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倫理学史上で有名なショウペンハウアーやカント、ニーチェなどが唱えた「意志」についての学説はいったい何に違いがあるのでしょうか?
授業で習って興味はでたのですがわかりません。
ショーペンハウアーの盲目的なせいへの意志とは主にどういうことなのかとか・・・。本に出てくる言葉では難しくて理解できないのです。誰かおしえてください。

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A 回答 (1件)

ショーペンハウアーは、カントの認識論、プラトンのイデア論、インドの仏教哲学の影響を強く受けた思想家です。



その主著『意志と表象としての世界』の中で、「『世界はわたしの表象である。』 ― これは、生きて認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である」と言っています。さらに、表象は、物自体としての意志が現象したものである、とも。

ここに出てくる「物自体」というのは、そもそもがカントの用語なんですね。
だから、ショーペンハウアーの「意志」を見ていこうと思ったら、まず、カントの「物自体」とはどういうものか、理解しておく必要があるかと思います。

まず、カントは人間の認識能力をまず三つに分けています。
感性、悟性、理性です。

人間は感覚を通して、世界を認識しようとします。
けれども、あるがままの世界は無秩序で混乱したものにすぎません。
それを秩序ある整然としたものと認識できるのは、人間が、経験的にではなく、先験的に、時間と空間を直観できるからです。
この直観の能力をカントは「感性」と呼びます。

さらに、人間には直観のほかに、思考の形式も備わっています。
そうでなければものごとが単一か多数であるか、あるいは相互に因果関係があるかどうか、理解できないからです。こうした質、量、因果を理解する思考の形式を「悟性」と呼びます。

つまり「感性」が情報を集めてきて、「悟性」がそれをカテゴライズし、判断する、ということですね。

この感性と悟性が合わさることによって、人間の認識はできあがっています。
こうした「感性」と「悟性」が認識したものごとをカントは「現象」と呼びます。

さらに、それだけにとどまらず、人間には「理性」という能力が備わっている。
それは概念を統合し、類推し、推論する能力です。
この能力によって、人間は経験だけでは認識し得ない世界を推理しようとする。

認識し得ない世界とはなにか、というと、たとえば、神は存在するのかどうなのか、といったことや、この世界は必然性によって支配されているのか、それとも自由があるのか、といったこと、世界には空間的や、あるいは時間的な限界があるのかどうなのか、といったことです。

こうしたことは、理性をもとに考えていくと、そうであるともいえるし、ないともいえる。
だからこうした推論をどこまでも押し進めていってはいけない、とカントはいいます。
人間が認識できるのは、現象界にとどまったもので、わたしたちが決して認識できないもの(カントはこれを物自体と呼んでいます)の認識は不可能である、と。
認識できないがゆえに、理性は「物自体」を扱うことはできないのだ、と。

ショーペンハウアーはカントのいう「物自体」と「現象」の考え方を引き継ぎ、「物自体」を「意志」ととらえ、「現象」を「表象としての世界」と言い換えたんです。

わたしたちの経験的な認識は、世界の本質(カントのいう物自体)は決して把握できない。
どうしたら、把握できるのか。

それは、わたしたちの身体を通して把握できる、というんです。
わたしたちは身体を持っている。
もちろん、経験的認識にとってはひとつの表象にすぎません。
けれども、わたしたちの内側には意志がある。そのことは直接、把握することができます。
このときの意志をショーペンハウアーは「通常意志」と呼んで、「真の意志」と区別します。
たとえば手を挙げるとする。このとき、まず、手を挙げようと「意志」が働き、その意志にしたがって手が運動します。
このように考えられた意志は、理性の熟慮であって、「真の意志」ではない、というのです。
真の意志とは、手の運動と同時に働いている無意識的なものでなければならない、と。

たとえば、転びそうになった時に、さっと身体を支えようとする手のように。
あるいは、暴力をふるわれそうになったとき、とっさに庇おうと出す手のように。
意志の働きと身体の働きは、因果関係によって結びつけられたふたつの客観的な状態ではなく、意志の働き=身体の運動なのだ、と。
真の意志とは、身体の動きと密接・不可分な直接的・盲目的な生への意志である、というのは、こういうことです。
表象を超えたところに、「真の意志」がある。

