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元(モンゴル)が戦争に強かったのはなぜでしょうか?

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A 回答 (8件)

大別すると2点・・・



1.モンゴルに優れた指導者が出て、優れた軍事機構を作り、また優れた戦略を行使した。

2.この時代、モンゴルの周辺に強力な国家が存在せず、優れた指導者がいなかった。

つまり、人と時代の流れがモンゴルを勝たせました。


モンゴルの騎馬の機動力とモンゴル兵の使うその弓は確かに秀でており大きな力ではありますが、それが決定的要素というわけではありません。多くの騎馬民族、モンゴル以前に大きな勢力を持った騎馬民族(古くは匈奴)も同様の要素を持っており、モンゴルの特別の要素というわけではありません。
騎馬と弓で大帝国が築けたらなら、他の騎馬民族も築けたでしょう。

1.について・・・
モンゴルの強さは、まず第一に、軍事制度「千戸百人制」を制定した事です。
最小単位の10人から100人、1000人、1万人と戦闘単位を制定しこれを徹底させました。現代の軍の小隊、中隊、大隊、連隊、師団のような編成を行い、スムーズに軍事行動を行えるようにしました。モンゴル軍を研究した軍事専門家の中には、モンゴルのこの軍事制度を現代の軍隊を先取りしていると評価している人もいるぐらいです。
次に軍規・法を定め厳しく従わせた事によりモンゴル軍に団結を与えた事です。
戦闘で戦友を見捨て者は大罪として処罰する一方、部隊長の地位を世襲ではなく能力で決め、その功績でもって昇進させ、それまでの部族主義をとりやめたのです。チンギス・ハーンの出身部族以外の者でも、有力者の血縁でなくても功績しだいで大きな昇進を得る道が開きました。つまり軍の末端からでも優秀な指揮官が出てくる制度になりました。
他にも色々な法を制定し「千戸百人制」と合わせて、モンゴルを一つにまとめ強力な軍事国家としての機構を作り上げたのです。
それまで騎馬民族では内紛は絶えず、歴代の中国王朝は騎馬民族の内紛に介入しその力を削いできたりしました。
「夷をもって夷を制する」は後漢の時代(元の時代より1000年も前)に作られた言葉で他民族同士を争わせ国の安全を図ろうという事であり、歴代の中国王朝はよくこの策を使いました。しかし、モンゴル内部においてはこの策はできなくなります。
そしてモンゴルは優れた戦略を行使しました。敵対国家と戦う時は拙速に事を運ばず、準備に何年もかけ情報を重視して集め、敵の内紛につけこんだりもします。
(逆にこの当時の悪い例がヨーロッパの諸侯で、モンゴル軍が侵攻してきて時、誰もモンゴル軍の兵力、位置、戦法をよく知らずに戦いに出て大敗北しています)
また、モンゴル軍はよく「分進合撃」(兵力を複数に分けそれぞれ違う経路を取りながら各敵を撃滅しつつ進み最終的に合流し敵に致命的打撃を与える作戦)を行いましたが、これは下手をすれば各個撃破される危険をも孕む作戦であり、各軍の連携が絶対的に重要ですが、モンゴル軍はよく成功させています。無能な指揮官では失敗したでしょうが優秀な指揮官がいたからこそ成功しています。
つまりモンゴル軍は部族主義から脱却した優れた人材登用を行い優れた軍事機構を持ち優れた戦略を行使しました。

