出産前後の痔にはご注意!

 よろしくお願いします。
 歴代総理大臣の中で原敬という方は私は歴史の授業で聞いたくらいでどんな人かはほとんど知りませんでした。しかし、国本武春さんの浪曲「原敬の友情」というものを最近聞く機会があって、「平民宰相」というあだ名があることをはじめて知りました。

 ここで、質問なのですが「平民宰相」というのは、本人が名乗ったわけではなく当時の人々がつけたあだ名なんだと思うんですが、原敬氏自身も「自分は平民である」という意思を持っておられたように思います。武士の家に生まれ、明治では士族という身分の方が、自分は平民であるという自覚を持って総理大臣にまでなったわけですが、ご本人はどのようにこの「平民」というものを考えておられたのでしょうか??

 どうぞ教えてください。

A 回答 (4件)

平民宰相は当然のことですが、総理大臣になってから言われたことで、それ以前は「平民政治家」と言われています。


原敬の家は南部藩の家老職を務めた家で、上級武士の家柄でした。また、本人もそれが誇りであったと言われています。しかし、戊辰戦争では南部藩は奥羽越同盟に加盟し、朝敵とされ降伏しています。そのために薩長藩閥政権には敵愾心を持っていたと思います。ですから、原敬にとっての平民とは、第一に薩長藩閥に対する平民であったと思います。原敬以前の総理は、薩長肥及び公卿の維新の元勲及びその亜流で占められ、藩閥以外の総理は原敬が最初でありましたから。そのように考えると原にとっての平民は、第2に一つの政治的なスタイルで、心の内から平民と思っていたのではないと思います。上級武士でありながら朝敵の汚名を蒙ったことからくる複雑な心情。一時爵位を内々に求めたのは、それが実現することにより、朝敵の汚名からの脱却を考えたとも思います。(詳しくはウィッキーの原敬の項を)
その複雑な思いは、1917年に盛岡で行われた戊辰戦争殉難者50年祭の祭文の「顧(かえりみ)るに昔日も亦(また)今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此(この)事実天下に明らかなり、諸子以て瞑(めい)すべし、余偶々郷に在り此祭典に列するの栄を荷ふ、乃(の)ち赤誠を披瀝(ひれき)して諸子の霊に告ぐ」に余すところなく述べられていると思います。
ただ、そのような思いは平民政治家との世評が政治的なプレゼンス・力となっていくと、「平民」という政治スタイルが自分にとって有利であるとの意識が働いたと思いますし、そのように意識し、行動したとも思います。
さて、原敬が大をなす過程で、伊藤博文の創立した政友会に参加し、ここで力をつけていきます。桂園時代には政友会の最大の実力者として藩閥勢力との妥協しながらも政友会の勢力伸長を図ります。この過程で、山県有朋との関係は両者の史料から見ても何とも微妙な関係で、原敬にとっては藩閥勢力を利用しつつ、その力を徐々に削いでいく過程でもあったと思います。そこが原敬の政治家として最も優れている点であり、漸進的な変化の人であったと思いますが、逆にそれが大正政変以来の大正デモクラシー下の民衆の求める改革のスピード感との乖離につながり、平民宰相が平民によって暗殺されるという東京駅の悲劇に行きついたのではと思います。
原敬自身は清廉な政治家で、力量のある政治家でしたが、長らく政友会の幹事長・総裁として、政友会の勢力伸長を図る過程で、政官業の癒着に至る財閥・政商と結びつく金権体質、利益誘導と選挙の集票のリンク、自己に有利な選挙制度の強行など現在の政治の問題点の源流となっていきます。
どのような政治家にも功罪はありますが、藩閥政治から政党政治に移行する過程で、妥協と協調をしながらも新たな時代を拓いて行った政治家としての手腕は、評価されるべきものだと思います。その過程の中で、藩閥政治的なものへのアンチテーゼとして爵位を持たない「平民」の称を原敬(悪く言えば)は意識して利用し、行動したのだと思います。(否定的に書いているのではなく、優れた政治感覚としてのスローガンの意味で。)

原敬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
戊辰戦争殉難者50年祭
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/7e25c71edafb33d2 …


以上、参考まで。
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この回答へのお礼

 詳しい回答ありがとうございます。助かります。

>>平民宰相は当然のことですが、総理大臣になってから言われたことで、それ以前は「平民政治家」と言われています。

 へー。そんなあだ名もあったんですね。

>>原敬にとっての平民とは、第一に薩長藩閥に対する平民であったと思います。
やはり、これははずせない一要因ですね。

>>第2に一つの政治的なスタイルで、心の内から平民と思っていたのではないと思います。上級武士でありながら朝敵の汚名を蒙ったことからくる複雑な心情。一時爵位を内々に求めたのは、それが実現することにより、朝敵の汚名からの脱却を考えたとも思います。(詳しくはウィッキーの原敬の項を)
 爵位に関しては私も存じております。あくまで結果的に生涯爵位をもたなかったってことですかね。

