A 回答 (7件)
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No.7
- 回答日時:
失礼な表現、記載、誤記等ありましたらご容赦ください。
前回の回答の裏付けを出来る限りリンクにしました。
>最近、「一世王」「二世が源」「三世以降が平」という言葉を覚えました。
源氏→「概要」参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F# …
>徳川家康も源とか?(改ざんした後でしょうが、苗字は徳川、姓は源、名は家康?三河の守時代は藤原だったとか?)
征夷大将軍(源)、三河守(藤原)等
徳川家康→「征夷大将軍」を参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …
>本筋に戻して、鎌倉時代以前は天皇の側近の貴族または、源氏、平氏、藤原氏の武術担当など、天皇の末裔とするものが国内の内乱を平定に当たっていた様に思います。
>平安時代の後期、鎌倉幕府成立の少し前は、源平が武力の主力だったと思います。
平安時代→「概要」参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89% …
>明治時代に天皇から賜った姓名を名乗るようにといったら、藤源平橘が公家、武家の80%を占めたとか?
名字→「明治時代以後の名字」を参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%AD%97# …
>いいかえると日本全国、天皇の末裔か、近い側近の末裔ので家柄の高い武家だったと言えると思います。
平安時代の支配地図が見つけられていませんが平安時代のリンクで概ねご理解いただけると思います。
源平の系図は参考程度で戦国時代のおおよその有名な大名家の名前があります。
源氏系図
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage26 …
平氏系図
http://homepage2.nifty.com/mai-hp/keizu-kanmuhei …
>天皇にとっても、源氏や平氏は天皇の末裔の証であり、征夷大将軍を与える家柄の証とも判断できます。
清和源氏の嫡流に征夷大将軍の慣例あり→上記リンク「徳川家康」→「征夷大将軍」を参照
>天皇の権威に頼らない政権を樹立しようとして、一時的に地域を掌握しても、平将門の乱のように中央よりつぶされる。
「承平天慶の乱」参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86% …
>当時は「征夷大将軍」でなくても何でもよかったのでしょう。地方には奥州藤原氏とかあっても全国的な武家政権の前例がない訳です。
「征夷大将軍」の「歴代の征夷大将軍」参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7% …
>奥州藤原氏などいい意味で見本が、頼朝の生きていた時代にあった訳です。
奥州藤原氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E% …
>御恩とご奉公という事を盾にして北条政子が中央の介入をも排除してしまった。
承久の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85% …
以上
No.6
- 回答日時:
失礼な表現、記載、誤記等ありましたらご容赦ください。
小生、歴史の専門家ではありませんが歴史物は好きです。
年を重ねてその裏側を考えるようになりました。
以上の様な訳で
『歴史的な言葉の誤り、ご認識が沢山あるかもしれませんが大筋をくみ取ってほしいと思います。』
また、歴史用語や言葉の誤記、語弊など訂正いただければ勉強になります。
あくまで素人で個人の私見です。
最近、「一世王」「二世が源」「三世以降が平」という言葉を覚えました。
徳川家康も源とか?(改ざんした後でしょうが、苗字は徳川、姓は源、名は家康?三河の守時代は藤原だったとか?)
本筋に戻して、鎌倉時代以前は天皇の側近の貴族または、源氏、平氏、藤原氏の武術担当など、天皇の末裔とするものが国内の内乱を平定に当たっていた様に思います。
平安時代の後期、鎌倉幕府成立の少し前は、源平が武力の主力だったと思います。
少しそれますが
明治時代に天皇から賜った姓名を名乗るようにといったら、藤源平橘が公家、武家の80%を占めたとか?
