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一度起きたことは何度も繰り返される?
その意味を全く理解ができません。
人生において、一度きりの出来事ばかりです。
ほとんどが繰り返されることなく過ぎ去ってます。
なので永劫回帰が全くあてはまらず理解が出来ないのです。

私は哲学について詳しくない素人ですので、難しいことは解らないかもしれません。
出来るだけ簡単にお教え頂けるとありがたいです

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A 回答 (11件中1~10件)

自分の人生を否定しないで、


その事象が起こるのは偶然ではなく、
必然であるという教えではないでしょうか。

つまり、同じことをすれば、同じ状態にたどりつくのです。
たどりつかなかったのは、同じことをしてなかった、同じ状態ではなかったのです。

そういう教えではないでしょうか。
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この回答へのお礼

非常に簡潔であり、物凄い説得力がありました。
同じことすれば同じ状態になる。
同じ状態にならないのは同じ事をしていないから。
そういうことなのかー!

お礼日時:2012/04/12 13:01

>そりゃ当り前だーとそれは思ってしまいます。



本当にそうであれば、貴方は超人間(Uebermensch)に近い人間かもしれません。

貴方は、自分の人生で遭遇することをすべからく抽象化する、高度な抽象化能力を備えれていると思われます。

自分が生まれてきたことも、恋に落ちることも、最愛の人と永遠に別れることも、そして自らが必ず死ぬことも皆「当たり前だ―」というだけの達観はなかなかできないことです。
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この回答へのお礼

あれま・・・
超人間とは程遠いところで生きてる私です(笑)

お礼日時:2012/04/26 15:16

hukikageさん、こんばんは



>「うーん、ちょっと違うような」

なるほど。


「永劫」ってのは、「億の億倍」てな意味と思います。
そんな(「永遠」に近い)時間を想定するなら、hukikageさんと「近い」人も、あるいは居る(可能性がある)のではありませんか?・・・それが、「永劫回帰」ということかと思います。
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この回答へのお礼

私に近しい人が居る?というのが永劫回帰ですか!?
同じことを繰り返すというのが永劫回帰では!?

お礼日時:2012/04/12 13:03

ウィキペディアの説明をお読みになりましたか。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB% …
 
転生思想(前世→現世→来世と‘生まれ変わる’)は、似たことが繰り返されるとかと、似た現象が繰り返されてしまうとかを意味しています。 同じ失敗や同じトラブルを100%同じように際限なく繰り返すようなことを、想定していません。 似たような失敗を繰り返すことがあったにしても、試行錯誤のようなもので、少しづつ良くなるとか進化するとか、やがては涅槃や天国に生まれるなどの変化を基本にしているのが、「輪廻転生」のようなものです。 「輪廻転生」は「まったく同じことを繰り返す」のではないです。 
 
生まれかわりの思想は、一度の生では不完全であっても、それを引き継ぎながら、やがては完全に向かう、完成し涅槃を達成する、天国にいく、というような信念なのでしょう。
 
現状の不完全さを悪いことと否認し、やがては完全な達成ができるというような、そうした思考や信念を拒否して、自分のやったやってことを、世間的な意味での失敗や道徳的、法的に良くないとされたことも、すべて「それが自分の行為だ」と開き直って、必ず自分のやったことは1回で終わらせず、無限の時間の中で未来永劫、何度でも無限に繰り返すという自分に関する信念の強固な宣言を聞いて、「この人は永劫回帰を宣言した超人」と評したらしいです。
 
こうした永劫回帰、自己の絶対性を、自己の信念とできる人は少ないと思います。
自分がやったことは成功も失敗も、恥ずかしいことも、すべてそれを自分と自認し、永劫回帰を宣言できる人は少ないです。
 
普通の多くの人は、昨日、今日、明日と毎日、朝昼晩が繰り返され、春夏秋冬が繰り返されると表現することはあっても、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」と思うでしょう。 人の生まれかわりを信じる人でも、同じことが繰り返されると思う人が多数いるとは思えません。
 
