1夜城、山崎の戦いで光秀を殺す
小牧、長久手の戦い、大阪城建築、太閤検地、刀狩り 
文禄、慶長の役(朝鮮半島を攻める)
千利休を殺すっということになります。
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織田信長と豊臣秀吉の関係はみなさんが書かれている関係です。


 織田信長が行った最大の偉業は、戦いの方法で、兵隊の大半は農民であったため、田植えや稲刈りの時期は戦いを止めていましたが、信長は初めてお金を払って兵隊を雇う制度を採用し1年中戦いをできるようにしたため強かった事です。(職業の世襲制度をなくした)
 豊臣秀吉が全国統一を行ったのですが、最大の失敗は、大名への報酬を土地のままであったため、戦争がなくなったことで報酬を与えることができなくなり、新しい領土の確保のため朝鮮に攻め入ったことです。
 その後、大名を止め商人となったのが三井や住友のような財閥が生まれた事です。
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信長・・・戦国武将。

天下を目指したが志半ばで謀反に会い自刃
秀吉・・・戦国武将。信長の配下の武将としてドンドン出世して、最後は天下を統一した。

室町時代は長く続きましたが、その晩年はやはり勢力が衰えてきて、今川・毛利・武田・上杉などの勢力が天下を治めんと、近隣諸国を攻め取り始めました。
そんな戦国時代の中で、最新鋭兵器だった鉄砲を有効に使い、また柴田・前田・明智・羽柴などの有能な武将を配下に持っていた織田信長は、尾張の所領をドンドンと広げていき、天下を取らんばかりに勢力を拡大していきました。
室町幕府も終焉を告げ、いよいよ信長の天下統一の野望が達成されるかと思われたとき、信長は部下の明智光秀の謀反に会い、本能寺で討たれます。
羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉は、初めは木下藤吉郎と名乗り、信長の部下の中でも身分の低いものでしたが、やがてその才能を発揮して戦やその他もろもろの事で成果を挙げ、ドンドン出世して織田家の重臣になりました。
信長討たれる!の報を聞き秀吉は、すぐさま軍勢を率いて明智光秀を討ち、主君信長の敵を討つと共に、信長亡き後の世で各地を平定し天下を統一して、太閤の位に上り詰めました。

この辺は歴史的にもなかなか面白い時代なので、いろいろな書物などに取り上げられています。
代表としては"太閤記"などがありますので、イロイロ探して呼んでみると良いのではないでしょうか
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信長が主人で、秀吉が家来です。



信長は、全国統一を進めており、
現在の愛知県あたりから始まって、
関東から中国地方くらいまで攻略しました。
日本全国ではありませんが、戦国大名中最大の力を得ていたので、
そのまま生きていれば完全に全国を統一したでしょう。

しかしその途中で、家臣の明智光秀に殺されます。
その光秀を討ったのが秀吉です。
秀吉は当時は、
「信長を社長とすると、何人かいる部長の一人」
くらいの立場だったのですが、
かたきを取ったことで一目置かれるようになり、
やがて最高権力を得て、北海道・沖縄を除く日本を統一します。
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この回答へのお礼

前半わかりやすかったです。
回答ありがとうございます

お礼日時:2004/01/17 20:27

あまりよくわからないのですが・・・


小学校の教科書にのっていたことで
織田信長は鉄砲を広めた人で他にキリスト教を保護したり南蛮文化を取り入れた人です。若いころは織田の若者はおおうつけ(大ばか者)だと呼ばれていたそうです。豊臣秀吉は全国を統一し、刀狩や検地を行ったそうです。大阪城を築いたのも豊臣秀吉です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2004/01/17 20:26

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Q織田信長と徳川家康の関係

この時代のテレビドラマは、大河ドラマをはじめとして非常に多く製作されていますが、見ていていつも気になるのは、織田信長の時代に、信長は家康を厚遇しているような描写が多いことです。その頃、確かに信長と家康は同盟していたとはいえ、力や勢いでは信長の方がはるかに上で、足利義昭にもあれだけ不遜な態度をとっていた信長が家康にだけ賓客のように扱っていたというのが信じられないのですが(秀吉に対しては「さる」なのに、家康に対しては「家康殿」などと言っています)。このような家康の「持ち上げ」は、やっぱり後で幕府を開いたことによる製作者のご祝儀相場であると考えていいでしょうか?実際の信長は家康に対し、もっと偉そうな態度をとっていただろうと考えている私が間違っているでしょうか?

