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歴史上かなりの人格者であり内面・外面共に強さを誇ったと聞きました。
上杉謙信について、どんな些細な事でも構いません。情報を教えて下さい。

A 回答 (3件)

上杉謙信について専門に研究している者です。

上杉謙信を初代とする家を「長尾上杉家」と呼びます。人格者か否かは、専門家によって見解が別れます。ただ「筋目」を大事にした事はいくつかのお寺や神社への「願文(がんもん)」から明らかになっています。彼の父の長尾為景は「下剋上」の典型のように言われますが、これも難しいところです。つまり長尾為景は「守護」の格式までしか獲得できていません。「長尾」の名字だけでは、鎌倉時代からの名門が多い越後国の「国人」を従わせるには不足だった、と考えています。
上杉謙信についての「資史料」は大部分「米沢市上杉博物館」とその近くの上杉神社の宝物殿「稽照殿(けいしょうでん)」に保存されており、随時展示されています。国宝や重要文化財に指定されているものもたくさんあります。本当に上杉謙信についてお知りになりたかったら米沢市に行くのをおすすめします。また長野から信越線で直江津まで行くと、なぜ川中島合戦が起きたか、を体で感じる事ができます。両方とも冬は豪雪地帯ですので、雪の季節以外に訪問されたほうがいい、と思います。
上杉謙信についても、戦前は評価が高く戦後はその分評価を下げられて来ました。なお米沢市では上杉謙信は偉大な「神様」です。心して訪問して下さいませ。(上杉神社は「別格官幣社」でした。)
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この回答へのお礼

う~ん…詳しい…凄く研究されてますね…他の方も詳しく皆さん、様々な角度から上杉謙信を見てらっしゃいますね!ベストアンサーにさせて頂きます。
ありがとうございました(^-^)

お礼日時:2012/05/26 22:48

よくいわれるのは「戦争(戦闘)バカ」で、まあとにかく野戦となると文字通りに無双モードに突入し死ぬほど強かった、といわれます。


これがある意味越後の人々の不幸ともいえまして、#1さんもおっしゃるように領土統治がヘタだったので謙信公について行っても領土が増えない。領土が増えないってことは待遇も上がりません。待遇が上がらないのに冬は関東に、夏は信濃にとやたらと軍事行動は多い。
それであまりにこき使われるのでたまらず家臣は反乱を起こすのですが、ところが謙信公ときたひにゃ戦争はバカ強い。つまり反乱を起こしても絶対に鎮圧されちゃう。反乱起こしてやられるか、ベソかきながら謙信公に従って遠征に付き合いいくばくかの恩賞で我慢するか(とりあえず遠征が負け戦になることはありません。無双だから)の究極の選択を迫られていたのです。

ただ、謙信公の名誉のために申し上げておくと、謙信公は実は密かに供の者を連れて上洛したことがありまして、いやただ上洛しただけじゃないんですよ。越後では当時青芋(あおそ)という服の原料になる植物の産地でして、謙信公はこの独占販売権を握っていたのですね。で、上洛したときに京都にその青芋の販売路を開拓したのです。それで越後から京都へ青芋を販売し莫大な利益をあげ、それを軍事遠征の費用に充てていたのです。越後の青芋は高品質で大変人気があったそうです。
謙信公はあれほど眩暈がするような軍事行動(今も昔も軍事行動はめちゃくちゃお金がかかります)をしたにも関わらず大変な財産を残したのです。一般的に「経済に疎い」というイメージがありますが、決してそんなことはないのですよ。
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この回答へのお礼

戦争バカ(笑)
わかる気がします。
勉強になりました。
ありがとうございました(^-^)

お礼日時:2012/05/26 22:44

 戦争にはめっぽう強かったこと,生涯妻をめとらなかったことは事実ですが,上杉謙信が「歴史上かなりの人格者であり内面・外面ともに強さを誇った」という評価にはかなり疑問があります。

例えば,
・父親である長尾為景の代から,長尾家(後の上杉家)は家臣団内部の対立が激しく,謙信はこれに嫌気がさして,勝手に出家し高野山に隠棲しようとしたことがある(後,家臣達による必死の説得で翻意した)。
・関東管領に就任する際,配下の成田長泰が先祖からの慣例に従って下馬しなかったところ,謙信はこれに怒って長泰の烏帽子を扇で打ち落としたため,長泰は居城に戻ってしまい関東遠征失敗の一因になったと伝えられている。
・織田信長と対立すると,些細なことで重臣・柿崎景家が信長に内通していると疑い,景家を死罪にしたと伝えられている(ただし,異説もある)。
・戦争には強かったが,戦後処理により占領地の支配を確実にするのは苦手としており,ライバルの武田信玄や北条家,本願寺勢力などは,やがて上杉謙信本人が出陣しているときは戦わず,謙信がいないときに戦って失地を挽回するようになった。そのため,謙信は死ぬまで戦い続けることを余儀なくされ,その割に上杉家の領土はあまり増えなかった。後年上杉謙信が神格化されると,この現象は「謙信に領土欲がなかったため」と説明されるようになるが,それでも謙信が領土を増やしていることは事実であり,領土欲がなかったとまでは言えない。
・家臣による謀反も多く,特に重臣の本庄繁長や北条高広は,それぞれ謙信に二度も背き,二度とも許されている。
・北条家と和睦する際,北条家の一族を人質として預かったが,謙信はこの人質を不憫に思い,自分の養子にして「景虎」と命名したが,長年の宿敵である北条家の出身者が上杉家の跡継ぎになることに家臣団が猛反発したため,自分の甥にあたる景勝も養子に取った。その結果,上杉家は景虎派と景勝派に分裂し,上杉謙信の死後「御館の乱」という大規模な内乱が発生した。景勝の側に後の名将・直江兼続がいなければ,上杉家はおそらくこの時点で滅亡していた。
・武田信玄の駿河侵攻に伴い,北条家と和睦し共に武田信玄と戦うことにしたが,実際には信玄とろくに戦わず,北条氏康は謙信を信用できないとして遺言で武田信玄との和睦を命じた。

 こんな感じ。実際の上杉謙信は,統治者としては若干問題があるが,戦争には強かったので何とか生き残れたという人物に過ぎないような気がします。
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この回答へのお礼

様々な意味で人を飽きさせない方だったんですね!
ありがとうございました(^-^)

お礼日時:2012/05/26 22:42

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