こうやってわたしたちは、自分の身体を手掛かりにして、表象の世界を超えた物自体の世界を認識することができるのですが、このことから身体以外にも、意識が存在していることがわかる、というのです。
自分自身から類推して、動物、植物ばかりでなく、無機物においても、その中心に意志があると考えられる。
たとえばショーペンハウアーによると、空中の石を落下させるのも、意志が存在しているからなのです。
こうした普遍的に存在する意志が、宇宙の究極的な実在なのだ、と。

意志とは、このようにまったく盲目的、衝動的に働くものであって、一定の目的をもって働くものではないのです。となると、意志の働きは、まったく休むこともなく、満足することもない。このように、決して満足し得ない意志が世界の本質であるのだから、この世界は「苦」の世界、ということになります。
苦こそ世界の本質であって、幸福とは単に苦を免れる、という消極的なものでしかありません。

ならば、どうすればこの苦を脱することができるのか。
ショーペンハウアーは三つの処方箋を書いていきます。

第一に、芸術を鑑賞すること。
けれどもこれは一時的なものです。
第二に、道徳。
他人も自分と同じ本質を有するものであると同情することによって、利己主義を消失させることができる。
けれども、本質的に、生への意志を持っている限り、苦から完全な脱却はできません。

ただこうやって、もしわたしたちが真に他者の苦を自分の苦と感じ、苦しんでいる人間、苦しんでいる生き物、消えていこうとする世界を見出すことができたら、意志そのものを否定するようになる。
このような境地に至れば、何ものによっても意欲が引き出されることはない。
生への意志が完全に否定されたようなような状態を、ショーペンハウアーは禁欲と言います。
このような境地、意志を否定し、禁欲と静寂の境地に至れば、人間は生きる苦しみから脱却できる、と考えたのです。

(後半はかなり荒っぽい説明になっています。また、私の考え違い、読み間違いしている点などありましたら、どうかご指摘ください)
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Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Qカントの考える自由

カントは義務に基づいた行為(道徳性をもった行為)をしなければならないとした。
もし義務を果たせなかったとしても
「果たすべきだったのに果たせなかった」と良心の呵責を感じる。
そしてそのとき自分は義務に従うことができたという自由を自覚する。
人間としてどういう風に行為すべきかと神剣に道徳法則に直面して
初めて自由の存在を知る。

・「義務に従うことができたという自由を自覚する。」

・「道徳法則に直面して初めて自由の存在を知る。」

この「自由」の意味がよくわかりません。道徳法則という束縛(?)の中で
自由を知るとはどういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っていたのに、友だちから「良くなかったよ」と聞かされたとたん、読む気が失せてしまう。
日常ではよくあることです。

カントは、道徳的な行為の規則を作ろうと考えていました。
いつ、いかなるときであっても、世界中の誰でも従わざるを得ない、そのような規則です。

普段ならそれでよくても、道徳的な行為しようとするときに、こうした「自分が~したい」という気持ちは邪魔になります。
ですからカントは「性向に依存したもの」として退けたのです。

一方、しなければならないからする、というのは、どうでしょう。

明日試験だから、勉強しなければならない。
約束してしまったから、行かなければならない。
ここにはどこにも自由など存在しません。
こうした自分以外の要請から起こす行為を、カントは「他律」としてやはり退けます。
道徳的な規則の根拠を、こうした他からの強制に求めるのは間違いである、と考えたのです。

ならば、どのような規則ならば、誰もがすすんで従うことができるのか。
すすんで従うことが、喜びになるような規則は存在するのか。

人間と動物を分けるものは何か、というと、それは理性である、とカントは考えました。
動物は本能に支配されて生きている。
けれども人間は、理性を持つことで、本能から自由になっている。
カントのいう「自由」の中味はそれです。
自らの内側にある理性に従って生きることこそが、人間だけに与えられた自由である、と。

本能や欲望や欲求に惑わされず、理性の声に耳を傾ける。すると、自分が何をしなければならないか、ということが、おのずと明らかになってくるはずだ。
これが、カントの言う「義務」なのです。

どのような行動を自分がとらなければならないのか。
何をしなければならないのか。

このように自分に問いかけることによって初めて、人間は本能や欲望や欲求から自由になることができ、しなければならない、と、自分の理性が命じる行動をとることこそが、真に自由になることである、とカントは考えたのです。

こうしたことは『人倫の形而上学の基礎づけ』(岩波文庫その他)
という本の中にあります。
カントの中では比較的読みやすい本ですので、もっと詳しいことがお知りになりたければ、ご一読ください。

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っ...続きを読む

Qカントの「理性」

カントは「理性」をどう捉えていたのでしょうか?