Aベストアンサー

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田家の敵であったわけですが、これは「戦国の習い」であり、致し方ないものとされたでしょう。

今川義元の死後しばらくして家康は今川氏真と手を切り、信長と同盟を結んで背後の憂いを経ちました。この時に家康が信長の居城である清洲城を訪問したといわれますが、ここで両者は約20年前の思い出を語り合ったと想像できます。この時期に織田と徳川が同盟し、信長の死までの20年間揺るぎなく同盟が継続したのも、「信長・家康の少年時代の良き思い出」があったからかもしれません。

その後、信長の娘の五徳姫が家康の嫡男の信康に嫁いで血縁関係が結ばれ、信長と家康は誠実に同盟義務を果たしあったと評価できます。

家康は朝倉攻撃(浅井の裏切りで失敗に終わる)や姉川の合戦で近江に出陣して信長を助けましたが、一方で家康は主敵である武田信玄・武田勝頼との抗争で少なくとも3度、織田からの援軍を得ています。

(1) 三方ヶ原の戦いの前後 (信長は、足利義昭が諸大名を扇動して形成した『信長包囲網』でがんじがらめにされていましたが、約3千人の援軍を出しました。この兵力は、家康が浜松城に篭城して信玄に対抗するのであれば大きな戦力となります)

(2) 信玄の死後、勝頼が遠江の高天神城を攻略した時 (結果として援軍は間に合いませんでしたが、信長自身が出馬しました)

(3) 勝頼が長篠城を攻囲した時 (信長の本拠地から近いこともあり、信長自身が大兵力を率いて出馬し、家康軍と共同して、長篠の合戦で大勝利を収めました)

長篠の合戦で武田軍が大損害を蒙った後は、武田と織田+徳川のパワーバランスが明らかに武田に不利になりましたので、武田が積極的に織田・徳川に戦を仕掛けてくることは減りましたが、長篠の合戦の後は家康が信長の合戦に援軍として参加することはなくなり、徳川が独力で武田の脅威を排除する(排除できる)ようになっていたようです。結果として、遠江から武田の勢力は次第に駆逐され、家康は三河・遠江の二国の太守となりました。

「信長が、家康の嫡男の信康と正室の築山殿の処刑を家康に命じた」
とされる事件ですが、近年の研究では
「信康と五徳姫の仲が悪かったのは事実のようだが、五徳姫が信康の非を父の信長に訴え、それが信康と築山殿の『信長から家康への処刑命令』につながった」
というのは俗説であるとする見方が有力になっているようです。

史料から伺えることは、
「家康と信康との間に対立が生じ、家康が自分の意思で信康を幽閉、次いで切腹させた。信長は『家康殿の思うように処置されれば良い』という立場であった」
ということのようです。

現に、織田と徳川の同盟は信康の死の後も全く揺らいだ形跡はありません。
これは私見ですが、
「『家康が嫡子である信康と対立して腹を切らせた』というのは、信玄の嫡子の義信に対する仕打ちと全く同じで人倫にもとり、外聞が悪い。『信長に命じられて止む無く腹を切らせた』とすれば、家康の名誉が守られる」
ということで、江戸時代になってストーリーを作ったのではないかと考えます。

また、信長の死後に、羽柴秀吉と対立した織田信雄を助ける形で、家康は小牧・長久手の合戦を戦っています。
後世から見れば、「家康の武略に秀吉が翻弄された」「羽柴と織田の対立を徳川が利用した」ようにも見えますが、実際の所、兵力では羽柴軍は徳川・織田軍より圧倒的に優位です。羽柴軍の戦いようによっては「圧倒的な兵力で徳川を押し潰す」ことも可能であり、家康はそれを覚悟して開戦した筈です。
「家康が、信長の死後も友諠を忘れていなかった」状況証拠となるでしょう。

家康が信長に対してどのような感情を持っていたのかは史料からはなかなか伺えませんが、状況証拠として、
「関ヶ原の戦いの後で家康が天下を取った後の、信長の子孫への待遇」
で推し量れるのではないでしょうか。

