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ヨーロッパの大都市は、王宮や教会を中心に放射状に市街が形成されていると思います。
一方、中国の北京や唐の時代の長安は、碁盤目状の市街です。
なぜ、ヨーロッパでは放射状に市街をつくったのでしょうか。
なぜ、長安市街は碁盤目状につくったのでしょうか。
漠然とした疑問ですが、両者の間にはどのような考え方の違いがあるのでしょうか。
テレビで観ただけですが、アルジェリアにある古代ローマ遺跡では、街路は碁盤目状になっていました。

よろしくお願いします。

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A 回答 (7件)

http://web.sfc.keio.ac.jp/~hib/toshi/3rd.pdf

P5 トリノ の古代から中世への都市変化
古代では 城壁も貧弱で 四角い街で 碁盤目状
その後 城壁が高くなり 防衛のために 星型の出っ張りを出して ギザギザの楕円型になる。

P6 最初から防衛を考えると ギザギザの円形がベスト(理想都市)

P8 が実現された理想都市
http://www.h-nisshou.com/palmano.htm
人口は5000人くらいしか住めない
で、あれ?と思うでしょうが これは 函館の五稜郭のご先祖になります。

理想都市では放射状に作れるが、だんだんと発展すると トリノのように放射線は作れない。
P18 ウィーンの図
左が 城壁を壊す前 右が 城壁を壊して道路にした


http://epoque.egloos.com/3795274
中国 古代帝国では 方形にしている

明代の南京は方形を破棄している

元や明、清の北京は帝都として方形を形作っている。

都市単位で防御を考えると都市は円形(ギザギザ付き)になるが、その必要がないと 方形を作りたがるのは古代ローマも古代中国、近世中国も変わらないようだ。


最初の質問に戻ると
「ヨーロッパでは放射状に市街を作ったのか?」
オスマンが放射状の都市をかっこいいと19世紀半ばにかっこいいと考えて、パリで実現し、それをいくつかの都市が真似たから。

19世紀末ころには、イギリスのハワードが田園都市構想で 放射状のニュータウンを作るべきだと構想し
http://yaplog.jp/babyism/archive/84


日本の田園調布などはこの構想を踏まえて新規に作られた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%9C%92% …
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この回答へのお礼

いつも詳しく調べてくださってありがとうございます。

>オスマンが放射状の都市をかっこいいと19世紀半ばにかっこいいと考えて、パリで実現し、それをいくつかの都市が真似たから。

私は、この「かっこいい」に拘って、図書館で調べました。
結論を先に言いますと、
このご回答の最初のURL「中世・近世の都市計画」の16ページに「バロックの都市美学 パリの都市軸」がそうです。

都市計画の長い歴史のなかで、美しい都市を考えるなら「バロックの都市」をおいてほかにないといわれている。(市川宏雄著『文化としての都市空間』)
ヴェルサイユ宮殿で用いられたデザインの手法が、都市的スケールでパリの都市改造にそのまま用いられたという点で大きな意味をもっている。(同書)

ヴェルサイユ宮殿の庭園の平面図を見ますと、確かに、エトワール(円形広場)に8本の道路が放射状に集まっています。
オスマンが、この庭園のデザインを参考にしたのではないか、と推測しています。

