神の存在を認めていますか?

指導者自身を神のように崇拝していませんか?

なぜ、唯心論を支持しないのですか?・・・

教えてネット、真実を・・・・・・・・・・・・

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A 回答 (7件)

共産主義だけでなく、資本主義も物欲をベースとした唯物論です。


もちろん、唯物論や資本主義は、人の本当の生きる意味である
「人生を通算した精神的充足量の最大化」に反するので、歴史的・
実用的に宗教やモラルといった修正がなされていますが、そこには
必ず過度な物欲や金銭欲への戒めがあります。

共産主義や社会主義は、決して指導者をあがめていません。
もしそうなら、あのような官憲の力による抑圧や、多くの人の粛清は
必要ありません。
あの思想のベースにあるのは、物欲や金銭欲の争いによって階級
闘争が起きるという唯物論であり、“争いよりも、幸福感のために
助け合う”といった現象は除外されています。

実はそれは資本主義も同様で、本来助け合うために集まったはずの
社会において、その社会生命化を自覚しない自己チューな意識の
まま、お金や法規といったアメやムチによって、他律的に社会行動を
強制する(お金をもらうためにイヤイヤ働く)、唯物論に支配されている
のです。
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共産主義の基本は唯物論ですか?  違います。


共産主義の3っの柱、と言われているのは、土地私有の禁止、生産財私有の禁止、遺産相続の禁止。
です。
唯物論とは、ヨ-ロッパの中世が終わり、キリスト教支配、が緩み、科学思想の普及などにより。
神はいないのでは、世界は神が創ったものではない、物とその法則性によって起きている。
というような、それまでの唯神論に対抗する考え方です。

神の存在を認めていますか。  否定するのが唯物論です。
マルクスは「宗教は心の麻薬」と言っています。

指導者を神のように崇拝していませんか。  

ファッシズム、と呼ばれる。全体主義、国家主義、社会。は君主的、絶対的指導者を必要とする。
そうでなければ。体制を維持出来ない意味があります。
代表的なのが、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)のヒットラ- でしょうだった。神のイメ-ジ、だったでしょうかね。
歴史家(トゥインビ-)が
「第2次世界大戦において、ヘ-ゲル右派(ナチズム)とヘ-ゲル左派がスタ-リングラ-ドで死の抱擁をした」と言っていますが、ナチズムとマルキシズムは、相容れないものでありながら、兄弟の意味があります。
戦後登場した社会主義諸国の多くは、ナチズム国家になっていたようです。
お隣さんなども、どうみても、ナチズム国家にしか見えませんよね。

なぜ唯心論を支持しないのですか。
唯心論?解りません。
世界は個人の心、妄想、空想の具現でしかないというようなとらえ方でしょうか?
中学の時、教師が、唯神論もしくは唯心論と言う。と言っているのを聞いた事があるような気がしないでもありませんが。

















は、ナチズムをヘ-ゲル右派 、マルキシズム
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平等の乱れの予防策は?

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マルクスやエンゲルスという人が世にとなえだしたところの共産主義とはいわゆる唯物史観を根底に理論こうちくしております。


人間社会の発展の段階として、資本主義は社会主義(共産主義)に展開していくものだと。
この唯物史観は、人間の歴史は神や思想が展開するのではなく、その神や思想もこの世の具体的な生活や人間が作り出すのだと。
だから神や思想ではない、現実の歴史の展開である。ということですね。
物象的に対象化できる、事柄である。科学と理論の世界のもので、神や思想などの問題ではないということですね。
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”共産主義の基本は唯物論ですか?”


