痔になりやすい生活習慣とは?

武田最強は、捏造ですよね?信長公記巻八 4、長篠 三州長篠御合戦の事

このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。
5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦ったこの戦は未刻(15)まで続いた。その間武田勢は諸卒を突入させたが、そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となっていった。それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、これを追撃した。
この戦で討ち取られた首は、よく見知られた分だけでも山県昌景、小幡信貞、横田備中、川窪備後、真田源太左衛門信綱、土屋惣造昌次、甘利藤蔵、杉原日向、名和無理介、仁科、高坂又八郎昌澄、奥津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場信春など多数にのぼった。なおこのうち馬場信春の働きは比類のないものであった。この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、討死した者の数は一万にも達した(16)。その中には山に逃げ入って飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も多く含まれていた。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

歴史 雑誌」に関するQ&A: 歴史雑誌について

A 回答 (3件)

 武田最強と誰か言いましたか?

    • good
    • 0

長篠の合戦での武田軍の敗因は、長篠城が陥落しなかった事(敵の増援を許す)が大であり、背後の敵に圧迫されて正面突破以外の行動を制約されたからです。

機動線が得意な軍がフットワークを封じられた事、これが敗因です。
鉄砲三段撃ちが虚構であった事は既に知られていますが、そうでなくても、どこから敵が侵入してくるかがはっきりわかっている場合、十分に野戦築城して火力に優れた防御側が圧倒的に有利なのは当たり前です。武田軍の無様さを強調したいような文面が展開されていますが、あの状況では誰がやっても同じ結果だったでしょう。
考えるに、武田家の軍事組織は、中世式の軍事システムを集大成したものだと思います。ですから、中世的軍事機構を持つ敵に対しては圧倒的な強さを見せても、近世的な合理的集約システムには勝てなかった。武田家は封建諸侯連合的であり、織田家は絶対王政的であって、戦略的資源の集中力にも差があった。何者かの捏造という次元の話ではなく、構造的に武田家が最強である筈が無いのです。武田信玄に稀有な軍事指揮官としての才能があった事は事実でしょうが、これは個人の資質の話です。
武田勝頼は、ひょっとしたらこの構造的問題に気付いていたのかも知れません。急進的な膨張政策を敷いたのは、強い求心力で中央集権的な体制を作りたかった故かもしれませんが、どこかの国の政権のように失敗して側近政治に陥ってしまった、とも考えられそうです。

ところで、誰が武田家を『最強』などと言っているのでしょうか?
雑誌記事の煽り文句にはよくありますが、きちんとした歴史学者がそんな事を言っているのは聞いた事がありません。何となく巷間囁かれている程度の俗論に対して、大上段に構えて捏造という言葉を使うのは些か事の本質から外れているような気がします。
    • good
    • 0

捏造?ということでもないでしょう。


武田の騎馬軍団が恐れられていたのは事実です。

ただこの長篠の合戦以前までの話ですね。

この長篠の合戦は織田信長の戦術により鉄砲隊をうまく使った戦でした。
当時の鉄砲は一発撃てば筒を掃除してから火薬をいれて玉をいれてと
次の玉を打つのに時間がかかりました。
そこで織田信長が考えたのが鉄砲隊を3重に組織するというものでした。
1列目の鉄砲隊が玉を打てば2列目と交代、その間に1列目は
後に下がって玉を入れる。2列目が打てば3列目と交代。3列目が打てば
玉を入れて準備ができた1列目と交代。
というふうに連続して鉄砲を撃つことが可能となりました。
武田軍は切れ間無く続く鉄砲にどうしようもなかったのではないのでしょうか。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


人気Q&Aランキング