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鎌倉・室町、江戸時代の天皇は権力がなく、室町時代や戦国時代は食べるものに困るほど貧窮した暮らしをしていたと思うですが、その時代には天皇の権威はあったのでしょうか?
あったとすれば、それは祭司王としての権威でしょうか?過去に作られた神話をもとにした権威でしょうか?古代の神(同時に鬼としても)信仰があったのでしょうか?ピースメーカーとして機能していたの?
権威があったのならあの時代、貧窮しなかっただろうし、江戸時代も皇位継承を幕府に握られるようなことはなかったと思うのですが。。。
そこらへんを詳しく解説していただけると助かります。

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A 回答 (8件)

<参考>


 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(福武書店、1992年/講談社学術文庫、2001年)
『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書、1992年/学術文庫、2002年)
『武家と天皇―王権をめぐる相剋』岩波新書、1993年)
『天皇と天下人』(新人物往来社、1993年)
『象徴天皇の発見』文春新書、1999年)
『象徴天皇の源流 権威と権力を分離した日本的王制』(新人物往来社、2011年)

 今谷氏は、女性宮家創設の是非について、日本政府から公式に意見を聞かれたりもしています。
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吾妻鏡では、武将が天皇に楯突く事に悩み相談をしたそうです。



天皇を見たら、刀を投げ捨て弓の弦を切れ。
居なければ最後の最後まで戦え。

承久の乱は後鳥羽「上皇」が起こした物であったのでたちまち撃破されます。



根拠に乏しい水掛け論になるので黙っていた方が特を得るのですが、



>室町時代や戦国時代は食べるものに困るほど貧窮した暮らしをしていたと思うですが、

応仁の乱で京都は焼け野原になり、各地の天皇の御領も大名が奪い始めました。
天皇の遺体は1ヶ月間放置されたらしいです。

信長は天皇に7千石の領地を献上します。
江戸時代になると3万石が天皇に献上されます。


>江戸時代も皇位継承を幕府に握られるようなことはなかったと思うのですが

譲位(天皇が位を譲る)と莫大な資金が必要になります。
その他の行事も3万石ではとても足りないのです。

徳川幕府はその資金の面倒見た(足元を見た)のです。
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回答は、天皇は飾り未満です。


いてもいなくても変わらないのなら存在しないほうが世の為人の為。

あの時代、平家、源氏に正統皇位継承権があった訳です。
在日嘘吐き自称天皇なんて不要。

ちなみに正統第一位皇位継承権利でしたら、私に「も」ありますんで宜しくです。
なお、一般人しています。

東京都に住んでいる在日には、皇位継承権利は「無い」ので間違えないで欲しい。
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もうちょっと勉強すべき人々が多いですけど、日本の天皇制は明治までは中途半端な地位でした。


清盛以前は直接統治で天皇、上皇、高位の貴族が政権を争っていました。
清盛あたりに漸く武士の力が強くなり、次第に天皇と高位貴族との政権争いに移り、やがて鎌倉幕府から天皇と武士との関係になり、天皇は象徴天皇へと代わっていきます。

明治に敷かれた天皇制は英国を参考した立憲君主制で、「君臨すれども統治せず」が基本で、直接政治に関与するのは明治維新の東京遷都(これは薩長に脅されて騒乱を回避するために発せられた)と第二次大戦の玉音放送のみです。

権威とか支配という言葉を絶対君主制や独裁権としか理解できない人々には、権威が無いとか全てを天皇の所為にするような発言をしますけど、これは日本の仕組みを理解して居ない(つまり英国やカナダ、王国のことも理解できていない)という事です。
日本は天皇制が出来て以来、天皇を奉ることに終始してきたのであって、だからこそ贋作であっても薩長軍の掲げた御旗に逆らうことをしなかったのです。
つまり日本や英国などの君主制は「君臨すれども統治せず」を守ることであり、その権威は冒すべからざるものなのです。
徳川幕府以前、それまでも武士は時折自分の権威を誇るために天皇制に干渉してきました。そのつど国政は大きく乱れています。結果的に徳川が支持を失ったのも天皇を軽んじたためですが、中枢以外の武士には尊皇意識は残りました。
つまり明治維新は尊皇主義で無い者(皇室を利用しようとしたもの)が尊皇を主張し、尊皇の武士を敗北させたのです。

