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「日本人の大多数は無宗教」とよく言われるけど、皆様どう思われますか?

神道は宗教じゃないと言われればそうだと思うけど。

A 回答 (24件中1~10件)

No.22です。

すぐに再回答するつもりだったんですが、その後、パソコンが急に起動不能となり、新しいパソコンに買い替え、アクセスができない暗黒の日が一週間続いて、回答できなくなっていました。
申し訳ありません。

さて、丁度、以前にも読んだ阿満利麿氏著『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)を再読しましたので、そちらも参考にして、以下お答えしてみます。

・日本人の大多数が「無宗教」と言っている意味は、「特定の宗教(団体)の信者ではない。」という意味であり、そのことが直ちに「宗教心」や「信仰心」の欠如を意味しているわけではない。つまり「無宗教」は「無神論」を意味していない。統計によると、日本人の7割は「無宗教」を標榜しているが、その中の7割の人は「宗教心は大切だ。」とも答えている。

・現に、先祖を敬い、墓参を欠かさなかったり、「人から後ろ指を刺されるようなことをしてはいけない」という「恥の文化」を持ち、さらに人が見ていなくても、「お天道さまの下では悪いことはできない」という究極の倫理観を保持し、行動に規律をはめていることは、ひとつの宗教心の表れだと思われる。「宗教心」・「信仰心」と「道徳/倫理観念」とは表裏一体であり、宗教の目的も実は、「神様を信じる」以前に「よい行いをする人間になる」ことであるのではないか?

・又、最近は「聖地」ブームであり、科学で割り切れないそういった崇高なものにあこがれる心理も確かにある。普段は、宗教と縁のない生活を送っていても、伊勢神宮やバチカンのような聖地・聖域を訪ねると誰しも厳かな気持ちになるのは自然だろう。又、キリスト教音楽(例えば、バッハのマタイ受難曲やヘンデルのメサイヤなど)を聞くと誰しも癒された気持ちになるだろう。

・今度の東日本大震災のような大災害や理不尽な事件などで、思いがけず近親者が犠牲になったりすると、人は神や宗教を思い出し、祈りたい気持ちになる。(一方では「神も仏もあるものか?」という神への離反心理も働くことがあるが、本当に宗教心のある人は、神に信頼を置いて、信仰心を深めるものだと思う。)

・「世の中は科学が万能」だと普段は信じている人でも、時に思わぬ挫折や心労を経験すると、神に回帰したい気持ちになるものだ。実際、世の中には科学だけでは割り切れないことは山ほどある。

・実は宗教には「創唱宗教」と「自然宗教」がある。「創唱宗教」とは、仏教、キリスト教、イスラム教のような教団組織を持った宗教、「自然宗教」とは、先祖を大切にする気持ちや村の鎮守に対する敬虔な気持ちなどを意味している。多くの日本人は「創唱宗教」の信者になることに抵抗があるが、「自然宗教」の信者であることが多い。

・又、日本人が「無宗教」を口にする理由のひとつに、風俗や習慣となってしまった宗教は「宗教」ではない、という思い込みがある。例えば、クリスマスはれっきとしたキリスト教の行事であり、葬式仏教もまごうことのない仏教である。地鎮祭も、本来神道の宗教行事のはずである。にもかかわらず、こうした行事はもはや「宗教」とはみなされないことが多い。時に、靖国神社参拝や、三重県津市の地鎮祭に対する訴訟のように、こうした行事を宗教的行事だからけしからんと、主張する人々に出会うと、多くの人が違和感をもつのは、こうした理由による。

・神道は、天皇を中核とする宮廷信仰が中心であり、「自然宗教」で培われてきた神観念が、当時の先進国である中国の思想などにより再編成されたものだという説が有力のようである。そこには教祖という存在は確認されていないが、何らかの人為が加わっていることが想像される。この意味で神道は「創唱宗教」と「自然宗教」の中間に位置すると考えられる。

・又、「宗教は怖い」から近づきたくない、という人もいる。昨今は、オウム真理教などのカルトや、モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、統一教会などのように教義に著しい疑問がある宗教や、金集めを目的にした悪徳新興宗教などがはびこり、「創唱宗教」に対する信頼が失われている。宗教人である前に「よき市民」であることを心がけていればよいが、「宗教に入ると常識ではおしはかれない得体の知れない世界に入り、外の人とつきあえなくなる」と思い込んでいる人も多い。