ゆえに、平安時代末期の日本の各地は、天皇家ゆかりの有力者や天皇の末裔の上級武士がその土地の実力者、統治者になるとか、その子息や孫が地方の実権を掌握し支配したことになったと思います。
また、朝廷から恩賞と言う形でその土地(国)か違う土地(国)を任されたと思います。
いいかえると日本全国、天皇の末裔か、近い側近の末裔ので家柄の高い武家だったと言えると思います。
一方、天皇にとっても、源氏や平氏は天皇の末裔の証であり、征夷大将軍を与える家柄の証とも判断できます。
天皇の権威に頼らない政権を樹立しようとして、一時的に地域を掌握しても、平将門の乱のように中央よりつぶされる。
さて、天皇家ゆかりの有力者ばかりの日本国を効率よく統治するには武力や人望などあっても、中央をいきなり無視した形ではその時点ではいずれ潰される。
よほどの武力、経済力がなければ朝廷を丸ごとひっくり返すことは難しいかと思います。
当初は朝廷に寄り過ぎず、離れすぎず世渡り上手に頭角を現したのが頼朝であったと考えます。
当時は「征夷大将軍」でなくても何でもよかったのでしょう。地方には奥州藤原氏とかあっても全国的な武家政権の前例がない訳です。
頼朝にいつの時点で武家政権の野望が芽生えたかは解りませんがそれを目指し始めた時どうするべきか考えたのではないでしょうか?
また、征夷大将軍が全面的に政治、政(政)を行った前例はその時点では無い訳です。
頼朝には平氏、奥州藤原氏などいい意味で見本が、頼朝の生きていた時代にあった訳です。
また、現状のままではいつ奥州藤原氏のように討伐されるかもしれません。
最終的に官職、官位など在京(京都)を余儀なくされる官職は辞任し、結果的に征夷大将軍の座を得て名実ともに鎌倉で中央に影響されない形で政治を行う権利をも朝廷から得ることに成功した。
征夷大将軍に任ぜられたことではなく、その権限に武家政権を認めさせたことにあると思います。
小生は1192年鎌倉幕府と習いましたが他の方の回答にもあるように最近では1185年と言う話が昨今の歴史でもあるようで実権はすでにこのころから頼朝がもっていたわけです。
征夷大将軍になったから政治を行えたわけではなく、特定地域では既に実権を握り、掌握していた。そのままでは東国支配の、下手をすれば奥州藤原氏と同じになってしまいます。
全国的に、武家を統括しなくては「平将門」や「奥州藤原氏」のようにいつ潰されるか解りません。
その時点で武力と言う訳ではないでしょうが、それなりの圧力や貢物をしたか知りませんがそれらで1192年は征夷大将軍となり最後の天皇のお墨付きを得てかつ将軍が政治も行えるように認めさせたと考えるべきだと思います。
征夷大将軍になったことで一応、北から南まで号を発せられる武家の棟梁になった。
そして、西国にも幕府の力の及ぶ国づくりを行った。
この辺は苦手ですが
手法は色々でしょうが武家に都合のいい裁定をするとか、側近を守護とかにして西国に送るとかあった様な記憶です。
これが、現在我々が普通読んでいる武家政権を担う意味での幕府の始まりだと思います。
後には御恩とご奉公という事を盾にして北条政子が中央の介入をも排除してしまった。
何せ、武家にそれなりの守護?か受領?か支配地なり与えたのは朝廷ではなく鎌倉政権であった。
このことが征夷大将軍でなくとも平氏末裔の北条が執権で鎌倉幕府を存続できた。と考えます。
平たく言えば、当初は天皇の権威を背景に平氏を滅ぼし(義経かもしれませんが)、ある程度掌握し、平将門のように潰されない実権を一定地域で得た。その時点では奥州藤原家の様な関東圏の王にしか過ぎなくなる訳で仕上げに征夷大将軍を賜り、かつそこに武家政権をも加えることに成功し、北は東北、南は九州まで徐々に掌握したということではないですか?