なお、エルサレムやバグダードも放射環状型市街ですから、これらの都市は、宗教と何らかの関係があると思っています。

中国・長安の都市計画は、周礼・考工記によるもの(同書)と思います。

多くのヒントを教えてくださってありがとうございました。
お蔭様でここまでたどり着くことができました。

お礼日時:2012/04/19 13:53

なかなか面白いテーマですね。

考えてみると、おっしゃるように古代ローマの都市は整然と区画整理をされています。

個人的な見解ですが、それは「都市計画の有無」にあるのではないかと思います。碁盤の目状の都市というのは都市計画がないと実現しませんね。いってみれば「作られた都市」になるわけです。都市をつくる前から「こうやって作る」となにもないところに計画して作るか、仮に既存の町に作るとしたらそこに住んでいる人に「ここに道路をつくるから立ち退け」といえるような強い権力が必要です。
古代ローマ帝国というのはとにかく並はずれた土木建築技術をもった文明でした。だから、都市計画というのもちゃんとしていたのですね。
ところが、ローマ帝国が崩壊するとヨーロッパはいわゆる「暗黒時代」に突入します。文明は停滞するどころか完全に後退しローマ帝国が築いた様々な技術や文明、文化が失われます。中世ヨーロッパっつーのはとにかく無秩序で、無計画な時代なんですよ。
だから、ローマ帝国崩壊以降に発達した都市というのは城または教会を中心とした発達の仕方をしたので放射状に市街が形成されていったのではないかと思います。
ヨーロッパの都市というのは、都市国家として高い独立性を保っていたという歴史があります。その地域の領主といえども都市に支配権を確立していなかったんですね。ということは、領主による都市計画ということも不可能であったと思います。都市国家は今でいうところの民主制に近い支配体系でしたから、民主主義といえば聞こえがいいけど強力な支配者がいないってことはリーダーシップをもった大規模計画というのも実行不可能であったということだったと思います。
そしてまたそれゆえに、そうとはいっても外敵に襲われるということはあるわけで、そのためには精神的にも中心となる場所は必要となる。その役割が教会となり、教会を中心とした発達の仕方をしたんじゃないでしょうかね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
内容の濃い丁寧な回答を多くの方からいただいたのは嬉しいかぎりですが、何しろ西洋史なんて全く知識がないので、その内容を理解するのに一苦労しています。
いま、やっと気付いたことですが、「集落の発生」から「都市の発生論」まで、そしてギリシャ・ローマ時代から3千年の歴史を考えないと、回答のお礼が書けないと言うことです。

>碁盤の目状の都市というのは都市計画がないと実現しませんね。いってみれば「作られた都市」になるわけです。

そうですね。よく解ります。
東洋、西洋に拘わらず、そして、古代から現代に至るまで、普遍的な原則だと思います。

>だから、ローマ帝国崩壊以降に発達した都市というのは城または教会を中心とした発達の仕方をしたので放射状に市街が形成されていったのではないかと思います。

そういうことなんだ、と漸く理解できました。

お礼日時:2012/04/19 09:00

中世以降のヨーロッパが丸あるいは星状の都市を築いたのは、砲による攻撃から中心を守るためです。


一方古代中国の時代は火砲はまだありません。
よって丸や星状で長い射程の砲から守る必要がなかったのです。
もちろん古代ローマ時代も火砲はありません。

必要性が無く自然とできた城が碁盤状の四角だったのは、おそらく単純に土地の区画整理状便利で効率的だったのでしょう。
城壁を作る上でも丸のほうが煉瓦が少なく済み効率的なはずだと思うのですが、必要性が薄いとは言え正直なぜ四角なのかはイマイチ謎です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
仰るように碁盤目状の市街は、単純に土地の区画整理をするのに便利で効率的だったのでしょう。
古代ローマの時代から現代に至るまで、ほとんどの都市が再開発するときには、碁盤目状に整備されていますから。
すると、なおさら市街を放射状にするのが不思議です。

町の形(円や星状)ついても教えてくださってありがとうございます。

お礼日時:2012/04/18 20:34

過去にあったのではないかと思ったら大昔にあった



http://oshiete.goo.ne.jp/qa/636127.html

けどなんだなぁ民族性だのなんだの・・・

中国とヨーロッパというか中国以外の違いは、中国では圧倒的な帝国が形成されたので「首都段階で城壁を効率的な円形にする必要がなかった」ということです。
中国人は四角いのがかっこいいと考えていたので、四角い都市を作った。
けど 中国人だって 防衛中心に考えれば 円形でつくる
http://www.geocities.jp/ninoike2905/er.html

戦争状態が続いた中世欧州では、効率的に都市を守るために、円形の城壁を作りましたので、円形の中に碁盤目状の都市を作ります。
http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/ …
古代ローマも中国と同様に都市レベルで都市を守るための城壁の必要性が低いので、四角い都市を作っている。

オスマンが放射状のかっこいいパリを作ったので、マネッコしたが、あれほど大胆にはできなかった。
キャンベラ(アングロサクソン)
1911年からの建設で、オスマンのパリ改造の味わいをふんだんに入れているので放射状です。
ニューデリー(アングロサクソン)
1911年から建設 放射状で作られている

ケソン(住民はカソリックのアジア系で支配者はアメリカ)
1939年 市政開始
まだ、放射状が人気あり

ブラジリア ラテン系
1960年からの建設で もう 放射状でもないだろうというので放射状ではない

オスマン放射状プランは、新都市建設において 20世紀前半までは模倣されたが、20世紀後半になると、自動車交通がメインになったので、設計から外されるようになった。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
自動車交通がメインになって、「ラウンドアバウト」にするしかない放射状道路は採用されなくなった、ということですね。
これは、よく解ります。
そういう意味で今あるラウンドアバウトは貴重な存在ですね。

