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よく 戦国武将が戦いのとき 1万の軍勢を率いて とかいいますが
実際に点呼でもとって数えたのかな?
5000人とかでさえ凄い人数なのにどうして 率いた軍勢の数がわかったのでしょう
1個小隊でも数百人は引き連れているのに

あくまで およその数なのでしょうか?

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A 回答 (6件)

およその数でしょう。


戦国大名は家臣及び従属化の国衆に軍役を定めていたようです。軍役とは軍勢動員の時に引き連れる兵士を定めたものです。
北条氏などは、家臣に人数・装備などを指定した細かい動員体制を構築していたようですが、どちらかというと特殊な事例で、ほとんどの大名(織田ですら)は細かく軍役を指定した形跡がありません。
点呼などはせず、おおよそこれぐらい来ているだろう、という感覚であったと思われます。
正面から全軍がぶつかって総力戦になるようなことは滅多にありませんから、それで十分だったのでしょう。
豊臣秀吉の頃になると、軍役のための従属大名の石高・貫高の把握が進み、100石につき何人など所領に応じた軍役体制が整います。

よく軍勢の数が出ているのは、軍記物の記述や石高から換算したものでしょう。
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この回答へのお礼

なるほど 石高に応じた動員数があったのですね
ありがとうございました

お礼日時:2012/07/26 07:26

参考まで


旧日本帝国陸軍の調査によれば、戦国大名の動員兵力は、石高によって、概ね1万石につき、最大250人が限界のようです。

関ヶ原合戦時における徳川の最大動員兵力は、250万石×250人で62,500が限界
息子の秀忠には、30,000の兵力を与えていて、自国守備に残りの半数を残して、家康は15,000の兵力を率い関ヶ原に向かっています。

太閤検地は、なぜ行ったのかと言えば、領国を領する大名の動員最大兵力を知る為には、必要だったからでしょう。

昔の文献の中に書かれている物の中には、過大されて書かれている物が多いようです。
太平記は、誇張しすぎだよ。実際は1/10かもしれません。

昔は、今より人口も少ないしね。

戦国大名の軍事構成は、家毎に違いがあり、各家毎に決まりがあったみたいです。
1隊250~500人で侍大将格の武将が率いていたようです。

各大名の動員兵力は、石高によって大かた決まっていたということですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2012/09/17 18:04

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoon …

元亀三年の北条家の文書に関しては着到という文章があるので着到状とされているが、内容的には軍役定書っぽいなぁとか書いてある。

http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho1008.htm
武田家では軍役定書という文章らしい。

事後に出される手紙などでは、かなり水増しの数字が横行しているようですが、実際の戦闘に行くときは、(特に戦国末期では)正確な数字が把握されていたようです。
ただ、軍役定書は個別の武将との間の文章なので、総計としては記録に残っていないようです。

秀吉の小田原攻めの時は、兵站として「食料はこっちで用意するから気にすんな」とか告知していて、準備等をしつつ、石高あたりの出兵数を指定しているので、かなりの正確な数字は把握していたはずです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2012/09/17 18:04

よくみたら 書いてあった



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%80%E5%88%B0% …

着到状 これが申告書になります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2012/09/17 18:05

申告制です



歴史的な名前は失念したが、参陣の時に、各武将は連れてきた兵力を申告します。

また、後期になると北条家などは事細かに兵力を指定しています
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelo …
たぶん北条家の始祖 伊勢新九郎が室町幕府の申次衆という出身であることにも関連するのかもしれない。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2012/09/17 18:05

確かに「およそ」というのはあります。


しかしながら、徴兵(強制を含む)にあたり、部下が自分の地域から選出する人数は報告する訳ですのでほぼ合っている人数だと思われます。
もっとも、戦場において「不利」な状況の場合、かなりの「脱落者」、「逃亡者」が出ますので実際最後まで戦った人数は少ないでしょうね。
あくまで「部下」の武将の報告ですが、「主」に自分の実力(貢献度)を示すものなので人数は重大なことです。
戦国時代の合戦の場合、「現地集合」が一般的(戦によります、特に関が原のような多くの武将参加の場合)であり、点呼をとるのは不可能ですのでできません。
部下の報告をある意味信用するしかありませんので、「およそ」というのも正しいのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2012/09/17 18:05