そして今、再び天皇を政争の具にしようとする輩が暗躍し始めています。その結果日本は国土を滅ぼそうとしているわけです。
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寛政の改革を主導した松平定信は大政委任論を唱えました。

11代征夷大将軍徳川 家斉の時代である。大政委任論とは幕府が預かる統治権は天皇から委任されたものだという政権の正当性を主張した理論です。それは徳川 家斉に将軍としての自覚を持たせようという狙いもあったのでしょうが、衰えつつある幕府の権威を、朝廷の権威を借りて、もう一度復興させようという考えがあったからなのです。もし天皇に権威が無かったら、大政委任論は何の意味を持つことができるでしょうか。徳川幕府は、神君家康公の威光によって権威を保ってきましたが、さすがに150年も経つと賞味期限切れになっていたということが背景にあります。17世紀の水戸光圀の時代までは、徳川の印籠を振りかざせば、庶民はははーと地べたにはいつくばった。しかし、11代征夷大将軍徳川 家斉の時代はもうそうではない。徳川の印籠には、もう効力が残っていない。権威とは、そういうものなのである。恐れを知らぬ現代日本人には権威という概念が何かを理解している人は少ない。中世ヨーロッパではローマ教皇が権威の根源であった。ローマ教皇から戴冠を授かれば、どんな馬鹿でも王様になれた。ローマ教皇が聖地を奪回せよと号令を発すれば、十字軍と称して、有象無象の軍勢が故郷を後にした。ローマ教皇自身は軍隊を保持していない。私兵を抱えてもいない。しかしローマ教皇が黒を白といえば、人々は皆それを信じた。それが権威ということなのだ。

南北朝とはなにか。建武の新政を裏切った足利尊氏が征夷大将軍に就任する為に北朝の光明天皇を擁立した。後醍醐天皇が征夷大将軍に任命してくれないなら、新しい別な天皇に任命してもらえばよいという発想なのだ。しかし後醍醐天皇は光明天皇への譲位を認めなかった。それが南北朝なのだ。現代人には、天皇から任命されないなら、自分で勝手に征夷大将軍を自称すれば良いではないかと考える人もいるかも知れない。しかし、それでは駄目なのだ。朝敵となってしまえば、全国の武士を敵に回してしまう。そうなれば、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏のように討たれてしまう。

さらに時代をさかのぼれば、奢る平家が没落したのも、以仁王が源氏に平家を討てと激を飛ばしたことが発端なのだ。以仁王の令旨がなかりせば、源頼朝も世に出ることがなく鎌倉幕府を開けなかったに違いない。

ここまで説明すれば権威とは何か分かってもらえると思うのだが、どうだろうか。
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その時代に限らず 天皇には元々権威などありません



朝廷の権威 とよくいいますが それはイコール天皇個人の権威ではなく 公家や高官の貴族を含めたものの権威です
天皇の実権は古代から 豪族や貴族 摂関家に握られていました

鎌倉から江戸にも当然 実権を握るものが朝廷にはいました

戦国で有名なのは 山科言継 菊亭晴季 近衛前久です

権威がなかったから困窮したわけではなく 単にお金がなかっただけの様です

実際 正親町帝が崩御した時 埋葬する資金がなく3ヶ月も放置されていました
見かねた織田信長が禁裏と御所の修繕費用と天皇の埋葬費を負担しました
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 これはかなりオモシロイ問題ですので、少々お時間をいただいてよろしいのならば「学説」と「典拠」を具体的にお話しさせていただきますが………。

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鎌倉から南北朝を経てのあたりは、時の権力者とよせばいいのに変に権力欲を持っちゃった天皇との間で権力闘争が起きていますが、戦国時代はもう実力(武力)がないので汲々としていて、江戸時代になったら形式上は徳川幕府の上司にあたるわけですが、公家諸法度で天皇の直属の部下である公家の権力がことごとく奪われていましたから、幕末になるまでは細々と暮らしていた、といえるでしょう。


ただし、形式上は幕府は朝廷(天皇)に任命されているという手前があるため、幕府からはそれなりの待遇は与えられてはいました。

戦国時代や江戸時代は実際の権威はほぼないといってもいいほどですが、権威があるということにしておいて存在しているというチトややこしい状態ではあります。

あるんだかないんだかちょっと分からないと思いますが、例えば現代の日本の原発も、実際に大地震や災害にあったら十分な安全対策がされているとはいえないのに、一応安全であるという名目になって存続し続けているわけですよね。この、「実際は安全じゃないのに安全ということにしておく」のと、「権威はないのに権威があることにしておく」のはその精神において、特に日本人同士には通じるけど海外にはまったく通じないという点においても同じものではないかと思います。
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Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q日本の歴史で朝廷はなぜ残り続けたのですか?