    ↑
人の心は、感情に動かされ理性的とは言えない場合が
あります。それでどうしても唯心論を否定しがちに
なる傾向がありますが、
共産主義と唯物論の間には論理必然的な
関係はありません。
マルクスやエンゲルスが主張したので
そういうイメージになっただけです。

”指導者自身を神のように崇拝していませんか?”
    ↑
共産主義は、理性を重視しますので、神などという
不合理な存在とは相容れない場合が多くなります。
(1)神がいないので、その代替物として、指導者が
 神の代わりになりました。
(2)共産主義は正しいという約束になっています。
 だから、これに対する異論反論は許されません。
 従って独裁国家になりやすい下地を持っています。
 独裁国家の指導者は神のごとく扱われます。

”なぜ、唯心論を支持しないのですか?”
     ↑
繰り返しになりますが。
(1)人の心というものは感情に流されたりすることが
 多いので、理性的合理的ではありません。
 それで、否定されがちになります。
(2)そういう下地の基、マルクスエンゲルスが唯物論を
 展開したからです。
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共産主義の基本は唯物論ですか?



○あなたの質問の共産主義とはソ連、中国、北朝鮮、ポルポトなどの共産主義だろうと思うのでそれに対しての回答です。
彼らの共産主義の元はマルクス思想です。マルクス自身はユダヤ系ドイツ人ですから、キリスト教プロテスタントの多いドイツでは何かと虐げられたのではないかと思います。彼の口癖は「全てを疑え」です。つまり疑いの心、猜疑心が非常に強い人だったのですね。哲学的にはニーチェが神は死んだと、キリスト教的世界を否定し、そこに出てきたマルクス思想ですから、何も信じられないのですから当然、神は否定しているのです。何も信じられず猜疑心が非常に強い人物の書いた資本論が基にできた国家がソ連、中国、北朝鮮などなのです。
ソ連のスターリンなど誰も信用できず、身内まで粛清しています。粛清された人は2000万人ほどです。
中国の毛沢東も同じですね。信じられないのですね。毛沢東共産党の粛清数は6000万人ほどです。
北朝鮮はソ連、中国から共産思想が入ってきたのですが、儒教の教えと相まって個人崇拝が強くなっていますね。カンボジア共産党ポルポト政権は金持ち知識人は悪人と称して100万人ほど粛清しています。
悪名高いヒットラーでさえユダヤ人の粛清は300万人ほどですから、神を否定し、人間の神性を否定し、人間はロボットでしかないというマルクス共産思想がいかに恐ろしいものかわかりますね。
かって、共産主義を夢のようなしそうと考え日本からソ連や北朝鮮に渡った人もたくさんいますが、疑われみな粛清されています。笑い話のような怖い現実ですね。中国、北朝鮮は今も同じですからこれらの国に占領されれば、ほとんどの人は粛清されます。頭のおかしい人だけが生き残ることになりますね。日本も狙われていますから、しっかりしないとね。
そのような背景で、

>神の存在を認めていますか?
○目に見えないものへの信仰は認めていません。人間ロボット思想ですから目に見えないものを信じないのです。目に見えないものを信じるとロボットでいられなくなるからですね。
>指導者自身を神のように崇拝していませんか?
○全て疑えですから、粛清の果てに残るのは孤独な個人なのです。それが形に現れた姿が、指導者自身を神のように崇拝なのです。これは崇拝しているのはありません、そのようにしないと殺されるので恐怖心からそうしているのです。まあ戦国時代の信長ですね。恐怖で支配しているのです。
なぜ、唯心論を支持しないのですか?・・・
○個人の心を認めるとロボットになりませんからね。つまり、個人個人の心を認めると自ずと民主主義になるのです。これは共産主義の破壊を意味するからです。

以上が地上に現れた現象としての共産主義ですが、猜疑心と粛清という思想で天国に行けるわけないですね。
事実、唯物論者のニーチェ、マルクス、それから唯物的進化論のダウインなどはみなめでたく地獄の悪魔になっています。つまりマルクス共産思想にかぶれるとめでたく地獄に行くことになっているということなのです。悪魔教を信じているからこそ天使の宗教は否定していると言えるのですね。こういうのが霊的な評価ですね。
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原始共産主義は、さておき、


