関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

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A 回答 (8件)

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。

ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。
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関が原の戦いは、北は青森の南部家から南は鹿児島の島津家まで日本全国規模の戦いですが、事の起こりは豊臣秀吉の子飼いの家来の仲での内輪もめです。


加藤清正、福島正則、浅野幸長などの武断派(北の政所派)と石田光成、小西行長などの文治派(淀君派)との諍いが始まりとなっています。

家康はこれを利用して、天下の趨勢を一気に決めるために、事を構えたわけですから事前の根回しやネゴは十分にとって、敵対するものは動けないようにしたり、態度のあいまいな者は恫喝したり、甘い言葉で誘ったりと最悪の場合でも、戦闘に参加しないように説得したりしたわけです。

かくして関が原に臨んだ西軍では、石田光成、大谷吉継、宇喜多秀家などは戦闘に参加、毛利秀元、吉川広家、小早川秀秋などは不参加となっていた模様です。そのうちの小早川は戦いの最中に寝返りするという約束を取り付けてあったということです。

関が原の地形の悪さ(東軍にとって)は承知していても相手の西軍・石田光成もばかではないからこういう有利な状況(関が原という戦場)を与えなければのこのこと討たれにはでてきまいでしょう。

小早川軍が西軍の主力の宇喜多軍に突っ込んでいったのが原因で西軍総崩れになったわけですから、もしの世界では、動かなかった場合は(北の政所に家康に味方すべく説得されていた・・・秀吉の元養子なんです・・ので考えにくいが・・)、家康本隊2.8万人が動かざるを得なかっただろうと思います。そうなれば、戦いは長引き、徳川秀忠の軍は関が原に到着したでしょう。

しかし、毛利輝元の軍隊はそれでも参加しなかったと思いますよ(西軍の総大将なんですけどね)。この人は本当にお義理で西軍に参加する羽目になったようです。
西国の筆頭勢力ですが、宇喜多家とは合わないので、余り積極的でない西軍総大将のようです。誠意と厭戦気分のジレンマで悩んでいたようです。

というわけで、関が原の決着は数日ほど遅れて東軍の勝利だったと思います。
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この回答へのお礼

非常に遅くなりましたが
私の意見では
結局東軍徳川軍が
勝利してしまったのではないかと思われます
もし小早川軍が裏切らなくても
毛利軍は動かなかったでしょうし
大群である秀忠隊が到着するため
結局は東軍が有利になり
東軍の勝利になったのでは無いかと
思いました
みなさんありがとうございました

お礼日時:2004/02/16 22:57

関が原の配置図では、家康は袋のネズミですから、勝てる要素はないようです。

ドイツの参謀に配置図を見せたところ、一目で西軍の勝ちと判断したが、裏切りの説明を聞いて東軍の勝ちに納得した、というのを読んだことがあります。周囲を囲まれ、しかも、西軍は山という高地に陣取っているのですから、圧倒的に有利です。

 秀秋が裏切るまで、西軍は少ない人数で互角だったようです。
 また、秀吉の軍師だった黒田如水が、戦いは当分続くと見通していました。そして、九州の切り取りに乗り出しました。さらに、息子の黒田長政が「関が原は、自分の活躍で東軍が勝った。家康は、右手を握って感謝した」と自慢したところ、「空いている左手は何をしていた」と、誉めるどころか家康を刺さなかったことを責めたと伝えられています。

 秀秋が家康を攻めれば、西軍の有利になるから、日和見を決めていた者も、いっせいに東軍に襲い掛かると考えられます。
 ただ、家康も裏切りを決断させるときに、秀秋軍に鉄砲を撃ちかけたようですから、それを敵対行為として、裏切らずに家康に掛かってくることも予想しているはずです。それまで戦っていたのは、三成憎し、外様ばかりですから、徳川本体3万人を振り向けた、と考えられます。
 ただ、周囲は西軍で包囲されているので、これは『死地』に当たります。周囲を取り巻かれて勝った、という例は知りません。囲まれそう、となると逃げ出す兵がでてきて、総崩れになり、家康は辛うじて脱出。
 黒田如水が望んだように、長期戦。関が原と岐阜の間でにらみ合い。西軍は、伊勢侵攻軍と大津城包囲軍が駆けつけ、東軍は秀忠が到着、でなおさら膠着常態でしょう。

 黒田如水は、九州制覇を目論む島津と衝突するから、案外動けなかったかも。
 あとは、上杉が、伊達政宗をどう料理するか、にかかっているのでは。料理した時点で、西軍が有利になります。江戸は空っぽで、押さえに宇都宮城にいる結城秀康は、家康には嫌われて秀吉の養子に出され、豊臣秀頼を弟のように可愛がっていたという話もあります。
 前田家の動きも気になります。
 が、毛利軍は、秀秋が西軍として働いたわけで、しかも関が原の立役者になるので、積極的に西軍として動くかもわかりません。

