道三が信長に会うために正徳寺で会見することになったとき 道三は物陰に隠れ信長を隠れ見ていましたよね?そのとき現れた信長は うつけの姿で こんなうつけなら正装する必要はないと道三は平服で会見場に行った
ところが さっきまでうつけ姿だった信長は凛々しいまでの正装をし威厳を放つ若殿姿になっていた…というエピソードですが

信長は道三が隠れて見ているのをしっててあえて うつけ姿をさらしたのか
それとも本当に普段のままの姿でいて 会見だからさあ着替えるかとなった ただそれだけの事だったのか?どっちが真相なのでしょうか?

後者だとしたら マムシと呼ばれた道三は意外とあぽ~んだったことになりませんか?
結局それで濃尾同盟が結ばれちゃうわけだし…

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A 回答 (2件)

 そのエピソードは小説などによく描かれるところですが、私は信じません。



 私は、道三は、信長と話し合ってその器量の大きさに惚れたのであって、服装は関係ないと思っています。

 なぜなら 道三が「信長は行軍中と同じ格好で来る」と信じていたら、なにも行軍中の姿(真実の姿)を見ようという発想は出て来ないはず。

 織田家の軍装や武器の種類・数を知りたいなら、雑兵にでも数えさせればいいわけで、自分の目で見る必要はありません。

 隠れて、自分の目で行軍中の信長を見ようとしたと言うことは、「信長が行軍中とは違うようすで自分の前に現れる」「盛装した姿を見ただけでは真実の姿は分からないかもしれない」と考えていたことを意味するはずだ、と思うのです。

 予想通り、盛装して現れたからといってなにほどのことやあらん。驚きも感激もしますまい。


 一般論、信長の立場としても、着替えるのは常識だったと思われます。

 あの時代、下位の者が上位の者と会うには服装から顔の上げ方、膝の進め方まで、作法があります。

 そのため、権力を握った後の信長から京都の奉行に任命された秀吉でさえ、たいへん苦労しています。

 もっと時代を遡る、信長若かりし頃、いかに下克上が始まったとはいえ、身分としても斯波家の家老の家臣の家系である信長が、美濃の主であり義父でもある道三に会うときに衣服を改めるのは当然だったと考えます。

 したがって、信長としても、なにか特別なことをしたという感覚はなかっただろうと思っています。


 私としては、道三と信長は(既存の小説では黙って飯を食べた、みたいなのが多いですが)、天下国家について語り合ったと思います。

 「義父上のなさった楽市楽座はすばらしゅうございます」「ほう、あれの良さに気がついたか。家臣どもにも、なにかと反対する者が多くて難渋しておるが」「いかさま、既存利益の上にあぐらをかいた者は反対いたしましょうな」

 などという会話の末、道三は信長の才能に気がついての同盟だと思っております。
 
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この回答へのお礼

そして息子の義龍がおろかだったという事ですね

お礼日時:2012/07/24 06:23

 小説ではそうなっているのが多いですが実際はどうなのかわかりませんが・・・・・・


移動ではラフな恰好の方がよいけど会見の場所では清掃してきたと言うことは、今で言うとTPOを使い分けている人物と見ることが出来ます。つまり信長が合理的な人物であることを表していると思います。
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この回答へのお礼

まぁ 信長も普通の格好なら道三の気持ちもわかりますが うつけ姿からの正装は してやられた と思ったのかもですね

お礼日時:2012/07/23 19:35

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%86

Aベストアンサー

通常、デコルテと言えば女性の服装ですが・・・・
男性は聞いたことがありません。

ウィキペディアによると18世紀フランスが発祥とのことですが、当時のヨーロッパ男性はモーツァルトみたいな格好ですし。
19世紀になるとナポレオンみたいな感じとか、リンカーン米大統領みたいな格好とか・・・・。

女性は16世紀イングランドあたりも胸が広く開いた人がいましたが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
男性はこんなです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC8%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

Q織田信長は優秀だった?

織田信長は結構人気ありますが政治家として人として本当に優秀だったんでしょうか。
確かに領土を拡大したり楽市楽座をしたり政治家として一定の功績は残していますが、信長包囲網を成立させたこと、義昭の傀儡化に失敗していること、外交を知らず?皆殺ししか頭になかったことなど政治家として問題点がいくつかありそうです。
DNAてきに優秀であればその子孫があまり活躍していないこととは矛盾していますので、DNA的にもそれほど優秀ではなかったのかもしれません。
得意の鉄砲三段ですが、ヨーロッパでまったく同じ戦術がとられていたと聞いています。鉄砲伝播の順番からしても信長が発案したとは考えにくいです。信長の戦術がヨーロッパに伝わったという話は聞いたことがありません。
本能寺の変の後は秀吉にあっさり織田家をのっとられており織田家はやはりまとまっておらず、本能寺がなくても内部から崩壊した可能性すらあります。その後ナポレオンのような運命?
人としてどうであったかといえばやはりもっとも自己中心的な問題児で当時としても残虐で有名であったことから少なくとも尊敬の対象にはならないと思います。
まとめると質問は二点です。信長は優秀であったか、本能寺がなくても織田家は崩壊したり弱体化していたかです。よろしくお願いします。