「二度あることは三度ある」は同じ失敗を繰り返す回数を減らすための警告の諺です。
「一度おきたことは二度、三度ある」「一度起きたことは何度も繰り返される」とは違います。
「輪廻転生」は「まったく同じことを繰り返す」のではないです。
 
永劫回帰を誤解している場合もあると思いますが、誤解しないとしても、永劫回帰の死そうそのものが納得できないという人は多いと思います。
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この回答へのお礼

確かに納得するにはとても難しいですね。

お礼日時:2012/04/12 12:59

私は上手く説明できないので、詩を作ってみました。


見よ!世界中には物があふれている。
生き物、石、土、水が、満ち溢れている。
今、目の前に有るのだ。

有るとは、どういうことだろうか。それは無から現れたのでは決してない。有る物が、有るところに流れ着いたから、有るところに有るのだろう。

しかし人間ならば、かく生きようとする自由への意思、そしてかく有りたいと願う決意性をもって、ここに有る者が有るのだ。それはすなわち、権力(ちから)への意思。

自分が自分の支配者たらんと欲する、ゆるぎない権力への意思をもって、すなわち有るところに有るのであろう。

たとえるなら、結婚記念日には、初デートで食事をしたあのレストランで、食事をしたい。そうしようとする権力への意思。

否、なんとしてもそうしなければ、自分が自分で有りえないとする権力への意思であろうか。

ならばたとえ生まれ変わったとしても、苦楽を共にした妻ともう一度出会いたい。そして必ずや生涯連れ添い、今度こそ幸せにしてやりたいと願う男の心。

そしてあのレストランで、食事をして、今度こそは気の利いた労いの言葉のひとつもかけたいのであり、安月給であったために買えなかったダイヤの指輪を、今度こそはプレゼントしたいと願う男の心であろうか。

それはすなわち何歳になっても変わらない、少年が母を想う心でもあり、妻を慕う心でもあり、それが、ちからへの原動力となるのだろうか。

少年よ、母性はわれらを愛してやまないのだ。われらはその母性に報いなければならない。ウザいなどとは言ってはならない。優しく距離を置くのだ。母性がときに異常さを見せるのは、愛深きゆえなのだから。

永劫回帰とは、男が母性に報いるために、なんとしても生き、なんとしても女を幸せにしようとする権力への意思のあらわれなのだ。そして生まれ変わっても消すことのできない命の炎である。それは求めるのではなく、みずからが灯すのだから。

ちなみに、こんなことを書き込んでいる私は、女にはちっともモテないんです。モテない男のたわごととも受け取れそうな気がしないでもないが。
まあ、人間的に解釈してみました。(- e -)

しかし、余りに人間的な・・・こんなことでいいんでしょうか
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この回答へのお礼

ごめんなさい。
永劫回帰とどう解釈出来るのか理解ができませんでした・・・

お礼日時:2012/04/11 19:35

追伸まで


>>では世の中の何もかもが永劫回帰にあてはまるという意味では無いのかな?

現実の事象で永劫回帰にあてはまることはないですね。例えば、舞台劇は毎日、同じ劇を実演してますが、昨日の舞台と、今日の舞台は全く同じではないでしょ。客も違うし、個人個人の役者の意識も昨日と今日では違いますね。たとえ同じと思えても周りの環境や意識は日々刻々と変化してますので同じものなど一つとしてないのですね。空間も時間も変転の中にありますので同じものは一つとしてないのですね。
意識も環境も刻々と変わっていますが、全て記録していたとすると、ある時期の意識・環境を何度も読み出すことができるということなのです。意識世界では、壊れたテープレコーダのようにある舞台を完全に繰り返すことができるという意味ですね。「註:意識の記憶のことを、仏教では蔵識、キリスト教系ではアカーシックレコードといいますね。この記憶を取り出すと意識的には全く同じことを繰り返すことができます。でもあくまで意識世界のことですね。」
一般的に、意識が一点にとどまって動かない状態の精神状態は「気が狂れた状態」といいますね。壊れないとわからないですよね。ニーチェは人間を機械に見立てかったのでしょう。超人ではありません、ただ狂っていただけですね。だから理解が難しいということかと思います。
参考程度に
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この回答へのお礼

