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学校で習う英語はアメリカ英語と言われていますが疑問があります。

私は非英語圏の国に留学中、イギリス英語をメインにアメリカ英語も習ったことがあるんですが、
どちらの英語も日本の学校で習った英語とは少し違いましたが、むしろ アメリカ英語の方が日本の学校で習った英語からかけ離れていた印象を受けました。
単語レベルでは アメリカ英語では 「弁護士」は attorneyで、lawyerはむしろ「法律家」を指す といった具合です。
もう一つは、日本の学校では 「I have to (do)~.」という表現は嫌というほど繰り返し教わりますが、ネーティブの子供は誰も使いません。

そこで質問です。なぜ、アメリカ英語の方が日本の学校で習う英語からは かけ離れているように感じると思いますか?

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A 回答 (6件)

 イギリスの標準語の発音(容認発音 Received Pronunciation、略称 RP)は教養ある南部(ロンドンを含む)方言に基づくものである。



 [з:]は口を半開きにしたややあいまいなアー、[e(上下矢印)]はそれに近い音だが前後関係で揺れがあり,また弱音節にのみ現れる点で他の母音と異なる。近年 RP では[oe(上下矢印)](および一部では[ue(上下矢印)])も区別せず[o:]と発音する傾向があり、たとえば paw,pour(および poor)が同音の[po:]となる。また[e(上下矢印)u]は他方言やアメリカ英語では[ou]、スコットランド英語では[o:],そのほかに[au]と発音されるなど音価の揺れが大きい。

 子音を国際音声字母で列挙すると[p,b,t,d,k,を,f,v,θ(thin),∂(this),s,z,∫(ship),3(vision),r,h,t∫(church),d3(judge),l,m,n,η(long),j(yes),w]である。
 このなかで[r]は母音の前では摩擦音であることが多いが、無摩擦持続音に発音されることもあり、母音間で先行の母音に強勢がある場合は、はためき音 flap(日本語カラダのラの子音に近い。たとえば very,horror など)となる。
 [r]は古くは巻舌に発音され、今日でもスコットランドの一部ではこの発音が聞かれる。アメリカ英語では無摩擦持続音あるいは反舌音である。
 [3]は語頭に立たず、語末に立つのは借入語の場合(rouge,garage など)である。
 [h]は語末や音節末に立たず、[η]は語頭,音節頭初には立たない。

 音の配列上日本語と著しく異なるのは、子音を末尾にもつ音節構造と子音結合の多いことで、2ないし3個の子音の結合が語や音節の頭初にも末尾にも現れ、末尾には4個の結合も可能である(tempts など)。ModE 初期までは屈折語尾の‐(e)d,‐(e)s は[‐id],[‐is]([‐iz])と発音されていたが、この弱母音が消失、[‐d],[‐t],[‐s],[‐z]となり、これが先行の音節に付いてその一部となった。その結果英語には単音節語がふえた。
 語のアクセントは強勢による点で日本語の高低アクセントと異なり、また音節数とかかわりなく強勢がほぼ等間隔に現れる点は、日本語の各音節がほぼ等しい長さに発音されるのと著しく異なる。たとえば、

A ro(1)lling sto(2)ne ga(3)thers no(4) mo(5)ss.

の8音節の1,2,3,4,5の間はほぼ等時であるのに対して、日本語では、たとえば俳句を例にとると、その17文字はほぼ等量の17の拍である。英語の音の高低(ピッチ)は語固有のものではなく、統語のレベルでイントネーション(抑揚)として機能する。屈折語で語順の差違が担うニュアンスの差、強調、対照などを示す役割を、語順の固定した英語では、強勢とイントネーションがかなりの程度まで担っている。

【アメリカ英語】
 イギリスとイギリス連邦諸国で用いられる英語に対し、アメリカ合衆国で用いられる英語を指す。

[歴史]
 四つの時期に区分できる。

(1)第1期 植民地時代。1607年バージニアに、20年マサチューセッツに、その後60年ころまでに北米北東部(ニューイングランド)に移住した人々は、おもにイングランド出身であり、次いで18世紀初頭にかけて、イングランド各地のほか、ウェールズや北アイルランド(スコットランド系)から英語国民の移住者が相次いだので、この間オランダ、ドイツ、フランスからの移住者も加わったが、英語が新世界の共通語となった。

