あなたの映画力を試せる!POPLETA映画検定(無料) >>

今川義元は、信長公記によると、信長に敗死した間抜けな人だそうです。

それなのに、小和田哲男は、今川義元は凄い、と過大評価をします。
なぜ捏造するのでしょうか?

また、三河物語によると、今川義元は、弁当を食べてゆっくりしていたところ、雨が降ってきて、織田信長3千の攻撃を受けて、討死したそうです。なんて能天気なんでしょう?やはり今川義元は、凡庸と評するのが妥当でしょうか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (9件)

皆さん熱くなってますね(^^;)


回答者と同意見ならなるほど。違うならスルーしていきましょうよ。
お手柔らかに。
私も以前は質問者様同様、以前は今川義元は馬にも乗れない凡将だと思っていました。
でも今はもっと評価されてもよい人物だと思いますよ。
すくなくてもNo.8様の回答のように、領国経営と統治の才はありました。
確かに合戦は上手いとは言えませんけど・・・。
「海道一の弓取り」について
豊臣秀吉は醍醐寺の醍という漢字が解らず悩む祐筆に向って「何の大でよいではないか」いう程度の漢字の知識しかなく、やたら天下一と部下を褒めるぐらい、語学力に乏しい人でしたので秀吉のアイデアで「海道一の弓取り」という言葉が出来たとは思いませんよ。
「小豆坂七本槍」から引用した「賎ヶ岳七本槍」同様、すでに存在したキャッチフレーズで今川義元が「海道一の弓取り」呼ばれていた前例から徳川家康と称えたと考えた方が自然じゃないかと。
あくまで私の考えですけど。

この回答への補足

海道一の弓取は、徳川家康のことである。小牧・長久手の合戦で、豊臣秀吉率いる大軍に勝利したことから、東海道で最強の武勇の者という家康を讃える称号である。いずれも、幕府関係者の史料に頻出の呼称である。明治時代の徳川家康の本には、織田信長の感状から、元亀元年6月28日から、家康の称号であると伝えている。

元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。

新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、御母にてましませば」と記述されている。

成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。

幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。


海道一の弓取=徳川家康 外部リンク;国立国会図書館近代デジタルライブラリー
新井白石の藩翰譜に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、御母にてましませば」

成島司直の改正三河後風土記に、海道一の徳川殿

東照宮御実紀(徳川実紀)「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」

元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿姉川合戦の信長の感状から、家康の武勇高く、海道一の弓取と、歌われる。

補足日時:2012/05/07 20:33
    • good
    • 3

 小和田哲男氏が今川義元を評価する部分ですが、それは戦うんぬんの問題ではありません。


今川義元が支配統治した駿河では「楽市楽座」のシステムが既に導入されていたことを評価しているのであって、誰が強い武将であるのかなどの歴史趣味の観点などによる評価ではないのです。
 信長は確かに全国レベル(こうした表記にも問題がないではないが)での楽市楽座を導入しましたが、そのアイデア自体は信長の発案であるとはいえません。歴史学と歴史趣味の違いを一度根本から勉強し直す必要がありそうです。
    • good
    • 5

●三河物語によると、今川義元は、弁当を食べてゆっくりしていたところ、雨が降ってきて、織田信長3千の攻撃を受けて、討死したそうです。

なんて能天気なんでしょう?
○それが「史実」であるかどうかを検証せずに鵜呑みにしているんですから質問者さんも大差ありません(笑)。
    • good
    • 2

油断して飼い犬に食い殺されて、ぶざまな死に方をした


尾張の「大うつけ」を、太田牛一はどう評価するのかな。
    • good
    • 4

>海道一の弓取=徳川家康のことです。

東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。

>海道一の弓取=今川義元は捏造です。。。。。。。。。。

この認識が別の捏造に毒されているか、無知蒙昧の思い込みに固執していることの証拠です
    • good
    • 1

>今川義元は、信長公記によると、信長に敗死した間抜けな人だそうです。



歴史は、勝者が都合良く書くものです。
信長の敵だった義元を、英雄的に書く事はありません。
フィクションである忠臣蔵でも、浅野浅野内匠頭が被害者で吉良上野介が悪者になっていますよね。
史実を捏造した、講談・歌舞伎芝居用の物語に過ぎません。
三国志でも、中国側から見た小説ですよね。
近隣諸国側から見ると、侵略史に過ぎません。

>小和田哲男は、今川義元は凄い、と過大評価をします。

過大評価か否かは別として、史実に基づいた話をしているだけです。
先の吉良上野介にしても、名君と名高いのです。
が、吉良上野介を名君とすると忠臣蔵は時代劇として面白くありませんよね。^^;

>三河物語によると、今川義元は、弁当を食べてゆっくりしていたところ・・・

三河物語は、徳川家臣の書いた物語ですよね。
主君(家康)が人質になっていた城の城主が、今川義元です。
今川義元を美化する記述は、主君に遠慮して記載しません。

>今川義元は、凡庸と評するのが妥当でしょうか?

