関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

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A 回答 (8件)

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。

ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。
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関が原の戦いは、北は青森の南部家から南は鹿児島の島津家まで日本全国規模の戦いですが、事の起こりは豊臣秀吉の子飼いの家来の仲での内輪もめです。


加藤清正、福島正則、浅野幸長などの武断派(北の政所派)と石田光成、小西行長などの文治派(淀君派)との諍いが始まりとなっています。

家康はこれを利用して、天下の趨勢を一気に決めるために、事を構えたわけですから事前の根回しやネゴは十分にとって、敵対するものは動けないようにしたり、態度のあいまいな者は恫喝したり、甘い言葉で誘ったりと最悪の場合でも、戦闘に参加しないように説得したりしたわけです。

かくして関が原に臨んだ西軍では、石田光成、大谷吉継、宇喜多秀家などは戦闘に参加、毛利秀元、吉川広家、小早川秀秋などは不参加となっていた模様です。そのうちの小早川は戦いの最中に寝返りするという約束を取り付けてあったということです。

関が原の地形の悪さ(東軍にとって)は承知していても相手の西軍・石田光成もばかではないからこういう有利な状況(関が原という戦場)を与えなければのこのこと討たれにはでてきまいでしょう。

小早川軍が西軍の主力の宇喜多軍に突っ込んでいったのが原因で西軍総崩れになったわけですから、もしの世界では、動かなかった場合は(北の政所に家康に味方すべく説得されていた・・・秀吉の元養子なんです・・ので考えにくいが・・)、家康本隊2.8万人が動かざるを得なかっただろうと思います。そうなれば、戦いは長引き、徳川秀忠の軍は関が原に到着したでしょう。

しかし、毛利輝元の軍隊はそれでも参加しなかったと思いますよ(西軍の総大将なんですけどね)。この人は本当にお義理で西軍に参加する羽目になったようです。
西国の筆頭勢力ですが、宇喜多家とは合わないので、余り積極的でない西軍総大将のようです。誠意と厭戦気分のジレンマで悩んでいたようです。

というわけで、関が原の決着は数日ほど遅れて東軍の勝利だったと思います。
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この回答へのお礼

非常に遅くなりましたが
私の意見では
結局東軍徳川軍が
勝利してしまったのではないかと思われます
もし小早川軍が裏切らなくても
毛利軍は動かなかったでしょうし
大群である秀忠隊が到着するため
結局は東軍が有利になり
東軍の勝利になったのでは無いかと
思いました
みなさんありがとうございました

お礼日時:2004/02/16 22:57

関が原の配置図では、家康は袋のネズミですから、勝てる要素はないようです。

ドイツの参謀に配置図を見せたところ、一目で西軍の勝ちと判断したが、裏切りの説明を聞いて東軍の勝ちに納得した、というのを読んだことがあります。周囲を囲まれ、しかも、西軍は山という高地に陣取っているのですから、圧倒的に有利です。

 秀秋が裏切るまで、西軍は少ない人数で互角だったようです。
 また、秀吉の軍師だった黒田如水が、戦いは当分続くと見通していました。そして、九州の切り取りに乗り出しました。さらに、息子の黒田長政が「関が原は、自分の活躍で東軍が勝った。家康は、右手を握って感謝した」と自慢したところ、「空いている左手は何をしていた」と、誉めるどころか家康を刺さなかったことを責めたと伝えられています。

 秀秋が家康を攻めれば、西軍の有利になるから、日和見を決めていた者も、いっせいに東軍に襲い掛かると考えられます。
 ただ、家康も裏切りを決断させるときに、秀秋軍に鉄砲を撃ちかけたようですから、それを敵対行為として、裏切らずに家康に掛かってくることも予想しているはずです。それまで戦っていたのは、三成憎し、外様ばかりですから、徳川本体3万人を振り向けた、と考えられます。
 ただ、周囲は西軍で包囲されているので、これは『死地』に当たります。周囲を取り巻かれて勝った、という例は知りません。囲まれそう、となると逃げ出す兵がでてきて、総崩れになり、家康は辛うじて脱出。
 黒田如水が望んだように、長期戦。関が原と岐阜の間でにらみ合い。西軍は、伊勢侵攻軍と大津城包囲軍が駆けつけ、東軍は秀忠が到着、でなおさら膠着常態でしょう。