(2)第2期 独立から南北戦争まで。大西洋岸の13の植民地が連邦憲法を批准した1790年には約400万の英語話者がいたが、19世紀半ばには大量の移住者が主としてアイルランドとドイツから流入し、またアフリカの黒人も労働力として移住させられた。この時期は植民地英語から脱却したアメリカ英語の形成期と見ることができる。しかし、第1、2期とも、あらたまった書きことばや文学の言語は、依然としてイギリスの英語を規範としていた。話しことばもアメリカ語をイギリスの“標準”英語に対する非標準的地域方言と見なす傾向が強かった。

(3)第3期 南北戦争後から第2次大戦まで。スカンジナビア、スラブ諸国、イタリア等からの大量の移住者が流入し、さらにフロンティアが太平洋岸に達すると、アジアからも移住者が加わり、スペイン系住民やインディアンをも吸収して、アメリカ合衆国は巨大な多民族国家となった。移住者の子・孫は急速にアメリカ社会に同化され、英語を母語とするにいたる。まだイギリスの英語を範とする姿勢は根強く残るが、アメリカの口語を用いた文学作品も現れ始めた。

(4)第4期 第2次大戦中および戦後。アメリカ合衆国の国際的な地位の上昇は、アメリカ英語の地位の上昇につながり、イギリス英語と完全に肩を並べるにいたる。

[方言]
 歴史が新しいこと、住民の地理的移動が盛んなこと、多民族の間の意思疎通に共通語が必要なことなどから、アメリカ英語には旧世界ほどの地域方言分化はない。従来は、

(1)ニューイングランドの東部方言
(2)バージニア州から南西一帯、テキサス州東部にわたる南部方言
(3)それ以外の広大な地域に話される一般アメリカ英語 General American(略称 GA)

に三大別されてきたが、近年言語地理学の研究が進んだ結果、より詳細な方言分類が試みられている。分類規準は主として発音である。上の三大別を最小限度修正するならば、さらに、

(4)ニューヨーク市方言
(5)南部山地方言

を加えることができよう。後者は(2)の南部方言地域の中で、バージニア、ノース・カロライナ、ケンタッキーとテネシーの大部分にわたる地域の方言だが、この地方にはペンシルベニアからの移住者が多く、その影響で GA に近い特色をもつ。これらの方言は、イギリスからの初期の移住者の出身地の方言を原型とし、時代的変遷と各種要素の付加により形成されたと言えよう。ニューイングランドにはイングランド南部および南東部からの移住者が多かったので、イギリス南部英語に基づく標準発音 Received Pronunciation(略称 RP)に共通する特徴を示す。GA の原型になったのはイングランドの北部方言、北アイルランドから来たスコットランド方言で、その話者の多くがフロンティアを西方に推し進める役割を担ったので、これを原型とする方言が広い地域に広まった。

[特徴]
 ここでは主として GA について述べる。

(1)発音
 RP では発音されない母音の後の rがたいていの方言で反舌音的に発音され、母音間でも RP のような弾音[r]でなく反舌音であること、hot、cod などの母音に円唇がないこと、アメリカ英語の話者や専門家の多くは母音の長短の区別を問題にしないこと、RP で[a:]と発音される[f、st、θ、ns、mp]等の前の a を[ae]と発音すること、母音間の t、d を有声の弾音に発音すること、dictionary などの末尾から2番目の音節に第2強勢をおくこと(RP ではしばしばこの位置で母音を落として[‐nri]と発音する)、第1強勢の位置の相違(アメリカ英語 deta↑il、a↑ddress、re↑search など)、イントネーションの相違、イントネーションの高低の幅が概して RP より狭く、単調に聞こえること、声の高低について発声の習慣の相違(概して RPの方が高い)などが観察される。これらの現象から RP とは別の音韻体系を立てるべきである。(

2)綴字
 今日のアメリカ綴りは辞書の編さん者として著名なノア・ウェブスターに負うところが多い。彼は、語尾の‐our を‐or に(favor)、‐re を‐er に(center)、‐ll‐を‐l‐に(traveler)、gaol を jail にするなど、英語の綴りをより簡単で規則的なものとした。