 西軍にとって獅子身中の虫は、淀君です。南北朝で、「京都に足利軍を入れて、日干しにする」という案をつぶされた湊川で討ち死にした楠正成が浮かんできますが。
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小早川秀秋がいた山は、持久戦の出来る城みたいなものになっていたという話を聞いたことがあります。


佐和山城に、米&金がなかったとのことですが、もしかするとそこにあったのかもしれません。
まぁ、そんな重要なところを怪しい人物に任せるしかなかった三成に問題あります。というか信用のおける人物が、ほとんどいなかったのでしょう。
やっぱり、西軍不利ですね。

西軍で強いとされている。立花宗茂等は、後から投入するつもりだったのであろう。秀忠よりは早く着いたと思われる。ただ、立花宗茂等が駆けつけれないことは東軍の戦略なので、ここではあまり意味なさないかも。

島津義弘(義久の弟)は、関ヶ原に参加してますよ。
ただ、三成の言うことは聞かなかったみたいです。
つまり、家康の思うままの東軍に対して、西軍は言うこと聞かない人がいたわけです。

結論、例え関ヶ原を勝つこと事体は、出来るかもしれません。ただ、勝ったとしても三成の得られるものは少なかったと思われます。
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mai9966ですが島津義久は、弟で後の藩主でした。

島津義弘が、本当でした。訂正させて頂きます。
光成の佐和山城の米も金も空っぽだったことが関ヶ原の戦いの後、佐和山城攻撃で判明しました。光成がこの一戦に賭けていたのはよくわかります。戦いが長引いたら米も金もない光成の元に戦争を継続することは出来なかったようです。
尚、当時九州にいた黒田官兵衛がいたら南軍を作って徳川家康を滅ぼしたというシミュレーションがありますね。おもしろいと思います。
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松尾山に陣取った小早川勢。

もし裏切らなかったら。
IF系歴史物ではよく出てくる話ですね。

徳川方の裏切り工作は松尾山の山麓に陣取った小川祐忠、朽木元網、脇坂安治にも及んでいました。もし裏切らない場合、ここの各隊が小早川迎撃に当たる、という予定になっていたと思われます、徳川本隊は戦局の最終局面まで温存されていました。
最悪、逃げることは可能な状態の手は打っていたようです。

家康さえ生きていれば再戦して勝つことは出来たでしょう。
後方にはほとんど損害のうけていない秀忠隊3万が残っていることですし。

ちなみに徳川本隊後方の西軍、吉川も徳川方から裏切り工作を受けていて、ほとんど戦闘には参加していません。これの影響で毛利本隊も動いていません。


ちなみに小早川への工作は重臣を説得した、ということで本人は重臣の説得を受けたというのが史実らしいです。
小早川秀秋は数年後に狂い死にするような人物だったらしいです。(精神を病んでいたらしい)
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1日では勝負がつかなかったかもですが、まず、東軍の勝ちは、間違いないと思います。


それは、総司令官の石田三成の能力の問題があるからです。当時の西軍の力を分析すると大津にいた立花宗茂と島津義久の軍隊が最強でした。こちらを司令官と副司令官にしたらそもそも関ヶ原で戦うこともなかったと思います。要は、光成に戦争を統括する能力がないということだと思います。
裏切りがなければ、徳川本隊突入でしょうけど。その前に浅野とかが行って持久戦になれば、秀忠軍がまにあって東軍楽勝でしょう。
岐阜城が一日で落とされたくらい東軍の戦力は強力でしたから。
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他の武将に対しても裏切り工作をしていると思いますよ。

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Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
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そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
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「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
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Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q前田利家が後15年生きていたら?

NHKドラマで利家が諸大名より大きな人望があるように描かれていますが、秀吉末期の家康との位置づけはどうだったのでしょうか?又、仮に後15年前田利家が生きていたら、関が原、夏の陣など世の中が  どう変わっていたと思いますか?ご意見をお聞かせください。

Aベストアンサー

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 前田利家が擁護派とならざるを得なかったのは、領地力差が大きく開いていたからと考えることもできます。
 もしも、家康と利家の領地をひっくり返していたら、利家は豊臣を擁護したのか、などなど。
 当時としては、力を失った主家に取って代わるのはあたりまえの考え方があり、私としては、もしも、家康より長生きしたとしても、徳川との実力差から保身に走ったと思います。また、擁護派を貫き、徳川を滅亡に追いやったとしたら、最大の実力者として豊臣の滅亡か無力化に奔走するということとなったと考えます。

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 ...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Qもし、関ヶ原の合戦で石田三成が勝ったら?

関ヶ原で石田が勝っていたら、そのあと、どうなった?