 黒田如水は、九州制覇を目論む島津と衝突するから、案外動けなかったかも。
 あとは、上杉が、伊達政宗をどう料理するか、にかかっているのでは。料理した時点で、西軍が有利になります。江戸は空っぽで、押さえに宇都宮城にいる結城秀康は、家康には嫌われて秀吉の養子に出され、豊臣秀頼を弟のように可愛がっていたという話もあります。
 前田家の動きも気になります。
 が、毛利軍は、秀秋が西軍として働いたわけで、しかも関が原の立役者になるので、積極的に西軍として動くかもわかりません。

 西軍にとって獅子身中の虫は、淀君です。南北朝で、「京都に足利軍を入れて、日干しにする」という案をつぶされた湊川で討ち死にした楠正成が浮かんできますが。
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小早川秀秋がいた山は、持久戦の出来る城みたいなものになっていたという話を聞いたことがあります。


佐和山城に、米&金がなかったとのことですが、もしかするとそこにあったのかもしれません。
まぁ、そんな重要なところを怪しい人物に任せるしかなかった三成に問題あります。というか信用のおける人物が、ほとんどいなかったのでしょう。
やっぱり、西軍不利ですね。

西軍で強いとされている。立花宗茂等は、後から投入するつもりだったのであろう。秀忠よりは早く着いたと思われる。ただ、立花宗茂等が駆けつけれないことは東軍の戦略なので、ここではあまり意味なさないかも。

島津義弘(義久の弟)は、関ヶ原に参加してますよ。
ただ、三成の言うことは聞かなかったみたいです。
つまり、家康の思うままの東軍に対して、西軍は言うこと聞かない人がいたわけです。

結論、例え関ヶ原を勝つこと事体は、出来るかもしれません。ただ、勝ったとしても三成の得られるものは少なかったと思われます。
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mai9966ですが島津義久は、弟で後の藩主でした。

島津義弘が、本当でした。訂正させて頂きます。
光成の佐和山城の米も金も空っぽだったことが関ヶ原の戦いの後、佐和山城攻撃で判明しました。光成がこの一戦に賭けていたのはよくわかります。戦いが長引いたら米も金もない光成の元に戦争を継続することは出来なかったようです。
尚、当時九州にいた黒田官兵衛がいたら南軍を作って徳川家康を滅ぼしたというシミュレーションがありますね。おもしろいと思います。
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松尾山に陣取った小早川勢。

もし裏切らなかったら。
IF系歴史物ではよく出てくる話ですね。

徳川方の裏切り工作は松尾山の山麓に陣取った小川祐忠、朽木元網、脇坂安治にも及んでいました。もし裏切らない場合、ここの各隊が小早川迎撃に当たる、という予定になっていたと思われます、徳川本隊は戦局の最終局面まで温存されていました。
最悪、逃げることは可能な状態の手は打っていたようです。

家康さえ生きていれば再戦して勝つことは出来たでしょう。
後方にはほとんど損害のうけていない秀忠隊3万が残っていることですし。

ちなみに徳川本隊後方の西軍、吉川も徳川方から裏切り工作を受けていて、ほとんど戦闘には参加していません。これの影響で毛利本隊も動いていません。


ちなみに小早川への工作は重臣を説得した、ということで本人は重臣の説得を受けたというのが史実らしいです。
小早川秀秋は数年後に狂い死にするような人物だったらしいです。(精神を病んでいたらしい)
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1日では勝負がつかなかったかもですが、まず、東軍の勝ちは、間違いないと思います。


それは、総司令官の石田三成の能力の問題があるからです。当時の西軍の力を分析すると大津にいた立花宗茂と島津義久の軍隊が最強でした。こちらを司令官と副司令官にしたらそもそも関ヶ原で戦うこともなかったと思います。要は、光成に戦争を統括する能力がないということだと思います。
裏切りがなければ、徳川本隊突入でしょうけど。その前に浅野とかが行って持久戦になれば、秀忠軍がまにあって東軍楽勝でしょう。
岐阜城が一日で落とされたくらい東軍の戦力は強力でしたから。
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他の武将に対しても裏切り工作をしていると思いますよ。

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 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
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 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
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Q関ヶ原の戦いで前田家が東軍に味方した理由は?