城壁の形、つまり市街を円く囲うのか、四角あるいは多角形にするのかについても、回答してくださってありがとうございます。

お礼日時:2012/04/18 20:20

オスマンが すごかったから。



ナポレオン三世時代に オスマンが 今のパリを作ります。
見映えがいいので みなさんそれを真似ました

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA% …

その前は 円形であっても放射状市街はありません
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/paris/index. …

19世紀のヨーロッパの都市計画では、パリのように大事はできなかったので、同心円状の城壁をなくして 外環道路をつくるというのがメイン。
ウィーンとか
ロンドンとかもそうだったかなと
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
オスマンによる「パリ改造」で、凱旋門やバスチーユ広場などにつながる道路が、放射状になったことはよく解りました。
放射状にするというオスマンの発想の根源は何でしょうか。
オスマン自身の「ひらめき」によるものか、モデルにした例があるのか、調べています。

お礼日時:2012/04/18 18:23

 キリスト教の原点は「光」


 キリスト教史によれば、古くはインドのゾロアスター教の影響が伝えられている。
 つまり世界をあまねく光で照らし、邪悪な闇を打ち消そうという意識を含んだもの。
 結果、キリスト教の神が降臨する場所が広場、その広場を中心に神の光が世の中を照らし出すという意味で放射状になった。

 碁盤目状に関しては主に方位で考える「易」と「儒教」の影響が考えられるが、時代によってどちらに重きを置いたかは研究してね。
 (今の北京は昔モンゴルが儒教的な論理をそのまま使って建設されたといわれている。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私は、キリスト教について全く知りませんので、「キリスト教の原点は光」と言われてもなかなか理解できません。
しかし、光なら放射状である、ということはよく解ります。
キリスト教以前の古代ローマでは、碁盤目状の都市計画がなされています。
キリスト教の影響について少し調べてみます。
「易」と「儒教」についても知識はありませんので、なんとかかじってみます。

お礼日時:2012/04/17 20:38

 中世以降のヨーロッパの場合,キリスト教徒の住民はみんな教会のミサに行きますし,教会の前にはたくさんの人が集まる広場が設けられ,商談などもここで行われていたようです。

要するに,王宮や教会は住民の誰にとっても重要な町の中心であるため,そこから放射状に市街が形成されていったのではないでしょうか。
 これに対し,中国の都市にはそこまで重要な町の中心はなかったので,碁盤目状に道を造り市街を形成していくのが最も効率的と考えられたのではないかと思います。
 いずれも,あくまで私の推測でしかありませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
キリスト教の権威が絶対であった頃の都市は、確かに教会を中心にした町づくりが行われたと思います。
放射状であれば、どこからでも平等に教会が見えますね。

お礼日時:2012/04/17 20:22

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 MONKEYMONKEYさんは非常に理解が早いですね。こちらも手を抜くことができません。ところが、僕の手元に、現在資料がほとんど残っていないため、今回の回答は「自信なし」です。
 言い訳がましいのですが、会社の業務でこれをまとめたものですから、その際に使用した資料は当然ながら会社のものなので、当時勤めていた会社にほとんど置いてきているのです。
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東の京都と書きながら、東京は京都よりも無秩序に都市が作られているように感じます。どういう事情でこうなったのでしょう?それとも、京都より進んだ合理的な計画でこうなったのですか?徳川家康と明治の高官にきいてみたいですが、どなたかわかる方がいましたら教えて下さい。

Aベストアンサー

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でも東京の真ん中には皇居があるため、皇居を中心として同心円状の街路を大きく変更できませんでした。

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それでも関東大震災、東京空襲で焼け野原になった地域の環状線に挟まれるところでは道路が碁盤の目に作られている地域もありますよ

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いろんな国に海外旅行をすると段々と気づいてくる事ですが
外国の都市には、ほとんど例外なく都市の周りに
城壁が作られている跡があります。
例えば、北京、西安、など中国では歴史ある都市では
ほとんどですし、
ドイツのロマンテックなローテンブルグもそうですし
タイのチェンマイもそうです。

イランの街もそうです。

つまりかって戦争に関わった歴史ある街は
城壁が当然のようにあったということです。

ではなぜ、日本の都市には城壁が必要なかったのでしょうか?
日本人だけが戦争が嫌いというわけではなさそうですし・・

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

城壁都市というのは、都市そのものが国であり経済単位です。また城壁都市での戦争とは、同盟国(同民族)の覇権争いであったり、異民族の侵入対する戦いであったりしました。

