(α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?
言いかえると――同じような内容ですが――
(β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?
(γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?
(δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?
(ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?
個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。
(ζ) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?
(η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?
(θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?
(ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?
(κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
☆☆☆
(き) 信教〔の自由〕にかんする問題をめぐっては その非思考の領域に直結する自己表現は 代理・代弁ということがあり得ない。よって 信仰を大前提とする権限関係にもとづく組織づくりは その信仰者において自家撞着となる。(絶対的にそうなる。よって 信仰の組織教義化は 信仰じたいの自殺行為である。)
議論の出発点は、これで良いと考えます。
個人から自発的に、自然発生した「聖書研究会」のような組織は、個人の有する自由と権利の保護の観点からもっとも望ましい形態のひとつであると考えます。ただ、《信仰を大前提とする権限関係にもとづく組織づくりは その信仰者において自家撞着となる》になるという考え方をさらに推し進めてゆくと、緩やかな「聖書研究会」すら、最終的には否定される存在になるように思えます。信仰の自由が最大限保護、発揮されるのは、個人と神との直接対話の場であるからです。
また、信仰の自由とはまったく無関係に、信仰・宗教というのは、本来的に神と人間との1対1の関係において成立するものであって、現代にみられる既成教団のような教権組織とは本質的に相容れない性質のものです。また、それは、同時に、集団の規模、そのメンバー間の関係性、たとえば、従来の組織宗教型の支配従属関係、あるいは、《聖書研究会》のような平等的な関係などにかかわらず、信仰が本来的に持つ《神←→人間の1対1関係》に起因するものです。ですから、たとえ「聖書研究会」的な横並び型の緩やかな組織であっても、それはその例外ではなく、信仰(活動)の本質に目覚めた個人は、その組織が人権の一つとしての信仰の自由の疎外要因になりうる危険性に気がづき、また、信仰の本来的形態、すなわち、個人と神との1対1の関係構築のためにその組織を排除するようになる。つまり、信仰における個人のモナド化、これこそが信仰の最終形態になるべきである、と考えています。
ただ、わたしの考えるこの信仰活動におけるモナドには、必要な時に開くことができる窓があります。その窓を開き、その開いた窓を通じて必要な情報を得ることができます。聖書や仏典などの聖典がある以上、それ以上のものは本来必要ないはずであり、それを手がかりにしてにして、自身に問いかけ、自身で考える。自身でその意味を探る。これは概念的な思考のみを意味するものではなく、瞑想やヨーガなども含みます。その作業における情報などの不足を摂取するときのみ、この信仰活動のモナドの窓が開かれれば十分であると考えています。人権としての信仰の自由を守るため、個人の信仰の純粋性の保持のためです。そして、これは同時にモナドの独善主義の弊害を取り除くためです。
ただし、個人の信仰活動におけるモナド化は個人の信仰活動における場でのみ成立するものです。人間は信仰のためだけに生きているものではありません。信仰は、あくまで個人の《よりよき生》のためです。手段という言葉は御幣がありますが、その手がかり、手段である、と考えています。信仰を目的視するのは危険である、とも思っています。
なのですが、わたしが漠然とした恐怖を憶えるのは、信仰における宗教モナドの窓が自分が求めている《神》に向けて開いたときです。その神がいかなる神であるのかが、正直、そら怖ろしい。そして、その窓が開きっぱなしになったら、この先に何が待ち受けているのか....
そして、そのモナドが個人の信仰の枠を超えて、他者を巻きこみ、暴走しはじめたら....