・「創唱宗教」は、人生の様々の矛盾や不条理を根本的に解決しようとしている。こうした矛盾や不条理について自覚し、それらを克服し、努力することを求める。だから、そんなに突き詰めて人生の疑問に向き合いたくない、喜びも苦しみも悲しみもほどほどに生きていたい、と言う人にはハードルの高い教えなのかもしれない。日本人は農耕民族であり、人生の深淵を見ることなく、楽観的に生きたいという人生観を持っており、「創唱宗教」に見られるような劇的な「回心」といったしんどさは味わいたくないと思っているのかもしれない。

・最後に、「創唱宗教」が持つ「排他性」も、「創唱宗教」に対する警戒感を強める原因になろう。私は、高校の時にカトリックの洗礼を受けて以来既に40年以上を経過しているが、未だに、キリスト教が持つ排他性に強い抵抗を感じている。幸い、カトリックは、1960年代に開催された「第二バチカン公会議」以降、社会とりわけ他宗教との対話に力を注ぎ、少なくても表面上は、排他的な印象が大分薄まったと認識しているが、宗教人の中には、自分の宗教の正当性を主張するあまり、外部に対して冷たくなる人は多いし、その心が高じると宗教戦争に至る例も歴史上多い。

以上、長々と述べましたが、私も特定の「創唱宗教」に入信することに抵抗がある人々の気持ちはわかるつもりであり、「自然宗教」の信者であってもそれはそれでよいとは思いますが、できればもう一歩進めて、色んな「創唱宗教」に多くの人が出入りしてほしいものだと思います。そして「宗教」や「神様」というものが、本来は怖いものでも、怪しげなものでもなく、人間の生活を根本的に見つめるための大切な教えであり、「人間力」をアップするために欠かすことのできないものだと確信します。

しかし、それでも私は、いずれかの「創唱宗教」に入信することは必ずしも勧めません。私は、カトリックの信者でありながら、坐禅を組み、お経を読み、神社に出入りし、「特定の宗教の神」にこだわらない「普通名詞の神」をイメージして祈ることに喜びを感じてきました。私の亡くなった祖母は、若い頃、キリスト教のミッションスクールに通いましたが、当時はキリスト教の聖職者や信者に偽善者や外部の世界に対する「見下し感」が強く、祖母は結局その世界に馴染めませんでした。結局、彼女はキリスト教には入信せず、代わりに多くの宗教に共通する根本原理を探求し、「全ての宗教は一点に帰する」という結論に至ったようです。ですから彼女の結論はキリスト教と同じ「一神教」ではあるのですが、その「一点」に至る道としては、色んな宗教があり、夫々共存は可能とのことになると思います。

まあ、「宗教」ということを日頃突き詰めて考えなくても、少なくても、「よい行い」をするためには、「神様に好かれる人間になろう」くらいの気持ちを持っていてもバチは当たらないのではないかと思います。
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この回答へのお礼

度々ありがとうございました。日本人は言霊信仰、穢れ忌避の神道の氏子です。それに先祖崇拝が加わります。

クリスチャンやムスリムの様に、神が人間を作ったとは信じていません。

お礼日時:2012/04/20 22:23

NO14です。

お礼ありがとうございました。

「大多数の日本人はパンのみにて生きる」は聖書の有名な一文「人はパンのみにて生きるにあらず」をもじったものです。

「人はパンのみにて生きるにあらず」とは人間はパン(物質的な満足)だけでなく神の教え(精神的な満足)で生きている、すなわち宗教が人を人にすると言う意味です。
日本人は和の文化、恥の文化です。宗教で統率されずとも人が人となりえるので「大多数の日本人はパンのみにて生きる」という言葉を作ってみたということです。
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。「宗教で統率されずとも人が人となりえる。」その通りですね。ご回答者様の言葉のセンスには敬服します。

お礼日時:2012/04/03 22:06

jerusamalaさんというニックネームは、キリスト教やユダヤ教、イスラム教の聖なる都、「エルサレム」を連想させますね。

何かいわれがあるのですか?
私は、高校の時に洗礼を受けたキリスト教(カトリック)信者で、教会の聖歌隊やキリスト教音楽の合唱団に入り、大きな充実を感じています。
でもガチガチのキリスト教信者ではなく、仏教や神道などにも共感を持ち、坐禅やお経を読むことも大好きですし、第一、日本人が特定の宗教に所属することを敬遠し、「無宗教」と名乗る心理もよくわかります。そのあたりが、西欧人には仲々理解されないようですが、一両日中に、そうした事情について分かりやすく、再回答する用意があります。