>>1917年に盛岡で行われた戊辰戦争殉難者50年祭の祭文の「顧(かえりみ)るに昔日も亦(また)今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此(この)事実天下に明らかなり、諸子以て瞑(めい)すべし、余偶々郷に在り此祭典に列するの栄を荷ふ、乃(の)ち赤誠を披瀝(ひれき)して諸子の霊に告ぐ」に余すところなく述べられていると思います。
 資料提出ありがとうがございます。

>>どのような政治家にも功罪はありますが、藩閥政治から政党政治に移行する過程で、妥協と協調をしながらも新たな時代を拓いて行った政治家としての手腕は、評価されるべきものだと思います。その過程の中で、藩閥政治的なものへのアンチテーゼとして爵位を持たない「平民」の称を原敬(悪く言えば)は意識して利用し、行動したのだと思います。(否定的に書いているのではなく、優れた政治感覚としてのスローガンの意味で。)
 私としては今の政治かもそのぐらいの戦略は欲しい所ですね。

 これから何度も読ませていただきながら、追研究させていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/31 09:57

他の方が回答されている通り、彼は盛岡藩の上級武士の家の出身です。


彼自身、それを誇りにしていたようですので、あくまでも「平民」という身分は便宜上のもので、華族・士族以外の身分である「平民」に精神的に寄り添っていたわけではなさそうです。
実際の政策も、普通選挙法に否定的であったりして、我々がまっさきにイメージする「平民」のための政治家であったかどうかは疑問が残るところです。
形の上では「平民」の総理ですから、一般の平民もいろいろと期待をしたことでしょう。また、本人もそれを活用(反藩閥として?)していたと考えられます。しかし、実際の意識はおよそ「平民」とは離れていたのではないかと。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。 
>>実際の政策も、普通選挙法に否定的であったりして、我々がまっさきにイメージする「平民」のための政治家であったかどうかは疑問が残るところです。
 時代背景とともに考えたいところです。当時まだ藩閥政治の名残自体も強かった時期でしょうから、どこまで自分の政策を貫けたかという事に関しては考えないといけませんね。彼自身が言い出したのか、周りに押された政策なのかは、考えないといけませんね。

>>形の上では「平民」の総理ですから、一般の平民もいろいろと期待をしたことでしょう。また、本人もそれを活用(反藩閥として?)していたと考えられます。しかし、実際の意識はおよそ「平民」とは離れていたのではないかと。
 そういったところも含めて追研究させていただきます。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/31 10:06

 原敬は南部藩の家老の家柄の生まれで、20歳のとき自ら分家して平民となった。

華族や士族の族称は家につくので、個人につくのではない。だから二、三男は、士族の家柄のところに養子に行くことが普通であった。

 薩長出身者が権力を握っていた当時、明治維新で朝敵となった東北は冷遇されていた。原家も没落し、原敬も苦学した。こうした背景から、かれは藩閥制度や身分家柄をさげすみ、華族になる誘いを3度にわたり断ったという。

 彼の胸中には、平民(イギリスのコモナー)の自覚があったのではなかろうか。イギリスの下院はハウス オブ コモンズという名称である。

 詳細は下記参照。

  http://blog.livedoor.jp/qingmutong-aoki/archives …
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>20歳のとき自ら分家して平民となった。
 なるほど。士族の家が分家をしても、士族というわけではないんですね。

>>かれは藩閥制度や身分家柄をさげすみ、華族になる誘いを3度にわたり断ったという。
 そうですね。藩閥政治というものを抜きには語れませんね。家族になることを断っていたことは初めて知りました。

>>彼の胸中には、平民(イギリスのコモナー)の自覚があったのではなかろうか。イギリスの下院はハウス オブ コモンズという名称である。
 こちらの方面からも追研究してみます。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/31 09:47

いえ 平民出身なので平民宰相です


たしか貧しい農家の出ですよ?
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この回答へのお礼

 そんなはずはないよ。

お礼日時:2012/08/31 09:39

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Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Q原敬はどんな人?

NHKの「その時歴史が動いた」を見て、元内閣総理大臣原敬の今まで持っていたイメージが壊れました。
数は力という理念の持ち主ではなく、国民の意思を反映させようという政治家だったのでしょうか?