壊れたテープレコーダーは完全に繰り返しますが、私達の人生は完全なる繰り返しは無いように思います・・・
機械ではないから。。。

お礼日時:2012/04/11 19:33

>私は今日、道端で事故にあったとします。



「私は」という個別・具体的な記述は抽象化する過程では些細な差異であって、本質では無いのでしょう。
「一人の人間が、道端で事故に遭う」という程度に抽象化してみれば、そのようなことは過去にも起きたし、未来にも起きるでしょう。

超人間は「私」という個別・具体的な事項、あるいは「自我」などは気にならないのではないでしょうか。

とはいえ、私自身も人間にすぎないので、超人間の視点は想像してみるだけですけどね、、、。
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この回答へのお礼

うーん
永劫回帰とはもっと深い意味を持っていると思っていましたが、ただ単に世の中に起きる出来事は、過去にも未来にも起きうる起きた出来事だという意味でしょうか?
そりゃ当り前だーとそれは思ってしまいます。

お礼日時:2012/04/11 19:31

>一度起きたことは何度も繰り返される?



表現としては、「今起きている事は昔もおきた事であり、将来も起きる事だ」と言った方が良く理解できるのではないでしょうか。

Ewig Wiederkunft des Gleichenというのが最初の表現だったようですが、”同一物(事象)の永遠なる再臨”とでもいうべき言葉の様です。

この言葉を正しく理解するには、高度な抽象化能力が必要です。

つまり、貴方のお祖父さんの人生、貴方のお父さんの人生、そして貴方の人生、この三つは異なった時間軸で起きている、異なる現象です。詳細・具体的にみるとそれぞれの人生はまったく違うものと言えるのではないでしょうか。

しかし、哲学の作法として、「高度な抽象化」をするとどう見えるでしょうか。母親の子宮で生を受け、出生後には他人の世話になって成長し、大人になったら異性と出会ってセックスし、その結果として子を設け、その後にも色々な人に嫌われたり、色々な人に好かれたしながら人生をすごし、必ず人生を終わらす、、、、。このように人の一生を高度に抽象化すると、お祖父さん、お父さん、貴方の人生が、おなじもので、繰り返されている、という視点を持つことが可能ではないですか?

人間(Mensch)のもつ抽象化能力には個人差があり必ず限界があります。
その人間の限界を超えた抽象化能力を備えたやつを超人間(Ueber Mensch)と呼びましょう。世間ではスーパーマンとか超人と呼ばれていますが、これと同じです。超人間は人間ではありませんから、我々人間とは異なった視点をもつであろうことは理解できますよね。

この超人間のもつ高度な抽象化能力を使って物事を見ると、個別具体的な差異は抽象化の過程で抹消され、本質だけが見えるようになり、その本質を見る限りにおいて、「今起きている事は昔もおきた事であり、将来も起きる事だ」と思えるようになるのでしょう。

私はただの人間であって、超人間ではないので、本当のところは判らないのですが、自分とは異なった抽象化能力を持つ超人間なら、Ewig Wiederkehrenが見えるのかと思っています。
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この回答へのお礼

なるほど。
自分の人生に起きる出来事のこと細かな括りの話では無く、もっと広く大きく考えた時の話ということでしょうか。
人が生まれ、結婚し、子を授かり、命のバトンが続く・・・この繰り返しを言うのでしょうか。

私は今日、道端で事故にあったとします。
しかしこの出来事は今後繰り返される可能性は少ないですよね?
自分に起こる出来事が幾度と繰り返される事はあまりない気がするのです。
なかなか納得ができません。

