大久保の三河物語、幕府の柳営秘鑑、三河後風土記に、安祥譜代、山中岡崎譜代、駿河譜代となってるのに、岡崎市が三河武士発祥の地を宣伝しています、捏造では??

大久保の三河物語、幕府の柳営秘鑑、三河後風土記いずれも、徳川最古参の譜代=安祥譜代とあり、安城市が、安城松平家(徳川宗家)発祥の地であるわけだから、その家臣が最古参は当然ですね。

A 回答 (4件)

基準は誰?


家康が基準なら、岡崎が正しい。家康の先祖、信光辺りが基準なら安祥が正しい。


つーか、安城市と岡崎市は隣同士であり、距離は10kmと離れていない。
歩いたって3時間までかからない。

大体、安祥譜代だって、例えば本田氏は現在の豊川市と豊橋市の出身だから、三河武士のある人は安城市に、ある人は岡崎市に、別の人は別の市町村に、となっていないと考える方が不自然だ。


という風に考えると
> 岡崎市が三河武士発祥の地を宣伝しています、捏造では??
家康が生まれた場所だからなので、ねつ造ではないと思います。
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植民地の経営が赤字だと植民地を持っていない事になるのだ。


中身がこの定義とまるで同じレベルなので驚いています。

最低限、徳川四天王に踏み込むべき。
その他の諸将の働きを比較して分析していないと賛同を得られるレベルにはなりません。
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 「三河武士」の歴史的意義は,徳川家康に天下を取らせたということに尽きます。


 そして,家康が三河の国主として認知され,三河武士が家康に従うようになったのは,家康の祖父・清康が活躍し三河をほぼ支配下に置いた実績があるからであり,岡崎城はその清康が新たに築き,松平家の本城とした城です。清康が松平氏の本城を岡崎に移して以降,三河の中心地は岡崎であり,松平家の本城も家康が浜松城を築いてそこに移るまでは岡崎城でした。
 松平清康は,松平氏の中では分家である安城家の出身ですが,松平氏を三河の国主といえる存在にしたのは清康が最初であり,それ以前の家系には大した意味はありません(そもそも,清康以前の家系については伝承に過ぎず,後世の捏造も多く含まれているので確かなことはわかりません)。
 よって,三河武士発祥の地といえるのは紛れもなく岡崎であり,これを安城とするのはあまりにも実態を無視した暴論と言わざるを得ません。
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三河武士=松平氏、徳川氏の家臣であるならば、


松平親氏が加茂郡松平郷の土豪であった頃からの家臣だって三河武士といえるのでは?
(例:請西藩の林氏)

これならば、三河武士発祥の地は岡崎でも安城でもなく、豊田市になります。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%B0%8F

この回答への補足

松平郷松平家は、三州十八松平に入っておらず、徳川本家と血のつながりのない一族です。

ちなみに、幕府の奥儒者の成島司直の改正三河後風土記では、徳川本家は安城松平家であると書かれています。

徳川本家は、安城発祥であり。徳川最古参の譜代は、安城譜代で、安城発祥です。


※幕府の奥儒者の成島司直は、幕府の徳川実紀の著者でもあります。

補足日時:2012/05/15 20:55
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Q譜代と外様

国持ちや中堅クラスの譜代・外様大名についてですが、同じ石高(例えば表高十万石)だと外様大名の方が極官・詰めの間・家格などで優遇されているように思います。
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Aベストアンサー

再補足です。
綱吉はかなり気まぐれなところがあり、恣意的な人事で平戸の松浦氏父子を譜代に取り立て役職につかせ、筑前の黒田長重を奏者番に任じたりしましたが、後に外様に戻しました。これが先例になって混乱が起こりました。
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Aベストアンサー

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幕閣とは幕府の最高首脳部と思うのですが、外様大名が外様大名の資格で就ける幕閣とはどんな役職ですか。
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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ithiです。

譜代との血縁関係でなったのでないとすれば、おそらく、小堀遠州や藤堂高虎のように幕府に対して何らかの手助けをした人々に対する功績をもって願い譜代にしたのでしょう。
そうなると特に幕閣に入らなくても願い譜代にはなれるでしょう。

Q【醤油の歴史】 醤油は日本発祥?中国発祥?韓国発祥?