2.について・・・
当時、中国は西夏、金、南宋の三カ国に別れ相争っていました。そこにモンゴルが台頭してきたわけで、互いに争わせ弱ったところをモンゴルは叩いています。中国が一つにまとまり強力な国家であれば事態は違ったかもしれません。
モンゴルは金を滅ぼした時は南宋と手を組んでもいます。つまり当時の中国は付け入る隙があり、そこをモンゴルに突かれました。なお、南宋ではモンゴルの台頭以前より、軍の反乱を恐れ軍人の地位を低く、文官の地位を高くするという方針をしており、軍人の位置が低く、また文官が軍人の足を引っ張る、功績をたてさせないようにする事がよく起こっており、こうした事が南宋軍を弱体化させてもいました。
また西方の西遼は西遼の第4代皇帝の時代にモンゴルに滅ぼされましたが、元々他民族国家でその民が信奉する宗教もばらばらだったところを第4代皇帝が民に仏教を押し付け、民心に見放され内乱状態にあるところをモンゴルに突かれています。
その西遼の先にはルーシー諸国というような小国家群しかなく、モンゴルの大軍になす術ありませんでした。
中近東の方はホラムズ朝がありましたが、この国も国の内部に問題があり反乱が絶えず、国王は反乱勢力を恐れ、モンゴル軍の侵攻には積極的に打って出る事はせず、各都市での篭城となりモンゴル軍に各個撃破されていきます。
この当時、西夏、金、南宋、西遼、ホラムズ朝などに優秀な指導者がいなかった事がモンゴル軍に勝利させ、大帝国を作らせた要因です。

ただし、モンゴル軍は優れた軍事機構を持ち優れた戦略を行使しましたが無敵ではありません。
何度も敗北しています。

金の「完顔陳和尚」に幾たびか破れ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8C%E9%A1%94% …

南宋の「孟珙」には手酷くしてやられ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E3%82%AD% …

ホラムズ朝の「ジャラールディーン」に一度敗北させられたり・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3% …

マルムーク朝の「バイバルス」に敗北し撃退されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4% …

バイバルスは別にして金や南宋は優秀な軍人がいたにも関わらず、それを生かせなかった指導者に問題があったと言えるでしょう。
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回答としては反則の嫌いがあるのですが、未完成な回答をします。



#6の回答が、総合的でかつ、良く考えられたものと高く評価しております。

その回答に付け加えてほしいことがあって、この欄を使わせてもらいます。
つまりこれは#6回答欄への補足質問に当たるのですが、私は質問者本人ではないので、この別欄をとりあえず使ったものです。

私の追加質問の内容は、「ジンギスカンが世界帝国を築けたその要因については軍事力を中心に的確にまとめてあるとは思うのですが、何故この時に、ほかでもないモンゴルがこういうことができたのか?という世界史的位置づけについて、教えてほしい」と言うことです。

「ジンギスカーンはなぜ世界帝国を作ることができたのか?」

ここは回答欄ですので、その体裁をつけるために、私の仮説をまず提示しますので、これをたたき台にして、ご意見をお聞かせください。

私は世界史における近世が、中国宋朝から始まった、という説です。
その近世的要素をモンゴルも持っていて、モンゴルから出発して世界帝国を作って宋朝を引き継いだのだ、という仮説です。

それではモンゴルにあり、宋朝にもあった、世界史的近世と言うのは、一体どういうものなのでしょうか?

ここで唯物史観になるのですが、この時にモンゴルでは、遊牧の生産性、中国では稲作の生産性が格段に進歩したのが、この世界史の動きの原動力であった、というものです。

乱暴な妄想に過ぎませんので、きびしくご批判お願いいたします。
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元教師・現役予備校講師です


本件の回答者として小生がもっともアカデミックな回答が可能だと確信していますが、表現力の問題から理解できない可能性があろうかと思います

実はモンゴルは戦争に強い、という幻想があるが、そうでもない。
実際モンゴル諸部族は、常に周辺部族の支配下にあり支配されてきた歴史が長い。
政治的にモンゴルは分断政策による内部闘争の歴史が長く、チンギス・ハーンのような指導力のある部族長の出現なしには己の生命・財産さえ守りきれないことが多い
 それでも、モンゴル周辺の騎馬民族王朝は、一度でも求心力のある指導者を戴き、ある程度の勢力規模になれば、強精を誇れる傾向にある。これは世界史上でも中央アジア通史の鉄板の話である

