プロが教えるわが家の防犯対策術!

【適当ではないかも知れませんが、思いつく例です】
 1.手前、お手前などの例
  『手前どもは、・・・』と『てめぇ、なにしやがるんでぇ』

 2.おのれ(とは、己ですね。時に二人称を指示することもありますね)
  『おのれ、このままでは、すまさぬぞ。覚えとおけ・・・』

 日本語に限るのか、時として第一人称で第二人称の表現をしている場合があります。
 (1)このような混同的使用の仕方は言語的にはどのような経緯をたどってきているのでしょうか?
 (2)そしてどのような効果を狙って使われるようになったのでしょうか?
  

A 回答 (3件)

「自分」「おのれ」「手前」「われ」など、元は全部自分自身をさすのですが、「あなたから見た自分」という意味で、相手をさす言葉になっていったものと推測します。



日本では、その場のいちばん年下の人物目線で人を呼ぶ、という習慣があるらしいです。
一家三世代そろったときに、自分の母親に向かって「おばあちゃん」と言うでしょう? 自分の子、つまり三世代の中での孫から見た「おばあちゃん」なんですね。

また小さい子に向かって「ぼく、どうしたの?」と聞くこともありますね。その場での一番年下からの目線で、その人物から見ての「ぼく」ということです。同様の例と言えるのではないでしょうか。

また、その場での年下の者、という使い方から、相手を年下、目下と見ている感じがあります。だから、この使い方は年下の者や、相手をののしるとき、そんなに尊重しないでよいときなどに限られるのではないでしょうか。
「自分、前からそんなんやった?」
「われ、いてまうど」
「おのれのやったことやないか」
あまりきれいな言葉に聞こえないのは、そんなわけでしょう。

この回答への補足

bildaさんは大阪の人でしょうかね。
言葉少なの中で、示唆的なお話でした。
迷いましたが、起承転結の感じられたmarisukaさんを選ばせてもらいました。
有り難う御座いました。

補足日時:2012/03/24 09:28
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この回答へのお礼

なるほど、そういうことでしたか。
確かにきれいなことばではないですね。
そしてどちらかというと、喧嘩ことばや罵りあいのときに多く使われていますね。

有り難う御座いました。

お礼日時:2012/03/23 15:07

 


 人称転倒 ~ 大阪弁には書き言葉がない ~
 
 ラテン語で、話し言葉が衰退し、書き言葉が残ったのは、教育の格差
が原因だそうです。その逆に、話し言葉だけが発達し、書き言葉として
の文法が定着しなかったのが、大阪弁を筆頭とする、日本語の方言です。
 
 大阪弁しか話せない人々には、共通語・標準語に対する、いわれなき
コンプレックスから、過剰な自己主張が感じられます。たとえば「私は
君の夫だよ。君は、私の妻ではないか」を、つぎのように発言します。
 
── わいは、自分の連れあいやで。自分は、わいのヨメちゃうんか!
http://q.hatena.ne.jp/1243635431#a923081
 なにわ人称考 ~ 自称=わい、対称=自分、他称=あれら ~
 
── 攻撃的態度で呼ぶ場合に使われ、語感は荒い(日本語俗語辞書)。
http://q.hatena.ne.jp/1332052990#a1137881
 瀕死の関西弁 ~ 格下の相手を「自分」と呼ぶ ~
 
── 大阪発のニュース原稿は、しばしば関西弁が挿入されるという。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030415
── 森 富美《踊る!さんま御殿! 200. 日本テレビ》の発言から
 

この回答への補足

コピー貼り付けで申し訳ないが、
bildaさんは大阪の人でしょうかね。
言葉少なの中で、示唆的なお話でした。
迷いましたが、起承転結の感じられたmarisukaさんを選ばせてもらいました。
有り難う御座いました。

補足日時:2012/03/24 09:28
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この回答へのお礼

言語は書き言葉にならないものが、本当のすがたですね。
ですから、日本言語の標準語は、何か東京の山の手あたりのことばであったらしいですが、これは言語としては無性格で存在の力や色、形がないですね。
山の手あたりの方言としてあれば、この標準語の方言も多分存在性があったのでしょうが。
言語は生き物、そしてその個人とは切り離せないもの、人それ自身ですね。
すごい思想家や雄弁家の言語はまさに言霊というか、力ですね。これは真似もできないし、翻訳もできない。
翻訳は新たな創造とでもいえますね。受け取りもそうですね、自己の中に作り上げていますね。

方言は大事にしたい。
私は昭和二桁になったばかりの二二六の頃、浅草生まれ育ちで、戦災で隅田川を、そして荒川を越えて河川敷の河童になった小僧です。
お江戸の職人や四十八組の方がやはりここらに戦災後、家を持ちました。
お江戸の訛りは文字に出せない。
しかしこの訛り言葉が心性であり、その人であり、歴史であり、思想と生き方、許せねぇことや義理がすたれりゃ闇。
義理と人情(のばしちゃぁいけねぇ)とやせ我慢しねぇ奴は男じゃねぇですね。

ありがとうございました。方言しして文字化しない言語には生命があり、そこは一人二人の人称の入れあいがありますね。

お礼日時:2012/03/24 09:25

回答ではないですが、「われ」、「自分」もありますね。

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この回答へのお礼

はぃ、ありましたね。
有り難う御座います。
どうしてこんな言い方ができてきたのか不思議ですね。
こういうときの第二人称っていうのはどういう意識でさしているのでしょうね?

お礼日時:2012/03/23 15:04

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