先日、中国人・台湾人・韓国人、アメリカ人などの友人たちとご飯を食べに行きました。
「醤油はSoy sauceと呼ばれ、世界的に有名な調味料だよ。」とアメリカ人(クリス)が言ったので、
私は「醤油は16世紀に和歌山県(紀州)で発明された日本独自の調味料だよ。」と言うと
隣の中国人(プーチン)が「ちょっと待て!醤油はおよそ3000年前の中国で発祥したんだよ。中国発祥だ。」と言いました。
すると韓国人(パク)が「醤油は韓国発祥だ。」と言いました。
そこにいた全員が「韓国人が言う歴史だから・・・」といつものように無視したのですが、
醤油は日本発祥?中国発祥?韓国発祥?なのでしょうか?


調べてみると、中国にも大豆から作る「ジャンユ」があります。
韓国ではカンジャンと呼ばれる醤油があります。
インドネシアでも大豆を原料としたケチャップマニス・ケチャップアシンが使われています。
タイでも魚醤であるナンプラーがあり、大豆から作られた醤油(シーユー)もあります。
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また「醤油のルーツは、古代中国に伝わる“醤(ジャン)”である。」という説から、「醤油は日本独自の調味料文化である。」という説など、多数ありました。

もし日本の薄口・濃口醤油が中国発祥なら、タイのナンプラーやインドネシアのケチャップマニスも中国発祥ということになりますか?

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Aベストアンサー

ルーツ・発祥などは「伝搬ルートが解明される事」によって特定出来る物だと言えます。

たとえば日本の麺類、蕎麦・うどんは明らかに中国にルーツを持ち、伝搬時期より前の物はありません。この場合、明確に「日本の蕎麦・うどんは中国に起源を持つ」と言える(うどんは中国で言う「雲呑」の訛ったもの)訳です。

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私は存じませんでしたが、質問者さんの調べた所に寄ると「明確な伝搬ルートは特定出来ず、同時発生的に生まれたとしても無理はない」のではないでしょうか。

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Q外様大名の領地の方が広い?

江戸時代が始まったばかりの時、
「外様大名/譜代大名」とわかれていますが、
当時の領土分布を見てみると、外様大名が支配している領域の方が広いようです。

江戸幕府は、ここで譜代大名の領地を、外様大名の分から削りとる…といったことはできなかったのでしょうか?

なぜ、外様大名の方が、日本全体に占める面積が広いのでしょうか?

Aベストアンサー

penichi さん、こんばんは。

江戸時代が始まったばかりの時、
「外様大名/譜代大名」とわかれていますが、
当時の領土分布を見てみると、外様大名が支配している領域の方が広いようです。

江戸幕府は、ここで譜代大名の領地を、外様大名の分から削りとる…といったことはできなかったのでしょうか?





それは東軍についた外様大名がほとんどです。家康は自分についた外様大名に対して莫大な恩賞を約束していましたから、それは当然です。2.3の例外を除いてそのようになりました。

江戸幕府は、ここで譜代大名の領地を、外様大名の分から削りとる…といったことはできなかったのでしょうか?


外様大名は江戸初期の頃、豊臣家の関係とかで少しの落ち度でも廃絶の憂き目を見ました。浪人が増えて困ったとか…
その後の領地には譜代の大名を入れることもありました。だけど、譜代大名は外様の大名に比べて少禄でした。何故というに家康は室町時代の守護大名のように幕府をないがしろにして実権を握るような態度をとらないようにするためだそうです。
詳細は下記のURLを参照ください。

外様大名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E6%A7%98%E5%A4%A7%E5%90%8D


譜代大名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%9C%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E5%90%8D

改易
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E6%98%93
減封
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%9B%E5%B0%81

penichi さん、こんばんは。

江戸時代が始まったばかりの時、
「外様大名/譜代大名」とわかれていますが、
当時の領土分布を見てみると、外様大名が支配している領域の方が広いようです。

江戸幕府は、ここで譜代大名の領地を、外様大名の分から削りとる…といったことはできなかったのでしょうか?





それは東軍についた外様大名がほとんどです。家康は自分についた外様大名に対して莫大な恩賞を約束していましたから、それは当然です。2.3の例外を除いてそのようになりました。

江戸幕府は、ここで...続きを読む

Q元寇以前の九州武士と、鎌倉幕府の関係

モンゴル襲来にそなえて、鎌倉幕府は九州一帯の武士団と主従関係を結び、統率したそうです。

しかし、それ以前はどうだったのでしょうか?
元寇があるまでは、九州に幕府の影響力がなかったのですか?