日本の戦いは、応仁の乱以降全て「日本国」の覇権を争う戦争ですので、上記の点に照らし合わせば、平安以降日本は、日本列島全体(北海道を除く)がすでに城壁都市と同じ単位になっていたといえます。

また、国家の構成員の違いも重要です。
城壁都市の構成員は民主的な国家なら選挙で選ばれた代表と市民そして奴隷、王国なら国民と奴隷で、いずれにしても国民は自国(城壁国家)のために兵として参加することが義務であり、また奴隷との最大の違いで名誉なことでした。
日本の場合は、応仁の乱以後はすべて天下取りのための戦争ですから、実力のある物同士が戦争を行いますが、実力があっても農業に力を注ぎ参戦しない有力者もいましたし、百姓身分の人は原則的に徴兵されることはありませんでした。

日本が城壁国家でないことが原因で、世界的に見て奇妙なことが起こっています。それは国換えです。たとえば姫路城は1346年に築城されていますが、このころは南北朝が対立している時代で、その後戦国時代を経て、江戸時代そして現在までこの城は同じ場所に立っています。
しかし城の主は様々な理由で何人も変わっていますが、領地とそこに住む住人(百姓・町人・漁民など)はそのままで、まさに「お上」が変わるということになります。

城壁国家なら、城主と城(国民)は一体ですから城の主が替わるということは、敵に侵略されて国民を含めて総取替されたされたか、降伏して相手国の支配下になったかということで、所有そのものが変化しましたし、場合によっては全員虐殺されて城もなにもかも跡形もなくなってしまうということもおこりえます。

つまり日本は平安期に、天皇を中心とした国家体制が確立し、その後政権を誰が担当するかで戦争をしても、(島国ですから)異民族の侵入は原則的になかったということです。
更に平安時代には国家統一のために天皇家をはじめ、貴族や武家も各地に散って政治を行っていましたので、日本列島隅々まで同じ民族としての気分が醸造され、戦争を行ってもそれは覇権争いであって「侵略」ではなかったのです。
このようなことなら、城壁を作り城=国ということをする必要はありませんし、国換えで領地と領民をそのままに、「お上」だけが変わってもだれも文句を言わないことにつながったのです。

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日本の戦いは、応仁の乱以降全て「日本国」の覇権を争う戦争ですので、上記の点に照らし合わせば、平安以降日本は、日本列島全体(北海道を除く)がすでに城壁都市と同じ単位になっていたといえます。

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Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

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まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
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最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
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纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

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いったい何が狩人たちの気に触ったんでしょう?

Aベストアンサー

>それ以前に「コルク」がメーカーなのか種類なのかも分からないです。

 あっはっは~あまりレースには興味がない方ですか?それでは仕方がないですが、『コルク半』と言うネーミングは、史上初めてレースの世界で使用される様になったヘルメットの形状に由来しています。

 第二次大戦前まではヘルメットというモノは無く、クルマやバイクのレーサー達は布や革で出来た『ボマーキャップ』(戦闘機乗りや爆撃機の乗員が被っていた、短いツバとしっかりしたアゴヒモが付いていて耳までカバーする帽子)や、ハンティングで使うディアストーカーキャップやハンチング(これらは乗馬用ですね)などを被っていました。当然、頭部を保護する機能はほぼ皆無に近いので、クラッシュ≒頭部外傷で死亡 というケースがすごく多かったのです。

 戦後はさすがにコレはマズいということになり、ヘルメットが登場します。
 それが後に『コルク半』と呼ばれる様になる、オワン型のハーフキャップヘルメットのシリーズです。
 4輪のレースでは'50年代に一斉に普及し、フォン・M・ファンジオやスターリング・モス、マイク・ホーソーンなどレース史に名を残すトップドライバー達が、長いツバのついた半キャップ型(ミミまでカバーしない形状)のヘルメットをかぶっていました。
 2輪もこの頃ヘルメットが普及しますが、4輪との違いはツバが無いという点です(レース用バイクは当時既に極端な前傾姿勢だったので、ツバがあると前が見えません。)

