古墳の副葬品には指輪、勾玉(ネックレス)、耳飾等がありますが、
その時代からあとはこのようなアクセサリーのことをきいたことがありません。
いつ頃なぜなくなってしまったのでしょう?
よかったらおしえてください。

A 回答 (3件)

詳しくは専門家の回答を待ちたいと思いますが、私の推論を下記します。



古墳から発見される遺物には縄文時代から引き継がれた勾玉などの装飾品と弥生時代以降の装飾品が混在しているようです。縄文時代の装飾品の内、勾玉のような貴石は長く生き残ったようですが、貝殻や骨を使った装飾品は中国や朝鮮半島からより進んだ装飾品(ガラス玉など)が入ってきたとき自然淘汰されたのではないでしょうか。縄文時代は石器文化、弥生時代は鉄器文化なので、庶民は競って新しい文化を取りいれ、一万年続いた縄文文化からは優れた一部のものだけが引き継がれたと考えられます。万物に神が宿るという原始宗教や薬草などの知恵は縄文時代から今日まで伝わったものだと思います。弥生人が縄文人を差別(あるいは文化的に圧倒した)したため、弥生人以前には歴史はないと信じられていましたが、考古学の発達により、今それが見直されています。
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100%確信は持てないのですが、


古墳の副葬品には呪術的な意味合いがこめられていたと聞いたことがあります。
巫女だとかとからむ神道系の信仰です。
エジプトのスフィンクスと埴輪も同じような墓守の役割ですし。

時期的には古墳時代の終わりに仏教が伝来して、
貴族(ま、大和時代は豪族ですが)心のよりどころが変わった時点で、
仏教以外の宗教に基づくアクセサリーは下火になったのではないでしょうか。

#高松塚古墳で勾玉が大量出土してるようなら自分、大嘘つきになっちゃいますが・・。
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藤ノ木古墳の発掘に関するページでご質問に近い内容を見つけました。


新聞の情報みたいですので、まあまあ信用できるのでは?

参考URL:http://www.ultra-k.com/kodai/fujinoki/fuji03.html
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Aベストアンサー

本で得た程度の知識ですが、気づいたことを書きます。

「ひらがな、カタカナもなく万葉仮名のようなものでコミュニケーションしていたのでしょうか。」について。

古墳時代、我々の祖先の一部には、漢文を立派にこなせる人々がいました。
倭人(当時の日本列島の住民)が書いた最古の漢文は、日本には残っていませんが、中国の宋書「倭国伝」で知ることができます。
倭王武(雄略天皇か)は、478年に立派な漢文で書かれた書簡を南朝の宋に送っており、これが宋書に記録されています。

「上表文」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%A1%A8%E6%96%87

国内では、稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣には、表に57文字、裏に58文字の銘文があります。
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これらの事例から古墳時代には、漢字・漢文の知識が各地に広まっていたと推定できます。

次に、設計図についてはまったく分かりませんが、#1の方のご回答に納得しています。
古墳時代は、古墳だけに大きな関心が寄せられる傾向にありますが、この時代は、日本列島の大開発時代であると思います。
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土木技術をもつ人々が大陸や朝鮮半島から渡来してきて、原野を開墾し、河川に堤防を築き、用水路を開削し、ため池を造成して農地を拡大していったと思います。
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Q牛の渡来と生態について(古墳時代?)

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家畜としての牛は、古墳時代、おそらくその後半に朝鮮半島からの渡来民が連れてきたとされています。

古墳時代後半にはかなりの数の朝鮮系渡来氏族が移住してきています。
集団で渡来してきた彼らは、一族の集団が食っていくための生産手段を持ち込んだに違いありません。
農作業用の牛、牛用の農具、そして牛の飼養技術です。
このように仮定して、牛用の農具であるカラ犂(スキ)を調べたことがあります。
岩波書店『日本列島に生きた人たち 民具と民俗』を読んだときの読書メモの中に、ご質問の回答になる部分があります。

馬が先で牛はあとから。関西では牛小屋なのになぜウマヤ、牛の市もウマイチ。かって、全国的に馬が飼われていて牛があとからやってきた。古墳から馬具が出る、馬の埴輪が出る。馬具は5世紀に近畿からはじまり6世紀に全国に広がる。古墳からは馬具とともによろいかぶとなど鉄製武具も出土し、馬が半島諸国との戦争の中で軍事用として半島から急いで導入されたと考えられる。他方、牛を飼っていた痕跡は少ないので、馬が主であったのは古墳時代だった。古墳時代後期以降は馬に加えて牛も飼われるようになった。(メモ終わり)

農具について調べたので、このメモの部分をまだ十分に理解していませんが、気になる点をちょっとWebサイトで調べてみました。

ウマヤについて。
「ウマヤ 牛」で検索すると、牛小屋でもウマヤと呼ぶ例がいっぱいあります。
http://www.city.settsu.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000001/1135/p64-65.pdf

最古の牛の埴輪としている例
但馬の古代遺跡 船宮古墳(5世紀代)
http://www.shinkin.co.jp/tanshin/zaidan/3rekisi/01kofun/index1.html

では、弥生時代に家畜としての牛馬がいたか。
魏志倭人伝に「牛馬虎豹羊鵲なし」と書かれています。
かって、弥生時代の遺跡から牛馬の骨が出土して、倭人伝の記述に偽りがあるとされていましたが、その後、新しい年代鑑定技術で再調査すると、ずっと新しい骨であることが判明して、倭人伝の記述がやはり正しかったとされています。
(松井章著『環境考古学への招待』による。)

古墳時代の牛の頭数ですが、まったく分かりません。
渡来人が連れてきたのなら、まず渡来人の数を調べることから始めると良いのでしょうか。
私では想像すらできません。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000265288/3w-asin-books-22

家畜としての牛は、古墳時代、おそらくその後半に朝鮮半島からの渡来民が連れてきたとされています。

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集団で渡来してきた彼らは、一族の集団が食っていくための生産手段を持ち込んだに違いありません。
農作業用の牛、牛用の農具、そして牛の飼養技術です。
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