関ヶ原の合戦で家康に明らかに敵対し、剃髪して高野山に上った織田秀信は仕方ないとして、

信長の弟の織田長益(有楽斎)
信長の不肖の子であった信雄

の二名が、1600年現在で生き残っていた信長の主な近親ですが、家康はいずれにも「大名」の地位を与えております。

信長の縁者の江戸時代以降の状況については、ウィキペディアに詳細に書かれていますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E4.BB.A5.E9.99.8D
さしたる武功もなく、「積極的ながら西軍についた」者も少なくない中で、天下人となった家康は、信長の縁者を十分に優遇していると言えるのではないでしょうか。

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田...続きを読む

Q豊臣秀吉は本当にサルと呼ばれていたのか?

テレビドラマなどで、秀吉は信長のみならず周囲の人から「サル」と呼ばれています。

これは事実なのですか?
サルに似ているから、脚本家が想像してそう呼ばせただけなのでしょうか?
それにしては、あまりに多くのドラマでサルと呼ばれています。
そして本当にサルに似ていたのでしょうか。

Aベストアンサー

秀吉が若い頃に仕えた今川家(戦国大名)家臣の、松下加兵衛の秀吉の印象
  ↓
「猿かと思えば人、人かと思えば猿」

毛利家家臣の秀吉の描写
  ↓
「赤ヒゲを生やし『猿まなこ』をぎょろつかせ…」

秀吉の朝鮮出兵を聞いた蒲生氏郷(戦国大名)のセリフ
  ↓
「猿め、死に場所を失うて狂うたか」


秀吉が実際に猿に似ていたのかどうかは、わかりません。
江戸時代などに書かれた様々な記録に、秀吉は猿に似ていた、と書かれているだけで、秀吉が本当に猿にそっくりだったのかは確かめる方法はないでしょうね。
ただ「猿」「はげねずみ」から想像するに、秀吉は2枚目ではなかっただろうと思います。

なお「はげねずみ」については、信長のおねねさんへの有名な手紙の中に出てきます。
「英雄達の自由時間 豊臣秀吉」の、●人生相談の名回答 を見てみてください。おかしいですよ。

◆参考サイト
「英雄達の自由時間 豊臣秀吉」
http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/hero_hideyoshi.htm
「蒲生氏郷」
http://lady-and-erisroom.l.fiw-web.net/sekiryuan/ujisato.htm

ドラマに関しては、歴史考証を追及することよりも、ドラマとしての面白さを考えて製作されていると言っていいでしょう。ドラマの内容=正しい歴史、とは言えない場合がほとんどです。

参考URL:http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/hero_hideyoshi.htm

秀吉が若い頃に仕えた今川家(戦国大名)家臣の、松下加兵衛の秀吉の印象
  ↓
「猿かと思えば人、人かと思えば猿」

毛利家家臣の秀吉の描写
  ↓
「赤ヒゲを生やし『猿まなこ』をぎょろつかせ…」

秀吉の朝鮮出兵を聞いた蒲生氏郷(戦国大名)のセリフ
  ↓
「猿め、死に場所を失うて狂うたか」


秀吉が実際に猿に似ていたのかどうかは、わかりません。
江戸時代などに書かれた様々な記録に、秀吉は猿に似ていた、と書かれているだけで、秀吉が本当に猿にそっくりだったのかは確かめる方法は...続きを読む

Q明智光秀はどうして信長を殺したんでしょか?

こんにちは
日本史に詳しくないのですが、
明智光秀はどうして信長を殺したいと思ったんでしょうか?

また信長というのは攻撃的な性格という印象がありますが
いろんな人間から恨みを買ったため、そのうちこういう目にあうのも
自然な成り行きだったという事なんでしょうか?
それとも…???