本件ではあくまでも純軍事的見地だけで回答するが、その前に、指摘しておきたいことが幾つかある

モンゴル王朝は、『戦闘よりも降伏もしくは、貢物を出させることを重視していた』ことである。
特に、唯物論的なモンゴル族は、モノを求める傾向にあり、戦闘行為は重視していないのである

モンゴルの軍事展開には一定の黄金律がある
簡単にいえば、威力偵察行動によって、モンゴルの強さを知らしめ、相手方の出方を伺うのである

相手の出方といっても、防備を固められるように思う人が多いだろうが、優れた騎射技術と機動力を誇るモンゴル狩猟軽騎兵相手に防備するにも限界がある。(防衛する側にとっては襲来するタイミングが図れないのであるが)

モンゴルの西方展開(ムスリム侵攻)ではおおよそが王朝内の内部分裂・離反者が続出する・・などの状況で、想像しているほどモンゴル軍は交戦によって勝利しているわけではない。
 要は威力偵察で実力を見せて、相手の降伏・従属・臣従を誘導するのである

極めて乱暴にいえば、モンゴルは軍事力をもって外交力で領土を広げた、というべきだろう。

外交力の勝利を得るためには、自らの勇猛さを誇張して伝えていたし、降伏による自由保証・優遇措置などの事例なども離反誘導のために思慮していた。
要は、戦闘で勝つことよりも、敵方の勢力を削ぐことによって・・というのが実態である

さて、準軍事的な強みについて、簡単に指摘しておく

(1)移動・機動力・騎射技術

モンゴル兵は、一人で10頭近くの馬を使役して遠征する
モンゴル馬はマラソン型の馬(日本の馬も本義はそうである)なので、一般の馬よりも遠距離を走破できる上に、疲れたら馬を乗り換えることによって継続的に長い行軍を持続的に行えるのである
帰巣本能のある馬は乗り捨てても戻ってくるのであるから便利であるw
同時に狩猟・牧畜生活の遊牧民は騎馬術に優れているのは当然であるし、狩猟上に必要な騎射技術も日常行動であるが故に練度が高いのである。
なお、瞬発力で考えれば、モンゴルの馬は、世界でもかなり鈍重な部類ではある
その鈍重さは屋根(騎乗する人)が補う・・という考えでも間違いではないだろう


(2)補給問題

軍事においてもっとも重要かつ弱点であるのが兵站、補給である
極論すれば、モンゴル騎兵には兵站は必要ない。もっと極論すれば、略奪まで想定した現地調達である
一般に展開される軍事力の5割以上は、補給兵員であるが、そのような兵科がモンゴルには不要なのである
ここで指摘する補給の意味は、兵糧のみならず弓矢・防具に渡る全てであって、特殊兵科を除けばモンゴル騎兵はおおよそ兵装まで自給自足できる・・と言える


(3)交戦制約の問題

一番大きいとも言えるのが、交戦ルールの制約の問題である
 一般的にある程度の規模の民族・国家・政体になると、物理的暴力装置である軍事力に対しては、一定の制約をかす。
その制約は、武士道・騎士道などの身分規範もあるし、集団(部隊)行動上の規範、戦争規範などがありえる。
これらの規範は時に戦争において『足かせになり得る』のである。
 例えば、封建時代前期の正規兵の多くは自弁武装で、タイマン勝負(一騎打ち)が相場であるし、船上の戦いでは漕ぎ手を攻撃しない、篭城戦では文民(非戦闘員)に攻撃しない・・などの一定の交戦ルールがある
モンゴル兵はこれらの交戦ルールを持たない(あるのは戦利品の分配規範だけである)からこそ、相手の交戦規範を逆手に取れる優位さがある。
道徳などの概念に縛られないからこその強さ・・というのは問題かもしれないが、戦闘に関しては極めてストイックで成果主義なのである。


