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北条早雲以来、たった5代(早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直)で、秀吉の小田原城攻めにより、孤立無援、同盟軍や和平の仲介の無いままに滅亡したのでしょうか?

何か北条氏直の時代感覚の無さや外交軽視と徳川家康の領地拡大への深謀術数(氏直は家康の娘・督姫の婿でもある)で上手く秀吉を焚き付け利用し、漁夫の利のごとく、北条氏を孤立化させ滅亡させた陰謀があったように思うのですが・・・
また、氏政・氏照兄弟の切腹、氏直の高野山への追放は厳し過ぎるように思うのですが・・・
北条氏の滅亡この辺の事情や経緯、史実や諸説をお教え願えませんか?

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A 回答 (4件)

 北条氏直が孤立無援状態で秀吉と戦わざるを得なく成ったのは、織田信長が本能寺で討たれた直後の混乱期に手のひら返し(同盟あるいは織田への臣従も視野にいれた交渉を直前までやっていた)で織田領に攻めこんだ(織田方の滝川一益のいる上野へ攻め込んでいる)事による、秀吉側からの不信感が有ったからかも…。



 この時関東から追い出された滝川一益が、後の秀吉による東国外交の一翼を担っていたりします…。

 ちなみに、滝川一益は信長生存中は柴田勝家らと並んで織田四天王(秀吉より格上だった)と呼ばれたほどだったのに、この敗戦の責で大徳寺における信長の法要の時に「滝川殿の席はありませぬ」と門前払いされる程落ちぶれてしまいます…。

 あと、北条氏直自身は秀吉の力を一応認識して、名胡桃城奪取事件の時には、徳川家康に執り成しを依頼しようとしてはいましたが、秀吉は既に小田原征伐に関する軍議を開始していた。
 (秀吉には北条の言い分を聞く気が…。)

 なお、本能寺の頃は一応氏直(まあ、武田と婚姻関係がある氏直が当主で有るのは対外的[織田方]によろしくなかったという面も有りますので…。)が家督を継いでましたが、実質的には父の氏政が政治を牛耳っていたので、氏直に責任を押し付けるのはどうかと思います。

 『北条記』の評価だと

  「四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、どうやら無事であった」

  「五世の氏直君はずいぶん判断力にも富んでいたが、惜しいかな虚弱な体質であったため、みずから裁決せず、人まかせにするあやまちをおかしたために、ついにその家を失うこととなった

 同資料で、北条5代の当主の中で「君」も付けられていない当主は、氏政だけですし…。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。


貴重な資料や考察を紹介頂き、大変、参考に成り、心よりお礼と感謝を申し上げます。

お礼日時:2012/06/16 16:03

後北条氏の滅亡の責を氏直一人に帰すことはできません。

形の上では氏直が後北条氏の当主だったといっても権力が氏直に集中していたわけではないのです。実父である氏政はもちろん、氏政の兄弟である氏照、氏邦、氏規、氏忠などと叔父に当たる一門の武将が皆現役第一線のばりばりで、皆城主であり、皆大名なのです。

外交軽視でもない。後北条氏は応仁の乱以降は、中央政局に極力係わり合いを持たずに、関東は関東で勝手に勢力を拡大しましょうという外交方針で一環していて、その外交方針にしたがって近隣の諸大名と合従連衡していたわけです。

たった5代というけれど、5代も続いただけに一門の武将の数がやたら多い。この辺は一代でのし上がった豊臣秀吉とは大違いです。秀吉には親の代から武将だった縁者も家臣も誰もいない。豊臣一門の武将は全員、秀吉の引き立ててで取り立てられて、秀吉の采配で城を貰ったわけです。当然ながら誰も秀吉には頭が上がらないし、何事も秀吉一人で意思決定できるので、スピーディな行動ができます。これが秀吉と後北条氏一門の意思決定メカニズムの大きな違いです。それだからこそ、秀吉にすれば後北条氏一門の動きが理解しがたい理由でもあった筈です。何をぐずぐずしているのか。どうしてさっさと上洛しないのか。