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・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
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No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
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Q戦国時代以前の動員兵力

元亀・天正年間以降の合戦の動員兵力は、比較複数の記録が残っていたり、現在の研究結果から見てもそれほど誇張が大きくはないと思うのですが、南北朝以前から源平合戦の時代までの動員兵力には疑問に思う数字がかなり残っています。
以下いくつか例を挙げます。
・富士川の合戦(両軍合わせて7万、吾妻鏡は20万)
・奥州征伐(頼朝の幕府軍で公称20万以上、藤原氏も数万)
・承久の乱(幕府三方面軍計19万)
・弘安の役(日本軍12万、元軍14万)
・湊川の合戦(足利軍50万‥これはいくらなんでも)
・応仁の乱(東西合わせて27万)

疑問に思う理由は
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・富士川の合戦(両軍合わせて7万、吾妻鏡は20万)
・奥州征伐(頼朝の幕府軍で公称20万以上、藤原氏も数万)
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Aベストアンサー

なんか 途中で計算違いしていた

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===
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Aベストアンサー

理由の一つは、大勢の軍隊を動員する金が無かったからです。
幕府をはじめ各藩は、たいてい財政が火の車状態でした。
藩財政の改革に成功した薩摩藩・長州藩が幕末で大きな力をもったのも、
他の藩が貧乏であったのに比べ、薩長の両藩は財政に余裕があったからです。


二つ目の理由として、幕末の戦いは兵数よりも高性能な武器や効率のよい軍隊
組織など、兵数よりも軍隊の質が戦いの勝敗の分かれ目となったことが挙げ
られます。

戦国時代でも鉄砲は有力な兵器でしたが、幕末になると鉄砲の重要性はさらに
高まりました。

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せんでしたが、その後長州藩は軍制改革を成し遂げ、連発が可能な元込め銃
をもち、世襲で元気を失った武士ではなく、鋭気溢れる農民や町人を主力と
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その結果、第二次長州征伐では、少数の長州藩の軍隊が、圧倒的多数の幕府軍
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鳥羽・伏見の戦いなど、その後の幕末の戦いでも軍隊の質が量を圧倒する状況
が続いたため、倒幕・佐幕の両陣営でやる気のある藩は、数を増やすことよりも
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二つ目の理由として、幕末の戦いは兵数よりも高性能な武器や効率のよい軍隊
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Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
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Aベストアンサー

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家のやり方で検地が行われ、そのデータがそのまま豊臣政権に受容されていることに気をつけてください。よって、実際より少なく申告されているはずです。

「戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイト」
とすれば、太閤検地のデータが掲載されている
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
か、その元になった本を見るしかありません。

なお、戦国大名の財力を見る場合に、

「越後の上杉家は、当時の主力繊維である越後青苧の利益、佐渡を抑えたことによる産金の利益を得ていた。その反面、越後でまともに米が取れる地域は今よりかなり狭く、春日山城がある上越地域が中心で、今の新潟市のあたりは氾濫原でしかなかった」

「甲斐と駿河は当時の日本では金がたくさん出る所であり、これらを領した武田家と今川家はその利益を得ていた。北条家が箱根を越えてしょっちゅう駿河に兵を出していたこと、甲斐の南部の金山地帯を領する武田一族の穴山氏の勢力が大きかったのは、産金の影響があると思われる」

「商業が盛んな琵琶湖周辺と淀川流域、京と堺を手中に収めた織田信長は、他の大名とは段違いの経済力を手に入れたはず。尾張の小大名であった時から、商業の盛んな津島を勢力下に置いていた」

「毛利家は、石見銀山を支配下に置いていた。この存在はかなり大きかったらしく、『毛利は日本一の銀持ち』と外人が評した言葉がある」

「九州等で行われた南蛮貿易の輸出品は、主に奴隷が用いられたらしい。人狩りで集めた男女(特に女)の奴隷を輸出して南蛮の高価な品物を輸入すれば、それだけで商売になる」

など、戦国大名の資金源がコメ(農作物)だけではなかったことはさまざまな事実があります。

また、
「研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした」
などと言うのは、上記の雑多なデータを寄せ集めただけの可能性が高いですから、眉にツバをつけて読むことです。「江戸時代より前の日本の経済状態は深い霧の中」、これが事実です。

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家...続きを読む


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