(3)語彙
 17世紀以降英米それぞれの社会、経済、慣習の変遷、新世界特有の事物、原住民や多様な移民の言語や文化との接触により、英米の語彙にはかなりの相違が生じた。くだけた言いまわしやスラングの多用はアメリカ英語の大きな特徴である。

(4)文法、語法
 基本的には英米間に文法上の相違はない。所有を表す have の疑問文、否定文に作用語の do を用いることぐらいが、初学者にもすぐ気のつく違いであろう。慣用表現や語法にはある程度の差はあるが、容易に克服し得るものである。

[古形の保存]
 英語が最初に新世界に渡った時代の発音、語形、語義などが17世紀以来イギリスでは変化したり廃れたのに対して、アメリカでは保たれている場合がある。たとえば上記[f、st、ィ]などの前の a の[ず]の発音、母音の後の r を発音することなどは、イギリスでは18世紀末までに廃れた。get の過去分詞形 gotten、〈病気の〉の意味の sick、I think の意味の I guess なども古形の保存である。しかし英米の英語はそれぞれの標準的ないし代表的な方言に異なる特徴を示すとはいうものの、共通するところは相違点より圧倒的に多い。
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    このカテには いつも全て英語で回答するひねくれ者が時々現れます。
昔は規約違反だったようですが、今は宿題や翻訳の○投げも含めてだいぶ緩和されたようですね。

あ、「英語で回答するひねくれ者」って質問者さんのことでしたか。

この回答への補足

>あ、「英語で回答するひねくれ者」って質問者さんのことでしたか。
いや、私じゃありませんよ。「いつもすべて」の部分を見落としました? たまに英語の得意な人には英語でコメントすることがあるくらいで。 それに、その人は質問は出しませんし。

補足日時:2012/08/15 17:17
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 古代ギリシアやローマにおける前駆的・萌芽的現象は別として、弁護士制度がはじめて人類のものとなるのは、13~14世紀の西ヨーロッパにおいてである。

これに先だって、西ヨーロッパでは、10世紀から12世紀にかけて、商業の復活、都市の勃興、大学の発達、ローマ法の復活等々の相互に規定し合った文化的現象が相次いでいるが、これらはいずれも弁護士制度の発生と発展とに大きな影響を及ぼしたものと推測される。商業の復活は9世紀以来の農業革命による生産力の飛躍的拡大を前提としており、このような、農業と商業の発展に伴う市場経済の発達は同時に土地や商取引をめぐる契約や法的紛争を増大させ、法と裁判機構と法律家の出現を促した。都市はその合理主義的傾向によって、従来の決闘・神判による非合理的裁判の廃絶の重要な契機となり、やがて近親者や友人に代わって、職業的法律家層が当事者の代弁人・助言者となって出現する大きな動因となった。このような状況のもとに、ローマ法が発見され、ローマ法を教授して専門的法律家層を養成する大学が出現したのである。ローマ法を継受した諸国においては、このような大学が法律家養成の役割を担うこととなったのは当然のなりゆきであった。

 イギリスにおいては若干事情を異にした。ここでは、ローマ法の大規模な継受は行われず、古くからの慣習とこれに基づく裁判例(コモン・ロー)が(一部の法領域を除き)裁判規範とされるに至った。イギリスでは13世紀に専門的法律家層の出現が見られるというのが定説であるが、すでにこの時期において、上位の弁護士が新進の弁護士や弁護士志望者にコモン・ローを教え、長期の学習期間を経て志望者(スチューデント)は下位の弁護士(アプレンティス)となり、下位の弁護士はやがて上級の弁護士(サージャント)となり、この上級の弁護士のなかから裁判官が選ばれるという独特のシステムが定着した。定義上ローマ法教授の機関であった大学法学部ではコモン・ローを教授することはできず、国王の裁判所で行われる法はコモン・ローであったから、大学はイギリスの弁護士の養成機関とはなりえなかったのであり、実定法であるコモン・ローを教授する能力は、実務法曹の長老以外には発見することができなかったのである。英米法諸国に今日も伝わっている、いわゆる法曹一元制度の歴史的起点はここにある。これらの弁護士階層が、その志望者とともに強固な団体を結集し、その団体がギルドとして組織化されたのは中世的文脈においては当然のことであった。14世紀にさかのぼるインズ・オブ・コートがそれであり、当初からテムズ河畔の今日と同じ場所にあった。ミドル・テンプル、イナー・テンプル、リンカンズ・イン、グレーズ・インの4団体からなり、今日も後進養成的機能をもつが、真に法学の教授と学習の殿堂であったのは17世紀初頭までで、当時は、オックスフォード、ケンブリッジ両大学に比肩するイギリス第3の大学といわれた。

