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後北条氏の創始者と言えば伊勢宗瑞ですが、なぜ彼は本拠を鎌倉でなく小田原に定めたのでしょうか?
宗瑞の子氏綱の代から伊豆・相模(強いては鎌倉)の地に由緒ある名字“北条氏”を称しますが、その後の関東経略を進めて行く上での後北条家と鎌倉の関係、鎌倉の位置づけはどの様なものだったのでしょうか。
確かに戦国の世、要害堅固な小田原こそ居城に相応しいかも知れませんが、鎌倉も天然の堅固な地として有名ですよね。新しい城下町造りに鎌倉では古きしがらみが大きかったのでしょうか。はたまた滅ぼしたとは言え名族三浦一族の勢力圏として久しいからでしょうか。
関東制覇を目指す上で小田原では西に偏りすぎの感が否めません。西から大軍で攻められては伊豆の関を破られたら一撃?・・・・(現に天正18年には・・)

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鎌倉」に関するQ&A: 鎌倉

A 回答 (5件)

小田原を本拠に定めたのは氏康です 氏康は戦国一の民政家としても有名なぐらい


民を大事にした人です 鎌倉は狭くて広大な城と城下を築くには不向きな土地です

小田原は鎌倉に比べて守りは低いですが氏康はその分小田原城を強固に改築し城下ごと堀で覆う 当時としては珍しい城作りをしています
戦になった時 城下の民を犠牲にしてでも篭城するという一般的な考え方があった時代 氏康は民を守るための城作りをしました

現に小田原は難攻不落の名城と呼ばれ 武田信玄や上杉謙信が攻めても落ちなかった城です
 
関東制覇を目指すうえで西に偏りすぎと書いていますが 現に氏康は関東を制圧しています

秀吉に小田原を落とされたとき すでに氏康は死去していて当主の氏政には氏康ほどのカリスマ性は当然ありませんでした

しかし城攻めの天才と呼ばれた秀吉でさえ小田原を落とすのに二十万という大軍を使っています
氏政が愚かでも氏康が作った小田原城がいかにすごかったかがわかります

さすが戦国三強の一人ですね
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座いました。戦国関東の攻防戦を見ると砂漠のオアシスの争奪戦を連想してしまうのは私だけでしょうか。広大で起伏の少ない関東平野に散在する城(兵站拠点)を抑えた者が補給戦を絶対的に有利とし、その拠点に附属する広範囲な地域を勢力圏に組み入れる。結局関東を制したのが小田原を始め相模・武蔵・上野のオアシス拠点(要城)に親族衆を入れ直轄経営をした北条家であったのは必然であったのかもしれませんね。

お礼日時:2012/07/12 22:29

秀吉から富裕な地、東海道の駿遠三を取り上げられ、


家康は関八州を押し付けられた。

その頃の江戸は何にも無かった。

戦国なら守りやすい山城が常識のなか、
あんな平地というか、日比谷入江を埋め立てたから海抜ゼロメートルか、
そんな所に城をこしらえるなんてねぇ。

平地だったから八百八町が栄えたというのは、
もっと後。江戸時代になって参勤交代が始まったからです。
武家屋敷の経済を支える人間が大勢必要で、喰っていけたから。


ということはご存知の上で発言されてるんですよね。。。。



しかし回答者の皆さん、よく研究されてるなぁ。
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この回答へのお礼

東海道支配時代の家康の石高; 駿遠参甲信五カ国せいぜい120万石(奥信濃は除く)
関東入府後の家康の石高; 伊豆及び関東6カ国220万石(武蔵67万石が最大で小田原のある相模などたった19万石)

お礼日時:2012/07/12 22:50

鎌倉って


海岸から鶴が丘八幡まで 1キロ
江戸城の周囲がマラソンコースで4キロメートル = 直径1キロメートル程度
つまり、鎌倉のあの平野の中には江戸城しか入らない 江戸の街は作れない

それくらい狭くて防御だけの土地が鎌倉なのです。
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鎌倉



こんな不便な場所はないですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E9%80%9A% …
上の写真が、鎌倉の切通しですが、上記のような通路でしか鎌倉に入れないのです。

戦国時代の大名の本拠地は、交通の要地です。
行政の根拠地と考えた時に、鎌倉はありえない。

※ 宗瑞は韮山城で氏康から小田原ちゃう?
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西すぎるとお考えですか。



関東が栄えるのは17世紀以降ですよね。
当時は東海道の方が開けてたんじゃないですか。
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この回答へのお礼

ご回答感謝します。なるほど戦国期の関東は確かに未開の地であったのでしょう。でも旧北条領をそっくり貰った徳川家康は関東の後背地・江戸の地に開幕しましたよ。

お礼日時:2012/07/09 23:53

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Q戦国時代の北条早雲って鎌倉幕府の北条氏の子孫ですか?

鎌倉幕府の北条氏は室町幕府に倒されたと思いますが、戦国時代に出てくる北条氏はどんな関係なのでしょうか?
子孫?親戚?無関係?

どなたか教えてください。

Aベストアンサー

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲自身は最後まで伊勢氏を名乗り、北条姓に変わるのは2代の北条氏綱からですが。
この改姓は非常に重要な意味を持ちます。つまり鎌倉幕府の実質上の主であったあの名門、北条氏の流れを汲む者であると名乗れることは、大きなハクがつくことになるからです。このような権威付けは当時では非常に重要なことと思われます。由緒ある家柄だということは、支配者としての「資格」のあることを意味するからです。もちろん資格があっても実力がなければすぐに亡ぼされてしまいますが、実力があっても資格がないと、人々は支配者としてなかなか認めたくはない。室町幕府の権威が低下し、実力の世となっても、人心の変化は、まだまだそういった古くからの権威をあがめ、由緒を尊ぶ気風は十分に残っていました。戦国時代、下克上の三羽烏とも言われる北条早雲、斎藤道三、松永久秀のうち、道三と久秀はまもなく滅んでしまったのも、このあたりに原因の一つがあるのではないでしょうか。

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