立場によって、評価は変わりますね。
金吾中納言にしても、関が原の裏切り者扱いですよね?
記録では、合戦前から家康に忠誠を誓っています。
明智光秀にしても、逆賊扱い。戦乱の世では、主殺しは普通です。
江戸中期までは、逆賊扱いにはなっていませんからね。
春日局を見れば、理解出来るでしよう。
足利尊氏なんか、幕末まで源氏の名門として武家から尊敬を受けていましたよ。
が、明治維新で天皇に弓を引いた逆賊として1945年まで扱われていました。
(明治政府は、足利将軍家子孫に爵位を授けるのを拒否)
立場によって、人の評価は変わります。
    • good
    • 2

個人的に思うのですが、「信長公記」も「三河物語」もそれぞれの視点から書いた記述が多いようなので、どうしても敵役として悪く書かれてしまうと思います。



今川義元自身は寄親・寄子制度を設け、合理的な軍事改革も行っており、武田、北条との三国同盟の締結、外征面でも領国を拡大させてますので、今川氏の戦国大名への転身を成功させた面では凡庸な武将ではないと思います。当時は「海道一の弓取り」と言われ、上洛して天下に号令する一番の有力候補でした。

桶狭間の戦いで奇襲されて討ち死にしますが、状況分析が十分でなかっただけで間抜けだったとは思いません。

この回答への補足

当時は「海道一の弓取り」と言われ
>>>>>>>>

海道一の弓取=徳川家康のことです。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。

海道一の弓取=今川義元は捏造です。。。。。。。。。。

秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965 …

補足日時:2012/05/06 16:35
    • good
    • 2

勝者の側からは幾らでも都合の良いように記録を作れる。



小和田さんがなんと言って『過大評価』しているのか?それが捏造と言われるのもなのか知らんが
研究者一人一人、資料の解釈具合とか評価具合は様々でしょう。

捏造と断定するからにはそれなりの根拠があるんだろうけど、信長公記とか三河物語とか100%正しいとは言えないんじゃなかろうか?
    • good
    • 3

 あなたは織田信長ファンですか。

以前にも上杉氏は過大評価じゃないかと質問されておられましたね。

 凡庸な武将ならあれほどの領土を維持することは難しかったでしょう。とにかく「信長公記」絶対主義はいけません。「信長公記」誇張・無視等々捏造だらけとは思われないのですか?

 前回の質問で史料批判について素晴らしい回答をいただいていらっしゃいましたね。きちんと読んでいないのですか????。残念なことです!

 
    • good
    • 3

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q伊達政宗ってどのくらい強かった?

伊達政宗ってどのくらい戦が強かったんでしょうか?

Aベストアンサー

強いっていうと
1:本人の戦場での情況判断力(部下の信頼)
2:将校団の現場の力
3:個々の兵士の戦場経験値
4:装備
なんてのが必要条件かと思います。

#2の方が書かれているように、3,4、特に装備面が同程度の東北地方においては、抜群の強さを誇ったようです。ただ、近畿地方の軍とでは、3,4において、格段の差があり、実戦をしたら勝てなかったでしょうね。四国の長宗我部や、九州の島津など、その地方最強を誇った大名が歯が立ちませんでしたから。

20年早く・・・という政宗への評価は確かにありますが、20年遅かったから、政宗は強いという評価が残ったという一面もあります。

条件で出した 1,2に関連するのですが、大阪の陣において大合戦を指揮官として経験した大名は、数少なくなっていました。世代交代で。

実際、関ヶ原体験者で、大阪の陣に参戦したのは
徳川家康
藤堂高虎
上杉景勝
立花宗茂
など数名、しかも高虎は、独立した大名というより、豊臣家の家臣としての大名だったり、宗茂も秀吉にヘッドハンティングされて大名になった・・・独立独歩で負けないで(景勝は負けているし)大名として生き残ったのは、実に家康と政宗だけですね。

実戦経験のない、半分徳川の部下から大名になった連中から見たら、歴戦の政宗は「権現様には敵わないが、つえ~~よなぁ」と 思ったし、実際 大阪の陣でも 激烈でしたね。

強いっていうと
1:本人の戦場での情況判断力(部下の信頼)
2:将校団の現場の力
3:個々の兵士の戦場経験値
4:装備
なんてのが必要条件かと思います。

#2の方が書かれているように、3,4、特に装備面が同程度の東北地方においては、抜群の強さを誇ったようです。ただ、近畿地方の軍とでは、3,4において、格段の差があり、実戦をしたら勝てなかったでしょうね。四国の長宗我部や、九州の島津など、その地方最強を誇った大名が歯が立ちませんでしたから。

20年早く・・・という政宗への...続きを読む

Q今川義元は愚将?名将?

