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あらゆる思索や思考は結局のところ原因まで遡って行くと「そういう衝動が沸き起こってきたから(そう感じたから)」となります。
それを考える上でおいて1+1=?の時これが数学の問題だと過去と照合しますが「それはなぜですか?」と聞かれれば「そう感じたから」でしょう
そして計算する際もなぜ計算したかと聞かれれば「そう感じたから」でしょう。
実際の計算のプロセスは機械と変わりありません。

こうやって並べてみると人間の精神とは「そう感じたから」と「計算」と「ミス」の組み合わせ以外の何物でもないと思ってしまいます。(ミクロの世界の影響もあるならば+「ランダム」ですかね)


自由意志とはどの部分なんでしょう。私に選択する余地はあるのでしょうか。

A 回答 (14件中1~10件)

こんばんは。



「内心の自由」は、100%フリーなわけですが、一旦それが「外」に表現されるとなると、責任を負うことになります。

しかし、世の中、責任を負わせるといって、それは酷だ、というケースもあるわけですよね。「本人には致し方なかった」というような場合です。そのような、「本人の「意思」に関わらず、結果は必然的に生じたのである」、というような結果に対しては、本人の責任は阻却される、というわけです。


以上は、社会的・法律的に見た、自由(と責任)についての一つの考え方であるわけですが、「どこまでが、本人の責任を問えるのか」という辺りが、ご質問の解決のヒントになりませんでしょうか。
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 返事が遅くなってすみません。

ちょっといろいろ立て込んでおります。

>>ジェームズオースティンが調べても見つかりません。
>>詳しい実験条件を見ないとなんとも言えないので参考にURLか解説をお願いできませんか。
 ジェームス・オースティン氏は私が禅定と脳の関係を調べていたときに見つけた研究者で「James H. Austin」と引けば出てくるはずです。先に述べた説は書籍としては『Zen and The Brain(禅と脳)』という書籍にのっていたはずです。
 確か実験自体はスティーブン・ヒリヤード(Steven A Hillyard)氏の『Electrophysiology of human selective attention(電気生理学に見る人間の選択的注意)』という論文からの引用だったと思います。たぶん、日本語だと
http://wwwsoc.nii.ac.jp/vsj2/VISION/vol21-1/VISI …
このレポートあたりが近しい追研究だと思います。後は海外論文になっちゃうんですよね。

>>また、注意の集中のタイミングを知ることができるのが本人である以上それは主観的な主張に思うのです。
>>そうなるとそれは反証可能性の点から言って科学とは言えず、意味が無いと思うのですが。。。 具体的な実験内容を読んでみないとなんとも言えませんが。
 少し話しはズレますが、随伴現象説との矛盾ということをいえば、「クオリア問題」もまだ未解決ですね。「マリーの部屋」という思考実験に端を発するのですが、私が説明するよりウィキで「マリーの部屋」と調べてみてください。一通り載っています。

 この「マリーの部屋」なんかをはじめとした「クオリア」については、哲学の分野であって科学じゃないって批判も多いんですよね。つまり、自由意志って事も同じだと思うんですよ。ある意味において科学が非科学的(未科学なのかもしれませんが)な分野に足を突っ込んでる部分でもあるんですよね。その辺の線引きは心を研究の対象にしている私には難しい所なんですけどね。

 すいません、ちょっと時間がなくて文章が支離滅裂になってますね。どうぞお許し下さいませ。
合掌 南無阿弥陀佛
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>実際の計算のプロセスは機械と変わりありません。


んなことないです。福本伸行さんの「カイジ」などを読めば一目瞭然で、
人間の思考には、「願望」が加味されます。機械の計算プロセスに、これは無いはず。

>こうやって並べてみると人間の精神とは「そう感じたから」と「計算」と「ミス」の組み合わせ
>自由意志とはどの部分なんでしょう。私に選択する余地はあるのでしょうか。
ランダム要素としてもいいけれど、別解釈として、前提条件の取捨に生じる判断の部分。

前提条件の取捨は、情報未確定部分なので、計算でないし、ミスでもないです。
しかし、明らかに、個人の個性が発生する場所に該当します。
かつ、計算部分で、「価値観は個人ごとに違う」ことを式に取り込む必要があるから、他人には予想できないわけだよね?