題名の通りです。
歴史の勉強をしていて詰まってしまいました。ネットで探しても本で探しても全然見つからないのですが、私の見落としかもしれませんので、もし参考になるHPや本などありましたら教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

先の回答者さんがおっしゃるように、徳川家康から向けられた謀反の疑いを、母を人質に出して回避した前田家でしたが、関ヶ原の戦いで東軍に味方したのは利長で、弟の利政は西軍にくみしてします。
(ただし、利政は西軍を表明しながらも、七尾城を出て合戦に参加することはありませんでしたが)

また、西軍には、娘婿の宇喜多秀家が主力の1人として参戦しています。
つまり、「どっちが勝っても良いように保険をかけていた」のだという事だと思います。

東軍が勝ったので、利政は領地を没収され隠居生活を送りますが、その没収された領地は、利長にいきますから、前田家全体としてはプラマイ0です。
もちろん、この後、兄が京都で暮らす弟を援助し続けています。

また、西軍として参加して八丈島に流された宇喜多秀家には、実家の前田家に戻った奥さんを通じて援助の品を送り続けてもいます。

なので、逆に西軍が勝っていたら、宇喜多秀家と利政が、負けた利長を援助する手はずになってたと想像しています。

Q関ヶ原の戦いにおける伊勢街道

主題に関して2点質問です。

(1)伊勢街道への布陣について
関ヶ原の戦いの布陣図を見ると東西両軍どちらも伊勢街道に兵が置かれていませんが、なぜでしょうか?
西軍側からみますと、西軍は笹尾山-天満山-松尾山-南宮山のラインで鶴翼の陣形とされていますが、伊勢街道(桃配山の南側)の部分だけ空いており、不自然に見えます。
東軍側からみますと、西軍の退路を断つという意味でも、伊勢街道に兵を置いても良いのではないのかな、と思いました。

(2)南宮山の軍勢の伊勢街道への迂回について
南宮山の毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できなかったとされていますが、南宮山の南側にまわって伊勢街道を進み、東軍の側面を突けたのでは???と思うのですが、いかがでしょうか。
(長宗我部については戦意がなかった可能性もありますが)

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

(1)について・・・

西軍・・・鶴翼の陣形というのは必ずしも最初の位置に留まるというものではありません。鶴翼は敵を包囲殲滅する事を目的としており、両翼、もしくは片翼が動きます。
そのため西軍右翼の小早川秀秋が動き東軍の左を突けば、伊勢街道と東軍の間に小早川勢が立ち塞がる形になります。
それに伊勢街道に兵を配置しては、東軍は北国街道に展開する石田隊や宇喜多隊と挟撃される形になるため、東軍に警戒され関が原の奥深くにまで東軍を引き付け袋の鼠にする事が難しくなるやもしれません。だから伊勢街道に兵を配置するよりも、空けておいた方が東軍を誘いやすくなります。

東軍・・・家康は小早川秀秋の裏切りを計算に入れています。家臣の奥平貞治を目付けとして小早川秀秋の陣に派遣してもいます。つまり、小早川秀秋は東軍の最左翼を構成します。そのため小早川秀秋が攻撃に出れば、西軍は北に追いやられ伊勢街道に出るのは難しくなるわけで、西軍が撤退、または敗走するにしても自軍の後方である北国街道を利用する方が自然です。つまり敢えて兵を配置しなくても、戦局の推移から自然と伊勢街道は東軍に塞がれ退路としては厳しいものになります。
島津義弘みたいに前方を突破し逃げおおせたというのは、稀な例であり幸運でした。全滅していてもおかしくありませんでした。