後北条氏の外交窓口担当だった氏規は上方情勢を把握していて秀吉に臣従することを主張していました。いや、本当は外交窓口を任されていたわけでもなく、上方情勢に関心を持っていたのが氏規だけだったのかも知れません。その意味では外交軽視というなら、氏政・氏照の責任の方がずっと重大です。しかし、それも無理ないことです。「中央政局に係わり合いを持たない」のが伝統的な外交方針だったからです。はあ?秀吉?なにそれ?臣従?何のために?そういう風に考えるほうがむしろ自然なのではないでしょうか。

戦国大名の先駆者といわれる北条早雲以来100年かかって関東を制覇した後北条氏にすれば一代でのし上がった豊臣秀吉に全国の諸大名がおとなしく臣従しているなんて、俄かには信じがたい冗談みたいな話としか思えなくても全く不思議じゃありません。現代人は後付けで結果を知っているから、氏直を馬鹿だと思ってしまう。しかし、豊臣秀吉が一代で戦国時代を終わらせたというのは、当時の人にすればとても信じがたい御伽噺に思えたのかも知れないのです。

しかし、その見方はいかがなものでしょうか。氏直はまだ若輩で、実父、親父の代の武将はだれも氏直に取り立てられたわけでもないし、氏直に助けられたわけでもないのです。独断専行できる立場でもないし、そうしたところで家臣の支持さえ得られる立場でもない。優柔不断だったという批判は一方的です。

結果的に後北条氏の特性の何もかもが裏目に出てしまったように思います。

・一族の結束の堅さと合議制による意思決定システム
・広大な領土と勢力分散
・中央政局に係わり合いを持たない関東独自の勢力拡大方針

秀吉の後北条氏に対する処分が過酷だったとも思いません。後北条氏が氏直一人に権力が集中していなかっただけに、その処分も分散せざるを得ないのは仕方ありません。社長の氏直だけでなく支社長クラスの氏政・氏照にも処分が及んだのはむしろ当然のことでしょう。氏政・氏照は主戦派の頭目だったわけですから、最も重い処分になるのも当然です。その意味では秀吉は後北条氏を処分したわけでもないのです。
氏直は秀吉に許されて領地は失っても一応は狭山城主として遇されています。武将ごとに是々非々で処遇しているんです。

天下統一を担う立場の秀吉にすれば、心を鬼にして、はあ?秀吉?なにそれ?臣従?何のために?という武将は活かしては置けない訳です。そうでなければ、とても全国の武将をまとめることなどできません。
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この回答へのお礼

回答を賜りまして、誠にありがとうございます。


貴重な資料や考察を紹介&お教え頂き、疑問点が何やらボンヤリと輪郭や構図が見えて来たように思います。
大変、参考に成り、心よりお礼と感謝を申し上げます。

お礼日時:2012/06/17 15:48

毎度どうも。



家康は、北条氏滅亡となるとむしろ不利な立場になりますよ。三河が拠点であると考えると、なにしろ周囲を完全に秀吉の勢力に囲まれることになりますからね。関東に転封されたのは、まったく望まなかったと思います。まずなにより額面上の石高は高くても、三河、遠江に比べるとド田舎で荒れた地です。関東随一の大都市であった小田原でさえ、小田原攻め直前でも瓦屋根の家は少なかったそうです。三河、遠江は東海道が通り交通の中心地でもありました。交通の中心地ということは、商業(現金収入)が盛んだということでもあります。

また、北条氏が滅亡させられたことはむしろ家康を始めとした外様大大名にとっては脅威でもあったと思います。北条氏でさえある意味「簡単に」滅亡したわけです。家康でもひとりでは秀吉と戦っても北条氏と同じ運命です。秀吉とすれば小田原攻めとは「わしに刃向うとこういう目に遭うぞ」という恫喝も含んだ戦役だったと思います。実際問題、伊達政宗は小田原に遅参したために秀吉に会津をボッシュートされていますが、あの武闘派の政宗が一切抗うことなくあっさり応じています。小田原に行って秀吉軍を目の当たりにし、「これはとてもではないが敵わない」ということを思い知らされたのだと思います。