『純粋理性批判』を紐解いてみても、今一つすっきりしないのです。

「自分の『理性』のレベルでは、人間は過ちを犯す可能性が十二分にある」あるいは「自らの『理性』を過信してはいかん」

という感じで捉えているのですが、どうも自信持つことができないので。

ひょっとしたら、全く的外れなのかもしれないですが、どうか教えて下さいませ。

Aベストアンサー

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え方を導き出します。
 すなわち、ある一定の所与のドグマではなく、「その行為が全人類にとって、普遍妥当的であるかどうか」という観点から、自らの行動の規範を知れ、と言うわけです。

 「絶対」の前に於いての無限の無力、しかしながら、それゆえに、普遍妥当性を認識することの出来るアプリオリ(先天的)な人間理性の存在を指示することによって、彼は、最後の「人間存在の尊厳」を、証ししようと、揚言するわけです。

 因みに、カントの理性は、ヘーゲルでは、歴史的なガイストという概念によって捉えなおされ、「理性の狡知」による、歴史自体の発展の予定調和として、その先天性を保証されていくわけですが、考えようによっては、ヘーゲルのなかに既に、後年の「実存主義」の芽があるともいえるでしょう。
 

 いずれにしても、カントによって持ち出された「先天的に存在している」(アプリオリ)、という観点ですが、これは、当時の時代の一つの特徴であった、経験主義、カントの用語法によると「ア・ポステリオリ」(後天的)なもの、それのみで、神や人間理性、尊厳、真の意味での倫理規範、といったものを狭く限定的に規定することの誤りを、強く批判したかったのだと、私は、思います。

 分かりにくい言い方かもしれませんが、カントの理性批判は、上の意味で、存在論なのだ、という見方も出来るでしょう。

 
 ・・・・先天的に存在している人間理性の不可思議、について、深く相通底すると思われる、一人の天才的な思索者のことばを、引いておきます。

「しらるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するがゆえに、しかあるなり。」(道元・正法眼蔵)

 道元は、カントより500年以上前に生まれた日本人ですが、仏教には、もともと、唯識論などのような、認識論や存在論が含まれています。
 仏法、という宗教的なことばの背後に、後年付託された「宗教」という概念を被せてはいけませんよね。


 ・・・・以上ですが、カントについての詳細な解説としては、今、日本とドイツで共同出版されている、ハイデガー全集のなかに、彼のカントの講義録もあるはずです。


 

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え...続きを読む

Qキルケゴールの思想について教えてください。

キルケゴールの思想について、何でもいいのでおしえてください。

Aベストアンサー

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり
やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書くときに少し詳しく
書くのがよいかもしれません。
この段階では、とにかく自分の存在を神にゆだねてしまう
訳です。人間は罪から、絶望から、自分の力では逃れられない。
なぜなら、人は本当は神によってこの世界に置かれているから
です。その自己の根拠を自己に求めてしまっているところが
「罪」なのであって、自己が、神を尺度とする自己へと変わら
ない限り,どれほど内省的に自己意識を深めてみても,それは神に
対する罪、絶望という「死に至る病」を悪化させるだけに終わると
いうのです。
ここにおいては主体的な「決断」というのも重要です。そもそも
神と言うのは論理では計り知れない存在ですから、人間が
「神はいるかいないか」と考えてもそんなこと分かりません。
だから、信仰は論理によるのではなく、「信じるか信じないか」を
自分自身が「決断」することによって決まるのです。
キルケゴールの著書に「あれかこれか」というタイトルのものが
ありますが、これはその決断を表すものです。

こんなものでどうでしょうか。
なんか適当になってしまい申し訳ないです。

それでは。健闘を祈ります。

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり
やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書...続きを読む