お礼日時:2012/04/08 10:29

永劫界という境地というか生き方、存在があることからのフレーズですね。


そこがもともと自身の自身たる世界、存在だという先験的ターム用語です。
ですから其処への回帰でしょう。事実界的には全く新たな世界にいくが、恰ももう生前からそれが自分の世界たるものだという、認識の仕方でしょう。
国語のことでもあり、心理学でもよく問題にされています。これを悟りとか解脱と、宗教ではいいます。
私も日々研鑽精進しています。
神が世界を創造したとか、エデンの園からでたとかいう神話はこの事を意味しています。
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この回答へのお礼

ちょっと難しかったです。

お礼日時:2012/04/08 10:25

永劫回帰とはどういうことですか?



○壊れたテープレコーダ状態ということですね。ニーチェも壊れてましたから壊れた状態が見えてしまったんでしょうね。壊れてない場合は、原因結果の連鎖の中に存在していますから同じ状態は存在しませんね。その意味では、壊れない限り永劫回帰は理解不能ですね。永劫回帰の状態とは、どういうものかですが、理解できる程度に説明すれば、自殺者は自殺で肉体は死にますが、残念ながら精神は死なないのですね。そこでまだ死んでいないと、同じことをいつまでも繰り返すのですね。壊れたテープレコーダのようにですね。その状態で肉体を持ってもやはり同じことを繰り返すという意味ですね。つまり精神が壊れているという意味です。
因縁果の連鎖は果が新しい因になり、新しい縁を経て新しい果になりと続くわけですが、永劫回帰とはある時点の原因と結果を永遠に繰り返す状態ですから、特殊な状態ということです。ニーチェやマルクルはこの罠に落ちたのですね。
これは個人の場合ですが、集団にも当てはまります。壊れた精神に染まった集団に同じようなことが生じるということですね。一度あることは二度ある。ということになるのですね。
例えば、ある集団の一部に大きな災害があったとしましょう。あなたも同じ集団の一部であるならば同じような災害に見舞われる可能性が高いということになります。これはニーチェのいう永劫回帰の集団バージョンですね。なぜなら災害にあった人々とあまり違わない精神状態にあるはずですから、原因と結果は間違いなく同じように繰り返されるということですね。原因が取り除かれない限り、同じ結果になりますから、例えば、昨今大震災を経験した日本人という集団は厳しい環境に置かれているということになりますね。次は質問者さんの番かもしれません。それを経ると一度あることは二度あるが理解できるようになるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

なるほど。
では世の中の何もかもが永劫回帰にあてはまるという意味では無いのかな?

お礼日時:2012/04/08 10:25

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Q永劫回帰に衝撃を受けました

今日、このサイトを見ていて、永劫回帰という言葉の意味を知りました。
以下引用です。
(1)時間は無限
(2)世界(物質?原子・素粒子の種類や数?)は有限
であれば、いつかは、世界が今と同じ状態になることがあるはず。
だから、今と同じことが、遠い未来にもまた繰り返される。

この永劫回帰という考え方に、驚き、衝撃を受けました。
これは事実と考えてよいのでしょうか?
もう一つ質問です。
時間が無限ならば、いつか、世界が今と違った組み合わせの状態になる事もあり、その結果、俺が、総理大臣として生きるという組み合わせの世界が出来上がる事もあると考えて間違いはないでしょうか?
つまり、「自分が平凡」な人生も永遠に繰り返され、そしてまた、「自分が総理大臣になった」という人生も永遠に繰り返されるのではないだろうか?ふとそんな疑問が湧きました。
哲学の初学者の自分に、なにか回答をお願いします。

Aベストアンサー

そのような概念を今初めて知りました。

これを数式で表わすと、時間を {今日、明日、明後日、… } と自然数全体 N (無限集合)と考えて、世界の状態 X は有限集合だから

日々の状態写像 φ : N -> X

は単射でないということでしょう。
(φ(0) が今日の状態、φ(1) が明日の状態、…)