Aベストアンサー

 原敬氏は華族出身でなかったので、「平民宰相」として国民には好意的に迎えられました。しかし,社会主義運動を弾圧したり、普通選挙法を拒否するなどの強硬な政策を続けたことにより、東京駅で暗殺されたとのことです。「西にレーニン、東に原敬」とも言われていました。

参考URL:http://www.sangiin.go.jp/japanese/ayumi/history/html/h10760.htm

Q●第一次大戦中の日本『大戦景気』になった理由について(中学レベルです)

僕は中学2年生の男子なんですが、今期末テストの勉強に追われています。
塾などには行っていないし、親も勉強はあまり詳しくないので、ここでちょっと質問させてください。

第一次世界大戦中の日本は、日本の商品が欧米諸国の品物にかわり、アジア、アフリカ地域に進出した。
ということですが、なぜ輸出が増えたのか?と聞かれたら何と答えればいいのでしょうか?

授業中に先生が言っていたのですが、メモを取っていなくて忘れてしまいました・・・。
その先生は「1度言ったことはもう言わない!」みたいなことをいつも言ってるんで、怖くて聞けません。

何となくは分かるのですが、テストの解答欄に書く用の文章にはできません。なので、詳しい方はぜひお願いします。

Aベストアンサー

No,1の方の回答でもう事足りていると思いますが、気が向いたら読んで下さい。

大戦景気とは三国協商vs三国同盟という形で起こった第一次世界大戦の折、戦争をしているヨーロッパ勢がアジアに目を向ける暇が無いのをいいことに日本がアジア・中国市場の独占を図ったこと、そして戦争による需要の増加という2つのことから生じたものです。

「なぜ輸出が増えたか?」と聞かれたら、「戦争している国は輸出用の商品を作っている暇は無く、むしろ戦争に必要な物資をひたすら輸入する側に回ることになるので供給は減り需要は増えることになる。そうして生まれた超需要に目を付けた日本が率先して輸出をしたので結果として輸出量が大幅に増加した。」みたいに答えればいいかなと思います。

なにやら怖い先生みたいですが勉強する意思のある生徒の質問に答えないというのは職務怠慢な感じがするので、友達と一緒に教頭や校長に報告し注意してもらうのもいいかもしれませんね。

Q大政翼賛会について教えて下さい。

第二次世界大戦当時大政翼賛会というのがあったと思うのですが、
どういった経緯でどんな目的を持った組織なのか教えて下さい。
またその当時、どういった役目を果たしていたのか教えて下さい。

Aベストアンサー

議員全員を翼賛会の推薦候補とすることで、議会対策のためという性格で語られることが多いですが、別に大政翼賛会で国会を一色にしなくても、戦争体制に迎合した国会の機能は果たせました。
現に、翼賛体制下でも首相が退陣させられたり、旧民政党、旧政友会などで論戦もありましたから、すべて右ならえの「将軍様」の国とは違います。

翼賛会がもっとも機能したのは、議会対策ではなく、その下の地方や町村レベルの統制にありました。
それまでの産業報国会、大日本婦人会や部落会・町内会などの地方組織が組み入れられ、上意下達の国民生活統制機関として、また戦争遂行を鼓舞する国民運動推進機関として、役割を大いに果たしました。

また、大正期に勃興したいわゆる「革新」勢力のうち、社会主義政党や共産党の徹底した排除を可能にしました。(革新勢力でも、極右の社会大衆党などは翼賛会に積極的に加担しました)

組織としての思想的な面は、世界新秩序、統制経済、権力一元化を柱にドイツのナチス的新体制を模倣したと言われています。
その意味では、近衛文麿よりも、在郷軍人会を組織した田中義一の考えに拠ったところが大きいと思います。

結局のところ、企業にしろ国民にしろ、翼賛体制を作って思想統制、経済統制をしなければならないほど、戦争に非協力的な組織や人間も多かったと言えます。

議員全員を翼賛会の推薦候補とすることで、議会対策のためという性格で語られることが多いですが、別に大政翼賛会で国会を一色にしなくても、戦争体制に迎合した国会の機能は果たせました。
現に、翼賛体制下でも首相が退陣させられたり、旧民政党、旧政友会などで論戦もありましたから、すべて右ならえの「将軍様」の国とは違います。

翼賛会がもっとも機能したのは、議会対策ではなく、その下の地方や町村レベルの統制にありました。
それまでの産業報国会、大日本婦人会や部落会・町内会などの地方組織が...続きを読む

Qなぜ財閥解体が緩和され、財閥が復活したのか?

GHQによる経済民主化策によって財閥が解体されました。 しかし、 その制定直後から財閥の解体は緩和され、財閥が再統合されました。なぜ、緩和され再統合が進んだのかその理由を知りたいです。

Aベストアンサー

・戦前から良好な日米貿易の交流があり、GHQ内に財閥自体にしてそもそも憎悪の心理がなかった。むしろ両国経済界から戦前の貿易水準への環境回復を望む声が出始めた

・中華民国の敗北と朝鮮戦争の勃発により、GHQは日本政治&経済の改造計画を大幅に見直さなければならなくなった。資本主義国家陣営の一国として日本を留め置くためには、(アメリカから見て)健全な経済環境が必要と判断した。

Q世界恐慌って?