 大学が法律家養成の権限と責任をもったヨーロッパ大陸諸国においては、イギリスの場合と異なり、大学卒業生が弁護士の経験を積んだ後でなければ裁判官になれないという必然性がない。事実これらの国においてはイギリス風の法曹一元制度は定着することなく、卒業後ただちに裁判官への道を目ざすことが可能とされて今日に至っており、これら諸国(フランス、ドイツ)の法制を継受した日本においても、諸般の事情から法曹一元制度を好ましいとする論議があるにもかかわらず、明治以来、この制度は定着したことがない。

 弁護士の基本的な機能に、代理と弁護の二つがあるといわれる。代理人の法廷における発言は本人(依頼者)のそれと同一視される。これに対して、弁護は本人の立場の擁護・弁明で、本人ないしその代理人の発言に対して、補充的な関係をもつにすぎない。形式主義的な中世法においては法廷における発言はしばしば取消しのきかない厳粛なものであった。そのため、西ヨーロッパの中世法は代理という制度を広く認めず、これを国王の専権とし、したがって国王のみが事情に応じて他に利用を許すことができるきわめて厳格な制度と見る傾向があった。これに対して弁護の制度は古くから認められ、これを厳格に取り締まる風潮は(日本を含む東アジア諸国と異なり)存在しなかった。弁護士の機能は代理と弁護という両面をもつが、西ヨーロッパにおける傾向・風潮のゆえに、これらの諸国においては、弁護を機能の中核にもつ弁護士が最初に発生し、ついで、国王(裁判所)の厳格な統制に服する、代理を職能とする弁護士階層が出現することとなり、弁護士制度は多元化することになった。

 弁護の機能を中核にもつ弁護士は自由職業的色彩が強く、弁護士団体(ギルド)に結集し、とくにルネサンス期に各国とも貴族的傾向を強め、今日においてもその伝統を残しているといわれる。イギリスのバリスター barrister などはその代表的存在である。

 これに対し、代理を職能とする弁護士は裁判所の職員とみなされ、そのような従属性のゆえに独自のギルドをもつことができず、紳士階級の周辺部分に位置することとなった。イギリスのアトーニー attorney ないしソリシター solicitor がその一例であって、今日ではほぼバリスターと肩を並べる地位にいるが、そのためには19世紀末以来の悪戦苦闘を余儀なくされた。

 既述のとおり、弁護士の二元性ないし多元性は、代理制度についての特殊中世的認識に基づいて発生したものであるから、近代法的視点からすれば合理性を欠いている。ドイツは19世紀の半ばに、フランスは第2次大戦後、いずれも一元化を行い、中世を知らないアメリカや日本では、当初から1種類の弁護士のみである。

 欧米諸国のように弁護士制度が社会の必要に応じて自生的に出現し、数百年の長い歳月をかけて自然な発達を遂げた場合と比較するとき、日本の弁護士は明治初年、外圧によって強制された近代化の波に乗って外発的に生誕し、100年ほどの伝統しかもたない。しかもその背景をなした第2次大戦以前の日本の政治、経済、社会の特質は、弁護士制度の健全な発達のためにマイナス要因として働いた。今日においてさえ、弁護士が社会にうまく溶けこんでいないといわれ、社会のニーズにこたえていないと批判されるのは、法学教育や法曹教育のあり方に存する問題点もさることながら、基本的にはこのような歴史的経過に原因がある。