Qカントの純粋理性と実践理性について

この2つの違いについて教えてください。

Aベストアンサー

 非常に簡単に違いを説明すると、
純粋理性は形而上学的テーマが主題であり、観念的考察である。それに対して実践理性は実際的な問題が主題となっており、行為の問題である。

 双方の共通点はアプリオリな総合判断はいかにして可能かという問題である。『純粋理性批判』ではそれが観念上可能であることを述べることにとどまるが、『実践理性批判』ではそれが実際的に、つまり、人間の行為として出現するときにはどのようなものかを論じた。

Qカント、ベンサムとミル

◎カント
「なんじの人格や他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、
いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わない様に行為せよ」

というのがありますが、自分の人格も他人の人格も目的として尊重しなさいということだと
解説にはありました。この「目的」のニュアンスがよくつかめません。

◎ベンサムとミル
量的功利主義の快楽計算とは一般的な見方から考える幸福の価値観、
質的功利主義とはおのおの個人的な見方から考える幸福の価値観と考えても
よいものなんですか?

Aベストアンサー

補足を要求されているのを拝見しました。
どのように答えようか考えましたが、量は量で、質は質である、という以上の説明の仕方を思いつきません。

ベンサムとミルが同じことを言っている、というのは、質問者さんのご解釈の領域ですので、尊重したいと思います。

なおベンサム・ミルに関しては、このサイトがわかりやすいと思いましたので、よかったら参考になさってください。

参考URL:http://www.ne.jp/asahi/village/good/bentham.html

Qカントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗 カントの認識論って

カントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗

カントの認識論っていうものは、感性→悟性のこの過程のことを表すのですか?
それとも、対象が認識に従うという内容のことを表すのでしょうか?

また、「理性」から純粋理性、実践理性が生まれたと考えていいのでしょうか?

ごちゃごちゃですみません。
お力添え、お願い致します。

Aベストアンサー

認識論だけなら、「純粋理性批判」を元に展開すれば良いと思います。
純粋理性とは、純粋な理性自体を示し、実践理性とは、理性による実践を意味します。
つまり、「純粋理性批判」とは、純粋な理性の機能を批判的に分析する事を目的として書かれた本です。(理性による認識の構造を分析しています)
「実践理性批判」とは、理性を実践的に利用する事を批判的に分析する事を目的とします。(実際は、理性の倫理学もしくは、道徳的実践のありかたを分析しています)
カントは、形而上学を、理性の論理的構造が、感覚と悟性による実体の表象を認識する事と分析し、実体そのものが、認識されるのではなく、表象を実体と見なす過程が認識だと言う事を主張しています。
つまり、実体→認識では無く、認識→実体と言う発想の転換を行ったわけです。
理性の認識は、実体そのものを意味するのでは無く、理性によりカテゴライズされた表象でしかあり得ないと言う事です。
これを、対象(実体)が認識に従うと表現します。
細かい内容については、「純粋理性批判」もしくは、カントの解説書などを参照してください。

Qカントの人間観について

カントの人間観について、
素人でもわかるような表現で教えていただけませんか?

Aベストアンサー

 なんか最近、カント関係の質問が多いですね。少し後ろの方に「コペルニクス的転回」という題の質問があります。そこでは「純粋理性」の話がされています。ご覧下さい。
 (ひょっとして「レポートなの教えて」系、あるいは「テストなんで助けて」系の質問かも…とも思いましたが、「素人にもわかるような表現で」というあたりに「自分の頭に入れたいんだ、納得したいんだ」という熱意のようなものを感じました。そういう言葉が出てくるということは、「素人にはわかりにくい表現」で書かれたものはお読みになったのでしょう。お手伝いします。)
 で、「カントの人間観」。少し包括的な問題になりますね。以下の三つの論点で述べようと思います。
 1理性には限界があること
 2人間は自由であること
 3人間は「目的」として扱われるべきこと