Aベストアンサー

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではないでしょう。ご紹介したサイトには7つもの推測が記載されていますが、これだけの背景があれば、謀反を起こすには十分すぎるたのではなかったかと思います。

 光秀は、今で言うインテリで、大変まじめな性格でした。逆に、プライドが高く、融通の利かない面があったと推察されます。このことから、信長の過酷な性格と相容れない部分が多く、最後には追い詰められて限界に達したのでしょう。

 彼は信長に見出され、一気に出世階段を駆け上がっていきますが、人使いの面では、他の織田家の武将同様、酷使されていました。信長は、今まで評価してきた幹部でさえも、働きが少し鈍るだけで首にしたりしたのですが、こうした面が、彼を追い詰めることになったのでしょう。

 余談ですが、現代を見ても、急成長している企業で、社長の腹心が唐突に辞職するケースは大変多いのです。社長からすれば、部下に十分すぎる給料をやって、相応のポストを与えて、一体何の不満があるんだ?と言うことなのでしょうが、それに応える部下の心労は、人並みではないと言うことでしょう。こうした企業では総じて、頭脳だけでなく、図太い神経をも持ち合わせていなければ、勤まらないことが多いようです。

 ご参考まで。

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではな...続きを読む

Q徳川家康の織田信長に対する思い

徳川家康は事実上、信長にありもしない嫌疑をかけられ妻子を失っていますが、同盟国(従属)である社会的(家を存続させる)な立場の思い、と人間としての想い、などのわだかまりは一切なかったのでしょうか?

またチャンスがあれば織田家を裏切ろう、といった野心はあったのでしょうか?歴史的な文献はないと思われますので個人的な意見をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

ちょっと違います
家康が信康と築山殿を斬られて恨んだのは信長ではなく家臣の酒井忠次ですよ

息子と妻が盟主に嫌疑を掛けられて切腹させられたのは 確かに理不尽とは言え
事実上信長の従属下にあった家康は仕方ないことだと 有る程度諦めをつけています

しかし名代として信長に申し開きに行った酒井忠次は何の弁解もせずに帰還
家康は大久保某から信康が切腹した事を聞かされると「斬ったと言ってどこかに逃がしてやれば良かったものを…」と悔やんだそうです
その後 酒井忠次の子 家次がわずか10万石に抑えられていた事に不満を持った忠次は家康に
「息子の石高を加増してほしい」と頼んだところ 家康は「お前でも息子はかわいいのか?」と言い放ったと言います
あの時 信康を救わなかった酒井に対する恨み のようなものがあったのでしょう
あるいは信長に向けたくてもどうしょうもないうらみを酒井に向けた可能性もあります


信長を裏切ろうとは思わなかったでしょう
徳川家が存続し得たのは間違いなく信長との同盟があったからです

まぁ一説には本能寺の変の黒幕が家康で この信康の件の恨みでの犯行という説もありますが
家康自身光秀に命を狙われてるわけですから それはありえないでしょう

ちょっと違います
家康が信康と築山殿を斬られて恨んだのは信長ではなく家臣の酒井忠次ですよ

息子と妻が盟主に嫌疑を掛けられて切腹させられたのは 確かに理不尽とは言え
事実上信長の従属下にあった家康は仕方ないことだと 有る程度諦めをつけています

しかし名代として信長に申し開きに行った酒井忠次は何の弁解もせずに帰還
家康は大久保某から信康が切腹した事を聞かされると「斬ったと言ってどこかに逃がしてやれば良かったものを…」と悔やんだそうです
その後 酒井忠次の子 家次がわずか10万石に抑え...続きを読む

Q第一章→第一節・・・その次は?

よく目次で
第一章○○○
 第一節△△△
 第二節□□□
第二章◇◇◇~
とありますよね?その第一節をさらに分けたい場合、第一何となるのでしょうか。
ご存知の方よろしくお願いします。

Aベストアンサー

たまたま手元に「公用文作成の手引き」という冊子があります。
役所で使用する文書規定の本です。

これによると、章、節、項までは皆さんのおっしゃる通り。

さらに、「項目を細別する見出し符号は以下による。」とあります。

第一章 第二章・・・
 第一節 第二節・・・
  第一項 第二項・・・
   第1 第2
    1 2 3
     (1) (2) (3)
      ア イ ウ
       (ア) (イ) (ウ)
        A B C
         (A) (B) (C)
          a b c
          (a) (b) (c)

注1:「第1」を省略して「1」からはじめても良い。
注2:「イ」「ロ」「ハ」「ニ」は用いない。


以上のように書いてありました。
しかし、何にせよ法律で決まっているわけでもないし、通常は
自分の好みで選択して、問題ないと思います。

Q楽市楽座って何がいいのですか?