思想としては
仏教共産主義やイスラム共産主義や
キリスト教共産主義や神道共産主義も
あるから
唯物論は 基本ではない。

共産主義の基本は
「あいつが、あんなに金持ちで、俺は・・・なのは納得できない。
俺のものは俺のもの。おまえのものも、俺のもの。」
というジャイアン的思考\(^^;)...マァマァ

国家も警察も通貨もなく、
働きたいときに好きなだけ働き
欲しいものは欲しいだけ代価なしに手に入る
(マルクス)
なんていう共産主義社会は、
みんな極楽浄土で成仏してからでもないと
実現不可能ではと思うが。(伝説巨神イデオン のラスト後の世界????????????\(^^;)...マァマァ
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Q唯○論を教えて下さい。唯心論,唯物論,唯識論…他にありますか?

この他にこの唯○論の○にあてはまる言葉があったら教えて下さい。あと私が思いついたのは、養老孟司の唯脳論です。

パロディ的な面白い言葉もあった気がしますが、思い出せません。おふざけな言葉でもいいので教えて下さい。哲学や思想には、他に唯○論がありますか?

Aベストアンサー

唯理論(理性論、合理主義:真の認識は、
    経験から独立した確実な理性的な、
    数学をモデルにしたような根本原理)

というのもあります。
今調べて知ったのですけどね。

唯霊論とか唯金論、とかあっても良さそうです。

唯不倫…。あるにはあるようです。

Q日本は唯心論ですか。唯物論ですか。

外国人です。次の質問に興味を持っています。日本は唯心論ですか。唯物論ですか。主にどの哲学者の主張を支持するのでしょうか。

Aベストアンサー

多くの日本人は完全に言葉にはされてないけれども「まあ大体なんとなくこんな感じ」という<感覚>で理解するわけです。俗に言う「空気を読む」というやつ、「行間を読む」というやつなんですが、日本でのそのような風潮から察する(これも日本的)に、純粋に唯物論ということは考えにくいのではないかと思います。
しかしその一方で、(一昔前までは廃れていましたが)ものを大事に扱うこととか、土地神話とか、米1粒には7人の神様がいるとか、物神論も結構あるのです。
ですから純粋な唯心論というのも考えにくい。

言うなれば、日本では唯物論と唯心論は未分化であり、混沌とした状態である、ということになるでしょうか。

主にどの哲学者の主張を支持するか、というのはこれもまた実に難しい。
多くの日本人に「哲学者の主張として知っているものを挙げなさい」というと、ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という答がかなりの確率で返ってきそうです(あくまで推測です)。
しかし、果たしてその多くの日本人がこの文句を支持しているか。いやそれ以前にそもそも理解しているのか、というのには疑問を抱かざるを得ません。どうもキャッチコピー的に受け入れられているような気がするんです。
その思考の背景に何があるとかどういうプロセスでそう考えたとかいうことにはあまり関心は払われていないし、本当はそれだけでないデカルトの主張がこの一言しか言っていないかのように扱われているのではないかという懸念はあります。
「木を見て森を見ず」という傾向だと言えましょうか。
西洋の哲学者の意見が一般の日本人にどれだけしっかり理解されているかというのは怪しいものです。

日本は幕末以来西洋の思想も研究してきましたが、「和魂洋才」というように西洋哲学とは距離を置き過ぎていたため、いまだにそれが消化できていないというのが現状なのかもしれません。これだけ日本では親西洋的な生活様式をとっていても、やはり中味は東洋なのかなと思うところも多々あります。そこで、もし東洋哲学者の主張の支持をも含めるならば、やはり道徳に影響を与えた孔子ということになるでしょうか。

多くの日本人は完全に言葉にはされてないけれども「まあ大体なんとなくこんな感じ」という<感覚>で理解するわけです。俗に言う「空気を読む」というやつ、「行間を読む」というやつなんですが、日本でのそのような風潮から察する(これも日本的)に、純粋に唯物論ということは考えにくいのではないかと思います。
しかしその一方で、(一昔前までは廃れていましたが)ものを大事に扱うこととか、土地神話とか、米1粒には7人の神様がいるとか、物神論も結構あるのです。
ですから純粋な唯心論というのも考え...続きを読む

Q唯心論と唯物論について学びたいのですが、比較的簡単に手に入れることので

唯心論と唯物論について学びたいのですが、比較的簡単に手に入れることのできる書籍はないでしょうか?