以上
No.5
- 回答日時:
No2の回答のように、頼朝は板東武士団の旗頭ということで、間違いはないです。
以下は私自身の私見です。
1.武士とは言え、天皇の呪術性を恐れているものが少なくなく、
正面から天皇家に反すると、離叛する武士も多いと思われた。
2.天皇家自身が感じている、武士団に対して抱いている恐怖と反感を緩和するため、
征夷大将軍を受けることで、天皇家の権威的地位を保証した。
鎌倉幕府は権威を捨てて、実のみを考えた、当時の武士のリアリズムの象徴が
征夷大将軍ということではないでしょうか。
以上は私見でした。参考までに。
No.4
- 回答日時:
源頼朝は,反平氏の挙兵をした当初から,朝廷と距離を置いた独自の政権構想を描いており,平氏を追討した1185年には,全国に守護・地頭の設置を始めていることから,近年の歴史学では,1185年を実質的な鎌倉幕府の成立時期と考える見解が有力になっています。
その後,日本は朝廷と幕府という曖昧な二重政権が存在したことになりますが,1192年,源頼朝が征夷大将軍に任じられることにより,源頼朝の開いた鎌倉幕府は,朝廷からも合法的な政権としてのお墨付きを得ることになりました。
頼朝以前の「征夷大将軍」は,もちろん相当の権威はあったものの,単に朝廷配下の軍事総司令官を意味する役職に過ぎなかったのですが,鎌倉殿と呼ばれ既に東国で独立政権を築いていた源頼朝が,その地位を公認してもらうために「征夷大将軍」の官職を得たことで,「征夷大将軍」の実質的な意味も大きく変わったわけです。
No.2
- 回答日時:
源頼朝は、征夷大将軍だから力を持ったわけではない。
全然違う。源頼朝は坂東武士団という強固な支持基盤を得たからこそ、力を持った。というより坂東武士団が自分たちの利益を守る為に血筋の確かな源頼朝を擁立したという方が実態に近い。様々な派閥対立がある坂東武士団が内部対立を克服して、共同で統一候補として擁立する為には源頼朝という人物が好都合だったというだけの話です。1980年に自民党が党内抗争の影響で大平内閣への内閣不信任案が可決されてしまって、大平総理大臣が総選挙に打って出たところ、選挙中になんと大平総理大臣が急死(憤死?)してしまったという事件がありました。選挙結果は同情票があったのか自民党が大勝したのですが、さて誰を総理大臣にするのかという問題が残った。有力候補は大勢いたけど、誰を候補にしても党内がまとまりそうもなかった。それで結局、無印の鈴木善幸が総理大臣になったのです。
鈴木善幸は力を持っていたわけじゃないんです。対立する有力政治家が共通して納得できる候補が鈴木善幸只一人だけだったというだけなのです。
源頼朝も同じようなもの。坂東武士団が内部対立を克服し、朝廷を中心とした公家勢力に対抗して、坂東武士団の利益を守るには皆が納得できる人材が必要だった。それが源頼朝なのです。公家勢力に対抗する為には、それなりの役職が必要です。無位無官では権力の正当性を主張できません。だから征夷大将軍という役職に任じるように、朝廷に対して要求していました。それに反対する後白河法皇が崩御して、ようやく征夷大将軍に就任することができた。
坂東武士団が自分たちの利益を守る為に、一致団結して源頼朝を征夷大将軍として担ぎ上げたということなのです。それで鎌倉幕府という既成事実を作り上げたら、もう源頼朝には用はない。鎌倉幕府さえ続けば、将軍は誰でもいいのです。
満州国皇帝に担ぎ上げられた溥儀と似ています。要するに中華民国に対抗する為に満州族名門の溥儀を擁立して、溥儀を看板とすることで満州国の正当性を万民に対して主張できるわけです。
同じことなのです。朝廷に対抗する為には幕府を立てる必要があった。中華民国に対抗する為には満州国を立てる必要があった。幕府を立てる為にも満州国を立てる為にも看板が必要なのです。万民を納得させられる血筋の確かな人物でないと看板にはならないのです。
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