(4)産業構造の問題

 モンゴル兵は日常生活においては狩猟・牧畜生活である。一方それ以外の職業選択はありえないのが実情である。そしてその産業が上記したように軍事教練の近似性が強いことが大きいのである
仮に、それ以外の産業があれば、必然的に軍事技術の低い兵士が存在しえることになる
軍事教練の程度の格差は、兵科の多様化という利点もあるが、練度の相違が兵器の互換性の問題に帰結しやすい問題点もある
簡単にいえば、モンゴル兵の多くが武器・武具を共有しえるのに比べて、騎馬民族以外はそのような互換性はないのである


(5)従軍慰安

 想像できないだろうが、モンゴル兵の多くは、家族連れで遠征することも多々ある。
移動性の高い遊牧民ならば・・という背景もあるが、さすがに家族単位で行軍する事例は世界でも珍しい
このことが意味することは、年単位の長期遠征に耐えうる軍事体制を意味する
兵站問題とセットで思慮することも可能だが、この利点は、『男子が出征したために子供が少ない』という人口問題を回避しえる部分の効果が大きい
 

表現には問題はあるかもしれないが、
『モンゴル兵は戦争しに来ているわけではない。略奪しにきているのである』
それが実態なので、想像しているほど強くはない・・というのが正しいだろう

以上
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最も大きな理由は兵站です。


軍隊が活動するにあたって、本来ならば本拠地から連絡線をもうけ兵站を維持しますが、当然ながら距離が遠くなればなるほど連絡線の確保は困難になり、軍の活動は鈍ります。
ですが当時のモンゴル軍は移動時に家畜を連れていってそれで兵站の大部分をまかなうことで、連絡線の維持にかかる手間を最小限に抑える事が出来たのです。
これによりモンゴル軍の戦略的な機動性は当時、対決した相手の軍隊の常識を越えるものとなり、その結果として対戦相手は次から次にと各個撃破されてしまうことになったのです。
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どこかで聞いたような質問ですが・・


まあいいや。

1,兵隊が強かった。
 子供の頃から馬に乗って育ち、馬は身体の一部
 のように自由に乗り回すことができた。
 司馬遼太郎に言わせると、西部劇など比較にならない。
 人馬が見事に一体化している、とのことです。

 加えて、射撃の腕ですね。
 これも子供の頃から鍛えに鍛え、部族間抗争で集団戦
 にも馴れていました。
 当時の戦争は、日本などは集団戦の技術がまだ
 ほとんど無かった時代です。

2,官僚が優秀だった。
 これはチンギスハンの優れたところです。
 字も読めない連中を一流の官僚に仕上げ
 国家に奉仕させたのです。

チンギスハンの天才+兵隊の強さ+官僚の優秀さ
=人類史上最大の帝国
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生き延びるのに必死だから



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …

チンギスハンが出現する1200年ころの前の200年は、中世温暖期と言われる時代で、チンギス・ハンの頃に急激に気温が下がります。
これは何を示すかというと
○ チンギス・ハンの前の200年に温暖化によって、モンゴルの人口が増えた
○ 急激な寒冷化によって、増えた人口を養える生産力が無くなった

※ 日本史で言うと、鎌倉幕府の成立がこの時代になります。生き延びるために、社会体制を変えざるを得ない

気候変動の影響は、条件の厳しいところほど影響が強く出ます。
この意味で、モンゴル高原は、少々の気温効果によって、農牧業ができなくなるほど。
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ほかの国が弱かったからです。

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チンギスハーンの時代かな?


