親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

ふと気になったことがあるので、教えてください。

日本には古くから天皇がいて、最悪でも名目上は国家の頂点に存在し続けてきたと思います。(現憲法下での天皇の地位がどうかは今回は考えないことにします。)
僕は、その「天皇の存在」が国内の安定にある程度寄与したのではないかと思うのですが、歴史的に見てどうなのでしょうか?

歴史上何度も国家のトップが交代している国では、大きな内乱や政変で、国家のトップごと国家がまるごと入れ替わる可能性が大いにあると思います。
日本でも、天皇制が転覆することがなく、歴史上転覆の危機に瀕したことがないとは言えないのでしょうが、少なくとも簡単に転覆されないくらいの伝統は持ってきたように思います。
なので、内乱や政変が起こっても、国家の枠は変わることがなく、あくまで天皇の下での争いになり、国内の混乱をある程度は抑える効果はあるように思います(朝廷を利用して和睦したり、朝廷方が絶対的な大義名分を手に入れることで有利になったりなど)。
また、政権への不満が天皇の存在に結びつくことで、反政権の流れにある一定の方向性が生まれることもあるでしょう(幕末の尊皇論など)。
全く天皇や朝廷が力を持っていない時代でも、国内が乱れると天皇の存在が大きくなり、まとまりやすくなるのではないでしょうか?

長くなってしまいましたが、「天皇は国内の安定にある程度寄与したか?(するか?)」。また「それはどの程度か?」教えてください。
よろしくお願いします。
駄文失礼しました。

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A 回答 (16件中1~10件)

11番さん・・・終始”推測”ですねw

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 夜分遅くに失礼します。

前回のお尋ねからお待たせして申し訳ありません。
そうですね、余り肩が凝らずにそして今までの歴史知識をベースとして少し異なる視点から歴史を眺めてみるとのご要望ならば、網野善彦氏の『日本社会の歴史 上・中・下』(岩波新書)『日本の歴史 全9巻』(岩波ジュニア新書)がお勧めできます。中公文庫の『日本の歴史 全26巻+別巻1』も記述に優れた物としてありますが、巻数が多いこともあって余りお勧めはできません。
 日本の社会構造の中で天皇が占めるスタンスに関して、様々な研究論文があり殊に中世史に関しては研究も盛んな分野ですのでダイジェスト的な論文を1本ご紹介します。水野智之氏の『室町時代公武関係の研究』所収の「序論 研究史と分析視角」より「序章 室町時代の公武関係」「第1章 室町時代公武関係論の視角と課題~王権概念の検討から~」「第2章 近年の研究動向と本書の課題」補注を含めて紙幅で52ページほどの論文です。公立図書館にはあるかと思われますが、見当たらなければコピーを送らせていただきます。
 
 次いで「歴史の見方」という途轍もなく大きな宿題をいただきました。まことに恐ろしいくらい大きな課題ですのでここは過去の先達の助けをいただき、その仕事を紹介させていただきます。「日本近代史学史」の形で何冊かの書名を紹介することでお許しいただけますでしょうか(ダメと仰るのであれば、ひっちゃきになって書面で回答させていただきますが)。
 第一にお勧めできるのは、『歴史の文法』(東大出版会)。次いで『近現代日本史と歴史学()中央公論新社新書』。前者は元々、東京大学教養学部の前期課程でのテキストとして編纂されたものです。どこから読んでも無理なくスーっとストレイトに入っていくことができます。後者は今が旬の歴史学者、成田龍一さんが初学者を対象として書き下ろした啓蒙書ですが、かなり内容が深く厳選された構成となっています。
 同じ著者による『歴史学のスタイル』『歴史学のポジショナリティ』(共に校倉書房)をはじめ、キャロル・グラックさんの『歴史で考える』や永原慶二先生(僕が学部時代に師事していた恩師です)の『歴史学叙説』(東大出版会)。これらは各時代史の研究者が書き下ろした「歴史学入門」的な書物ですが、かなり難しい内容を含んでいます。
 そして極めつけは『史学概論』(東大出版会)です。フランス近代史の研究で有名な遅塚忠躬先生の遺作となった書物です。一般の歴史マニアから歴史学を学ぶ人へと「如何に進化するか」などの解りやすいテーマで書かれた書物です。
 これ位でお許しいただけますか?(時折、学生達をチクンと突いたりしていますので、もしかしたら罰があたったのかもしれませんね)
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この回答へのお礼