でも、最も問題なのは以下。
神は全能であるがゆえに、未来もわかっているはず。ゆえに、自由意志で選択したつもりであっても、
神の目からみれば必然である。必然であるなら、それは自由意志とはいえない。
※私個人の価値観では、これはどうでもいいことですが、自由意志を話題にする場合、これこそが主題です。

また、
私自身は状況に対し機械的に判断をしているにすぎないが、周囲のひとからみれば、自由意志で気まぐれに
判断しているとしか解釈できない行動を取っている
としても、別に間違っていません。(あなたの入手した情報を、相手は部分的にしか知らないだろうから。)

>私に選択する余地はあるのでしょうか。
あなたの気の持ち方次第。
明白なのは、
・神は、あなたがどう選択するかについて知っている。ただし、それを他人に教えることは無い。
・あなたも、他人も、あなたの判断により未来がどうなるかは、不正確にしかわからない。
この2点。
この条件であなたが何か選択した場合、それ自由意志なのか、運命であり昔から決まっていたか?
という問題。
気の持ちようで、自由意志は、あるとも無いとも言える。そういうこと。
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NO.3 です。



>>コンピュータと人間との差はない
>そのようなことは申しておりません。

 ?
> 人間を分割して一つの「計算」という特性を捉えてみるとそれがコンピュータと変わらないと

そういうことですよね。あらゆる思考は「計算」に置き換えられるわけで、人間の脳はコンピュータと基本的にはおなじ構造をしているというのが今の常識です。

>>あらゆる思索や思考は結局のところ原因まで遡って行くと「そういう衝動が沸き起こってきたから
>>計算する際もなぜ計算したかと聞かれれば「そう感じたから

ここのご質問はあいまいなところがありますが、それは、人間の思考のきっかけは衝動が起こったから、とか、そう感じたからとかいうところがわかりにくいのでそういったまでで、そこに衝動を覚えたとか、そう感じたからというのは必ず外部から何らかの刺激があったからに違いない、(内発的なものは何も明瞭には書かれてないので)と勝手に解釈したまでです。強いて自由意思を設定するならばそこにこそあるべきだ(内発的動機とは何か?どんな構造をしているのか?そもそもそんな現象がありうるのか?)と私は思うのですが、その思考の痕跡はこのご質問には現れていません。

そういったことを含めて自由意思は存在しないだろうと私は考えました。
ご質問者様もたぶん同様にお考えなのでしょう。
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 自由意思の有無を語る上では、「リベットの実験」に触れなければなりません。

『自分の好きなタイミングで手首を曲げてくださいネ』と被験者に言っておき、脳波(準備電位)を測るものです。
   http://www.geocities.jp/tillich1965/Performance5 …
 な、な、なんと、意志よりも先に、運動の信号が発火されていたのです。私たちが「自分の意志」と思っていたものが、実はあと付けだった…ということでしょうか?。だけど、曲げようと思えばいつでも自分の手首を曲げられるという現実。この矛盾をどう理解すればいいのでしょう。

 アイデアが浮かんだり、衝動が湧きおこったりするのは無意識であって、そこに自由意思の入り込む余地はないと考えます。ですが、意識の俎上に上った瞬間から、それを拒否するという形の自由意思はあると考えます。無意識は文字通り無意識であって、そういう脳活動があった事さえ気がつかないことを言います。

   http://gitanez.seesaa.net/article/34158290.html
 自由があれば、その裏で責任が発生します。『こんな大きな津波が来るなんて、意識していなかった!』と言えば、責任から逃れられるのでしょうか。そこで法律は便宜的に誰かに責任を取らせる仕組みになっているのです。うっかり交通事故を起こした人も、法律を知らずに破った人も、法律は許してくれません。

 話を戻しましょう。私たちが今まで「意志」と呼んでいたものには、無意識が前段階で含まれていて、「心」と呼ぶ非物質的な概念には物質的な反応が含まれている。そう考えねば、説明がつかないのではないでしょうか。つまり、“括り方”に無理があり、便宜的な括りに囚われているから矛盾が生じる、というのが僕の結論です。