Aベストアンサー

唯物論の代表的な思想は、マルクス主義です。いや、唯物論即ちマルクス主義でしょう。

唯心論は、それ以外のすべての思想です。

フォイエルバッハは、マルクスに大きな影響を与えた人。理念的な思想の完成者である、ヘーゲルを批判して、それまでの哲学を唯心論という言葉で括り、その考えをひっくり返して、現実にあるものから、考え方を構成しなおすことを主張した人です。だから、「唯心論と唯物論」を読むと、唯物論が理解しえるでしょう。

唯心論の代表的な本は、「聖書」です。あるいは、マルクス以後の実存主義なども唯心論です。サルトルの「実存主義とは何か」を読むと、その考えがわかるでしょう。

唯物論を知りたければ、例えば、マルクスの「ドイツ・イデオロギー」を読むといいでしょう。そんなに長くなく、とっつきやすい本です。文庫にあります。

Q唯心論と唯物論

唯心論と唯物論の論争には決着が付いていないのでしょうか?
だとすれば今はどちらが有力ですか?

Aベストアンサー

 
>唯心論と唯物論の論争には決着が付いていないのでしょうか?

哲学的には、このような形而上学的問題に決着は付きません。少なくとも人間の精神や認識のありようが、カントの述べたような構造であれば、決着がついたというのは、独断になります。

どちらかが正しいというのは、信念あるいは信仰の問題になり、自然科学の提示する世界のありようを、そのまま実在のありようと考える人は、唯物論の立場に立っているとも言え、また、素朴には人は、唯物論の立場に立っていますが、また呪術や宗教などを信じている人も多数おり、一般的に、自然的に世界を考えている人たちは、ある面では唯物論的に見え、別の面では唯心論的に見えます。

唯心論と唯物論というのは、世界の基本実体、根本の実体は、観念・精神か、または物質・物体実在かという世界の根本実体をどちらに考えるかの違いです。精神や観念の存在や現象、あるいは物質や物体の現象、存在を、唯心論でも唯物論でも否定するものではありません。

世界には、物体や物質があるが、しかし、観念・イデアー・形相・精神もあり、根源的で原理的なのは、後者の方で、物質や物体の存在・現象は、精神からの二次派生だとするのが、唯心論です。

この逆に、精神や観念、心や意識の存在・現象は認めるが、それらは、根源の物質の二次的派生であるとするのが唯物論です。

唯心論と唯物論の対立はまた、認識論的には、観念論と実在論の対立と考えられます。唯心論は観念論とほぼ同じ意味を持ちます。ただ、観念論に対する認識的立場が「実在論」というのは、言葉が少し不適切な気もします。というのは、観念論は、精神・観念を実在としているのであり、実在論が実在としているのは、観念や認識過程の彼方の物質現象の実在だからです。

スピノザの哲学は一元論とされますが、それは彼の哲学は、「神=自然」を根源実体とする哲学で、物質と精神は、神の属性あるいはモード的現れの二つの位相だと考えられているからです。スピノザの神は、物質でもあれば精神でもあるのです。

スピノザの哲学で、唯心論と唯物論の対立は解決したのかといえば、解決はしていないのです。スピノザの物質は、「延長実体」であり、延長実体の認識が超越的にいかにして可能かということは問題になっていません。