結構、怖ろしい事態になるのでは、と危惧の念を抱いております。
☆☆☆
【既成宗教組織の問題】
「聖書研究会」のような横並び型の緩やかな組織が望ましいのですが、世間を見まわすと、そのような都合の良い組織を容易に発見することはできません。また、みずからそのような会を設立するとしても、日本においては日常会話の中で宗教の話を持ち出すことはタブーです。「こんな会を作りたいんだ。よかったら、参加メンバーになってくれないか」と友人などに話を切り出せば、《危ない奴》と敬遠されるのが関の山です。かと言って、既にある「聖書研究会」のような組織には、いわゆるカルト宗教への勧誘・洗脳組織である危険性が十分にあります。そのリスク回避のために、また、宗教・信仰への入り口として、とりあえず、既成宗教組織の存在を認めてもよいのでは、と考えています。
あくまで、これは一時的、緊急避難的措置です。そして、社会通念上最低限の個人の自由と権利を保護するためです。
ただ、既成宗教組織が現在のままの組織形態でよいとはまったく考えておりません。情報の徹底開示、入信者の脱退・退会の自由、脱退・退会時における「この信仰を捨てたら地獄に落ちるなど」の精神的脅迫の排除、信者を使った執拗な引き止め・説得行為の禁止など、また、信仰行為がともなうリスクなどの十分な説明などなど、改善すべき点は多数あります。
最低限、その宗教組織の長の年収、教団の聖職者、職員などの給与実態などは個人が特定できない形で、宗教組織の財務・経理実態は今すぐ公表すべきである。これだけで、その組織がいかなる組織なのかの判断材料になりうる。そして、これは個人の思想・信教の自由となんら抵触しない。信教の自由は、個人におけるものであって、教団組織維持とは無関係なものだからです。税制などの特典を与えられているのだから、最低限、これくらいのことは今すぐにやれ!!と思っております。
そして、このようにオープン化され、近現代的な社会通念上の人権思想に基づいた組織であるのならば、信仰活動の入り口としての役割を期待できるのでは、と考えております。
絶対、組織維持のために、《信教の自由の侵害だ》《法難だ》と声高々に騒ぎ出すのでしょう、きっと。
だから、駄目なんだよ、今の宗教組織。前近代的で旧弊な封建主義的な支配・従属関係を、なぜ、いまだにかたくなに守ろうとするのか。
☆☆☆
わたし、ネットにおける個人発生的な《聖書・仏典をともに学びましょう会》のような関係性の自然発生にすこし期待を寄せています。
《聖書・仏典をともに学びましょう会》を実世界に構築することが難しいからであり、また、ネットでなら、《聖書・仏典をともに学びましょう会》との関係性を即座に解消できるからです。
もっとも、この関係性を築くためには、みずから自分の個人情報をその○○会に与えない、与えるのはメルアド程度(メルアドなら、即座に変更できますから)などのメディアリテラシーが必要であり、○○会の危険性を見きわめる目を養う個人の努力が求められます。
この哲学カテなどは、その意味で、一つの場、修練の場になりうるのではと考えています。
ねむりねこさん 夕暮れ時になりました。ご回答をありがとうございます。
★ ~~~
☆☆☆
(き) 信教〔の自由〕にかんする問題をめぐっては その非思考の領域に直結する自己表現は 代理・代弁ということがあり得ない。よって 信仰を大前提とする権限関係にもとづく組織づくりは その信仰者において自家撞着となる。(絶対的にそうなる。よって 信仰の組織教義化は 信仰じたいの自殺行為である。)
議論の出発点は、これで良いと考えます。
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☆ ありがとうございます。
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わたし、ネットにおける個人発生的な《聖書・仏典をともに学びましょう会》のような関係性の自然発生にすこし期待を寄せています。
・・・・
この哲学カテなどは、その意味で、一つの場、修練の場になりうるのではと考えています。
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☆ フェイスブックのような場かと思ったら プライバシーから言って そのようになるようです。この哲学カテのような場に。
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★ ~~~
【既成宗教組織の問題】
・ いわゆるカルト宗教への勧誘・洗脳組織である危険性が十分にあります。そのリスク回避のために、また、宗教・信仰への入り口として、とりあえず、既成宗教組織の存在を認めてもよいのでは、と考えています。
・ ただ、既成宗教組織が現在のままの組織形態でよいとはまったく考えておりません。情報の徹底開示、
・ 絶対、組織維持のために、《信教の自由の侵害だ》《法難だ》と声高々に騒ぎ出すのでしょう、きっと。
だから、駄目なんだよ、今の宗教組織。前近代的で旧弊な封建主義的な支配・従属関係を、なぜ、いまだにかたくなに守ろうとするのか。
~~~~~~
☆ とりあえずこの哲学カテのような質疑応答の場があればよいとすれば あとは 現場の実務――説得作業などなど――のもんだいでしょうか。
★ 最低限、その宗教組織の長の年収、教団の聖職者、職員などの給与実態などは個人が特定できない形で、宗教組織の財務・経理実態は今すぐ公表すべきである。これだけで、その組織がいかなる組織なのかの判断材料になりうる。
☆ 《信仰》を標榜するかぎりで この情報公開は必要でしょうね。