承久の乱の結果として、幕府は朝廷・貴族から奪った所領にも勢力を伸ばしたから、西国にも主従関係を結んだ御家人がたくさんいたはずです。
(もしかして九州はその「西国」に含まれないのでしょうか?)

Aベストアンサー

九州の特殊事情は、大宰府という中央官庁の派出所が古代から権威の中心として機能していたことです。
中央から大宰府へ派遣された退官者の一部は、京に戻らずに在地武士団として基盤を築きました。これら大蔵氏系(秋月、原田、高橋、江上、田尻、菊池など)が北部九州を支配します。一方で荘園から生まれた武士団もあり、松浦党やその他中小の豪族(各地の地名となっている)、さらには古代から神宮司を務めた宗像や阿蘇などといった宮司家も勢力を築いていました。
これら九州の武士団は、承平・天慶の乱の鎮圧に活躍がみられ、平家政権が誕生すると、鎮西の武士はこれに協力することで、国司として任命されたり、その荘園管理を代行したりして結びつけを強めていました。で、平家が没落すると、これらは地位を失い、変わって鎌倉幕府から派遣されてきた「下り衆」と呼ばれる武士団が地頭職などを拝領して、入り込んできます。
下り衆の中には、有名な那須与一の一門もおり、平家伝説にも登場しますが、下り衆は、鎌倉幕府との直接的なつながりをいいことに、在地の豪族と各地で紛争を起こしていて、九州の各地は小さな内戦状態がかなり長い間続くことになりました。これは九州地方の特徴です。
下り衆は、その後の主要な武士団を形成するわけですが、そのなかでももっとも重要な者が、九州三人衆とよばれるようになる、少弐武藤、大友、島津の三家です。武藤家はもとは平知盛の家人から投降して源氏に鞍替えして、奥入り合戦での活躍で、頼朝によって鎮西奉行に抜擢された人物で、太宰少弐の官途を獲得したことから、後には少弐氏と言われるようになりますが、大宰府の管理を任されることになります。また大友と島津はそれぞれ頼朝の落胤伝説のある家で、頼朝の遺志によりこの三人衆に九州の統治は任されたという伝承が、九州では強く信じられ、それが政治史に大きな影響を残すことになりました。

承久の乱後、鎮西も六波羅探題の管轄に入りますが、元寇のときに現地で実戦を指揮した主将は、少弐一門(資能・経資)と大友頼泰でした。北条氏の九州への勢力拡大も進み、六カ国の守護職を北条一門で占めるようになりますが、元寇においては、九州武士団は恩賞をめぐって騒乱をおこしたため、北条実政が初代の鎮西探題として派遣されることになります。これが鎮西探題と大宰府という二元支配をうむことになり、三人衆と北条氏の対立の下地になるものでした。

九州の特殊事情は、大宰府という中央官庁の派出所が古代から権威の中心として機能していたことです。
中央から大宰府へ派遣された退官者の一部は、京に戻らずに在地武士団として基盤を築きました。これら大蔵氏系(秋月、原田、高橋、江上、田尻、菊池など)が北部九州を支配します。一方で荘園から生まれた武士団もあり、松浦党やその他中小の豪族(各地の地名となっている)、さらには古代から神宮司を務めた宗像や阿蘇などといった宮司家も勢力を築いていました。
これら九州の武士団は、承平・天慶の乱の鎮圧...続きを読む

Q外様

危険な外様大名は遠方に
安全な譜代・親藩は近くに配置?
えっ!逆じゃん?
「何するかわからん=危険」な外様は近くに置いて常に監視し反抗を防止する。
親藩譜代は信頼がおけるから監視の薄い遠方に置いても反抗の可能性は薄く大丈夫。
こう考えるのが自然かと・・・。
理解不能です。教えてください。

Aベストアンサー

当時の交通手段では遠方に領地があれば攻め上るのが大変で、日数もかかります。 この間の兵糧の確保も大変です。

徳川幕府の防衛を考えると交通の要衝(大阪、名古屋など)に有力な親藩を配しこれを援助する譜代をその近辺に配置することで戦時の動員を容易にしたのです。

また危険視される外様大名の隣国には忠誠心のある強力な外様大名を配置し、牽制しました。
薩摩に対して細川を肥後に、黒田を博多にその隣に監視の為譜代の小倉藩を置いています。

また長く同じ領地に置くことを避け国代えを頻繁に行いましたし口実があれば改易を断行したのです。

参勤交代は外様大名の財力を使い果たす為に考えられ遠国の為費用が莫大で、各藩の経済力を費消させました。
譜代大名はおおく江戸定府なのでこの費用はかかりませんでした。

Q大変失礼します。秘拳『秘孔』と、カード武術『カーネフェル』は実在するん

大変失礼します。秘拳『秘孔』と、カード武術『カーネフェル』は実在するんですか?