様々なものを紹介していただき、ありがとうございます。

歴史の見方についても、実際に東大で使用されている「歴史の文法」や、歴史学を学ぶ人へ進化する方法がテーマの「史学概論」など気になります。

また時間のあるときに、じっくり読んでみたいと思います。

大変丁寧なご回答をありがとうございました。

お礼日時:2012/07/21 00:05

 ♯10&12です。


>本の天皇には他の国の君主にはない独特な権威があり、国の安定や平和に寄与していると思います。
その理由としては、天皇の地位がどのように起こったか、その歴史と文化の違いに大きな違いがあります。
他国の君主(すでに王室や皇室が滅んでしまった国も含めて)の場合、他人とその地位を争い、勝ちとったり、奪い取ったりした結果、君主の地位を勝ち取って君臨しているという歴史があります。よって現在でこそ政治的な権力はあまりないものの、他国の君主の政治的権力は日本の天皇にはないです。
その証拠にほかの国の君主は王朝名が何度も変わっていますが、日本の天皇や皇族には王朝名にあたる名字がありません。
対して日本の天皇は、古事記とか日本書紀とかに書かれている神話は別として天皇の地位に祭り上げられ、政治権力は臣下や民にゆだね、自らはその権威をもって国の安定と平和を保つという役割が長い歴史を経て定着しているということでしょう

 これはどうかなぁ~。
少なくとも中国の歴代王朝にはそれぞれの王朝名と家の名前が冠されています。ヨーロッパや中国にあって日本にはないから、といってそれが天皇の特殊性に即結び付くとは少し短絡的ではないでしょうか。少なくとも「王権」の話をするならば、それは「王権の権力装置としての権能」から議論されるべきではないでしょうか。
 王家といえどもそこでは世襲による権限の委譲がみられることは既にカテゴライズされたことであって、中国の皇帝は「天命」の下に即位する形です。そしてその「天命」の骨格となるのが儒教の理念。つまり易姓革命です。天命に逆らったならばそれは天罰が下る形で王朝の交代劇がみられる。皇帝による統治理念は専ら「徳」に象徴される。つまり皇帝が徳を失った時が王朝の交代を意味し、それは唐帝国末期にみられる「傾城の美女」などの譬喩に表されてもいる。
 一方これに対しヨーロッパの王朝では二つの論理がある。一方はメディチやハプスブルグといった経済活動からのし上がった「家」がその経済力を基盤として王家との縁戚関係を結び、一つの政治組織へと変貌していく形と近代ヨーロッパの構造としてそこにあるのは「革命」です。王政を妥当する形で王家以外の階級階層が政治組織の中心勢力へと成長していく。