Aベストアンサー

普通に豊臣政権が続いた可能性が最も高いでしょう。
徳川が倒れた後に、豊臣政権に正面から戦える勢力は存在しません。
当時、秀頼という衆目一致する継承予定者が存在している豊臣政権を、正面から排除できるだけの可能性(実力)があったのは、徳川家康だけです。
その家康にしても、豊臣政権内の深刻な派閥対立という運と、関が原という一世一代のギャンブルをして、ようやく豊臣政権の排除に成功しました。

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q淀殿はなぜ西軍に味方しなかったのか

関ヶ原の合戦で東軍が勝利したおかげで、その15年後には大阪の陣で豊臣家は滅ぼされました。関ヶ原の合戦時に淀殿が西軍に豊臣家の正規軍であることを認め、家康を逆賊としていたなら、関ヶ原の合戦で西軍は負けなかったのではないかと思います。加藤清正、福島正則らも東軍に加担できなかったのではないかと思うのですが、なぜ淀殿は西軍に加担しなかったのでしょうか。
1.家康が片桐勝元らを使って、うまく淀殿の動きを封じた。
2.西軍が負けたらどうなるか。淀殿には先が読めなかった。
3.北の政所が反対した。
真実はどうなのでしょうか。僕はこの点で淀殿はまんまと家康にだまされたと思うのですがどうでしょうか。

Aベストアンサー

関が原で西軍に加担しなかった理由は加担したくても加担出来なかったと思います。

まず名目上は
関が原の戦いの前の会津征伐を家康が強引に実行していますが、最終的には豊臣家が
許可をして会津征伐軍に金2万両と兵糧2万石を与えています。
この軍費の支給により会津征伐は家臣同士の戦や家康の暴走ではなく豊臣家に対する謀反人
を征伐する戦となり征伐軍は官軍となりました。
豊臣家が家康の専横を良く思っていなかった事は東軍諸将もわかっていますが
どんな理由(家康の専横に対する弾劾状)があるにしても会津征伐軍の留守の城を
攻めた石田三成らに非があり主人がこれに加担するのは対面上難しいと思います。
自ら惣無事令にて家臣同士の私闘を禁じておいて違反した者に加担は出来ません。
豊臣家が家康を排除したいのであれば正々堂々蟄居なり改易を沙汰致し、従わない場合征伐
する必要があると思います。

次に実際の理由ですが
加担した所ではっきり勝てる賞賛がなかった為加担せず、静観に留め、自分に掛かるであろう被害
を回避し、あわよくば西軍の勝利を望んでいたと思います。
秀吉の死後、次の天下人は家康との思いが各大名にあり、年賀の挨拶は秀頼より家康を先にした大名も
少なくなかった様で、豊臣家は家康を先にした大名と秀頼を先にした大名を観察、記録し家康謀反の際に
どの大名が家康に付くか分析していたと思います。
また、家康が秀吉の命に背き、無断で大名との婚姻を実施しましたが詰問の使者はあしらわれていますが
その際に憤慨する武将、憤慨しない武将を把握して緻密に家康を排除しようとした際の両勢力に
付いて分析してはっきりとした勝てる賞賛がなかったと思います。
結果論ですが関が原以前に、蟄居なり改易の沙汰をしていない事から豊臣家が家康の強大な力を
認識していたと想像出来ます。

関が原で西軍に加担しなかった理由は加担したくても加担出来なかったと思います。

まず名目上は
関が原の戦いの前の会津征伐を家康が強引に実行していますが、最終的には豊臣家が
許可をして会津征伐軍に金2万両と兵糧2万石を与えています。
この軍費の支給により会津征伐は家臣同士の戦や家康の暴走ではなく豊臣家に対する謀反人
を征伐する戦となり征伐軍は官軍となりました。
豊臣家が家康の専横を良く思っていなかった事は東軍諸将もわかっていますが
どんな理由(家康の専横に対する弾劾状)がある...続きを読む

Q家康はなぜ島津を処分出来なかったのか?

関ヶ原で西軍に味方し唯一と言って良いほどお咎め無しの大名家が島津家です。
宇喜多秀家も島津を頼り死罪を免れ、佐竹も島津の口ぞえで出羽秋田への改易で済みました

しかし家康は関ヶ原で勝った立場です
島津を処分しようとすれば出来たはずですが何故しなかったのでしょう?
確かに元々は東軍加担でしたが伏見城攻略を巡って家康と対立し西軍に付き
戦場で取り残された時起死回生の中央突破で反転し退却しました。
もしや家康はビビったのでしょうか?


関ヶ原後に島津家を処分しなかったばっかりに約260年後
幕府は島津に倒されてしまうんですね(笑)

Aベストアンサー

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の要請で伏見城の守備に就こうとして妨害されたので、やむなく西軍に付いたということを述べたのです。そのあと2年間も交渉は続いたのですが、結局、慶長7年(1602)家康が折れる形で起請文を書き、本領が安堵されました。義弘の息子の忠恒(家久)が上洛して謝罪し、これで島津家は徳川幕府の統制下に入るのです。

結局、この交渉が長引いたために家康は征夷大将軍宣下が遅れたのです。


詳細は下記のURLを参照してください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の...続きを読む


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