Aベストアンサー

経絡は実存します。
経絡秘孔については誤認が多いと思われます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E7%B5%A1%E7%A7%98%E5%AD%94

Q外様と旗本

旗本には譜代・外様の別はないとの事ですが、外様大名の分家筋や、元外様大名から事情により旗本になった家でも、大番頭や書院番頭・遠国奉行などの幕府要職に就く事はできたのでしょうか?
それともそういう家は無役寄合が通常だったのでしょうか。

Aベストアンサー

旗本はすべて譜代扱いでしたから元外様大名であっても、あるいは分知された旗本でも幕府の役職へ就任することは可能でした。
元外様大名が改易されて堪忍分ということで旗本になった家の例はちょっとわかりませんが、外様大名の分家の旗本であれば町奉行の職についた例はあります。

Q室町幕府と徳川幕府

共通点があるのですが
 
 初代(尊氏と家康)はどちらももちろん有名
 どちらも3代(義満と家光)が優秀でこの代で幕府体制が
 確立され、またどちらも名前に「みつ」が付く
 その後はどちらも良くも悪くも8代(義政と吉宗)が有名
 さらにその後はどちらも特出した将軍はいない
 そして何と言ってもどちらも15代で終わり

 ただの偶然でしょうか?

Aベストアンサー

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え、大過なく人生を全うしましたが、個人の資質としてはかなり落ちると思います。
また、8代将軍吉宗は、初めて直系以外から将軍になりましたから、しがらみが無く各種の改革を行いましたので、中興といってもよいのですけど、結果論としては功罪相半ばする業績ですね。
因みに、15代将軍の慶喜は極めて優秀な人物ですけど、秀才にありがちな泥臭さを嫌う点が残念な将軍と思いますし、幕府を再興しようという熱意は、室町15代義昭にも通じるものがあります。

一方の足利尊氏は、義侠心に富み、勇敢で物欲の薄い、将に男の中の男という人物ですが、家族や功のある部下を冷酷に切り捨てることが出来なくて、不安定な幕府になってしまいます。
パソコンでもそうですけど、安定したシステムを構築するためには、レガシーというか、古い規格との共通性を求めると不安定になり、これがWindowsMeが評判が悪い理由で、ある時点で思い切って古いものを切り捨て、新しい規格だけで組んでいく必要があります、WindowsNTのように。
尊氏はこれが出来ないために、終生弟や養子に出した実子の反乱に苦しめられ、増長した家臣を治めきれず、ひ弱な幕府になってしまいました。
その中で、3代義満は怪物といってもよい政治家で、権謀術策を弄して、幕府の権威を高めます。
資質としては、徳川家光とは比べ物にならない高い力量で、家光がシステムの上に乗った将軍なら、義満は自分の才知で政治を動かした将軍ということになります。
但し、室町幕府が最大領土になったのは、6代義教の治世で、この義教は織田信長に匹敵する改革者とも言われますが、信長同様、部下の裏切りにあって絶頂期に暗殺されます。
この義教にあたるのが、徳川では5代将軍綱吉で、綱吉の時代に戦国の殺伐とした習慣は無くなり、儀礼に支配される世の中になりますから、ある意味綱吉も時代の常識を変えた政治家です。
彼以前では、例えば水戸黄門ほどの人格者でも、刀を試すために乞食を切ってみたりしていますし、九州地方から江戸に来た武士達は、犬コロ飯といって、野良犬を捕らえて食べていましたから、まだまだ戦国の気風が残っています。
足利義教の死により、幕政の改革は頓挫し、信長の死後、秀吉や家康が織田家を空虚なものにしたように、畠山、細川といった有力大名が将軍を操るようになって、8代義政は諦めの境地だったのでしょう。
この点は、中興の祖というべき、徳川将軍の8代吉宗とは大いに違います。

こうしてみますと、大体3代目で幕府の骨格が完成する、5or6代目で一つの切があって、真ん中の8代目で転換期を迎える、足利氏はこの8代目で戦国に突入し、徳川氏は系統が宗家から枝に移った。
偶然ともいえるし、必然ともいえますね。

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え...続きを読む


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