 日本の中世史殊に戦国時代に象徴的な「公方の論理」をどう説明するかとの問題になってきます。文書たとえば手継売券の場合にその権利を保障する主体が幕府であるのかそれとも在地領主であるのかはその文書の作成者によっても異なる。個人と個人の争論の場合でも訴訟や文書には「公方」が顔を覗かせる。この場合の調停者であり時には裁定者そして保証人でもある対象は武家裁判所(鎌倉時代ならば関東)もあれば公家裁判所としての京都(記録所)もあり時として在地領主や寺社ともなる。徳川統一政権以前と以降ではこの「公方」も中身は異なってくるのは当然の論理であり、更に9世紀の太宰府管内で実施された「公営田」やそれ以前から行われていた「公出挙」に使用されている「公」が何を示すかとの問題にまで遡ることも可能である。これを単純に「公=天皇」なんぞと説明しようものなら、それは古代国家の枠組みを理解していないことの証左ともなる。
 「公営田」に範を求めるならば、このシステムは太宰府管内での税収不足を補う目的で施行された実験です。その実施にあたり、太宰の大弐であり参議の小野岑守の建議を受ける形で太政官から符が下される。つまりそこでは天皇など全く無関係です。政治運営の主体は権力者であり権力装置である。仮に律令の中で天皇に関する説明を求めるなら「公式令」や「擬制令」が象徴的な存在である(これこれの文字は天皇以外に使ってはいけないとの規定がある)。だが実際の政治運営にあっては天皇は実質関与しない。全ては公卿を中心とする高級官僚の手に委ねられる。こうした意味では日本の天皇制は一貫して象徴的な機能(書類にサインする。それも自らが行うのではなく書記官にさせる)形です。
 そもそも日本の前近代社会では名前よりも姓氏(家柄)の方に意味がある。家柄としての姓は職掌を示すと同時に社会的ステータスの訳語ともなり、それは序列化を意味する。同時に家政と国政の相関問題にまで波及する。あくまでも苗字ではなく姓氏であることに着目する必要がある。足利義満が公卿としての立場を示す場合には源道義となる。苗字は足利であるが武家の棟梁として氏の長者としての序列を示すには源である以外の意味が彼にはないのである。このへんは政治学で呼ばれる「ケネディ王朝」がイメージとしては近い。
 「国内の平和」といっても、表面的に政権交代の事例を眺めるだけでは意味がなく、構造としての社会に眼を向けるなら「聖なる者」の対極「卑賤の輩」があることで立体構造を構築する。そしてこの形は前近代の日本に深く根ざす形で安定を保ち続けてもいた。あそこ(へんな意味ではありません)をなぜ禁裏と呼ぶのか。もしかしたら金裏と書いていた文書もあるのではなかろうかとの推測も可能である。ならば金裏の金は○○○○の金と同じであり大切な所との意味である。もしあれが使い物にならなかったらそれこそたいへんな事態ともなってしまうほど深刻な存在でもある(この部分に関しては無視してくださっても構いません)。
 果たして高校生である質問者にそこまでの歴史洞察能力があるかとの疑問もある。これまでの補足を読む限りでは歴史の教科書に記載されたデータを記憶することには得意であっても、それを自らの言葉で体系付けそして歴史をどう理解しようかと説明できるほどの主体的問題意識とは相当な隔たりがあるような印象が透けて見える。爆!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

