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ブッタのことばの犀の角の章で
「交わりをしたならば愛情が生ずる。
愛情にしたがってこの苦しみが起る。
愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」
と、ありますが要約すると、どのような意味なのでしょうか?

回答よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

「犀の角のようにただ独り歩め」とは「自ら覚り、他人を救うことなく、他人とも交わらないで、独り修行しているさま」と言われています。

この章ではいろいろな場面を提示しています。

「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」は、
「女性と交わる(性交する)と愛情が生じる。愛情が生じるといずれもっと愛されたいとか、別れたくないとかいろいろな苦しみが生じる。それはわざわいである。わざわいとは心の迷いであるから、それを起こしてはいけない。その原因となる、異性とも友達とも誰とも関係せず、ただ独り生きるのが仏の道なのです」と言う意味だと思います。
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この回答へのお礼

分かりやすい説明
ありがとうございます。
助かりました。

お礼日時:2012/08/01 20:27

真に仏の道を歩む者は


女との縁を絶ち、生涯独身を通しなさい
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
助かりました。

お礼日時:2012/08/01 20:26

『あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。

況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

 交わりをしたならば愛情(sneha) が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍の生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

 朋友・親友にあわれみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。』(Sn.35-37)

「独り修行する」ということはバラモン教の系統の叙事詩などにおいて大いに称讃されていたが、それと同じものを初期の仏教も受けていたのである。

 しかしこのような生きかたは、ただ自分一個人だけの心の平静を求めているにすぎない。他の生きものを害するなかれといっても、それは自分の心の平和が乱されるから害しないというだけである。ところが慈しみは他の生存者を前提として必要としている。

だからこの二つの立場は理論的に矛盾する。最初期にはこの矛盾がどれだけ自覚されていたか不明であるが、のちにははっきり自覚された。

そうして独居を説く右のような一連の詩句は独覚(paccekabuddha) のための道を説いたものであると解せられた。独覚とは他人とも交わらず、他人を導くこともなく、ただ独りで修行し、さとる人である。これに対して慈しみの実践を説く人々は菩薩であると考えられた。

 この菩薩の道の先駆的思想がすでにかなり古い時代から表明されている。それは積極的に他人を愛することである。この慈悲の精神を徹底させると、敵というものがなくなる。とくに己が敵をも慈しまねばならぬということさえも主張された。
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この回答へのお礼

詳しい説明ありがとうございます。
助かりました。

お礼日時:2012/08/01 20:25

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