北条家の滅亡の直接の原因は、ことわざにもなった小田原評定の不決断と官僚主義にあったと思います。北条家は河越合戦を除けばこれといった軍事作戦による決定的勝利みたいのがありません。軍事行動で華々しく勝利して領土を拡大するのではなく、政治と外交を中心にじわじわと地上げ屋みたいにして領土を増やしていく家風でした。それだけに、秀吉というスケールを超えた脅威に対して対応できる柔軟性は持ち合わせていなかったということでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。


大変、参考に成り、心よりお礼と感謝を申し上げます。

回線の回避工作、なぜ個別撃破が予想されるのに単独対決したのか、和平工作と有為な講話はなぜ出来なかったのかが疑問でしたが、
やはり、北条家の小田原評定と比喩されたリーダーシップ不在、マーケティングなり戦略外交能力の不足が起因しているのですね・・・

お礼日時:2012/06/16 07:31

 北条氏の滅亡が徳川家康の陰謀というのは,単なる結果から導き出された推測に過ぎず,妥当とは言えません。


 北条氏滅亡後,家康は北条氏に代わり関八州を領国として与えられましたが,北条氏討伐の段階では,家康やその家臣達も,褒美としてはたぶん伊豆をもらえるのだとうと思っていた節があります。それが秀吉の命令で,突然関八州への国替えを命じられたというのが現在の通説であり,これを覆すような史料は特にありません。また,家康は秀吉の北条氏討伐にあたり,駿府の人質時代からの知己であった氏直の叔父・氏規を通じ,ぎろぎりまで和平による解決を試みていました。そのせいか,戦争になれば家康も伊達政宗も北条家に味方してくれると思い込んでいたようですが,そのような見通しの甘さから秀吉との和平を蹴ったのは,あくまで北条氏の決断によるものです。
 北条氏直自身は,豊臣秀吉との開戦に積極的であったわけではなく,強硬な開戦論者は父の氏政や叔父の氏照であったこと,戦後氏政や氏照が切腹を命じられる一方,当主である氏直が高野山への追放にとどまったのは,秀吉もこのあたりの事情を熟知していたことによるものです。当時は反乱を起こした結果,城内の民衆ごと撫で切りにされた例もあった時代であり,処分が厳しすぎるとは当時の誰も思わなかったでしょう。
 北条氏の滅亡は,氏直一人の責任というわけではなく,当時の北条家が一族・官僚による統治を高度化させるあまり,組織全体の動脈硬化が起きていたことによるものです。史上悪名高い「小田原評定」はその象徴ですが,甲信をめぐる徳川家康との戦いでも,動員できる兵力は北条家の方がかなり多かったにもかかわらず,戦時には不可欠な迅速で機動的な決断ができず,結局家康と不利な条件による和解を余儀なくされています(督姫が北条家に嫁いだのはこの和解によるものです)。氏直自身も,徳川家との戦いで一軍を率いていたものの,一族の合議で決めた作戦に反する独断行動は許されないと家臣達に反対され,徳川軍を破る好機をみすみす逃しています。
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この回答へのお礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。


大変、参考に成り、心よりお礼と感謝を申し上げます。

お礼日時:2012/06/15 20:46

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Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年...続きを読む

Q戦国時代の北条早雲って鎌倉幕府の北条氏の子孫ですか?

鎌倉幕府の北条氏は室町幕府に倒されたと思いますが、戦国時代に出てくる北条氏はどんな関係なのでしょうか?
子孫?親戚?無関係?

どなたか教えてください。

Aベストアンサー

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲自身は最後まで伊勢氏を名乗り、北条姓に変わるのは2代の北条氏綱からですが。
この改姓は非常に重要な意味を持ちます。つまり鎌倉幕府の実質上の主であったあの名門、北条氏の流れを汲む者であると名乗れることは、大きなハクがつくことになるからです。このような権威付けは当時では非常に重要なことと思われます。由緒ある家柄だということは、支配者としての「資格」のあることを意味するからです。もちろん資格があっても実力がなければすぐに亡ぼされてしまいますが、実力があっても資格がないと、人々は支配者としてなかなか認めたくはない。室町幕府の権威が低下し、実力の世となっても、人心の変化は、まだまだそういった古くからの権威をあがめ、由緒を尊ぶ気風は十分に残っていました。戦国時代、下克上の三羽烏とも言われる北条早雲、斎藤道三、松永久秀のうち、道三と久秀はまもなく滅んでしまったのも、このあたりに原因の一つがあるのではないでしょうか。

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q武田勝頼体制はなぜあそこまで脆かった?