たとえ、天皇に実質的な権力・役割が無く、実際の行政を太政官などが担っていたとしても、公卿や役人がそれを担う中で、天皇という存在についての意識を少しは持っていて、それが行政に少しは影響しているかと思っていたんですが、そんなことは無いんですね。

ところで、歴史洞察能力はどのようにすれば身につくものでしょうか?
歴史学者になりたいわけではないんですが、せめて自分の国の歴史くらいは理解して、洞察したいと感じるのですが、どうすれば良いものかよくわかりません。
よろしければ教えていただけませんか?

お礼日時:2012/07/05 23:04

日本の天皇には他の国の君主にはない独特な権威があり、国の安定や平和に寄与していると思います。


その理由としては、天皇の地位がどのように起こったか、その歴史と文化の違いに大きな違いがあります。
他国の君主(すでに王室や皇室が滅んでしまった国も含めて)の場合、他人とその地位を争い、勝ちとったり、奪い取ったりした結果、君主の地位を勝ち取って君臨しているという歴史があります。よって現在でこそ政治的な権力はあまりないものの、他国の君主の政治的権力は日本の天皇にはないです。
その証拠にほかの国の君主は王朝名が何度も変わっていますが、日本の天皇や皇族には王朝名にあたる名字がありません。
対して日本の天皇は、古事記とか日本書紀とかに書かれている神話は別として天皇の地位に祭り上げられ、政治権力は臣下や民にゆだね、自らはその権威をもって国の安定と平和を保つという役割が長い歴史を経て定着しているということでしょう。天皇陛下が記者会見等でおっしゃっていることにもそのことに触れています。また宮中祭祀と呼ばれている神道行事は国の安定と自ら神にお祈りする行為です。では国家神道はどうなのかという点がありますが、天皇みずから推奨したわけでなく、政治権力に自ら利用したこともありません。
他国で宗教に絡めて国の安定を祈念する君主は他には英国王がいますが、英国王の場合は国教会が政治統治の機能の一部になっていますし、そもそもその起こりは、もともとカトリック信者だったイングランド王が離婚したいがローマ教皇が認めないから自分で教会を発てた、あるいはスコットランドの場合は長老派が国王にはむかうことが多いので、イングランド国教会のまねをしたというやはり政治権力に絡んでいます。
日本は第二次世界大戦に惨敗しました。このような状況が他の君主国で発生すれば即座にその地位を追われ、あるいは処刑されることになるでしょうが、マッカーサーは天皇の存在こそが日本を民主主義国家に平和的に安定させて定着するのに天皇の存在は必要と判断したといい、昭和天皇の退位や処刑や明仁皇太子への叙位を主張するほかの連合国の主張を頑としてはねつけたという話や欧州の君主国で日本の天皇の権威に見習って行動している君主(たとえばスウェーデンのグスタフ国王陛下)がいるというのがなによりの証拠ではないかと思います。
あなたの疑問への回答になっていれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

やはり天皇は安定を乱すこともあったでしょうが、国内の安定にある程度の役割を持っているのでしょうか。

参考になります。ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/03 23:55

 補足します。

「皇太后」は天皇が何らかの形で地位を喪失し新たに天皇が即位した場合、先帝の奥さん、つまり新帝からみた場合の祖母となる形です。昭和天皇が逝去された時点で未だ香淳皇后は生きていらしたわけですから皇太后となります。単純に考えるなら、生存中は皇后、天皇崩御後に未亡人となった場合には皇太后とお考えになれば理解できるはずです。実際にメディア上でも「香淳皇太后」の表記は使用されています。
 また「后」は必ずしも女性とは限りません。足利義満は「日本国准三后源道義」として『善隣国寶記』に記されています。そしてこの「准后」を冠せられている人物として「満済」がいます。
 この人物は室町時代の僧侶です。大納言二条師冬の子。母は聖護院坊官法印源意の娘。母が足利義満の正室日野業子に伺候していた縁で義満の猶子となり醍醐寺座主,三宝院門跡の地位に就きます。その後准三后を宣下されています。この満済が遺した記録が中世史の史料として有名な『満済准后記』です。この他にも道興などもいます。
 この様に「准后・准三后」との表記であっても必ずしもそれが男であるとは限らないのです。因みに「准后」とは太皇太后・皇太后・皇后の三后に準ずるとの意味であって、その地位として優遇する目的で天皇の夫人、皇族、公卿、将軍家、高僧に与えられ、三后に準じた経済的特権として年官・年爵・封戸を賜る形となっています。ご参考までに。
 この問題(質問者様が提起された質問)に関してもっと詳しく知りたいと仰るのであれば日本中世史の観点から専門の参考文献を何冊か紹介させていただきます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

様々なことを教えていただき、参考になります。

参考文献の方も、時間があるときに読みたいので、よろしければ教えていただけますか?

お礼日時:2012/07/03 23:44

もぅ~めんどくさい子やねぇ。


山川史観だけで話しないでくれる?
あれは、ウソは書いてないけど、ホンマのことも載ってないから。
殺し合いばっかりで血生臭すぎて未成年者にはキツいもん。
事実に目を向けないで空想を歴史に当てはめていかないでくれる?

キーワード散りばめて回答つけたんやから、
それぐらいは最低、調べてからコメント返しなさいよ。

高校生にしては勉強してるなぁと感心したのがあほみたいやわ。
所詮は山川レベルかいな。
騙されてるよ、きみ。


夫々の「お礼」の書き方が、ずいぶん威張ってて、気持ち悪い。
9番の方へ「お分かりください」はおかしいだろう。
それは目下の人間に使う語法だろ。年上の人に対しては使えないぞ。大丈夫か?