物質・延長実体のありようが、認識のなかの精神の把握と、どうして一致するのか、スピノザの考えでは、両者は神=自然の二つの位相であるので、一致しているのが当然であり必然であるということになります。ただし、こういう構想がどう根拠つけられるのか、スピノザの神秘的直観が基礎付けるとも言え、また彼の目的は、「必然の倫理学」を構成することでしたから、その一元論は唯心論的な方向に偏っているとも言えます。

しかし、世界の概念や存在は、感覚経験の蓄積の組織化で成立し、感覚外部の実在については、不可知であり、実在も疑わしいという英国経験主義に対する、スピノザやデカルト、ライプニッツの哲学は、大陸合理論の名がありますが、唯物論に比較的に近いとも言えます。

「唯心論」は「観念論」とも言います。プラトンの哲学は、感覚的実在、つまり物体や物質の存在は認めるのですが、精神や観念・イデアーもまた実在であるとし、世界において、根源的であるのは、感覚的物体ではななく、直観が把握できる精神・概念・イデアーであるとします。それゆえ、プラトンの哲学は、観念論、唯心論だと考えられます。

中世スコラ哲学のなかで盛期スコラ哲学のトマスの哲学では、存在物(レース)は、「質料+形相」の「合成実体」であるとされます。質料(マテリア)とは物質だとも言えるでしょうし、形相(フォルマ)は精神だとも言えます。世界について、すべてのレースは、合成実体であるとして、それらを支え、存在を与える者として超越者の神を考えたのです。

これは二元論を一元論に上昇させたもので、唯心論と唯物論が統一されているのだとも思えます。しかし、形相とは何かというと、性質を与えるもので、それは本質(エッセンティア)であるとされます。本質のない質料存在はあるのかというと、最低の質料実体として、ヒュペケイメノン(基体)というものを考えました。

ヒュペケイメノンに何かの性質つまり形相が加わって、「何かのもの」が成立するのです。すると、根源の物質とは、何でもない何か、だとなります。すべての形相を備えているもの、というより、最高の形相を持っているもの、最高の形相そのものを、純粋形相と呼び、これが「神」であるとします。

純粋形相である神は、物質・物体が、何かであることの本質の形相を与え、更に、「存在」まで与えます。これは唯心論ということになります。

唯心論あるいは観念論の緻密な体系的哲学は、ドイツ観念論哲学で成立するのですが、カントは、「もの自体」の存在はあるとしました。ただ、それが何か認識できないということです。カント以降の哲学者は、「もの自体」も観念であって、実在はないという考えを提示しました。ヘーゲルは、精神が自己展開しているのであるとしました。

これに対し、近代の科学者・技術者は、物質の実在は確実であり、物質こそ、世界の根源的な実体で、精神や意識や認識や概念などは、二次的派生ではないのかという考えを持ちます。彼らは、唯物論を提唱します。

なかでも、もっとも体系的かつ多くの賛同者を得たのは、マルクス主義唯物論で、弁証法的唯物論とも呼ばれるこの哲学では、歴史上の多数の観念論との対決ということを鮮明にしました。彼らは、古代のギリシアの自然哲学者たちや、ローマ時代のルークレティウスの哲学は、唯物論であるとし、プラトンの哲学はイデアリズムであり、観念論、唯心論であるとします。

中世哲学も無論、観念論であり、ドイツ観念論哲学がそのもっとも体系的な学説であるとし、ヘーゲルの哲学は逆立ちしているとします。弁証法的唯物論は、スピノザの自然観に似ています。スピノザが神と呼んだものを物質と呼び、精神を、物質の二次的派生とするのが、弁証法的唯物論です。

人間の「生」が、従来考えられていたものよりも遥かにダイナミックで本質的な意味を持っているとする哲学は「生の哲学」と呼ばれますが、「生」を物質と精神のどちらに位置付けるのか、弁証法的唯物論は、この哲学を観念論,従って唯心論に入れます。