 中世的伝統の高貴な側面を伝えるとともに、悪しき伝統の呪縛にも同時に苦しんできたかに見えるヨーロッパ諸国に比し、中世的伝統をもたないがゆえに、良きにつけ悪しきにつけ独自の弁護士制度を発達させたのはアメリカであった。とりわけ、産業革命の嵐のなかで企業と深い関係をもつに至ったアメリカの弁護士は、ビジネスとの密着度において世界でもほかに類例がなく、ビジネスの側から見て最も役に立つ弁護士制度を発達させた。専門化と集団化(弁護士数百人を擁する巨大な法律事務所に代表される)の徹底により、アメリカの弁護士にとって、主たる戦場は法廷から会議室に移ったということが指摘される。

 反面において、このような特徴は、今もなお法廷を主たる戦場とするヨーロッパや日本の通常の弁護士の眼から見ると、弁護士のビジネスマン化、プロフェッションからの離脱現象と映りかねず、そのような批判も跡を絶たない。
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 日本人と英語との最初の出会いは1600年豊後に漂着したウィリアム・アダムズ(三浦按針)にさかのぼる。

その後江戸幕府が鎖国政策に転じたため、洋学はほとんど蘭学に限られたが、1808年のフェートン号事件を機に幕府は英語通詞の養成を始めた(1809)。その後19世紀半ばにいたり、識者の間に英語の国際的重要性の認識が生じ、53年のペリー来航、それに続く日本と諸外国との外交関係の成立に伴い、62年幕府はほとんど蘭学中心であった蕃書調所(ばんしよしらべしよ)を洋書調所と改称し、英学を開講している。のち洋書調所が開成所(1863)を経て、明治新政府による開成学校から大学南校へと発展していく過程では、逆に蘭学は衰え、英学が正科となっていった。

 幕末から明治にかけて、幕府使節団、醍長など藩の留学生などが欧米に派遣されたが、その中にはやはり蘭学から英学に進んだ福沢諭吉らがいる。一方、同じころ私塾で、あるいは来日外国人から英語を学ぶ者もふえた。外国人の中には J. ヘボン、E.サトー、B. H. チェンバレンらがいて、英和、和英辞典を編みあるいは教鞭を取って、後の日本の学者や英語教育者を育てた。

 72年(明治5)には学制が施行され、中等学校以上の正課に英語が取り入れられた。当時の英語学習は、英語を介して西欧事情に通じ、西欧の学問、知識を吸収するのが目的であったから(しかもそれも書物によらざるを得なかった)、したがってその教授・学習法は訳解が中心で、ちょうど漢文の〈返り点・送りがな〉方式に似ていた(このやり方はのちに変則英語教育と呼ばれた)。明治中期には、神田乃武(ないぶ)、斎藤秀三郎、外山正一らによって、発音・会話と直読直解を重視する正則英語教育が唱えられ、正則英語学校の開設(1896)や、外山の《正則文部省英語読本》とその解説書の発刊を見た。だが、当時もまだ英語は知識吸収の媒体としての性格が相変わらず強く、大勢としては訳読による理解が中心で、英語での発表の教育はまったく不十分であった。

 その中で、東京、大阪などの外国語学校、高等商業学校、英・米人宣教師の多いキリスト教系の学校などで会話や発音にも重きが置かれた教育が行われるようになり、また高等師範学校や津田梅子創立(1900)の女子英学塾(津田塾大学の前身)などで日本人英語教師が養成されるにいたり、明治末ころには従来用いられた英・米の教科書に代わって自前の教科書や各種辞典、文典が発刊され、岡倉由三郎らの英語教授法を論じた著作も世に出た。

 1913年には第1回英語教育大会が開かれたが、大正中期以降学校教育における英語教育の存廃がたびたび論じられるようになった。その背後には日本の国力充実に伴う民族主義、国粋主義の台頭、翻訳書の増加、文法・訳読偏重の変則教授法の結果、〈役に立つ、話せる〉英語力が伸びない、という現実があった。

 22年イギリスの言語学者 H. E. パーマーが文部省外国語教授顧問として来日、翌年には彼を所長として英語教授研究所(後の語学教育研究所)が設立され、英語教育の改革が緒についた。パーマー提唱のオーラル・メソッド oral method は英語による英語教育で、発音と口頭作業、〈英語で考え thinking inEnglish〉、翻訳の過程を経ずに英語で反応する訓練を強調し(それゆえオーラル・ダイレクト・メソッド oral direct method とも呼ばれる)、この方法はとくに入門期に有効であるとした。