武田勝頼は人間的にも問題なく、能力は高かったとの話を聞きますが、家督をついでからは裏切りが多くて、長篠の戦い以後はさらにそれが加速して組織はがたがたでしたね。。
出生が良くなくて繰り上げ当選で家督についたということと、もともと武田は中央集権体制ができてなかったこともあるのでしょうが、それは
上杉景勝だって家督相続の時に泥沼化して、武田と同じく越後の国の豪族連合の盟主的な立場から脱してなくて同じことですよね。

なぜ他の大名家に比べて武田勝頼の元での組織は脆かったのでしょうか?

Aベストアンサー

「勝頼は信勝の陣代」という話は甲陽軍鑑にその旨書いてあるだけで、他に裏づけとなる史料はなく、学問的には否定されています。武田家の家督は信玄から勝頼に引き継がれたことが全ての一次史料で一致しております。

さて、武田家の滅亡は、天正10年(1582年)正月の末に武田領国の西端で織田領の美濃と接する地域を領する木曽義昌(武田信玄の娘婿、武田家の一門待遇)が織田家に寝返ったことで始まりました。

ところが、その前年の11月に、駿河戸倉城の松田新六郎という武将が、北条家から武田家に寝返っている史実があります。
※ 岩波新書「武田信玄と勝頼」197ページに記載。
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31863126

この松田新六郎が、武田家の滅亡後にどうなったのかは分かりませんが、1581年末の段階でも、武田勝頼の勢力はとりあえず揺るぎないもの、北条家を捨てて武田家に寝返るに足るものと認知されていたということを示します。

武田家があまりにも急速に崩壊した理由ですが、

(1) 木曽義昌、穴山信君という二人の「信玄の娘婿」が、いち早く織田・徳川に寝返ったこと。
穴山信君は、武田家の中でも有数の知行と兵力を持ち、江尻城主として駿河を預かっている立場でした。この穴山が裏切ったとなれば、徳川と北条の連合軍が駿河から甲斐へ一斉に攻め込んでくることになります。

木曽義昌の寝返りと共に、織田信忠が率いる織田主力軍が伊那方面から武田領国に侵入し、3月2日に高遠城を攻め落として諏訪付近に達しました。この段階で武田領国は甲斐と信濃の二つに分断されたことになります。後は「掃討戦」となり、勝頼とその一家は3月11日に天目山で織田信忠麾下の滝川一益の軍勢に討ち取られました。

ここまで迅速に武田家が崩壊した理由ですが
「木曽殿と穴山殿が武田家から離反した以上、武田家に織田・徳川・北条に戦う力は残されていない」
と武田麾下の諸武将が判断した結果といえます。実際その通りでした。
ただ、木曽と穴山の寝返りを受け入れた織田信長が、他の武田諸将の寝返りは受け付けず、降伏して出てきた武田諸将をことごとく処刑したのは予想外だったと思いますが。

(2) 1582年、本能寺の変がなければ、他に3つの大大名が織田家に潰されるか軍門に下ることが確実でした。

越後の上杉景勝:
武田家の滅亡後、北陸を進んで能登と越中を制した柴田勝家率いる「織田家北陸方面軍」が、本能寺の変の当日に越中魚津城を攻略し、越後に乱入する所でした。
上杉景勝は、魚津城を救援するため出陣しようとしましたが、武田家の滅亡によって織田領となった信濃の北部から、別な織田軍(森長可など)が上杉家の本拠地の春日山城を襲う恐れがあり、動くことができませんでした。
同時に、上野にいる滝川一益が、三国峠を越えて越後に攻め入る構えを見せていました。旧暦の6月、真夏ですから、冬は雪に閉ざされる三国峠も容易に通行できます。小田原の北条氏は、明確にではありませんが織田家の軍門に下った状況でしたので、一益の越後侵攻を妨げる者はいません。
本能寺の変がなければ、越後一国を領するに過ぎない上杉景勝は、恐らく武田家よりもっとアッサリと織田の大軍に三方面から押し潰されていたでしょう。