学説や細かい歴史について詳しくないため、中学社会の延長での本当に基本的なご回答で構いません。宜しくお願い致します。

諸説あるかと思いますが、もともとは強い豪族や支配者によって古代に天皇が作られたかと思います。
その後、武家社会や戦国時代など1000年以上も力の強い者が弱い者を支配する世の中が続き、支配者も二転三転したにも関わらず、直接的に軍事力が高かったわけではない天皇(朝廷)が残り続け、影響力を保ち続けた(王政復古まで)のはどうしてなのでしょうか?

常に勝ち馬に乗り続けたのか、それとも権力争いをする者達にも天皇=神と信じていたため天皇を支配するという考えはなかったのでしょうか?

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのようにして築かれてきたのです。
日本の統治は天皇家を頂点とした天皇家由来の支配者とその他の豪族(家臣)によって構成されています。そして平氏滅亡後は支配者は基本的に源氏の家系が治めるようになりました。
地方豪族もより天皇家に近い血筋を持ちたいと、当初は血縁によって、後には家系の売買さえ行なわれるようになりました。
秀吉が関白の地位を得るために家系を創った事は有名な逸話ですし、信長の祖先が平氏を名乗り、信長自身も藤氏であるため、源氏系である家康を厚遇したという説もあります。
更に武士の頂点である幕府を開く資格も、基本的には源氏の流れを持つものに限られました。幕府を開く許可を与えるのは天皇であり、幕府は本来天皇を守護する武士団の長ですから、第一に天皇家安泰を考えるのは当然です。
武士の世界といえど、武士は天皇擁護のための組織である事は日本国中の武士が自覚しており、天皇を排斥しようとする者は排斥されるし、戦っても他の武士の助力を得られない事になるのです。
歴史のなかでは度々天皇家に対抗したり、懐柔しようとする者が現れましたが、徳川家でさえ完全な全武士団の賛同と助力を取り付けることは出来ず、中途半端に終わっています。
最後に天皇を担ぎ出したのは薩長軍で、当初は天皇家の許しを得られなかったものの、勝手に天皇家の御旗を掲げて幕府軍を朝的として討伐しました。戦況の有利を得て、天皇も正式に薩長軍を認めたのです。とは言ってもこれは、朝廷の貴族が押したために天皇も認めざるを得なかったのでしょう。
これも、武士が天皇の臣下である事を武士社会全体が自覚していたから成し得たのです。

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのよう...続きを読む

Q武士政権が天皇家を潰さなかったのはなぜ?

源頼朝から明治維新まで武家の長である将軍家が政権をにぎっていましたが
しかしその間、天皇はその将軍家の君主として滅びずにあり続けました。
これは何故なのでしょうか?
かつての王家が名目だけ残る、というのは、実質上のトップである将軍家にとってやりづらくはなかったのでしょうか?
天皇家を存続させるメリットや、潰すと起こるデメリットなどがあったのでしょうが
考えをめぐらせてもピンと来る答えに行き着きません。
もし「これだ!」というものがあれば教えて下さい。

Aベストアンサー

まず歴史をひも解いてみますと, 平安時代に「摂関政治」が始まって以来, 天皇が権力を持っていた時代はほんのわずかしかありません. 白河上皇の院政期と後醍醐天皇の「建武の新制」, 明治天皇の一時期 (憲法ができるまで) くらい?
ということで, 鎌倉幕府成立時点で既に天皇は「権力を認める背景としての権威を保持する機関」となっています. そして, 武家政権を確立した平氏・源氏ともに「武家の棟梁」として認められたのは「貴種 = 天皇につながる血を持つ者」であるところが大です.
つまり, そもそも権力を持たない天皇をつぶすメリットはありません (天皇家をつぶしたとしてもそれに代わる権威が得られるわけではない). むしろつぶしてしまうと, 自らの権力を認める権威が失われてしまうこと, そして自らの棟梁としての正当性を失うことにより, 2重の意味で自らの権力基盤を失うことになってしまいます. であれば, わざわざ手をかけてつぶすよりも手の上でコントロールしていた方が簡単です.