楽市楽座というのは税金がいらないから商人が
たくさん集まって国がはってんするということですか?
そうしたら信長などはどこからお金を手に入れるのでしょうか?
また秀吉は家康と違い米穀に依存する度合いが低い代わりに
博多、堺などを重視したようですが、やはり楽市楽座
にした場合、どうやって現金収入をえるのでしょうか
昔から、名前はよく知っているのですが、いまいち
なにがそんなにお得なのかぴんときません。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

信長が安土山下町中に定めた、いわゆる「楽市楽座」令は信長政権の首都に足る町作りが主眼であったと思います。

元亀元年に六角氏が逃げ、天正四年から信長が住み始めた安土は、丸六年間は閑散とした、寂れた場所に陥っていたことと思います。その間、配下の者を配したことはありますが、日本の中心とはほど遠い場所であったでしょう。

信長が住み始めた翌年に発令された安土山下町中への掟の例を挙げると…
・すべての税金は免除。
・商人が通行するときにはは必ず町に宿泊すること。
・普請工事の義務を免除する。
・伝馬のための馬の拠出する義務は免除する。
・自家を出火させたら追放する。
・信長の領地内に徳政令を布いても、この町だけは免除する。
・ほかの土地から来た者も前から住んでいた者と同じ扱いとする。
・喧嘩・口論・押し売り・押し買いは禁止する。
などがあります。

いずれも商人・居住者の天国です。これだけやれば人は自然と集まります。過去の楽市楽座令は商売をする上だけのことしか規定していなかったのに対して、この楽市楽座令は都市としての秩序のある町を作ろうとする信長の意図を感じます。

信長が安土山下町中に定めた、いわゆる「楽市楽座」令は信長政権の首都に足る町作りが主眼であったと思います。

元亀元年に六角氏が逃げ、天正四年から信長が住み始めた安土は、丸六年間は閑散とした、寂れた場所に陥っていたことと思います。その間、配下の者を配したことはありますが、日本の中心とはほど遠い場所であったでしょう。

信長が住み始めた翌年に発令された安土山下町中への掟の例を挙げると…
・すべての税金は免除。
・商人が通行するときにはは必ず町に宿泊すること。
・普請工事の義務を...続きを読む

Q調べやすい歴史上の人物

中学生です。夏休みに、歴史新聞という課題を出されました。
条件は、『死んだ人』なら、誰でもいいらしいです。
でも、私は歴史上の人物の誰かにしたいのですが、どれもピンとこず・・・・。
死んでいて、中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

Aベストアンサー

歴史新聞の作り方
http://event.kids.yahoo.co.jp/summer2006/study2/society04/index.html

>中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

・聖徳太子
・天智天皇
・天武天皇
・源頼朝・義経
・足利尊氏
・織田信長
・豊臣秀吉
・徳川家康
・西郷隆盛

あたりは、エピソードがたくさん残っているので、やりやすいでしょう。

Q織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が行った事、功績を教えて下さい。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が行った事、功績を教えて下さい。
サイトなどを見ても難しい言葉ばかりでよく分かりません。
簡単に分かりやすく詳しく3人を比較して書いてくださると嬉しいです。

Aベストアンサー

質問者様の意思を尊重して回答します。あいまいですが、ご了承ください。

☆織田信長
貿易の自由化、楽市楽座は大変な功績です。
能力主義で人材を登用した功績。⇒秀吉の登用。

☆豊臣秀吉
私的には、あまり功績は無いと思います。
基本的に、信長の遺志を引き継いだ人物。
子(後継者)に恵まれなかったのが、短命政権となってしまった。
やはり、家康の存在が大きすぎました。

☆徳川家康
戦国時代を終わらせたという功績。

すべては家康で終息しています。
脱線しますが、家康が「本能寺の変」の主犯格との一説もあります。
家康のブレーンに「天海」という人物がいました。
「天海」=「明智光秀」という説があります。明智光秀は生きていたという説です。

歴史に「たら」「れば」はないですが、織田政権とあるいは豊臣政権が続いていたらどうなっていただろうか?と思うとさらに興味が湧いてきます。


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