中国の毛利輝元:
本能寺の変の時、備中高松城は羽柴秀吉率いる「織田家中国方面軍」の水攻めを受けていました。
毛利輝元・小早川隆景・吉川元春が率いる毛利のほぼ全軍が救援に来ていましたが、高松城を包囲する築堤と水が障害になること、「織田家中国方面軍」と兵力が近似していたこともあり、毛利家側は手を出せない状況でした。
この状況で、信長が「毛利を倒す時が来た。畿内にいる明智光秀以下の諸将を信長自らが率いて出馬する」と決断し、その準備のため京都の本能寺に滞在している時に起きたのが本能寺の変です。
本能寺の変がなければ、信長率いる主力部隊が備中に到着するという知らせと前後して備中高松城が陥落し、毛利軍は安芸へ退き、羽柴秀吉に領国の大幅割譲を条件とする和睦を申し出たでしょう。実際、高松城の包囲戦の段階で和睦交渉が進んでいました。
この和睦は、毛利家の領国の過半を信長に譲る過酷な者であったとされています。

四国の長曾我部元親:
元親は四国全体を概ね勢力下に収めていましたが、織田家の四国遠征軍(織田信孝、丹羽長秀)が本能寺の変の時点で大坂に集結し、まさに淡路島経由で四国に渡ろうとしていました。

四国には織田方についている三好氏の勢力があり、スムーズに渡海が出来たでしょう。元親の勢力は60万石程度と見積もられますが、織田軍の前では「鎧袖一触」に潰されたはずです。

(3) 本能寺の変がなければ、歴史には
「1582年 織田信長が武田勝頼と上杉景勝と長曾我部元親を滅ぼし、毛利輝元を降伏させた」
となったはずです。

この結果、毛利家と北条家を麾下に従えた織田家の勢力は、
東は越後、上野まで
西は長門と四国全域
まで広がり「残すは奥羽と九州のみ」となったはずです。

武田家滅亡後に、織田家が3つの大大名を同時に滅亡させる(降伏させる)体制に入っていたことから分かるように、1582年の織田家の兵力は、他の大名家の数倍に上る隔絶したものでした。ちょうど、今日のアメリカ軍のようなものです。

仮に武田家の諸将が叛かずに最後まで勝頼と共に戦ったとしても勝ち目はなかったと言えましょう。

「勝頼は信勝の陣代」という話は甲陽軍鑑にその旨書いてあるだけで、他に裏づけとなる史料はなく、学問的には否定されています。武田家の家督は信玄から勝頼に引き継がれたことが全ての一次史料で一致しております。

さて、武田家の滅亡は、天正10年(1582年)正月の末に武田領国の西端で織田領の美濃と接する地域を領する木曽義昌(武田信玄の娘婿、武田家の一門待遇)が織田家に寝返ったことで始まりました。

ところが、その前年の11月に、駿河戸倉城の松田新六郎という武将が、北条家から武田家に寝返ってい...続きを読む

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?

タイトル通りです。

天下統一をはたした豊臣家は、何故事実上一代で滅んでしまったのでしょう?

秀吉びいきの父などは「正室に子どもができなかったからだ」などと言っているのですが、養子や側室の子どもが跡を継ぐなんてよくあることだと思うし、これが原因とはならない気がするのですが…。

私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有...続きを読む

Q織田信長は800万石、豊臣秀吉は220万石?