 また、17年にイギリスの D. ジョーンズの《English PronouncingDictionary》が刊行され、その後まもなく日本でも岡倉の《英語小発音学》や市河三喜の《英語発音辞典》が出、国際音声字母(IPA)による発音表記が日本の辞典や教科書に採用されるようになった。しかし、オーラル・メソッドによる授業は教師の力不足、1学級の生徒数が多すぎること、同僚や生徒の家庭の無理解などのために、実践面で普及せず、英語教育の主流は依然として訳読・文法方式であった。

 満州事変以降、戦時には英語教育廃止論が起こり、戦争末期には英語の全廃された学校も多い。英語専門の学校ですら十分な教育が受けられなかったため、第2次大戦後は資格ある有能な教師が不足し、新教育制度による中学校が義務教育となり、英語が選択教科の形をとりながらも実質的には必修となったにもかかわらず、教育の実が上がらなかった。しかし米軍を中心とする連合軍の占領は、〈英会話ブーム〉に象徴されるように英語学習への強烈な動機づけとなった。

 55年ころ、戦後の英語教育の再建を目ざしてアメリカのフリーズ Charles Carpeter Fries(1887‐1969)の唱えるオーラル・アプローチ oralapproach(フリーズ・メソッド Fries’ method とか構造的アプローチ structural approach ともよばれる)が紹介された。

 1940年代に盛んになったアメリカ構造言語学の理論を踏まえた教育法で、言語が構造として備えている音韻、語構成、文構成などの一定の型(パターン)に慣れるための文型練習(パターン・プラクティス pattern practice)、ミニマル・ペア minimal pair(1点において異なる二つの言語形式の対比)、および口頭発表を特徴としている。母語の使用や訳読に厳しい制限を設けないという点、オーラル・メソッドと異なるとされるが、目標言語をできるだけ多く用いる機会を設けること、音声の重視、基礎構文の反覆や文中の語句の入れ換え練習など、むしろ共通点が多く、オーラル・メソッドが文脈や状況を取り込んでいるのに対し、オーラル・アプローチはいっそう体系化されているものの、機械的に過ぎるという批判も出ている。56年にオーラル・アプローチに基づく英語教育法改善を目ざして英語教育協議会(ELEC)が発足、米英の第一線の学者を招いて教育法の研究、教員の再教育等に貢献している。60年ころからチョムスキーの生成文法の影響が日本にも及び始め、60年代後半には英語教育にもこの考え方が取り入れられるようになった。

 ラジオによる英語教育の歴史はほとんど昭和初年のラジオ放送開始と共に始まり、岡倉由三郎の英語講座は格調の高さで好評であった。戦後はNHK のほか民放局も加わり、昭和30年代にはテレビ放送も始まって、英語国出身者を交えて多彩な英語教育番組が組まれて、英語教育の普及に一役買っている。1960年ころから録音教材を用いての語学ラボラトリー language laboratory(略称LL)が英語教育に取り入れられ、その後視覚教材も併用され、さらに本格的視聴覚教育が威力を発揮するにいたっている。
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    僕は中高時代に4回転校しました。

学校によって購読、文法、作文、と別の先生が教えることもあったし、学年がかわると先生も変わったので、最少 4x3=12名の先生に習いました。

    したがって日本の学校の英語教育の第一線を「下から」見ての感想です。学校を適当に無視したのは僕だけかもしれませんが、先生はみんな僕より英語を知っていた、それで僕には十分でした。

    喋る方は、どうせ日本にいれば使うことはないので、読めればよく、だから先生が英語派だろうが米語派だろうが全然気にかけませんでした。

    質問者さんは、学校教育の影響力を過大視していらっしゃるようですが、僕の見るところ日本の学校は、結局「外国語としての英語」を人畜無害的にやってるだけで別に期待も落胆もしていません。

    そこで「なぜ、アメリカ英語の方が日本の学校で習う英語からは かけ離れているように感じると思いますか? 」というご質問ですが

    どっちへ向いていても、あまりたいしたことではない、と思います。

    

    
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この回答へのお礼

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お礼日時:2012/08/15 10:26

私はネイティブですが、学校で習う英語は丁寧で通常はあまり使いません。

少し崩れてます。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2012/08/14 19:51

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