 絶対的な神の目線から見れば、人間が自分の意志や信念と思ってやっていることも、ただの反応に過ぎないのでしょう。神から見れば、人間の考えたりやったりしている事はみんな“無意識”に見えるでしょう。だから、神は人間に『責任を取れ!』とは言わないはずです。『責任を取れ』と言うのは、もっぱら人間が人間に対してだけです。
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ま、その、実際にありそうなのは、自発的意志と自由な選択ですかね。



これらを組み合わせて、自由意志とよんじゃうから訳がわらなくなるじゃありませんかね。

私から見れば、あなたの選択は、自由意志と言えます。
でも、あなたから見て、あなたの中に自由意志があるかというと、見あたらないでしょうね、おそらく。


でも、自由ってのも、自分ってのも拡大するとやっぱり自由意志ってのはあることにしておけます。
自分の中にいる自発的な意志をもつ他人も自分だと言うことにすればですけどね。
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>あらゆる思索や思考は結局のところ原因まで遡って行くと「そういう衝動が沸き起こってきたから(そう感じたから)」となります。



あらゆる大河も、結局のところ源泉まで遡って行くと、小さな湧水となります。

ですから、ガンジス河も揚子江も、アマゾン川も同じなんでしょうかね???
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この回答へのお礼

回答となる含みのある言葉なのかもしれませんが私にはよくわかりません。

もう少し直接的に自由意志の有無について考えることを教えていただけると助かります。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 00:26

自由意志というのは無意識的なものでなければなりませんよ。

動機に計算が入っちゃだめですから。ですから自由意志という概念は、それ自体矛盾しているんですよ。
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この回答へのお礼

(数学の問題だと定義するための過去との照合=そう感じたから)→(計算しようという思い!=そう感じたから)→計算というプロセスのつもりで言ったのですが問題がありましたかね。

上に書いたようでしたら矛盾しませんよね?
わかりにくく申し訳ありません。

ところで自由意志というのが無意識的でならないというのはなぜか教えて欲しいです。


ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 00:25

 こないだはどうも、また副次的な専門の方面からお話させてください。



>>自由意志の有無について
 まず、「自由意志」てのは何かってことなんですけど、定義とか言うと難しくなっちゃうんで、大雑把な感じで行こうと思います(細かく説明できない言い訳なんですけど)。「お昼ごはんに何を食べるかってことを決めること」くらいの意味で考えていきましょう。

>>あらゆる思索や思考は結局のところ原因まで遡って行くと「そういう衝動が沸き起こってきたから(そう感じたから)」となります。
(中略)
>>実際の計算のプロセスは機械と変わりありません。
 確か『東京アンダーグラウンド』って漫画で、敵の科学者が味方の獣人の女の子を科学物質を注入するだか、電気刺激を送るだかで操作して仲間に襲い掛からせようとしたときに、
「感情なんてものは脳の化学反応に過ぎない。フハハハハハ。」
みたいな台詞をいってましたが、少年誌でございますから案の定仲間を思う心で、それに打ち勝っちゃうんですよね。
 けど、二十年位前(もっと前かな)から脳科学のり主流となった「随伴現象説」によれば、敵の科学者のおっしゃるとおりなわけですわ。ご存知の上での質問とは思いますが、いちお随伴現象説を説明しますと「私達が意識や精神・心と呼んでいるようなものは脳の物理的な活動に由来するもので、意識や精神・心が脳の物理現象に影響を与えることがない」って考え方ですね。例えとしては車とスピ-ドメーターの関係がで説明すると分かりやすいと思います。車のスピードが上がればメーターは動きますが、メーターを指で動かしたからといって車のスピードが上がるわけではないという事で、脳が車で意識や精神・心がスピードメーターという関係になります。
 そういったことを証明した有名な実験が生理学者ベンジャミンリベット氏の実験です。リベット氏は被験者に手首をたたく瞬間を任意で選択させるという実験をおこないました。その時、運動準備電位で分かる脳の中の活動は、意識的な意思決定が下されるより、平均0,55秒早いという事を証明しました。明らかにこれは、意識的な意思決定は脳の活動に随伴して出現するという事がいえます。
 