信仰を持ったとしたとき その信仰による直接の・人とのつながりは むしろ途絶えた。(言いかえると 何をするにも 一挙手一投足が 信仰の関数であるとなる。これが 直接のコミュニケーションとなって現われることはなさそう)。それなのに組織をつくるということは 自己矛盾を押して 欺瞞的にそう行動しているのですから 自分によるものだけではなく またその組織内部のそれだけでもなく ひろく社会による監査が必要だと考えます。そして老兵は消え去るものと思います。
*
★ モナド
☆ については わたしは なじみが薄いです。《窓がない》というのは 分かるようで 分からない。《表象能力》を持ち 別の状態へ変化するとも言う。
仮りのもの(つまり 空観)だとすれば ぜんぶ窓であると言ってもよく それはたとえば《わたし》とみづからを呼ぶ行為の主体 これが 一定の時間 動態として存在しているというほどの意味合いにおいて捉えればどうかと思ったりします。
★ ただ、わたしの考えるこの信仰活動におけるモナドには、必要な時に開くことができる窓があります。
☆ なのですね。
○ わたしは わたしである。 1=1
・ 《わたしはわたしである》わたしが わたしする。 1x1=1
・ これの繰り返し。自己の冪をつくって生きる。 1^n=1
・ 《一》は 全体でもある。
これは 《モナド》ですかねぇ。
*
★ ただし、個人の信仰活動におけるモナド化は個人の信仰活動における場でのみ成立するものです。人間は信仰のためだけに生きているものではありません。信仰は、あくまで個人の《よりよき生》のためです。
☆ 《真理は きみたちを自由にする》 これでしょうね 目的は。
《真理がすべてにおいてすべてである》状態。
*
★ ~~~
なのですが、わたしが漠然とした恐怖を憶えるのは、信仰における宗教モナドの窓が自分が求めている《神》に向けて開いたときです。その神がいかなる神であるのかが、正直、そら怖ろしい。そして、その窓が開きっぱなしになったら、この先に何が待ち受けているのか....
そして、そのモナドが個人の信仰の枠を超えて、他者を巻きこみ、暴走しはじめたら....
結構、怖ろしい事態になるのでは、と危惧の念を抱いております。
~~~~~
☆ 《きよらかなおそれ》=《聖なる甘え》 ではないでしょうか?
No.22
- 回答日時:
たとえマインドコントロールを受けていませんでしても、
既得権得の確保の都合で、某氏は『偽装信仰』に耽っていたそうです。
そんなことは 屁の河童です。
その参加者が 阿呆だと言えば済むことです。
だいたいが 自分の部下を思うように動かしたいという支配欲を見たしたいがために入るようなものです。あるいは 参加者が お札の束にでも見えるからでしょう。
そうではなく 組織の権限階層が 信仰という主観の主観 心の心にもとづくとうたっているところに――そして 実際に信仰が何ものにも先んじて 問題とされるからには―― マチガイの原因があるのではないか? と問うています。
No.20
- 回答日時:
『信用供与(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9E%8D# … )』を強いられている、という立場を信徒達に自覚させない様に、残酷な洗脳の手段が、教祖達によって模索され続けて…。
そんなことは 屁の河童です。
その教祖は 阿呆だと言えば済むことです。
だいたいが 洗脳されに行くようなものです。
組織の権限階層が 信仰という主観の主観 心の心にもとづくとうたっているところに――そして 実際に信仰が何ものにも先んじて 問題とされるからには―― マチガイの原因があるのではないか? と問うています。
No.19
- 回答日時:
悪魔としてあらぶれる姿すらやはり神である。
これが私の見解だが、意見が分かれるのも楽しい事だと思うよ。
最近あなたの地道な努力も報われてきたね。
ご回答をありがとうございます。
★ 悪魔としてあらぶれる姿すらやはり神である。
☆ ただ それは 神の視点からものを言っている。という問題です。
言いかえると 自分を神という立ち場において振る舞っている。
★ これが私の見解だが、意見が分かれるのも楽しい事だと思うよ。
☆ ええ。一般に意見の相違というのは さほどの問題ではなく 話し合いをする用意を互いに持ち続けていけば それでよいとなると思います。
そのとき 《神の目線でものを言う》場合というのは 見解の相違というのではなく まさに目線が違うのだと思われるのです。
言いかえると もしそのように神目線になるというのは 人間目線では相手に対して影響をおよぼすという効果がなかなか出ないので そういう手を使うのだと思います。
もし――もし―― 気負った態度をそのまま自分にゆるしてしまうとするなら
★ 最近あなたの地道な努力も報われてきたね。
☆ というのが 人間目線での奥の細道であったかなとも思うわけです。
老婆心のごとくに。
No.17
- 回答日時:
問題点を深刻にとらえている事は解ったよ。
言い分はもっともだ。
宗教家から自らが同類扱いを受ける事が不本意なので、
私の場合は、
おれは悪魔と愛し合っている。
そして悪魔とは俺そのものだ。
そう言ってしまえば突き放せるよ。
共感する作用の問題でこれは大きい。
段取りとしてまどろっこしいかもしれないが、とりすがり専門家の彼らと決別できる事は大きい。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~
宗教家から自らが同類扱いを受ける事が不本意なので、
私の場合は、
おれは悪魔と愛し合っている。
そして悪魔とは俺そのものだ。
そう言ってしまえば突き放せるよ。
~~~~~
☆ 《悪魔》は たぶんに表現だけの問題だという側面もありますが なにぶん悪魔なわけです。だとすると これは 方便であるとでも言うのでしょうか?