織田信長の直轄の版図は、北条、大友、宇喜多、徳川等の完全に又は半分以上従属したような大名の版図を抜かして計算しても600万石から800万石あったといいます。
対して豊臣秀吉の直轄領は220万石といいますが、この差はどこからくるのでしょうか?
豊臣秀吉は織田信長の後継者としてさらに版図を拡大させて人ですよね。

それと、織田信長の版図の600万石から800万石という話しですが、その間の200万石はどこのことなのでしょうか?
ご存じの方がいたら、あわせてお願いします。

Aベストアンサー

信長と秀吉の違い
現在の会社の感覚で言えば
秀吉は分社化したので、系列子会社(前田とか弟の秀長とか)とかは含まない。本社の単体計算。
信長は分社化する前なので、オール織田家。
という違いです。

信長600~800万石
早い話が太閤検地までは、正確な石高理解なんて無かった。
戦国時代の○○家■■万石というのも、太閤検地からの逆算ですので。
だいたい、石高制度ってのがまだないっす。信長の時代は。

Q家康はなぜ島津を処分出来なかったのか?

関ヶ原で西軍に味方し唯一と言って良いほどお咎め無しの大名家が島津家です。
宇喜多秀家も島津を頼り死罪を免れ、佐竹も島津の口ぞえで出羽秋田への改易で済みました

しかし家康は関ヶ原で勝った立場です
島津を処分しようとすれば出来たはずですが何故しなかったのでしょう?
確かに元々は東軍加担でしたが伏見城攻略を巡って家康と対立し西軍に付き
戦場で取り残された時起死回生の中央突破で反転し退却しました。
もしや家康はビビったのでしょうか?


関ヶ原後に島津家を処分しなかったばっかりに約260年後
幕府は島津に倒されてしまうんですね(笑)

Aベストアンサー

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の要請で伏見城の守備に就こうとして妨害されたので、やむなく西軍に付いたということを述べたのです。そのあと2年間も交渉は続いたのですが、結局、慶長7年(1602)家康が折れる形で起請文を書き、本領が安堵されました。義弘の息子の忠恒(家久)が上洛して謝罪し、これで島津家は徳川幕府の統制下に入るのです。

結局、この交渉が長引いたために家康は征夷大将軍宣下が遅れたのです。


詳細は下記のURLを参照してください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の...続きを読む

Q石高について

石高が具体的に想像できません。時代ごとで石盛がことなることは理解できるのですが、例えば加賀百万石や慶長年間の30万石とは、玄米にして何表にあたるのか、米にしたら何表になるのか、金額にしてどれくらいなのか、などの具体的なものを教えていただけませんか。時代ごと、地方ごとでその意味は異なるとは思うのですが、概略だけでも掴みたいと思います。

Aベストアンサー

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのうなぎを食べていたというのが実情で、しかも、精力がつくというので、人足などの肉体労働従事者が食べていたもので、一般的ではありません。

食品としては、海から取れるものは、各種の魚、貝、たこやいか、海草などで、池や川や田などでは、魚や貝が取れました。これらを調理して料理にしたのです。また陸では、米、麦、豆、粟・稗などの雑穀、大根、芋などを含む各種野菜、そして兎やかもの肉などがあり、例外的に、猪の肉などもありました。

しかし副食はそんなに多くなく、庶民だと、米に雑穀、豆から作った味噌や豆腐、それに野菜、魚、貝などが食物でした。やはり、米と雑穀、麦が多く、それに味噌、野菜を少し加えて、これで大体食事です。宮沢賢治の「雨にも負けず」にあるようなのが、江戸時代の食事です。

生活費は大体、食べるのに使ったのだと考えるのがよいでしょう。衣類や調度、その他、多少の道具も必要だったでしょうが、やはり食べることが主で、食べられることが、生活の条件だということになります。

だから、食べるための米の量で計算するのが、江戸時代の価値観では合理性があるのです。

一日に米五合というのは、そんなに食べないと思えますが、昔は、副食がないので結構食べたのです。米だけ食べたのでないので、雑穀も米に勘定して、副食もこれに入れます。すると、大まかに、1石は、200日分の米だと出てきます。

1石=10斗=100升=1000合 でした。それゆえ、1石半で、一人の食料一年はまかなえたことになります。5人家族で7石か8石です。もう少し多く必要だとして、庶民は、一年間に一家で10石あればよかったということになります。