現象学や実存主義哲学、論理実証主義やプラグマティズムなどの哲学思想が生まれ、構造主義やポストモダニズム思想も、その後、展開しました。これらは観念論の様相を持ち、唯心論のようにも見えます。

しかし、現象学は、観念論を志向していたのでありませんし、「ものをものとして把握する」というのは、従来の唯物論、唯心論の考えとは少し異なるところがあります。

弁証法的唯物論は、形而上学を観念論の哲学とし、自己はその反対の位置にあり、「科学的社会主義」を標榜しました。しかし、この唯物論の根本テーゼは、上空飛翔的と言われるように、形而上学的命題に他ありません。

唯物論か唯心論か、という問題の立て方が、実は形而上学での議論なのです。現象としての物質と精神は、誰も疑わない訳で(疑っている人も,実は大勢います。英国経験主義のバークリーなどは、明らかに物質の存在を疑っていました)、どちらが、世界において「根源的な原理か」という問いかけ、排他的選択は、実は形而上学的態度なのです。

二十世紀の哲学は、十九世紀のニーチェを先駆者として、形而上学を克服する、あるいは、この枠組みに囚われない世界の把握を考えました。二十世紀末のポストモダニズムでは、形而上学を否定し、現象の多様性や、「構造性」「機能性」が大きな関心事になりました。

>だとすれば今はどちらが有力ですか?

唯心論か唯物論かという排他的選択問題は、形而上学の問題であり、その答えはないのです。一般の人や自然科学などに携わる人は、物質が根本であるというようにも考えつつ、他方、精神の根本性も生活の別の位相では考えています。

哲学的問題としては、弁証法的唯物論の古い哲学者は、唯物論の優位性を主張しているでしょう。また、古い哲学者は、唯心論の優位性を主張しているかも知れません。しかし、精神の実体と物質の実体というような対立構造を置き、どちらがより根源的かというような問題は、興味が失われたのだとも言えます。そういう対立の歴史そのものを、懐疑すると共に、実体よりも機能の問題として、精神や物質も捉えるようになったのが現代哲学だとも言えます。

以上は、わたし個人の見え方・考え方です。その限りで「自信あり」にしますが、哲学史的な正確さというのは、分かりません。
 

 
>唯心論と唯物論の論争には決着が付いていないのでしょうか?

哲学的には、このような形而上学的問題に決着は付きません。少なくとも人間の精神や認識のありようが、カントの述べたような構造であれば、決着がついたというのは、独断になります。

どちらかが正しいというのは、信念あるいは信仰の問題になり、自然科学の提示する世界のありようを、そのまま実在のありようと考える人は、唯物論の立場に立っているとも言え、また、素朴には人は、唯物論の立場に立っていますが、また呪術や宗教などを信...続きを読む

Q同じ世界にいるのです、唯物論と唯心論は統合できるのでは?

私が思うに、唯心論の人の言う「自分が死んだら世界も終わる」という考えは疑問です

毎日多くに人が死んで行きますが 世界は何事もなかったように続いて行くではありませんか

それを自分が死んだら世界も消えるというのは あまりに自己中心的な考え方になってしまう

のではと思うのです。

片や唯物論では 精神世界を説明できません。

どなたかこの二つの認識を統合する考えをお持ちではありませんか?

Aベストアンサー

唯物論と唯心論の定義については、概ね了解しました。

唯物論者と唯心論者の対立って、金を大事にする人と、
愛を大事にする人の対立なんですかねえ。

私もP氏と同じく、ハルさんの思想は、単なる唯物論で
あると思いました。しかし、「性質」というものが根源
であるならば、これは形而上のものですから、唯心論に
なるのかな、とか思いました。

「性質」というものが、(存在性理論の用語としての)物質
と精神を生み出すものなんですよね?ならば、これを究極
の実在と呼んで、全く差支えないと思います。

しかし、以前のやり取りで、「そうではない」というよう
なことを言われ、私の頭が煮詰まった記憶があります。


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