そうだとしても
★ 段取りとしてまどろっこしいかもしれないが
☆ だけでは済まない問題が やはりあるでしょうね 悪魔を名乗ることには。
すなわち 悪魔だの悪鬼だのと言っても 大したことではない。というのであれば もう悪魔などを方便としてでも出すまでもないことになる。
ぎゃくに悪魔というものは まだまだ人間社会において大きな問題であるとなれば 方便として名乗っているに過ぎないとしても やはりまづは悪魔であるという状態があることになります。それだと 話は進まないのではないでしょうか?
★ 共感する作用の問題でこれは大きい。
☆ という効果があったとしても その《悪魔》の世界においてであって そこから外へは出ないし 全体として話は 一歩も目指す方向へは進まない。ということになると見ます。
★ とりすがり専門家の彼らと決別できる事は大きい。
☆ とした場合 その《とりすがり専門家》たちは まだそのまま悪魔の世界にとどまりつづけている。のではないか? だったら 話は何もすすんでいない。のではないか?
こう考えます。
No.16
- 回答日時:
精進の積み重ねが功徳へと反映される度合いにも、
通販のダイエット関連商品類の効果の出方と同じ箇所が含まれているそうでして、
非常に残念乍ら、しかし多くの宗教団体の幹部の方々が、…
そうですね。
★ 非常に残念乍ら、しかし多くの宗教団体の幹部の方々が、…
☆ といった――もしそうでしたら――不祥事の問題だとしますと そうですね その不祥事じたいを問題にするのではなく 信仰を前提として組織を作ると けっきょくその《信仰にもとづく権限関係》が何かとあらゆる面でわざわいするのではないか? こういう切り口での問いです。
すなわち その上下関係は 上の者の影響が ふつうの組織よりも大きくなりがちであり その不祥事の克服も むつかしくなる。とは見ています。
ですが もっと根本的な問題として そもそも 信仰の徒が たとえ同じ信仰を持つと言っても その信仰の共有を前提としてそれにもとづく組織づくりをするのは 意味をなさないのではないか? こういうものです。なぜなら 信仰は その本人の主観という範囲を超えては ほんとうには 流れ出ない。流れ出たなら それは 信仰ではなく 信仰の二番煎じなるしろものであり 神は そのとき《神もどき》となってしまう。
こう問うています。
No.12
- 回答日時:
A11です。
ニュースになるような事例は例外だからこそニュースなのであって、その落ち度を大きく取り上げなくてもいいのではないか。
それから一部の信者の類との、教会側の関係性や対応のまずさもあるでしょう。
どのような宗教に属するかはともかく、私は信仰心の内訳に、救いの求めが入ることをむしろ批判します。
すなわち個人の信仰心の問題点を気にしていますが、それらの人々にとって精神病院の延長として宗教団体が機能する事に依存はありません。
保険のかからない治療ですから経費が高くついてもいいじゃないですか。
たとえば
▲ (No.11お礼欄) ~~~
・・・
この中では1930年から80年代にかけて、教会の運営する施設において数百人の聖職者が少なくとも2500人の少年少女に性的虐待を加えたと述べられており、さらに組織的な隠ぺいがあったと結論している。
~~~~~~~~~~~~
☆ これなどは 五十年間の事件を言っています。このアイルランド一国で一年間に 平均50人の被害者が出ている勘定になります。ひと月4人ですよ。
★ 信仰心
☆ この言葉は あいまいではないですか?