友人たちと“今川義元”について議論をしていて様々な意見が出ましたが、結論は出ませんでした。
今川義元は愚将だと思いますか?
名将だと思いますか?

Aベストアンサー

今川義元は十分に名将と言うべきでしょう。

学問の師(兄弟子)である雪斎を参謀として家督争いを勝ち抜いて今川家の当主となった時、今川の所領は駿河と遠江の2カ国でした。家督相続後、武田家・北条家と同盟し、かつ北条氏が占拠していた駿河の富士川以東部分(河東)を今川領に戻しました。

義元の代で三河を完全に所領化し、尾張も3分の1程度を所領化していました。家督相続後に今川家の所領を2倍以上にしたと言えます。尾張での勢力圏をさらに広げようと出兵した所を織田信長に討たれました。

桶狭間の合戦については、下記の本が詳しいです。

桶狭間の戦い 戦史ドキュメント 小和田哲男/〔著〕
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30723531
桶狭間の合戦について多くの史料を詳細に分析した、現時点で最新の研究成果といえるでしょう。

今川義元が討ち死にした時の状況は、「史実の三方ヶ原の合戦の時期に、徳川家康が、遠江に侵入した武田信玄を討ち取った」に等しい「奇跡の勝利」です。義元は、味方の城の後方の「安全な地域」に陣を張っている所を、予期せぬ織田軍の攻撃に本陣を破られて討ち死にしました。

西洋で史上最高の名将とされるナポレオンは「敵より迅速に機動し、常に自分の全力で敵の一部を叩く」ことを常にできる武将で、そのようにして連戦連勝してフランス皇帝に上り詰めました。信長の桶狭間での戦勝はナポレオンのやり方と理屈は同じです。

「義元は十分に名将といえるが、信長は世界の戦史上も稀な『超名将』であった」ということです。

今川義元は十分に名将と言うべきでしょう。

学問の師(兄弟子)である雪斎を参謀として家督争いを勝ち抜いて今川家の当主となった時、今川の所領は駿河と遠江の2カ国でした。家督相続後、武田家・北条家と同盟し、かつ北条氏が占拠していた駿河の富士川以東部分(河東)を今川領に戻しました。

義元の代で三河を完全に所領化し、尾張も3分の1程度を所領化していました。家督相続後に今川家の所領を2倍以上にしたと言えます。尾張での勢力圏をさらに広げようと出兵した所を織田信長に討たれました。

桶狭間の...続きを読む

Q戦国三強 最強は誰ですか?

越後の竜 毘沙門天の化身にして「軍神」と恐れられた上杉謙信
甲斐の虎 最強の騎馬軍団を率いた武田信玄
川越の夜襲で名を馳せ関東の覇者となった北条氏康

戦国大名のトップ3の彼らですが この中で真の最強は誰なのでしょうか?
そう思う理由と根拠等も教えて頂けると参考になります

Aベストアンサー

たびたび失礼します。
一番強かったのは

武田信玄です!!

と回答すれば満足するのかもしれませんが、そういった答えは出にくいと思われます。

武田信玄VS上杉謙信
川中島に代表される泥仕合で決着がつきませんでした。というか、本来川中島の合戦事態、ガチンコであったか怪しいらしいですからね。どちらも決定的な激突は避けていたと考えるのが妥当でしょう。

北条氏康VS武田信玄
武田信玄が小田原城を攻めた際、北条氏康は相手にしませんでした。武田家の細い補給線ではいずれ引き上げざるを得ないことが分かっていたからです。その直後の三増峠の戦いは武田家の勝利とされていますが、何てことはない、武田が逃げ切っただけの戦いで、北条はまともな追撃すらしていません。

上杉謙信VS北条氏康
上杉謙信が小田原城を包囲した際も、北条氏康はまともに相手をしていません。上杉軍は圧倒的な数で押し寄せましたが、結局補給が続かずに撤退。占領した関東の地も結局は北条の手に戻っています。

そんなわけで直接対決からは優劣は見つけられません。増して、直接対決以外の戦の勝敗で戦の上手下手を比べるのは不可能かと思います。三者には共通の敵がいませんから。信長の様に頭一つとびぬけた勢力と言うわけでもありませんしね。
あとは好みの問題ですね。

たびたび失礼します。
一番強かったのは

武田信玄です!!

と回答すれば満足するのかもしれませんが、そういった答えは出にくいと思われます。

武田信玄VS上杉謙信
川中島に代表される泥仕合で決着がつきませんでした。というか、本来川中島の合戦事態、ガチンコであったか怪しいらしいですからね。どちらも決定的な激突は避けていたと考えるのが妥当でしょう。

北条氏康VS武田信玄
武田信玄が小田原城を攻めた際、北条氏康は相手にしませんでした。武田家の細い補給線ではいずれ引き上げざるを得ないことが...続きを読む


人気Q&Aランキング

価格.com 格安SIM 料金比較