「ご解答ありがとうございます」も間違ってる。
「解答」? 我々は入試問題を解いてるのではないのだよ。
質問に「回答」をつけているのだ。


5番の方への、
>他国から侵略してきた勢力が、わざわざ天皇を残してくれるとは限りませんもんね、ましてその国を完全に併合して自分の国の一部にしようと思ったら、邪魔になることでしょうしね。

これも誤り。
マ元帥は昭和天皇に会見し誠実さに心打たれ、何ら処分しなかったではないか。


天皇の諡号で「神」がついているのは、王朝交替のあった時。
万世一系ではない。
神宮皇后もそう。
神武天皇、崇神天皇、應神天皇。
神武と崇神の和風諡号が同じハツクニシラススメラミコトとなっている。
初めて国を統治した者、という意味。

神社で祀ってあるのは、應神天皇。
なぜ初代の神武天皇ではないのか?
欠史八代、という言葉のとおり。

継体天皇も皇統を本当に継いでいるのか怪しいだろう。
怪しいから「継体」などという諡となったと。

天武は天皇になる資格がなかったのに、
壬申の乱に勝利して王朝が交代した。
これをごまかす為に「古事記」「日本書紀」が編纂された。
「帝紀」や「旧辞」には本当のことが書かれてあって、
天武王朝にとって都合が悪いから消したのだろう。
「帝紀」は天智天皇の子が編纂。

天智天皇は出かけたっきり戻って来ず、
靴だけが見つかった。
それが京都市営地下鉄の御陵駅の近く。
他の天皇は飛鳥なのになぜ天智は山科なのか。
天武に暗殺されたんだろう。
天智というのも、「殷の紂王の愛した天智玉」からの諡、
あの桀紂からの引用とは、明らかに王朝交替した側からの貶めだろう。


貴殿の誤認識の部分を指摘する。
>「天皇の存在」が国内の安定にある程度寄与したのではないかと思う

→争いごとの中心又は原因であったこと多数。


>日本でも、天皇制が転覆することがなく、歴史上転覆の危機に瀕したことがないとは言えないのでしょうが、少なくとも簡単に転覆されないくらいの伝統は持ってきたように思います。

→何度も王朝交替があったし、天皇候補者同士の殺し合いも数えきれない。


>本当に消されるような話は質問サイトなんかで全世界に配信しない方がいいと思いますよ。

→まだ何の結果も出してない子供が大きなお世話。
何を語り何を書くのかは自分で決める。その為に東大に行って更に勉強したのだ。


ちなみにセンター試験は、貴殿の認識で80点は問題なく取れるから安心なさい。
東大文科の日本史だと、論理的に書けてないから10点もつかないけど。

この回答への補足

お礼のところに書き忘れたので、ここに失礼します。

確かに学校で使用しているのは、山川出版の教科書です。

それについても教えていただき、騙されているというのが新鮮で驚きました。

いずれもっとしっかり学びたいと思います。

補足日時:2012/07/03 23:48
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございます。
まだ未熟なのに、失礼しました。反省しています。
言葉の使い方や、歴史についての認識も、もっとこれから学んでいきたいと。思います。
反省の機会を頂き、ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/03 23:38