しかし、ここからある n ∈ N が存在して φ(0) = φ(n) (いずれ今日と同じ状態が現われる)を結論づけることはできません。

もっともありそうなのは 「死」が世界 X に存在して、ある n_0 ∈ N が存在して ∀n( n ≧ n_0 ⇒ φ(n) = 死) つまりいずれ死という定常状態に収束するだろう。

Q《永劫回帰》なる阿呆な考えについて

 徹底的に批判しきっておきたいと考えます。
 ニーチェの亡霊をもほうむっておきたい。

 すでに 批判がなされています。ところが 次のヰキぺの記事においても どこかまだ その《永劫回帰》なる考えにしても なんらかの思想性があるかに思われるというような評価さえが残っている。

 質問者は 次のくだりをめぐって 批判を明らかな結論が得られるようにおこない切りたい。
 ご見解をお寄せください。


 ▲ (ヰキぺ:永劫回帰) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E5%9B%9E%E5%B8%B0

 § 3 永劫回帰批判

 ・・・
 ( a ) 永劫回帰は科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、あくまでも実存主義の構えの柱の一つであり、個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。
 
 ( b ) ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。これについて、永井均は永劫回帰は思想と言うよりも、ある日突然ニーチェを襲った体験である点を強調している。

 ( c ) 永井均はニーチェ哲学とは徹底した「問い」であると指摘している。確かにニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。
 ~~~~~~~~~~~~

 (あ) 次の命題は 意味がない。

  ▲ ( b ) 個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び

 つまり 《人間は いかようにもその想像力の翼をはばたかせて自由に空想を成しうる》と一般論を言っているに過ぎない。ゆえ。

 (い) つまりそれを

  ▲ ( b ) 個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。

 と解釈するのは ばかばかしい。想像力の自由さ・ゆたかさは 特に主張をするものではない。
  
 (う) これをもって

  ▲ ( a ) 実存主義の構えの柱の一つであり

 という気が知れない。想像力があれば 《実存主義の構えの柱の一つ》になれるのか? ならすべての人が 実存主義者だ。

 (え)  ▲ ( a ) 科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、・・・個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。

  ☆ 《心的現象として発生したもの》なら 思想だというのだろうか? 何らかの気持ちをいだいたという心的現象が そのまま《実存主義の構えの柱》になれるのか? ちゃんちゃらおかしい。

 (お) ▲ ( c ) ニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。

 ☆ ここには このように《発生する狂気》が 何らかの思想的な意義を持つと言わんばかりである。んなばかな!
 ▲ 一般人なら適当なところでやめてしまう疑問
 ☆ というのは 無意味と知ったからやめるのではないだろうか?

 (か) すなわち 永劫回帰については 次の説明がある。

 ▲ (同上ヰキぺ) ~~~~~~
 § 1 概要
 ( d ) 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。

 ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。
 ~~~~~~~~~~~~
 このどこが 《ニーチェ哲学》というように《哲学》なのか?
 どこが 《哲学的思索》なのか?

 (き) ▲ 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち
 ☆ この前提がおかしい。のではないか? なんで時間が無限なのか?


 (く) ▲ 現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。
 ☆ という内容についての次の説明が どういう考えから出て来たものか 解明していただきたい。

 ▲ ~~~~~~~~~~~
 § 1 概要

 永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。

  仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。

 これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。

 故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。

 ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この哲学の貧困について その由来が知りたいと思いますので ご見解をのべておしえてください。
 その内容こそが ニヒルではないか?