信仰は わが心に非思考の庭が成ることだと規定しますが それは人間の《心》によって成り立つことではないと見ます。
非経験の場である神を受け容れるのであって その受け容れるというのは 神がわが心におとづれたときにその神(つまり ふつうは ナゾの何ものか)をです。人間の心が 神を招くのではなく まして 神を想像し描くことではないわけです。
結果としての信仰心なら 分かりますが そうではなく 信仰しようとする心が 神を招いたりあるいはいくつかの神々の中からえらんだりするというものではない。こう考えます。
No.11
- 回答日時:
言いたい事は解るが否定的見解は行き過ぎではないか。
神さまのファンクラブだと思えば良いだろう。
聖書を読むなどの形態で生きた神話を語ったり。
神に語るべき感謝を聞く人に語ったり。
信仰をが生きている事を確認するために信仰の伝統を尊重したり。
特に伝統については宗教を肯定するとっかかりではないか。
生きてそして死んでいった人々の積み重ねた歴史が、全て神にささげられている。
私は私である。
それにしても、私はなぜ存在するのか。
その答えは、私にも明文化出来ないので、むげな宗教否定はちゅうちょします。
ラッツィンガーという人の態度について 二点 触れます。
▲ (ヰキぺ:ベネディクト16世 (ローマ教皇)) ~~~
本名:ヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー
§ 発言・活動
2007年7月10日、教皇庁は「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」との記述内容を含む文書を公表した。これには教皇ベネディクト16世が承認を与えている。
同文書はプロテスタント教会についても言及し、「使徒ペテロに始まる使徒的伝承をプロテスタント教会が壊し、叙階の秘跡を損なったために、『教会』と呼ぶことはできない」とした。
正教会については、使徒的伝承を守っていると評価する一方、教皇に対する認識の面で「まったき教会としては欠点がある」とした。
このように正教会、プロテスタントのいずれとも真っ向から対立する見解を明らかにする一方で、2007年10月22日にはイタリアのナポリで開催された異宗教間サミットに出席してもおり、他教派・他宗教との対話を完全に拒絶してはいない姿勢も示している。
§ 性的虐待事件への対応
2009年になってアイルランド、ドイツ、アメリカ合衆国におけるカトリック聖職者による児童性的虐待事件が報道されるようになった。このスキャンダルに関してカトリック教会およびベネディクト16世への批判が高まり教会への不信は戦後最悪ともされる状態にまで陥っており、教皇の辞任を求めるデモも発生している。
アイルランドにおける事例については2009年末にアイルランド政府が公表した報告書が騒動のきっかけとなった。この中では1930年から80年代にかけて、教会の運営する施設において数百人の聖職者が少なくとも2500人の少年少女に性的虐待を加えたと述べられており、さらに組織的な隠ぺいがあったと結論している。
ベネディクト16世は事件のもみ消しを図ったショーン・ブレイディー枢機卿の処罰を行っていないことが批判された。
~~~~~~~~~~~~
よくある思想の狭隘さとそして不祥事 このふたつのことですが これが 《信仰》を大前提とする組織において起こるとすれば 問題です。
まづ断わりますが そのような不祥事ないしうたがわしい思想の問題そのものをなじるものではありません。
問題は そのような《プロテスタントの信仰はまちがいである》という表明や 神父の不祥事をもみ消す別の神父を咎めないことやが 信仰にもとづいていると――少なくとも 一般信徒のあいだには うわべだけとしても―― 受け留められます。
信仰があれば まちがいをきちんと正すのが ふつうだと思われますが それが成されない。そして 成されずとも そこに信仰は 《正統》なる系譜として受け継がれて来ているとうそぶくことになっています。
これが 信仰をめぐる組織の持つ矛盾だと見ます。
信仰は 言わばすべてのことの土台ですので 一事が万事と見なされます。あるいはつまり そう見なされても 法王が それでよいとすれば それがとおってゆくことにもなります。
信仰にもとづく組織でなければ つまりふつうの会社や生活共同組合のような集まりであったなら 問題は 違って来ましょうが これらすべての決断とその表明は つねに信仰にもとづくものということになって 自分たち内部の者のあいだでも 外部の人びとに対しても 自己欺瞞を延々と堂々とつづけて行くということになります。
ですから 信仰という看板を外すか それとも自己解体するかしかないと考えます。
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