武田信玄は上洛する前になくなりましたがもしかりに武田信玄が生きて上洛したら信玄は天下統一したことになるんですか?

天皇がいる京都にいくことに意味があるんですか?

いまいち天下統一の位置付けが良くわかりません

信玄は上杉と決着をつけないで天下統一はたしたといいきれるんですか?

A 回答 (6件)

上洛と天下統一は無関係です。



今川氏真も上洛していますが、天下統一した事になっていますでしょうか?
つまりはそういうことです。

さて、信玄ですが、もともと上杉と決着をつける気はなかったと思います。
あくまで北信濃をめぐる紛争に過ぎず、まともな軍事衝突は無かったです。
第四回の合戦も霧でたまたま遭遇したため戦ったとした方が辻褄があいますしね。

さて、信玄ですがも寿命が数年延びたとしても、家康さえ屈服させることの出来なかった信玄です。
信長を倒すどころか、濃尾平野に主力軍を展開することさえ至難なのではないでしょうか?

信玄はあまりにも行動半径が狭いです。
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この回答へのお礼

たくさんの回答ありがとうございました♪

確かに…武田信玄は現在の長野県統一するのに10年以上かけてましたよね…

なぜあれだけの有能な武将達を引き連れててもあれほどの時間がかかったのでしょうか…たしか三国志の五虎将的なのが20人位いたはずですが…

お礼日時:2012/07/21 04:31

 「上洛する」ことは簡単にいえば「顔見せ」や「名刺交換」にすぎません。


逆に「天下統一」は一つの権力組織の下に全てを掌握することです。全てとは軍事的に掌握することであり、経済活動をコントロールできること。そしてそれを裏付けるだけの法の制定と執行を行う権力を自らの手中に収めることを意味します。
 鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の3つの幕府がありますが、鎌倉幕府は東国政権、室町幕府は西国政権との限定された地域と階層を統括していたにすぎません。実際にこの2つの幕府があった時代ではもう一つの法体系(律令)を持つ「公家」の存在もありました。
 江戸幕府の時代に至って、二重構造は解消されます。幕府が公家を配下に置くとのことで「禁中並公家諸法度」でタガをはめる形になります。
 これ以前でも「天皇」は実質の権力を持ちません。というよりも当初から天皇には権限などなかったと考えるのが妥当です。律令が成立した8世紀では既に律令とそのシステムを運用する目的で太政官制度が設けられ、実際の行政や政令の公布に従事しています。
 その「天皇」に権力があるなどと誤解したのが後醍醐です。親裁と称し自らが全ての決定を下すなどの真似事をしたがそれも僅か二年で破綻。その結果が南北朝内乱です。
 天皇は形式として「○○を征夷大将軍に任ず」などとして文書にサインするだけでした。もっともこれが日本人の意識としてはかなり機能していたともいえます。彼ら(戦国大名)から見れば、形としては「お上」です。こうした意識が反映されていたとも考えられますが、実質の意味はありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました♪

幕府でも日本全てに号令がかけられた訳ではなかったんですね…

確か島津とかは鎌倉の時にもいた気がしますが島津は幕府の管轄じゃなかった…というこですか?

お礼日時:2012/07/21 04:35

天下統一とは全国の諸大名に頭を下げさせるということです。

天下統一とは全国の諸大名を家臣にするということです。諸大名の領地を安堵し、軍事動員令を発する権限を握ることです。

足利将軍に新年のご挨拶をしたところで、天下統一にはなりません。そもそも信玄は天下統一など考えていません。そんなの戦国オタクの妄想に過ぎません。上洛したところで新しい官位を貰って、領地拡大の為の軍事動員がしやすくなる効果しかありません。そうしたところで、足利将軍から「もうやめろ」と命令されれば、謙信も信玄も軍を引くしかない。自分の方に都合の良いタイミングで足利将軍に停戦命令を発してもらう為には、普段から足利将軍のご機嫌を伺う必要があります。それが上洛の意味なのです。戦国時代とは戦国大名がどうやって足利将軍を都合よく利用するかという争いでありました。
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なりません



天下統一とはなにか?文字通り 全国を支配下に置くことです 上洛しただけでは天下に号令はできません
ただし 将軍になれれば別です 武田家は源氏の血脈なので 邪魔な足利を追い出し 代わりに信玄が将軍になっていれば
幕府に忠実だった上杉謙信さえ 信玄に従ったでしょう

上杉と決着をつけなくても 従属させるなどすれば無用な戦いはさけられたはずです


では 織田信長はなぜあっさり上洛できたか 将軍家の威光を取り戻すため次期将軍を補佐して上洛させる という大義名分があったからです だからそのときは 対立していた武田信玄や上杉謙信でさえ信長と和睦しています

そして義昭を将軍に据え 軍を持たない義昭に代わって 天下統一への戦いに奔走していったんです

つまり 重要なのは 上洛して将軍になるか あるいは将軍を補佐し 天下に号令を出すか これが大事です
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上杉謙信は


二度上洛したが
天下統一したとは
いわれてない\(^^;)...マァマァ

上洛成功しても
畿内一円程度しか支配できなければ
三好松長のように、一時的に洛中を支配したにすぎす
天下人ではない。

 天下統一の可能性と言えば
織田と協調し、徳川のように、頼もしい同盟者に徹すれば
英明な信忠の妻に、松姫が正室に行く予定だったから、
織田家の有力な外戚として天下を左右できたかもしれないが・・・
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西上すれば信長倒せたことは確実でしょうからね。



そのあと広大な領土を持ってその大軍を突っ込めば上杉倒すのも容易でしょう

ですが仮に武田でも上杉でも京を掌握して天下の政治を思うがままにしても頭が堅いので足利将軍をずっと残す確率のほうが高そうではありますんで、ただ武田の場合は清和源氏の名門なので将軍職を譲り受けることも可能だったかと思われます。

問題は正確ないみでの武力統一という意味では違いがあるかもしれません
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Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

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 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
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