なので、随分回答が来ているようですが、まだクローズせず、ちょっとだけお待ちいただいてよろしいですか?
その間、私が回答や質問をした以下の過去問でもご覧になり、お待ち下さい。
今度の回答では、その後読んだ本からの情報、考えたことなども入れて、なるべく、もっと簡潔にわかりやすく書いてみるつもりなので、楽しみにしていて下さい。

海外で無宗教と言ったら無神論者ととられてしまった(回答No.13)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3211328.html

自分が何教かわからない。(回答No.4)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5308582.html

宗教を信じている人っているの?(回答No.5)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4716939.html

クリスチャンとノンクリスチャン(回答No.8)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3591349.html

「普通名詞としての神」に祈ること(私の質問)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html









よろしくお願いします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。私のHNは、プロレスラーのアブドラ・ザ・ブッチャーの無名時代のリングネーム「ジェラス・アマラ」が由来?(笑)です。

当分は〆切ません。勉強になりますしね。

お礼日時:2012/04/01 10:33

日本は仏教の国だし、仏教の慣わし通りに葬式とかする人多いから大半は仏教徒です。


ただ信仰心が強くない人が多いから無宗教と言われるだけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。個人的には、私も含めて、日本人の大半は'穢れ'を嫌う神道の信者だと思います。

お礼日時:2012/04/01 10:23

日本人は無宗教?



65歳♂

無宗教と言うより、ただ節度がないだけ?。

○○頼みの対象が色々あるから。

特に仏教徒のような日本人は、と思うけど?。

家には仏壇と神棚を祀り、朝は先祖へ手をあわせ
困ったときは神頼み?。
生まれたときはお宮参りで
死んだときは坊主頼みで仏式葬儀、
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この回答へのお礼

ありがとうございます。多くの日本人は物事を突き詰めて考えないんです。私も日常ではしません。

お礼日時:2012/04/01 10:19

英語で-theismは~神教の意味なのです。



atheism...無神教
monotheism。。。一神教
pantheism。。。。多神教

で、ユダヤ教、ユダヤ教、イスラム教は一神教に分類されます。

アジアの多くの国々は、多神教に分類されていて、日本もその中の一国でした。
一言で言うならば、自然の中に神々を見る、という考え方です。

米国の大学での、講義からです。

海外からは、日本人の宗教観は”そう見える”、ということで、ご参考まで。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。欧米や中近東では多神教は絶滅したから、彼らにはそう見える、ということですかね。

お礼日時:2012/04/01 10:13

「無宗教」ではなく、「『無』の宗教」を信心する国民性だと感じてます。



「無」の中に「有」を見出そうとする国民性だとも言えるでしょうか。

参考書籍
「無思想の発見」
http://www.amazon.co.jp/dp/4480062807
http://blog.goo.ne.jp/zen-en/e/3b756c312b9531c81 …
http://www51.tok2.com/home/sendatakayuki/etcgenk …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ご紹介頂いた書籍は、時間のある時に読んでみます。

お礼日時:2012/04/01 10:09

創価学会 壮年部の者です。



>日本人は無宗教?
>「日本人の大多数は無宗教」とよく言われるけど、皆様どう思われますか?

●無宗教ではありません。

現在の日本では、仏教、神教、キリスト教、etc、、、、
様々な宗教が存在しています。宗派も各先人の教えの
もとに複数に分散され、○○宗○○派などのたて分けが
されています。
私は、キリスト教には詳しくありませんが、キリスト教でさえ
分派はされているのではないでしょうか。

『無宗教』であるという事は、本来はあり得ません。
それは、人にはルーツが有るからです。いづれにしても
“親”がいるという事です。その親には、また親がいます。
ということは、自分で改宗しない限り、その宗教の影響を
“命”が受け継いでいるのです。

近年の社会的イメージは、宗教を“悪”とするイメージが
強くなっている為、【とりあえずは、無宗教と言っておけば
、、、】自身のイメージが崩れずにすむというだけの気持ちで
「私は無宗教だ!!」などと、叫んでしまうのです。無宗教だ
なんて宣言している人ほど、実は宗教については全くの
無知なのです。