 この時代のヘルメットは、衝撃吸収材にコルク(ワインの栓に使う、あのコルク)が使われていました。これは当時、効果的に衝撃を吸収出来る発泡高分子材が入手出来なかったからですが、故に今日のヘルメットに比べズッシリと重く、またあまり衝撃を吸収してくれないので危険でもあります。
 この時代の代表的ヘルメットブランドは、まだアライもショウエイもなく『クロムウェル』と言う英国のメーカで、コルクと革で出来ていました。ドイツのUVEXも有名で、こちらは結構最近までコルク製ヘルメットを作っていた様です。(ツバのない半キャップを『クロムウェル』などと呼ぶ年寄りがいますが、クロムウェルというネーミングがツバなし半キャップの代名詞として長いこと使われていたからです。)
 この後、'50年代終わりごろからブッコやエバオーク、ベルなどスチロールやウレタンの発泡材でジェット型ヘルメット(ミミの部分まで帽体を伸ばしたデザイン)を作るメーカが登場し、この時帽体がミミの上までしかないヘルメットをハーフキャップ(半キャップ)と呼んで分類する様になりました。

 で、コルク製の半キャップなので、日本ではこの手のヘルメットを(今やコルクなど使っていませんが)『コルク半』と呼ぶ様になったワケです。
 今日では特に、長いツバ付きの『スターリング・モス・スタイル』の半キャップを『コルク半』と呼ぶ様ですね。今のセンスでは安全性が低く決してカッコよくもなく、要するにハンパなヘルメットに過ぎませんが、実は由緒正しい?レーシングヘルメットが元ネタだった、という話です。

>いったい何が狩人たちの気に触ったんでしょう?

 長くなるので細かい説明はしませんが・・・・元々、日本の暴走族のスタイルは、'60年代に公道最速を誇ったバイク便集団、『プレスライダー』から来ています。(フロントの旗竿、極端に絞った鬼ハン、ウインドスクリーンを前に倒すなどのスタイルは、全てプレスライダーの流行を拡大解釈して取り入れたモノです。実際暴走族だったヒト達で、それらの由来を知っているヒトなんて今はいないでしょうが。)
 彼らはヘルメットが義務化される'74年以前から走っていましたが、ヘルメット義務化でシブシブヘルメットをかぶる様になり、その時のヘルメットが『ツバ付き半キャップ』でした。バイクではツバなしクロムウェル型の方が有名でしたが、恐らく豪雨の中でも全開で飛ばさなければならない彼らにとって(彼らはレッキとした職業ライダーであり、『走れ』と言われればどんな天候でもプロの意地をかけて走ります)、長いツバは顔に吹き付ける雨をよける為に有効だったんでしょう。(前走車の巻きあげるドロをよけなければならないモトクロスのヘルメットのツバが長いのと同じ理由です。)
 そしてやがて、ツバ付き半キャップも暴走族のアイコンと化したワケです。

 今日でもツバ付き半キャップは往年の暴走族のイメージがあり、ロクデナシ、更には安全に気が回らぬバカ者、などという印象を持つヒトがいるのは事実です。勿論、半キャップでもSGマークが付いている限りバイク乗車用ヘルメットとして完全に合法ですが、20年前のレース専用ヘルメットを凌駕するほどの安全性を有したフルフェイスが自由に買える今日、敢えて半キャップを被るのは暴走族的、或いは単に『イキがっている』と見られても仕方のないことかもしれません。
 そうなると、ツバ付き半キャップは暴走族とみなされる可能性もあり、族同士の抗争かもしれませんし、或いはもっと単純に『バカは路上から排除する』という世直し的発想かもしれませんが、何れにしろ襲撃の対象となってしまったのではないか?と思われます。

 自分が生まれる以前の古いレースまで守備範囲の『レースヲタク』であるワタシから見ると、金色のツバ付き半キャップなどは『ランチア時代のファンジオだ!カッコぇぇ~』などと思ってしまいますが、ま、殆どのヒトはそれよりも『ガラが悪い』と思ってしまう様です。

>それ以前に「コルク」がメーカーなのか種類なのかも分からないです。

 あっはっは~あまりレースには興味がない方ですか?それでは仕方がないですが、『コルク半』と言うネーミングは、史上初めてレースの世界で使用される様になったヘルメットの形状に由来しています。

 第二次大戦前まではヘルメットというモノは無く、クルマやバイクのレーサー達は布や革で出来た『ボマーキャップ』(戦闘機乗りや爆撃機の乗員が被っていた、短いツバとしっかりしたアゴヒモが付いていて耳までカバーする帽子)や、ハンテ...続きを読む


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