 高校生レベルでの考えならば仕方のないことかもしれませんが、少なくとも「政治組織としての日本とその枠組み」と「天皇」は別の問題です。

「天皇がいたから日本が安定していた」とはなりません。
 例えば日本史の授業で「律令」または「律令制度」といった言葉を聞いたことがあるかと存じますが、このシステムとしての律令制度を実際に運用するのは太政官制度です。官僚システムですからそこでは文書の機能と役割が重視されます。
 何らかの要望やら答申を下から上へと伝えるのが「解(げ)」であり、その内容に対する回答書の役割を果たす(上から下へ)のが「符(ふ)」と呼ばれる行政文書です。他に「移(い)」と呼ばれる形式の文書がありますがこれは役所と役所の間での平行な関係の下で扱われる書式です。そして行政府としての太政官には中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内の八つの官庁が置かれました。
 この中で政府としての閣議決定などの文書を天皇に奏上する文書を作成したり、それに対する天皇の詔勅を作成する役割分担をしていたのが中務省です。伝奏と呼ばれる役割です。
 また中世でも『吾妻鏡』に見られる「彼は海内の亀鏡にして是は関東の鴻宝なり」として「律令」と「御成敗式目」が法として及ぶ権限の範囲を比較対比した上での位置付けを意識的に明確に示しています。
 さて本論に入りますが、実際の日本の歴史的過程で天皇が超法規的な権限を有していた、もしくは自分勝手に思っていた時期はさほど多くありません。強いて挙げるなら建武の親裁と呼ばれるアナクロに満ちた後醍醐の時期のみです。あとは官僚システムが働いていてそれと武家側の論理が即かず離れず相互にもたれ合う捻れた関係がこの国のシステムを支えてきた一つの特性ともいえます。
 簡単に説明するならば「天皇」は実と黄門の印籠と同じです。それ自体に権限はないが「それを支える権威」だけが遺され一人歩きする形だった、と理解するのが自然です。因みに源平争乱の段階で三種の神器は瀬戸内海に沈みました。それが後日歴史上に登場するのは南北朝内乱の時期です。失われたものが再び登場することが考えられますか?。現代の様なサルベージ技術もなかった時代にその様なことが行われていたことが自然と考えますか?
 また応仁の乱で天皇が登場する場面がありましたか。徳川が関東に幕府を開いた段階で政治の中心は江戸に移りました。そして国内を統治支配する目的で武家諸法度や禁中並公家諸法度そして寺院法度、諸社禰宜神主法度の法整備を進める形となります。もし天皇に絶対的な権限があったとするなら幕末の「大政奉還」の意味を説明できなくなります。「お上」「公方」そして「公儀」は日本の歴史的過程で内容が変化しますが、一つとして天皇がそれに該当することはありません。勝手に使っていた事例なら、アジア太平洋戦争の際に政府閣議の流れで「お上」と使われていた程度です。「天皇」はこの国のトップでも何でもありません。
 しかし今時、不思議で強烈な歴史意識ですね。どの様な歴史書を読んでこの様な見解を持たれるに至ったのでしょうか?

【備考】
「天皇」を歴史的文脈の中で読み解くならば、そこには「卑賤観念」との対比があり、それが具体的な形で反映された社会構造の分析につながりますので、統治機構としての天皇の位置付けを問うだけでは意味がありません。
 質問者様がイメージするスポーツ競技のキャプテンではないのです。仮に天皇が持つカリスマ性を検証するならば宗教的祭祀者の観点からとらえての意味からならアプローチは既に試みられています。
 

この回答への補足

>しかし今時、不思議で強烈な歴史意識ですね。どの様な歴史書を読んでこの様な見解を持たれるに至ったのでしょうか?

特に何かの歴史書を読んだわけでも、特殊な教育を受けた記憶もないのですが、気付けばこういうような価値観になっていました。
変に歪まないように成長したいのですが、少々不安ではあります(笑)。

補足日時:2012/07/03 23:57
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

天皇に実質的な権力がなくとも、一人歩きする権威だけでも、ある程度の影響を持つタイミングが、歴史上あったのではないかと感じていましたが、そうではなかったと言うことでしょうか。