>>こうやって並べてみると人間の精神とは「そう感じたから」と「計算」と「ミス」の組み合わせ以外の何物でもないと思ってしまいます。(ミクロの世界の影響もあるならば+「ランダム」ですかね)
 上記のようなのような随伴現象説によれば、私達に自由意志は存在しないことになるそうです。「お昼ごはんに何を食べるかってことを決めること」についても、ラーメンを食べると決めようが、牛丼を食べる・カレーを食べる・そばを食べると決めようが、その意思決定より先に脳がそれを選択させるような化学反応を起こしていることになります。
 もちろん、()の中でおっしゃっているように、量子論のレベルまで持っていくと不確定性によって「ランダム」が加味されるのでしょうが、脳の最小単位は一応ニューロンですから、そこを基準に考えれば、やっぱり自由意志は存在しないって事になっちゃうんですよね。

>>自由意志とはどの部分なんでしょう。私に選択する余地はあるのでしょうか。
 上記のことを読んでいくと「そうかなー」って思っちゃうんですけど、そうは問屋がおろさないというのが現在の脳科学なんですね。随伴現象説は確かにいろいろ説明しやすいし、唯物論的な物理学とも相性は悪くないし、心身二元論とも心身同一論とも比較的仲たがいしないでいられるようないい回答なんですが、この随伴現象説では説明できないような実験結果もでているですね。
 神経学者ジェームズ・オースティン氏の説によれば、視覚空間的な仕事に注意を集中することを決めたとします。注意の集中に要する電気ポテンシャルが脳に届くまで、80~130ミリ秒という時間がかかるそうです。要するに、このような場合意識的な意思決定より前に脳の活動の方が先にくることはなく、心の方が先に生じていることになります。こうなると随伴現象説の中だけでは説明がつかないんですよね。もちろん、神経学者はこのデータに異議を唱え、心の哲学等の哲学者たちはデータの解釈に異議を唱えておりますから、結局のところ未だ未解決のままなんですよね。

>>自由意志の有無について
 私もいろいろな資料を読んで、脳と意識や精神・心の「相互関係」については認めざるをえないのですが、脳の物理現象と心のような心理現象がまったく同一のものとは考えられません。随伴現象説もそれらしいのですが、オースティン氏の説に対して回答が出されていない以上、決定打に欠けます。少年誌好きの私としては仲間を思う気持ちが脳内の物理現象に打ち勝つみたいに、物理現象と心理現象の間に自由意志というのが介在する可能性はまだあるように考えているのですが、未だ研究待ちというところでしょうか。(少年誌の読みすぎかもしれませんが・・・)

 これだけ長々書いて結論は「分からない」という、大変ありがちな駄文・・・申し訳ないです。せっかく書きましたので、参考程度にお読み下さい。誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

>量子論のレベルまで持っていくと不確定性によって「ランダム」が加味されるのでしょうが、脳の最小単位は一応ニューロンですから、そこを基準に考えれば、やっぱり自由意志は存在しないって事になっちゃうんですよね。

量子力学などが古典力学などに与える影響はわかりませんから可能性として残しておきました。
ランダムと自由意志は関係ないと思いますので、どちらにしろ存在しなさそうですね。


>80~130ミリ秒という時間がかかるそうです。要するに、このような場合意識的な意思決定より前に脳の活動の方が先にくることはなく、心の方が先に生じていることになります。

ジェームズオースティンが調べても見つかりません。
詳しい実験条件を見ないとなんとも言えないので参考にURLか解説をお願いできませんか。

また、注意の集中のタイミングを知ることができるのが本人である以上それは主観的な主張に思うのです。
そうなるとそれは反証可能性の点から言って科学とは言えず、意味が無いと思うのですが。。。 具体的な実験内容を読んでみないとなんとも言えませんが。


相変わらず非常に詳しい科学的根拠のある説明感謝します。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 00:17

( →_→)ジロ! だれが天邪鬼だって?ひとぎきの悪い…プン



o(^-^(-_-(-_-;(・_・(・o・(^~^; ジィ~

おっと、気にしない~♪気にしない~♪

ひとり言、ひとり言、ちょうどこんなかんじ

(〃 ̄∇)」やっほ~♪ / ̄\∞ ←富士山

そそ、こだま、こだま、ヒカリじゃないよ。

「メガネの自由意志論――
小生がメガネを愛し、メガネもまた小生を愛する関係――」
http://d.hatena.ne.jp/yamada-no-oboegaki/20100119

これツボ!

読むのも読まないのもご自由に。
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この回答へのお礼

哲学的とはいえないように思えます。
論理的でもありません。

お礼日時:2012/07/04 00:05

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