織田信長は結構人気ありますが政治家として人として本当に優秀だったんでしょうか。
確かに領土を拡大したり楽市楽座をしたり政治家として一定の功績は残していますが、信長包囲網を成立させたこと、義昭の傀儡化に失敗していること、外交を知らず?皆殺ししか頭になかったことなど政治家として問題点がいくつかありそうです。
DNAてきに優秀であればその子孫があまり活躍していないこととは矛盾していますので、DNA的にもそれほど優秀ではなかったのかもしれません。
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Aベストアンサー

>信長包囲網について

いわゆる信長包囲網を作ったのは稀代の戦略家である武田信玄です。しかし、信長はそもそもこの信玄に対しては贈り物をしたりして敵対しないようにかなり気を使っていました。武田信玄は元亀三年に上洛を目指したといわれる大規模な軍事作戦をしましたが、実はこの時点で信長は信長包囲網の反信長勢力を全て(もちろん武田家を含む)を上回る石高と兵員を持っていました。
確かに信長包囲網を作らせてしまったこと、特に浅井長政を敵対させてしまったことは大失敗ですが、これほどまでの失点をしながら結果的には戦争に勝利しています。信長包囲網は信玄の死後事実上崩壊し、反信長勢力は各個撃破されてしまいます。

>義昭傀儡化

そもそも、足利義昭は自分が将軍になり直接政治を行いたいと望んでおり、義昭本人が傀儡の立場をよしとしていませんでした。つまり、時の将軍が義昭である限り足利政権の傀儡化は不可能であったといえるでしょう。義昭は信長が自分の忠実な部下だと思っていたところが義昭の悲劇だったといえるでしょう。信長が義昭を利用したのは、自分が天下を取るために必要な「道具」だったにすぎません。

>皆殺ししか頭にない

足利義昭は殺さずに追放しています。また、天皇家にも一切手を触れていません。つまり、一見皆殺ししか頭にないように見えて殺しても大丈夫な相手と殺してしまうと後がややっこしくなる相手をよく見て殺しているわけで、皆殺ししか頭にないわけではありません。

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血統による遺伝的系譜が常識となっている競馬の世界でも、良血馬が全て活躍しているわけではありません。血統は良かったのに泣かず飛ばずだった馬は大勢います。特に、ヒトにおいて遺伝的要素がどの程度その人の知能に影響するかはまだわかっていません。これについては、歴史というより科学、生物の分野ですのでこれ以上はここではやめておきます。

>三段撃ち

最近の研究では、いわゆる長篠合戦の三段撃ちは後世の創作であることがほぼ確定しています。ただし、長篠合戦には当時の常識外れなほどの鉄砲を用意していました。当時の日本中どこを探してもあれほどの鉄砲を集中運用できた勢力はありません。また、織田軍というのは非常に柔軟な運用ができた軍隊でもあり、「家」という単位にしばられていた当時の軍隊組織からすると極めて「近代的」な軍隊だったといえます。

>信長は優秀であったか

この点についてはイエスです。日本史において天才を三人挙げろといわれたら間違いなくその中に入るでしょう。あの苛烈な戦国時代であれほどの勢力を築き上げたのが証明になりませんか?

>本能寺がなくても織田家は崩壊したり弱体化していたか

これはおおいにあったと思います。信長が家臣を支配していたのは「恐怖心」です。勇猛なことで有名な柴田勝家でさえ信長を「獅子のように恐れていた」と宣教師の記録に残っています。もし明智光秀が裏切らなければ他の誰かが謀反をしたり(実際問題、信長ほど謀反をされている戦国大名はいないと思います)、暗殺されたりした可能性は高かったのではないかと思います。信長が死んでしまえば、織田家は崩壊した可能性はおおいにあるでしょう。

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Q信長は誰かの家臣だった時期もあるのですか?

徳川家康、豊臣秀吉は信長の下についていた時期がありましたが
織田信長は誰かの家来・下についていた時期はあったのでしょうか?
先輩を立てたり、目上の人へ気を使ったりする機会がないような気がします。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

家臣って何よ?
ってのが、曖昧なんです。

1559年に上洛して義輝に謁見していますが、京都見学にったわけでなく、将軍である義輝に「来い」と言われたので、行ったわけです。
同じ年に、上杉謙信も義輝に来いと言われて上洛しています。

上洛命令に対してその命令に従ったことをもって家臣と定義するなら、信長は義輝の家臣です。

朝倉義景に対して、上京せよという命令も義昭の命令で行われており、その義昭の命令に従わない(上京しない)ことを理由に1570年に越前出兵しております。
つまり形式上は、義昭の命令に従わない義景を信長が撃つということになり、形式上は、信長は義昭の命令に従っていることになります。



弘治3年5月 日(15570050550)
【文書名】足利義輝・織田信長御定書写
【底本名】鍜冶記録国友文書(32610054)
原本の信頼度はわからないが、義輝と信長の併記書面らしいので、国友村に対して、上位者義輝、その代官なり、奉行人として信長が配置されているものと思われる。

Q天台宗だった六波羅蜜寺で隠れ念仏が行われたのはなぜ?