1つは常に国内で部族戦争が続いて戦いなれしてたこと。
戦いの最中で死ぬことが最も誇りだとされてたこと。
馬に幼い頃から乗って狩猟をしており騎馬戦や弓の扱いに非常に強かった。
チンギスハーン本人が若い頃から当時の中国打倒を胸に秘め、対策を練り続けたこと。
投石器などの武器技術を貪欲に集め当時の最新兵器を大量に用意したこと。
放牧生活のためどんなところでも生活でき遠征に有利だった。
こんなとこかな。
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Qモンゴル帝国の滅亡について

チンギスハンが興したモンゴル帝国はなぜあんな大きな帝国ができたのですか。その当時の国はどうして対抗できず滅んだのですか。また、これは教科書にもなかったのですが、なぜあんな巨大帝国が後に滅んだのですか。滅んだ過程がわかる方ぜひともお願いしますむ。中学や高校の教科書で断片的な知識しかなく、ぜひともお願いします。

Aベストアンサー

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができるのは精鋭くらいなもので、精鋭であっても錬度の面で馬上で生まれ馬上で死ぬ遊牧騎馬民族にはとてもかなわない)です。
また、都市という概念がないので食料とかもすべて(生きた状態で)持って移動していますから、「補給」という軍隊において最も重要で最も面倒くさく最も維持しにくいものを維持する必要がないため、桁外れの機動力を持ち合わせていました。
また、その機動力を余すことなく使用する戦術(代表的なものは偽装撤退。城攻めの必勝戦術でもありまして、相手に撤退すると見せかけて追い討ちさせ、それを迎え撃つという戦法です)を保有していました。
そのため、どんな強国でも優秀な指揮のもとで統制された遊牧騎馬民族にはかなわず、ホラズム(この国はモンゴル帝国の侵攻直前まで領土を拡張し続けており、決して弱い国ではないのです)や金も、敗北しています。ちなみに、この強弱関係がひっくり返るのは火器が積極的に導入されてからです。

しかし、滅びたのもまた遊牧騎馬民族である面が大きい、ともいえます。
遊牧騎馬民族というのは、都市の概念がないですから、そもそも「国」という概念が希薄です。
それをかなり変えたのはやはりチンギスなのですが、それでもモンゴルの伝統である末子相続(つまり末っ子が遺産を引き継ぐ)、そして後継はクリルタイという族長会議で決定(ただ、このクリルタイ、モンゴル帝国では2年くらいかかるんです・・・なにせ、あの広い領地から集まってくる上、このクリルタイも半分宴会みたいなものでして・・)というのがありました。
そのため、チンギスは生前に嫡子4人に領地を分配します。長男であるジュチ家(後のキプチャクハン国)、次男であるチャガタイ家、三男であるオゴタイ家、そして四男であり、モンゴル高原を直接的に保有するトゥルイ家です
そして、三男のオゴタイが継ぎました。しかし、その次が問題でして、グユクというのは酒癖も悪く評判が悪かったのですが、母親の根回しもありハーンとなりました。しかし、これを一番嫌ったのが長男家の当主で一族の長老であったバトゥ(また、四男家も、譲歩したとはいえ面白くはなかったようです。逆にグユクの側にいたのが次男家)。グユクは彼に暗殺されたとも言われています。
その後、トゥルイ家のモンケが継ぐのですが、これが面白くなかったのがチャガタイ家とオゴタイ家。このあたりから兄弟家の間での不和が表面化します。
そして、日本でも有名なフビライの代で分裂は決定的になります。彼は、いままでの方針を破って、全族を集めないで(支持者だけを集めて)クリルタイを行った上で即位、また即位を宣言した弟を倒して、ハーンとなりました。これが気に食わなかったのが長男、次男、三男の家。とくに三男の家当主であるハイドゥとは軍事衝突に発展しています。
そうなると、もうあとは各地の地方政権ですから、ほかの歴史上の国と同様、隣国、兄弟家同士でたたきあったり(オゴタイハン国はチャガタイハン国に叩かれて消滅)、支配民族が反乱を起こしたり、ほかの異民族に倒されたりで、消滅していきました。

また、モンゴルの政権といってもほとんどその妻は現地人のため、代を重ねるにつれどんどんモンゴル人から離れていって、しまいにはハーンがイスラム教徒になってハーン位を捨てたり、はてまたキリスト教に染まったり・・
そういう具合に、自然とその地に溶け込んで、消滅していったのです。

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができ...続きを読む


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