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白秋の「碓氷嶺の南おもてとなりにけりくだりつつ思ふ春のふかきを」の訳をできるだけ具体的に教えて下さい!お願いします!

A 回答 (3件)

いい歌ですね。


下のページ見てきました!
直接は行けないみたいなので、上のディレクトリから行ってみました。

 - - - - - - - - - - - - - - -

(うすひね)
碓氷嶺の南おもてとなりにけりくだりつつ思ふ春のふかきを

晩春の碓氷嶺の南面を一人で下りながら、あたりの景色を眺めやり、しみじみと春の深まりを感じて
いる作者の姿が目に浮かぶ。

- - - - - - - - - - - - - - - -

「南おもてとなりにけり」とあるところから、
作者は碓氷峠を北面?から越えたのだと思います。
碓氷峠を越えて南側に出て、そこを下って行くわけですね。
そうすると、山国のことですから、標高が下がるにつれて春の気配が濃くなっていく、
ということではないのでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!説明きいてより一層この歌が好きになりました!

お礼日時:2004/02/02 16:40

碓氷嶺の 南おもてと なりにけり くだりつおもふ 春の深さを




残雪がまだ残っている碓氷嶺(群馬県碓氷郡松井田町)の南側の斜面を
足元に気をつけながら慎重に下りながら周りの景色を見ますと
春の終わりを感じます。

こういう解釈ではどうでしょうか。
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「できるだけ具体的に」とまではいきませんが


下記の参考URLにありました。

参考URL:http://www.jrscomware.com/kondou/data/bbs/friend …
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Q碓氷嶺の南おもてとなりにけりくだりつつ思ふ春のふか

「碓氷嶺の南おもてとなりにけりくだりつつ思ふ春のふかきを」この詩に使われている
技法(修辞技法)や訳、内容を教えて下さい。

Aベストアンサー

白秋はしばしば軽井沢を訪れ、そこで有名な「落葉松」という詩をも詠んでいます。

これは、軽井沢から碓氷峠を越え、横川にいたる街道をたどったときに着想した歌の中でも、一等人口に膾炙しているものではないでしょうか。
歌意については、「碓氷峠の南側に至ってからというもの、標高が下がるにつれ、より春の深まりを体感せずにはいられない(それにつけ、峠の向こう側は......)」ということではないでしょうか。

なお、取り立てて指摘するほどの修辞的工夫が施されているとは思えませんが、碓氷嶺の屹立する南面に視線を向けたり、「ぬ」と「けり」の助動詞を連ねたりすることで、もはや引き返すことの出来ないほどの標高差を降ってきたことがより強く印象づけられるのではないでしょうか。

さらには、碓氷峠の南側を「春の深き」と詠むことで、北側の軽井沢が春まだきの中にあことがおのずと連想されると言えなくもないですよね。

その点では、川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の逆バージョンと考えられなくもないような気がします。

Q俳人としての北原白秋について

北原白秋は童謡や詩人として有名な印象があるのですが
俳人としてのなにかの話をご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
以前、「俳人としては優れなかった」というような文章を読んだことがあるのですが…

Aベストアンサー

 
以下は記憶で記すことです(インターネットのページで調べるのなら、「北原白秋 俳句」とでも入れて、以下の Google で検索すれば、色々出てくるでしょうし、そこに記されていることを繰り返しても仕方ないことだとも思います)。

白秋は「邪宗門」で詩人として鮮やかな作風でデビューし、次々に詩集を出して、新しい境地を開き、大詩人になったとも言えます。ただ、白秋の詩人としての名声が高すぎて、彼が色々な文芸活動を行っていたことは、あまり印象にないようです。

童謡の歌詞を書いたのはよく知られていますが、彼は「マザーグース」も日本語に訳しています。無論、彼一流の詩になっています。

白秋は、「邪宗門」で、隠れキリシタンなどを題材に取り上げたぐらいで、かなり国際意識があり、日本の文芸の行く末のようなことをまじめに考えていました。

俳句を作りはじめたのは、確か名声が確立した後で、詩を書くよりも、晩年は俳句の創作にいそしみました。弟子か友人が、すでに名声を得ている先生が、あまり認められることもない俳句の創作に没頭するのは、惜しいのではないか、というようなことを述べたとき、白秋は、「自分が頑張らなければ、誰が頑張るのか」というようなことを返答したそうです。

「俳句第二芸術論」と時代が重なっていたのかどうか、いまよく分かりませんが、白秋は日本の伝統文芸の一つとして俳句を高く評価していて、これを再興隆せねば、廃ってしまうという危機感を持っていたようです。

白秋は高名な詩人であり、その彼が、義務感のように創作を続けたのですから、俳人としての評価、その作品の評価は、どうであったかという疑問があります。別の仕事で名声を持ちながら、同時に俳人としても高名な人もいますから(折口信夫がそうです)、白秋の俳句は、やはり、俳人としての才能に彼があまり恵まれていなかったのだとも考えられます。

>Google
>http://www.google.com/
 

参考URL:http://www.google.com/

 
以下は記憶で記すことです(インターネットのページで調べるのなら、「北原白秋 俳句」とでも入れて、以下の Google で検索すれば、色々出てくるでしょうし、そこに記されていることを繰り返しても仕方ないことだとも思います)。

白秋は「邪宗門」で詩人として鮮やかな作風でデビューし、次々に詩集を出して、新しい境地を開き、大詩人になったとも言えます。ただ、白秋の詩人としての名声が高すぎて、彼が色々な文芸活動を行っていたことは、あまり印象にないようです。

童謡の歌詞を書いたのはよく...続きを読む


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