1929年の世界恐慌に限って質問です。

世界恐慌って言うのはどういう風にして起こったのでしょうか。
世界までにも影響が波及した理由も兼ねて、分かりやすく、かつ詳しく教えていただけると幸いです。

それと、しってたらなぜ今の不況を世界恐慌といわないのかも教えてください

Aベストアンサー

こんにちわ
理由としては以下のものがあります。

・第一次世界大戦終結によるアメリカの好景気化
 ・工業投資の発展
 ・戦地からの帰還兵による消費向上
 ・自動車工業の躍進

これらによって、アメリカは発展します。しかし同時に
・ヨーロッパの復興によりアメリカ農作物の輸出過剰
・社会主義国の市場離脱(ソ連を代表とする東欧諸国)
により、アメリカ国内では生産過多、供給過剰に陥ります。

当然、商品価格はだぶつきますが投資家筋は長期的に上がると判断し、
投機熱が高まり、資金が異常に市場に流入されました。
市場流入した金が多いということは、市場そのものの価値が下落します。
(モノが大量にあれば希少価値が無くなり値段が下落しますよね)

ここで株価が史上最高値を出したことで株の売りが出だしますが、
下がれば買いが入り、しばらく上がっては下がりの状態を繰り返しました。
そんななかアメリカの国益産業である自動車産業の雄、GMの株がこのあおり
で売られはじめたことで不況の端を発します。
投資家が売り出したことで、他の投資家も「今が売りだ!」とGM株が大量に
売られてしまったのです。この売り誘発で他の銘柄も売りが殺到し、
市場の株が売り一辺倒になりアメリカ恐慌が発生しました。

ちょうど、GMも過剰生産だったので工場縮小などの措置を講じていた背景
があり、投資家に売りを誘発させる材料が整っていたことも大きな要因です。この流れで強烈な経済後退をアメリカ国内で招きました。

これが世界に流れて大恐慌になったのですが、当時はまだ株式市場は影響力
が小さく、被害はアメリカ内部だけにとどまっていました。
大きく世界を巻き込む恐慌に発展した理由として、銀行の倒産が挙げられます。
金融システムが停止し、世界取引の大部分は金本位制に基づく現物だった
ことから信用取引が中心となっており、輸出が激減して信用がなくなった
東欧諸国への取引が停止されます。
これによりオーストリアの銀行が倒産し、隣国のドイツを恐慌が襲い
ドイツの銀行が倒産し、企業の倒産が急激に襲い始めました。
また、第一次世界大戦からやっと復興し、金本位制に戻った各国から
大量の金が流出し、特にイギリスやドイツのヨーロッパ諸国の経済停滞を
招いて価値が急激に下落します。

日本やドイツは産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から
脱しましたが、政党や軍部の台頭が資本主義先進諸国との軋轢を生み、
他の国々も巻き込んでアメリカ市場経済への報復と、戦争による通貨価値
の上昇が狙われ第二次世界大戦が勃発しました。

現在の不況は当時の世界恐慌とは異なり(この恐慌から学び)、
国政資本を注入して建て直しを図る政策を各国が採っています。
各国が市場経済を導入している現在は、通貨の価値保全を各国が協調し、
一国の不況で計り知れない経済停滞が世界を襲うことを避けるため、
各国通貨や国債を他国が購入し、通貨の安定や外貨、外債を持つ購入国の
発言力が大きくなることでバランスを図っています。

そのため、株価は下落しても通貨自体は大きく変動していないので
通貨の国際的地位は各国とも保全されており、当時の世界恐慌ほどの
停滞とは言えないと思われるからだと考えられます。

簡単に言えば、各国がこれまで貯め込んだカネを放出して経済対策を
講じることが出来るためです。
国際法がしっかりとできあがり、世界的な連鎖恐慌を避ける措置が
図られているためですね。

こんにちわ
理由としては以下のものがあります。

・第一次世界大戦終結によるアメリカの好景気化
 ・工業投資の発展
 ・戦地からの帰還兵による消費向上
 ・自動車工業の躍進

これらによって、アメリカは発展します。しかし同時に
・ヨーロッパの復興によりアメリカ農作物の輸出過剰
・社会主義国の市場離脱(ソ連を代表とする東欧諸国)
により、アメリカ国内では生産過多、供給過剰に陥ります。

当然、商品価格はだぶつきますが投資家筋は長期的に上がると判断し、
投機熱が高まり、資金が...続きを読む


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