(1)京都・六波羅蜜寺は977年に比叡山の僧・中信が中興して以降、天台天台宗に属していたそうですが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となったそうです。
寺院の宗派は簡単に変えることができるのでしょうか。

(2)六波羅蜜寺では年末に隠れ念仏が行われています。
これはかつての念仏弾圧から逃れるために密かに念仏を行ったことの名残だそうです。
念仏弾圧が行われたのは鎌倉時代だと思いますが、このとき六波羅蜜寺は天台宗です。
浄土宗の開祖である法然は、1204年に比叡山の宗徒に念仏停止を訴えられています。
比叡山延暦寺は天台宗であり、天台宗は念仏を快く思わなかったのではないか、と思うのですが
なぜ天台宗であった六波羅蜜寺において隠れ念仏が行われたのでしょうか。

(3)上記の記述において間違いがあれば指摘いただければ幸いです。

Aベストアンサー

>>寺院の宗派は簡単に変えることができるのでしょうか
寺が衰微した時期に復興した僧侶、あるいはパトロンによって宗派が流動的に変わる事はよくあります。

六波羅蜜寺の場合は近くにある智積院の勢力が伸びた事も一因とされます。また修験的な山岳信仰への回帰も指摘されます(『修験と念仏』91頁「都市に下りた念仏聖」)。

>>六波羅蜜寺では年末に隠れ念仏が行われています
念仏弾圧で誤解されるのは、弾圧されたのは法然一派の立てた「専修念仏」、つまり自戒作善を必要とせず弥陀一仏のみに帰依するという教義に基づく念仏です。
念仏そのものは大乗仏教での基本的修行であり、中世の仏教では南都や叡山、高野などの各宗派で念仏は行われています。念仏は「仏を念じる」ことであり、特に阿弥陀如来を念じる念仏が代表格となります。
しかし、法然一般の立てた「専修念仏」はそれまでの念仏と異なり、各宗派から仏教の破壊、異端として批判され、弾圧されます(『沙石集』をお読みになれば、当時の専修念仏批判がどのような視点であったかがお分かりになると思います)

当時の六波羅蜜寺は天台教学に基づく浄土信仰の寺院ですから、法華経と念仏三昧により法会が修され、六波羅蜜寺周囲は他界信仰とも結びつきます。
寺側も文人貴族との関わりのみならず、積極的に民衆の信仰を受け入れる事で寺勢を高めます。
踊り念仏は極楽往生という面のみではなく、除災招福や鎮魂などの土俗信仰、民俗信仰とも深く結びつく信仰ですから、いわゆる専修念仏的な視点のみで捉えてしまうと、分かりにくい面もあるでしょう。
つまり信仰における建前と本音の部分とでもいいましょうか…
 専修念仏は批判するが、民衆の念仏信仰へのパワーは受け入れる…
 専修念仏を信仰するが、現世利益や他の神仏の信仰も捨てない…
この両者の思惑が一つになった面も考えられるでしょう。
また現在の有名寺院の表面的説明では妙にロマンチックに語りがちですが、もっと当時の信仰は土臭い物でもあります。

参考文献として、五来重『踊り念仏』、上田さち子『修験と念仏』(平凡社)を一読されてみてはどうでしょうか。

>>寺院の宗派は簡単に変えることができるのでしょうか
寺が衰微した時期に復興した僧侶、あるいはパトロンによって宗派が流動的に変わる事はよくあります。

六波羅蜜寺の場合は近くにある智積院の勢力が伸びた事も一因とされます。また修験的な山岳信仰への回帰も指摘されます(『修験と念仏』91頁「都市に下りた念仏聖」)。

>>六波羅蜜寺では年末に隠れ念仏が行われています
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Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

織田信長本人は奥の間に移動して、明智光秀が攻め込む前に自害することを決意してすぐに自害用に家臣を連れて奥の間に行き介錯(かいしゃく)=自ら切腹した織田信長の首を跳ねる役の家臣を同行させて奥の間で自害した。

明智光秀がまだ攻め込こんでいないのになぜ明智光秀が攻め込むという一報を聞いて、明智光秀が攻め込む前に奥の間で自害したのか。

自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
 事実、秀吉が引き返して山崎の合戦になったとき、秀吉側は、信長は脱出に成功、自分は信長の指示で指揮を取るという噂を流して、精神的動揺を誘ってます。


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