Q江戸時代以前の人々の天皇に対する認識

 現代の日本で、天皇制や天皇陛下の存在を知らないという人はいないと思いますし、天皇制についてはともかく、今現在の天皇陛下については素朴な好意というか敬意というか(←うまく表現できません;;)そういうものを多数の人が持っているんじゃないかと思います。
 これに対して、江戸時代以前の人々はどうだったんでしょうか?ある本で「江戸時代の民衆で京都に天皇なるものがいるなんてことを知っていた者は少なく、国学の書物などを読み『公方様より偉いお方がいるのか!』と驚いた者も多かった」みたいな記述がありました。
 「うそ~」と思ったのですが、実際のところ、江戸時代やそれ以前の時代において天皇に対する認識、意識はどの程度のものだったんでしょうか?
 知らなかった。知ってはいたけど尊いものという認識はなかった.etc・・・もちろん個人差はあると思いますが、大多数を占める一般の民衆における傾向を教えていただきたいと思います。

Aベストアンサー

1868(明治元)年9月の車駕(しゃが)東幸が行われ その盛大さで沿道や東京では天皇の威光が誇示され 東京市民には酒肴がふるまわれ、数日間にわたってお祭気分だったと記録があります。また
1872(明治5)年の西国巡幸以降、1885(明治8)年までの6大巡幸により、北海道から九州まで天皇のイメージを民衆に浸透させていきました。、天照大神や神武天皇とつながり、伝統的権威を持ち、正統な支配者であり、解放者としての天皇を民衆に知らしめるためです。ここまでやったのは あなたの疑問への答えです
もともと朝廷の公地公民制によって 土地も民衆も天皇からの借り物で
そのことは武士や各地の搾取階級は認識しています その証拠に
維新の大政奉還等すべての領土の返還での争いはなかったでしょう
戦国期は将軍の出撃命令は断れません そのかわり 土地の使用権利を認めてもらえるからです 
搾取される側の民衆は、おかげ参りや抜け参りなどの伝統的な伊勢信仰がありましたが 文盲率の大小にかかわりなく直接的な日常でのかかわり中では存在性がありませんでした 朝廷でも幕府でもなく 個々の所属する村や惣の単位の管理者を知っておれば事足りてきたわけです
ですから天皇が全国を巡幸という形で表出することで、民衆の生き神様信仰が、神としての天皇に収斂されるべく教化しました。

1868(明治元)年9月の車駕(しゃが)東幸が行われ その盛大さで沿道や東京では天皇の威光が誇示され 東京市民には酒肴がふるまわれ、数日間にわたってお祭気分だったと記録があります。また
1872(明治5)年の西国巡幸以降、1885(明治8)年までの6大巡幸により、北海道から九州まで天皇のイメージを民衆に浸透させていきました。、天照大神や神武天皇とつながり、伝統的権威を持ち、正統な支配者であり、解放者としての天皇を民衆に知らしめるためです。ここまでやったのは あなたの疑問への答えです
もともと朝...続きを読む

Q江戸時代、天皇は何をしていたのか?

江戸時代の政治の実権は幕府にあり、朝廷はお飾りのような
陰の存在でした。
江戸時代の将軍家は15代ですが、天皇家も15代です。
並べると以下のようになります。

家康  後陽成
秀忠  後水尾
家光  明正
家綱  後光明
綱吉  後西
家宣  霊元
家継  東山
吉宗  中御門
家重  桜町
家治  後桜町
家斉  桃園
家慶  後桃園
家定  光格
家茂  仁孝
慶喜  孝明


さて、これらの天皇たちが何をしたかは一般的にあまり知られていません。
歴史教科書に登場するのは光格天皇の「尊号一件」ぐらいでしょうか。
江戸時代における天皇・朝廷の何か印象的なエピソードがもしあれば
教えていただけますか?