 徹底的に批判しきっておきたいと考えます。
 ニーチェの亡霊をもほうむっておきたい。

 すでに 批判がなされています。ところが 次のヰキぺの記事においても どこかまだ その《永劫回帰》なる考えにしても なんらかの思想性があるかに思われるというような評価さえが残っている。

 質問者は 次のくだりをめぐって 批判を明らかな結論が得られるようにおこない切りたい。
 ご見解をお寄せください。


 ▲ (ヰキぺ:永劫回帰) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E5...続きを読む

Aベストアンサー

ニルヴァーナの質問で燃え尽きたのか
もうなんだか宗教とか哲学の話題は
どうでもいいという気分になっていました。

ニーチェの思想に対抗するなら
ソクラテスの思想になると思います。

「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、
善く生きるということなのだというのだ。」

この「善く生きる」でしょう。

ソクラテスの自殺。

もしくは無理やり仏教の話題を出すなら
ブッダである、サーリプッタの自殺。

長生きしたゴータマ・シッダッタよりは
サーリプッタのほうが、生への執着を断っていると思います。

このヨーロッパとインドの自殺。

善く生きるなんて言ってソクラテスは自殺した。
さすがアイロニーの使い手のソクラテス。

結論が自殺なんですから。
ソクラテスの思想は難しいですね。

Qニーチェのいう超人とは一体どのようなものですか?

連続投稿ですみませんm(_ _;)m
哲学でニーチェ先生を勉強しているんですが、難しくてさっぱりです…;

極論ですが永劫回帰とは、ようは地獄(現実)が繰り返される事を意味するんですよね?;
それを受け止め(運命として)精神的に乗り越える人のことを「超人」と呼ぶ、でいいんでしょうか?;
運命を変える人の事を「超人」というわけではないのですね;

なんだか納得できるような納得できないような…;
あと、個人的に「虚無」についても勉強してるんですが、これに打ち勝てるようなものは存在しないのでしょうか?(この質問は任意で結構です;)
もし、何か御存知でしたら教えて頂けないでしょうか?
勉強し始めたばかりで、誰が何が良いかも分かりません(><;)
本も難しいのが多くてどれがよいやら…;

Aベストアンサー

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。しかし「超人」は、永劫回帰のニヒリズムに対してさえ、「これが人生だったのか、よし、さらばもう一度!」と自己の生を肯定して、より強く生きていこうとする人なのです。またさらに言うなら、「超人」とは、自らが自分の運命をつくり出していく意志を持った人ともいえます。

◎「きみたちが、きみたちの父祖の子孫であることを、きみたちは、きみたちの子孫たちによって償うべきだとは、『過去に囚われるな、未来を見よ』という事なのでしょうか?」について

 この文章の私流の解釈は、「自らの過酷な『運命』や悔恨の『過去』(ある意味では運命とも言える「過去」)を、きみたちは、積極的に『未来』に働きかけることによって、その意味をプラスにすべきなのだ」といった具合です。つまり、肯定的な「未来」を創造することによって、過酷な「運命」や「過去」は自分にとって大切な存在になるのです。ところが、それに「囚われ」ているということは、「運命」や「過去」を呪っている結果であり、「超人」の創造的な生き方ではないのです。

◎「運命(過去?)を愛せよ、という割には「償う」という表現を使うのは矛盾しているような…」について

 自分の「運命」を呪い、現にあるものと違ったものであればよかったのにという考え方は、能力や財力のある者・健康な者に対するねたみや恨みが隠されており、それは弱者の考え方なのです。「超人」は、あらゆる「運命」と向き合い、それを必然なものとして受け入れ愛する人間なのです。なぜならば、その過酷な「運命」が自己を高め、より強大にしてくれる起爆剤を内包していることを、「超人」は知っているからなのです。そして、その過酷な「運命」を、自分にとってプラスの意味あるものにすることが「償う」ということであり、またそれは、過酷な「運命」から逃げず、それと向き合い、それを必然なものとして愛する「超人」にこそ可能なのです。なお最後に、またニーチェの言葉を紹介して締めくくります。 

「いまだに決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない」
  

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。...続きを読む


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