 まず「1理性の限界」。これはまず、冒頭に挙げた「コペルニクス的転回」のページをご覧になってください。簡単にまとめると、「理論理性(純粋理性)は、感覚を通じて経験できる範囲でのみ正しく認識を構成できる」、「経験できない領域(物自体、イデア界)には、理論理性は踏み込めない」ということです。つまり、「人間の理性には限界があるのだ」と考えていた点、これがカントの人間観、その1です。
 で、「2人間の自由」。
 純粋理性に関してその限界を定めたということは、一見、人間の自由を制約しているように見えます。だって人間理性が無限で万能だったら、それこそ本当に何でもできることになりますからね。けれどカントは、実はそのようにしたことで逆に人間の自由を根拠付けているのです。
 そう言えるのは、まず認識の局面では、「客観的に存在している物の情報が、一方的に意識に押し付けられているのではなく、むしろ意識が積極的に働きかけて、感覚の情報を経験へとまとめあげているのだ」としていることからです。まず一つ、人間の積極性・主体性の根拠がここにあります。
 もう一つの根拠が「実践理性」です。純粋理性が対象認識を担当する理性であるのに対して、実践理性は「意志」を規定する理性です。両者は区別されています。ここでもう一度純粋理性の振る舞いを見直しましょう。それは「認識は外界から一方的に与えられる」というものではありませんでした。でも、かといって「意識が世界を創っている」とまで言えるものではありません。意識が作れるのは(「構成」できるのは)「経験」だけです。
 ということは、「外界があって」しかも「意識があって」、その両方があって初めて認識が成り立つということです。やはり認識のためには「外界の存在が必要である」ことになります。
 ところが実践理性はそうではありません。外界の存在やその作用がまったく無くても、実践理性による意志は、主体そのものの中から内発的・自己原因的に発しうる。つまりここで、外界・自然の因果を断ち切って、人間精神は自由になっているのです。のみならず、純粋理性が「そんなもん、わからんよぉ、ぴぃー」と言って泣きながら放り出したイデア界の諸観念(神とか善とか)をも、それがあるものと要請し(想定し)、いわば努力目標として自分のものにできるのです。(このためカントは、純粋理性と実践理性とは、単に横並びの同僚というわけではなくて「実践理性の方が優位に立っている」としました。)
 さてこうして、実践理性は自然の因果を断ち切って自由になるとともに、神や善を志向することができるようになりました。つまり「善意志」を持ちうるわけです。ここで出てくるのが例の「定言命法」ってやつです。「ホニャララしたければホニャララしなさい」という条件つきの命法(仮言命法)ではなくて「とにかくやれー」と命じる、アレです。外界・自然の関与なしに、実践理性が主体に命令するんです。自然の関与なしに、ということは、人間の内なる自然たる「本能」の関与なしに、ということでもあります。つまり、エッチしたいから女性に親切にするってのはイケナイんです。そーゆーシタゴコロを超越したところから出てくる「やれー」なんです。
 ということで、「人間は自然を超越して、自分で自分自身の主人であり、その意味で自由である」ということ、これがカントの人間観、その2。
 さて「3人間は目的だ」。
 芸術はバクハツですが、人間は「目的」です。これ、どういうことかと言うと、簡単に言えば「人間を道具あつかいしちゃダメだよ」ってことです。よくドラマなんかで悪党の親玉が「あいつはもう用済みだ、消せ」なんて言ってます。仮にここで言う「あいつ」が、嫌いなポテトサラダをボスの代わりに食べてあげる役だったとすると、この「あいつ」は「ポテトサラダ食いマシーン」にすぎないことになります。それで死んだら、墓碑銘には「ポテトサラダのために生まれ、ポテトサラダのために生き、ポテトサラダのために死んだ」と刻まれることになります。まんもす悲ぴい。
 そーゆーふうに人間を扱ってはいけない。たまにはうな重でも食べさせてあげなくては…ということではなくて、どんな人であっても(部下とか手下とか下僕とかパシリとかであっても)、その人を独立した人格を持つ個人として、自分の道具じゃない、その人自身の主体性を持つ存在として、尊重しなさいということです。これ、カントの人間観、その3です。
 ちなみに、カントは「国連」を最初に構想した人でもあります。上の「人間を目的として尊重」というのを、国と国との関係にまで広げているわけです。

 どの程度わかりやすくなったかわかりませんが、こんなところで。

 なんか最近、カント関係の質問が多いですね。少し後ろの方に「コペルニクス的転回」という題の質問があります。そこでは「純粋理性」の話がされています。ご覧下さい。
 (ひょっとして「レポートなの教えて」系、あるいは「テストなんで助けて」系の質問かも…とも思いましたが、「素人にもわかるような表現で」というあたりに「自分の頭に入れたいんだ、納得したいんだ」という熱意のようなものを感じました。そういう言葉が出てくるということは、「素人にはわかりにくい表現」で書かれたものはお読みになっ...続きを読む