Aベストアンサー

天皇はそもそも家ではないので、天皇家という表現はふさわしくありません。天皇はあくまで天皇です。

近代史において、明治維新が起こった際に国民の団結を目的として天皇は国家元帥になりますが、1400年続く皇紀の中で直接政治に関わった時代は非常に稀です。また明治時代から戦後アメリカに占領されるまでも、「君臨すれど統治せず」が基本原則であり、内閣と天皇の関係も、また天皇の実権も憲法できちんと制約されていました。

徳川家は天皇から実権を奪い、独裁政治を行ったかのように歴史教科書は書きますが、そもそも天皇は独裁者として日本国民の上に君臨した事は今だかつて一度もありません。

それを証拠に、天皇は国民と対立関係に無かったため、京都御所のような簡単に打ち破られるような堀のない邸宅に1400年も住んでいて、一度も国民に襲われたり滅ぼされたりしていないのです。

この辺を左よりの支配する学校ではきちんと説明しないので、「昔の日本は天皇家が支配する、今の北朝鮮さながらの酷い国家だった」と本気で信じるおりこうさんが多いのが実態です。

で、天皇は江戸時代何をしていたかですが、今の今上天皇同様、1400年続く祭事を行っていました。祭事とは何か。これも新嘗祭をはじめ全てが名前を変えて何とか記念日として休日となっているためわかりにくいのですが、平たく言えば、日本国民の平和や幸せの為の祭事を行っているのです。
天皇は、自分の為ではなく日本国民全ての人々の為に、いつもお祈りをしてくださっているのです。ですのでどっかの国は「日帝」と呼びますが、どちらかというと皇帝ではなく法王に近いんですよね。

戦後の共産党員はソビエトから共産主義思想を持ち帰った際、この辺を良く解っていなかったので天皇を「天皇家=特別階級」として目の敵にし、格差社会の打倒すべきものとし、また唯物論の観点から神事を執り行う祭祀王という位置づけも理解できないようです。ですので日教組に支配された学校教育ではとにかく天皇は悪いイメージしか教えてくれませんし、詳しい教育はしてもらえません。

繰り返しますが天皇は江戸時代も今も、ただ日本国民の為に祭事を行い、国民の平和や幸せの為に祈ってくださっている方なのです。

天皇はそもそも家ではないので、天皇家という表現はふさわしくありません。天皇はあくまで天皇です。

近代史において、明治維新が起こった際に国民の団結を目的として天皇は国家元帥になりますが、1400年続く皇紀の中で直接政治に関わった時代は非常に稀です。また明治時代から戦後アメリカに占領されるまでも、「君臨すれど統治せず」が基本原則であり、内閣と天皇の関係も、また天皇の実権も憲法できちんと制約されていました。

徳川家は天皇から実権を奪い、独裁政治を行ったかのように歴史教科書は書き...続きを読む

Q卑弥呼と天皇の関係

邪馬台国が北九州にあったのなら疑問はないのですが、もし畿内にあった場合は
当時、奈良か大阪にいた天皇勢力とはどんな関係だったのでしょうか?
当時の天皇勢力の範囲も限られていたため、邪馬台国とは共栄共存という感じでしょうか?

Aベストアンサー

邪馬台国は、畿内とは言っても、京都、兵庫、大坂の地域に分布した国です。一方、原大和朝廷(天皇勢力)は大和盆地(奈良盆地)にあった国です。両者は棲み分けていました。魏志倭人伝に登場する狗奴国が原大和朝廷のことです。(邪馬台国が畿内にあったのはほぼ間違いありません。)

また魏志倭人伝にある通り、邪馬台国の領袖は女であり、狗奴国の領袖は男(天皇)でした。

両者は国境を接して小競り合いを続け、対立を繰り返し、決して友好な関係ではありませんでした。しかし、邪馬台国が魏朝と晋朝の冊封体制下にある間は、中華皇帝の威光を背景とする邪馬台国の勢力が優っておりました。

武帝が死去して恵帝の時代になると晋朝の内部崩壊が始まり、八王の乱に至って晋朝の権威は地に堕ちました。中華皇帝の威光の凋落は日本にも大きな影響を与えました。邪馬台国の勢力は弱体化し、この時期に原大和朝廷が邪馬台国を制して西日本の統一へ動き出したと見られます。(第八代孝元天皇から第十代崇神天皇のころ)

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む


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