そもそも、宗教の役割は国を治め、安穏なる生活を送る
為に用いられたものなのです。しかしながら、権力者から
してみれば、【自分自身が絶対的なものである】必要が
あり、宗教という物事を正面から向き合いもせず、坊主に
任せきりにしてきた事が、宗教が軽んじられ、教学や修行
も形骸化されてきたのは、歴史的事実なのではないでし
ょうか。
そんな日本ですから、イベント的に神道になったり、仏教
になったり、キリスト教になったりしてしまうのです。


■結論として⇒『無宗教』というより『宗教無知』なのです。

これは学校及び社会教育に問題が有るのですが、長い
時代の流れの中で、そう成ってきてしまっている事なので
現時点では仕方のない事なのでしょう。
しかし、こういう時代だからこそ、また、こういった質問や
回答をきっかけに、少しの方でも真剣に“宗教”という事に
ついて、何らかの研鑽をされることは、小さい事のようですが
重要な事だと思います。
それは、この質問・回答だけではないですが、多くの方は
特に研鑽もせずに“自論(自分の考え)”だけを述べている
からです。
大学教育などで、宗教学などを学んだのでしょうか??
何処かの宗門に入り(出家して)教学を見に付けたのでしょ
うか??

仏教には、『法に依って、人に依らず』という教えが有りま
すが、宗教については『法』を根本にした上で、回答する
べきだと思います。


>神道は宗教じゃないと言われればそうだと思うけど。

●神道も日本古来からある、宗教ですよ。
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この回答へのお礼

実は学会の方からのご回答をお待ちしていました。お礼が遅くなり、申し訳ありません。

(私を含めて)日本人の大多数が宗教無知であることには賛成します。特に近年、自分は無宗教だと言い張る日本人が多いのは、オウム事件の所為だと思いますよ。ですがこのグローバル化の時代、外国人と付き合う機会も急増していますから、宗教無知では済みません。私がこの質問を投稿したのはそうした実利面からの動機です。敬虔な特定宗教の信者の方にしてみればとんでもないことでしょう。

宗教法人が経営母体の学校で自発的に学ばない限り、宗教について深く考える人は少ないです。法については、学会だと「法華経」でしょうか?

さて、神道には明確な『ドグマ』がありません。キリスト教・ユダヤ教のバイブルやイスラム教のコーランの様な聖典、仏教の経典、儒教の四書五経に相当するものがありません。だから宗教ではない、と思います。

神道にあるのは、「言霊(ことだま)信仰」と「穢れ忌避」のみです。作家の井沢元彦氏の説ですが、私は賛同します。

この質問は当分は締め切りません。異論・反論は歓迎します。すぐにお礼はできませんが、ご容赦下さい。

お礼日時:2012/04/03 21:58

どうなんでしょうね。



1神信教では無く逆に多神信教論者なのではないかと思います。

八百万の神等と言う言葉が有る様に、又、鰯の頭も信心からとか、困った時の神頼みとか誰でも一度は神様に願掛けをした事が有りそうな気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。私も受験の時は神社に願掛けしました。皆そんなものなんでしょう。クリスマスは祝わないが、初詣は毎年行きます。

お礼日時:2012/04/01 10:06

日本人の無神・無宗教論者です。



でも、神社にもお寺にもお地蔵さまにも、手を合わせて
お願い事をいたします。
『家族を守って下さい。』『死者をお願い致します。』・・・。

でも、クリスマスと同じで習慣であって宗教や神道は
関係ありませんね。

全部が良い所取り・・・(^^;)占いを読むのと同じです。
都合が良い処だけ利用して生活しています。

アーメン、南妙法蓮華経、アッラーは、知っていても
内容は知りません。

罰当たりでしょうか?解脱は無理でしょうか?家族葬を希望します。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。usagiminntoさんの感覚は僕と近いですね。

クリスチャンではないですが、イエスの『汝らの中で罪なきと思う者のみ、この女を石で打つがよい。』と、『金持ちが天国に行くのは、駱駝が針の穴を通るより難しい』(只の貧乏人の僻み(笑))という言葉は好きです。

お礼日時:2012/03/30 20:11

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