Qカントをどうとらえればよいのでしょうか

題名の通りですが、カントの思想や業績を追っていってもすっきり「どういう人だ」というイメージがわきません。その点、デカルトの思想ははっきりとイメージできるのですが、カントの場合、とらえどころがありません。イメージでわかりやすく、高校の倫理程度のご説明をしていただければと思います。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

s-wordさん、久しぶりですね。
さて、カントの業績が判らないとのことですが、話を高校の倫理に限ってしまうとそれは当然です。

カントの哲学上の業績で一番大きくかつ重要なのは「純粋理性批判」です。ここで、彼は従来あった経験論と合理論のいずれにも限界があることを指摘し、理性の認識能力についての限界を示します。簡単に言うと、学問と呼べるものの対象は経験に限るべきであり、それを基礎としてもたないものは「信仰」の対象でしかないとします。同時に、人間が外界の事物を認識出来るのは、私たちにその認識を構成できる能力があるからだ、とします。(哲学プロパーの方へ:これはものすごい省略です。哲学プロパーからみれば誤りだらけだと批判されること必定ですが、哲学的訓練のない人に判るように書くとこうなると思います。)この業績は哲学史上に燦然と輝くものであるといえるでしょう。

さて、カントには三つの問いがありました。その内容は
1.何を私は知ることができるか?
2.何を私は為すべきか?
3.何を私は希望することができるか?
の三つの問いのうち、初めのものに答えたのが「純粋理性批判」です。
2番目の問いに答えたのが「実践理性批判」です。この本でカントは義務の遂行を道徳の中心問題として説き、人間の自由意志とは何かを追求しました。これはある程度は「純粋理性批判」からは独立していますが、カントとしては1.の問いに答えたあとの次の問題です。

ところで、高校倫理の教科書に載っているカントの内容は実はこの「実践理性批判」の内容であり、「純粋理性批判」の内容にはまったく触れられておりません。
(どうしてそうなっているかは旧文部省で教育内容を精選した人に聞かなくては判りません)そのために、デカルト以来の合理論とベーコン以来の経験論を批判統一してドイツ観念論を作ったと言われてもピンと来ないのだと思います。学校の教員によってはそういう説明すらなく、ただ単に「善意志」とか「人格」とか「目的の王国」とかを説明する場合もあるでしょうし・・

つまり、カントは人間の理性の限界の中で、学問として道徳・倫理を考えようとし、その枠内で何を為すべきか、何を善とするか、自由意志とは何か、などを展開しているわけです。

ですから、カント哲学の神髄を知るためには、高校倫理の枠を越えて認識の問題、そしてカントのいう「理性」とは何かの問題に踏み込まなくてはなりません。・・残念ながらそれについては、このような欄で述べきれるものではなく、専門家としての道を歩む決意なくしてその道に入るわけには行かないのではないかと思っております。

s-wordさん、久しぶりですね。
さて、カントの業績が判らないとのことですが、話を高校の倫理に限ってしまうとそれは当然です。

カントの哲学上の業績で一番大きくかつ重要なのは「純粋理性批判」です。ここで、彼は従来あった経験論と合理論のいずれにも限界があることを指摘し、理性の認識能力についての限界を示します。簡単に言うと、学問と呼べるものの対象は経験に限るべきであり、それを基礎としてもたないものは「信仰」の対象でしかないとします。同時に、人間が外界の事物を認識出来るのは、私たち...続きを読む

Q「いずれか」と「いづれか」どっちが正しい!?

教えて下さいっ!
”どちらか”と言う意味の「いずれか」のかな表記として
「いずれか」と「いづれか」のどちらが正しいのでしょう???

私は「いずれか」だと思うんですが、辞書に「いずれか・いづ--。」と書いてあり、???になってしまいました。
どちらでもいいってことでしょうか?

Aベストアンサー

「いずれか」が正しいです.
「いづれ」は「いずれ」の歴史的かな遣いですので,昔は「いづれ」が使われていましたが,現代では「いずれ」で統一することになっていますので,「いずれ」が正しいです.


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