最下級の武士で、禄高30石とかがありますが、30石でも、食べるだけなら、十分余裕があったということになります。

米10石が庶民の年間の収入だったと考えると、現代の庶民の年間収入を仮に300万円とすると、1石は30万円になります。米1升は、1.5kgほどで、1石は150kgだとすると、現代の安い米だと、1kgは500円かそれ以下です。1石は7万5千円になり、10石は75万円になって、先の300万円と合いませんが、江戸時代の方が米の価値は高かったのだと云えます。

中級武士は、禄高100石ぐらいありました。これは3000万円になり、非常に高給のように思えます。しかし、江戸時代は、人件費が無茶苦茶に安かったという事情があります。商家の手代や丁稚が一年、働きに働いても、大した給金はなかったのです。食べさせてもらうことが、給金の主たる部分だったとも云えます。

また武士は、人口の一割にも満たない、エリート階層だったのだということも重要です。中級武士だと、少なくとも4,5人の下男・下女などを専属で使っていたのであり、現代の日本で、4,5人の成人を丸抱えで雇うとなると、年間1000万円の収入では無理でしょう。一人300万円出すとしても、1200万円とか1500万円必要になり、これを考えると、100石の中級武士が年収3000万円というのは、それほど多い金額ではなくなります。

1000石の旗本というと、殿様であって、裕福ということになりますが、これは年収3億円ということになります。

1万石の大名は、石高30億円です。しかし、1万石の大名になると、相応の数の武士の家来を持たねばならず、小者や使用人など、抱える家来や使用人は100人は軽く超えたはずです(また収入は、以下の前田家と同様、15億円と半分になります)。

加賀100万石の前田家は、石高3000億円ということになりますが、これは大土地所有者でもあるのであり、日本の面積の50分1ぐらいを所有する大金持ちだとも云えます。(また、これは、加賀の総生産高で、課税がその半分とすると、1500億円が収入です。領地を持つ大名などは、領地からの税収が収入であったのです)。

徳川の直轄領を仮に1000万石とすると、徳川宗家は年収1.5兆円だとなりますが、これはむしろ、少ないのではないかという気がします。

1石30万円というのは、江戸初期の米の価値で、米の価値は段段落ちてきます。江戸末期には、1石10万円に、もしなっていたとすると、幕府収入は3750億円になります。

これでも多いように見えますが、幕府が何人の人間を養っていたのか、行政手順など、どれぐらい費用をかけていたか、こういうことを考えると、3750億円などでは、とても足りないということになります。

幕府1000万石1.5兆円は、純利益ではなく、粗利益で、ここから人件費その他諸費用を出さねばならないのです。それは大名家も同様で、武士の家も似たようなことになります。

なお、1石は2.5俵です。40石が100俵です。また玄米と白米は、昔は食用の米はほとんど精米していません。だから、そんなに差はないことになります。清酒用の米はかなり精米したようですが、分量的には、それほどではないでしょう(ただ、糠が出る程度には精米したはずです。糠も貴重な食料原料だったのです)。

(農家の次男・三男などが商家に丁稚などで働きに出ると、食事に、たくあん一切れ二切れとか、梅干が出たそうですが、これが何とも美味しく、魅力的であったという話があります)。

なお、参考2では、1石=5万円としていますが、これは話がおかしいのです。現代の米の価格をそのまま戦国時代や江戸時代に当てはめるというのが無理があるのです。一日5合が、一人の庶民の生活費で、1石=5万円だと、1合=50円で、一日5合は、一日250円となりますが、そんなはずはないのです。

1日250円なら、1年で9万円ですが、5人家族で45万円とは、現代日本では生活できません。米の価値が、江戸時代では、現代よりも遥かに高かったということを失念しているのです。

>参考1:石高とは
>http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm
 
>参考2:関ヶ原
>http://www.ryusaku-kuroya.net/sekigahara.htm
 
>参考3:上田藩の支配組織
>http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm
 

参考URL:http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm,http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのう...続きを読む

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む


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