様々なご指摘ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/03 23:42

 「最悪でも名目上は国家の頂点に存在し続けてきた」という認識がまず誤りです。


 明治時代に,天皇を中心に日本国をまとめるという方針になったので,権威付けのためにそれまでの歴史も大きく書き換えられました。天皇という名称自体明治時代になって初めて統一的に用いられたものであり,江戸時代には単に「院」と呼ばれていた天皇もいました。
 特に鎌倉時代~江戸時代にかけては,天皇が国内の安定に寄与する力はほとんどゼロか,あるいはマイナスだったと言わざるを得ません。例えば・・・
・承久の乱では,朝廷と鎌倉幕府が正面から争ったが,結局は幕府が勝ち,当時の天皇(4歳)も廃位された。この人が仲恭天皇と呼ばれるようになったのは明治時代のことで,それ以前は後廃帝などと呼ばれていた。
・建武の新政では,後醍醐天皇自身の悪政により武士や民衆の不満が高まり,室町幕府の成立を招いた。
・足利義満は,自ら「日本国王」と名乗って明との国交を行っていた。江戸時代の将軍家もほぼ同様で,将軍こそが日本の王であると対外的にも認識されていた。
・江戸時代の儒学者は,征夷大将軍こそが日本の皇帝であるという学説を唱えていた(この儒学者によれば,天皇は単なる神道の最高祭司者兼京都の地方領主に過ぎなかった)。
・明智光秀は,京都で謀反を起こし織田信長を殺害したが,織田信長には明らかに天皇家を軽んじる動きがあったにもかかわらず,謀反の大義名分に「尊皇」は掲げなかった。つまり,当時の社会情勢では,天皇は反政権の大義名分としても有効でなかったことが窺われる。
・江戸時代,禁中並公家諸法度により,天皇は「学問に専念すべし」という幕府の規制を受けていた。つまり,名目上も天皇は「日本の頂点」だとは思われていなかったことになる。
・幕末には,たしかに天皇の存在が倒幕の精神的原動力になったが,これは吉田松陰によって,天皇こそが日本の中心であるという新たな思想が「発明」されたことによるものであり,逆に言えば,それ以前ではそのような思想は一般的でなかったということである。
・吉田松陰の思想も,本質は天皇の下に「民衆を平等化」することにあり,天皇を日本の支配者として復権させようというものではなかった。もし,明治天皇が後醍醐天皇のように政治の実権を握ろうとしていたら,おそらく天皇制は明治時代で終わっていただろう。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございます。

ご指摘の点、参考になりましたが、
天皇が頂点であり続けた、と思うのはあくまで「名目上」です。
形の上では、です。
お分かりください。

お礼日時:2012/07/03 00:08

>僕は、その「天皇の存在」が国内の安定にある程度寄与したのではないかと思うのですが、歴史的に見てどうなのでしょうか?



ややこしいのは「国内の安定」をどのように定義するか、ということなのだと思います。

世界史を見てみるとどこの国でも「国内政治の安定」と「国際政治の安定」は同じ課題であり、たとえば隣の国で政変があれば自国の政治も不安定になり、逆に自国の国内で政争(たとえば跡継問題とか)があれば隣国にも影響する、というのが一般的な国家の歴史です。

日本においては、そもそも島国で外国・近隣諸国からの政治的軍事的な影響をほとんど受けなかった、といえますので、だから天皇制が残ったともいえますし、天皇制があったから国内が安定した、とも言えるでしょう。

ただ、世界的に見て非常に特殊だといえるのは、日本の政治的抗争はすべて「天皇の勅許を得る」ことが目的でありそれが「天下取り」を意味していたということです。

世界の一般的な「天下取り」は異民族を支配すること、ですから場合によっては敵対する異民族をすべて虐殺して土地を乗っ取ることも含まれます。
しかし、日本においては「天皇の勅許を得た人が政治を行う」という方式が鎌倉幕府以降(事実上は藤原摂政時代から)定着し、現代においても首班指名こそ国会で行うものの、任命は天皇の権限ですので征夷大将軍の任命と委託からあまり変わっていないことになります。

これの方式が国内平和に寄与したといえるのは、天下取りまでは争いがあるものの、結果として任命されたトップ(昔なら将軍・今なら首相)は敵方だったグループや地域も同じ日本国民として扱う必要があるため、あまりに極端な処分はできなかったということです。
逆を言えば、侵略してきた支配者層に負けた側の被支配者がさらに逆らうようであれば皆殺しにすれば済むのに、日本の方式ではそれが出来なかったわけです。

これを端的に表しているのではないかと思うのが、チェスや中国将棋などと将棋の違いで、日本の将棋だけは取った駒を自分の駒として利用できます。
世界的にみて「戦争」とは、異民族同士の戦い、ですから取った敵を活用するというのはありえないことであり、日本の将棋や関が原の戦いのように「裏切る」という行為もありえないですし、天下をとったら「裏切った人々」もそれなりに処遇して、一緒に日本の政治を動かしていく、ということもありえないのです。

天皇制は国内の政争が戦争になることを防ぐことは出来ませんでした。しかし、同じ島国であるイギリスやフィリピン・スリランカなどから見れば、かなり早い段階で統一国家が成立し、その後は安定して現代まで同一国家であり続けています。
戦争があったといっても、元寇と近代戦争以外はすべて同じ島国の中の争いであり、1500年も同じ島国がひとつの統一国家として存在している以上、天皇制が「国内平和」つまり恨みや憎しみを軽減し、国家分裂が起きないように作用した、とは言えると思います。

イギリスの例を取れば、イギリスの王太子(現在はチャールズ皇太子)は伝統的にプリンス・オブ・ウェールズを名乗ります。これはイギリス諸島が統一国家になる際に、ウェールズの反乱を抑えるためにイングランド王の継嗣(王太子)をウェールズの君主にする、という政策を取りグレートブリテンの内部的なバランスを取ったという史実があります。

これはまさにイギリスの「国内平和」のために、王家が役割を果たしたということであり、現代でも伝統的に王太子はプリンス・オブ・ウェールズを名乗るわけです。

これに比べれば対外的に侵略が難しい大陸から離れた島国であったことを差し引いても、日本初の統一王朝である天皇家が「国内平和」に果たした役割は遜色がなく、だからこそ1500年も日本国=元首:天皇で来られたのだと思います。

最後に、日本の元首は対外的に見て天皇です。象徴でも王でも何でもいいですが、外国と交わす条約文書・国内の法律施行文書は御璽(天皇が押す決裁印)があって始めて有効になるからです。このような最終決裁が出来る人を元首と呼ぶのが世界標準なのです。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございます。
僕も同じように思います。
なんだかんだで常に、政治のトップは天皇から政治を任されたという形をとってきたと思いますので。

天皇が対外的に日本元首であるというのは、その通りだと思います。世界からもそのように見られているでしょう。
ですが、歴史を見ると天皇はなんとなく「象徴」のような気がしますし、それで対外的に混乱が生じているわけでもないと思いますので、
わざわざ世界標準に乗らなくても、天皇制に妙なゴタゴタを持ち込まないためにも、国内的には「象徴」でいいんじゃないかと思うんですが。

お礼日時:2012/07/02 23:37

幕末まで、恐らく源氏が政治の中枢に腰を置く事で国家が平和で安定していたと考えています。


安倍晴明の末裔が、陰陽師とし幕府の長に立っていたことは紛れも無い事実です。
明治政府に時代がうって変わり陰陽師や占いを廃止している点、嘘吐きは事実を認識した上で排除したと考えられ、明治以降国内は荒れています。

天皇が国家を制定しているのならば、戦国時代は無かったと考えられます。
また、歴史泥棒だからこそ、源氏一門は兵力を用いて朝鮮半島へ進軍したとも考えられます。

--------------
これは推測です。史実は近未来に確認していただきます。
ニニギの尊の子孫は、直系が死滅したと考えられます。
平家は、ニニギの尊の子孫ですが、分家の可能性が非常に濃い。
平家は互いに権力闘争し、世の中が乱れていた。
そこに、二代目安倍晴明が登場し、世の中が動き出している最中に、歴史泥棒が
天皇を語り、国家中枢に居座っていた。これが天皇家の家系です。
源氏は、時々暫定政府を発足させ、嘘吐きに視線を反らしながら、聖地へと足を
運んでいった。聖地とは、エルサレムや契約の箱が入っていた遺跡周辺です。
また、聖地に住む事が許されていなかった為、日光中禅寺湖周辺に第二の聖地を創り
安住の地として住み着いたと考えています。
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この回答へのお礼

ええと、すみません、イマイチ解答の意図が伝わらないのですが…。

天皇がきちんと国を治めていれば、確かに戦国時代は起こらなかったかもしれませんが、秀吉は朝廷を利用して統一に役立てたので、少しくらいは天皇が統一を早めたのではないかとも思います。
それに、権力争いが起こるのは、どこでも同じでしょう。

お礼日時:2012/07/02 23:28

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