(2)について・・・
できない事はありませんが、ただ難しいと思います。

吉川広家は吉川とは言っても、毛利元就の次男が吉川家に養子に入り、そこでできた子であり、毛利元就の孫です。毛利元就の孫という事では毛利秀元も同じですが、吉川広家は秀元より18歳も年上で数々の戦を経験し毛利家の重臣でもあります。要は年上で自分よりも戦の経験が豊富で実績も上げている重臣の親族に秀元が反抗できるか否かが問題です。これは毛利家に限らず、このような立場に置かれた若輩はどこのお家でも反抗するのは難しいのではないかと・・・
もし秀元が動いたとしても広家がすっ飛んできて止めるのではと思います。いざとなったら家康に内応している事を秀元に話したり、毛利家当主輝元も内応は承知の事とか言って説得するのではないかと思いますが・・・

そして毛利が動かなければ兵力の問題から、長束、安国寺、長宗我部ら8千の兵が動くのは難しいと思います。
長束、安国寺、長宗我部は南宮山の東の平地におり、東軍と対峙していました。
南宮山の備えに配置された東軍は池田輝政と浅野幸長、山内一豊ら1万2千をこえます。
この中で池田輝政、浅野幸長ら1万の兵は、長束、安国寺、長宗我部らの陣から3キロ以内におり、浅野は長束と戦を始めていました。
つまり、この池田、浅野の兵をどうにかしないといけません。
長束、安国寺、長宗我部の兵力だけでは難しいでしょう。毛利の兵力も是非欲しいところです。
だから、長束、安国寺、長宗我部が伊勢街道経由で東軍の側面を突くのは難しいと思います。

それでも、もし、毛利秀元が動くとしたら、まずは池田、浅野と戦って潰すか、浅野、池田は長束、安国寺、長宗我部に任せ自分は伊勢街道を行くという手になるかと思います。いずれにしろ、西軍は毛利が動いた事で活気付くでしょうし、東軍は追い詰められる事になるでしょう。
なお秀元が池田、浅野と戦わず伊勢街道を行った場合、長束、安国寺、長宗我部の戦いぶりで動向は変わってく可能性があります。浅野、池田を食い止めていればよいですが、あまりに早く敗退すれば、浅野、池田が毛利の背後に食いつくかもしれません。
それと、家康も毛利の動向は非常に気にして物見など派遣してると思うので、毛利が動けばその動向はすぐにわかると思います。だから関が原に毛利が雪崩れ込んでくるよりも早く、南宮山と松尾山の間の鳥頭坂あたりに徳川本隊から何隊か派遣し陣を敷き迎撃にあたる可能性もあるのではないかと。または状況不利と見て兵を退くか・・・
いずれにしろ毛利がどの時点で動くかでも変わってくるでしょう。小早川の裏切りもそれよってどう転ぶかわかりません。そして戦場の様相も色々と考えられかと思います。

(1)について・・・

西軍・・・鶴翼の陣形というのは必ずしも最初の位置に留まるというものではありません。鶴翼は敵を包囲殲滅する事を目的としており、両翼、もしくは片翼が動きます。
そのため西軍右翼の小早川秀秋が動き東軍の左を突けば、伊勢街道と東軍の間に小早川勢が立ち塞がる形になります。
それに伊勢街道に兵を配置しては、東軍は北国街道に展開する石田隊や宇喜多隊と挟撃される形になるため、東軍に警戒され関が原の奥深くにまで東軍を引き付け袋の鼠にする事が難しくなるやもしれません。だから伊...続きを読む

Q関が原の戦いで東軍、西軍どっっちにつく?

あなたが当時の一国の大将で、結果を知らなかったとしたら、どっちにつきますか?

Aベストアンサー

結果を知らないなら西ですね

大谷吉継 真田幸村が西軍なのに東に付く理由はありません
家康は天下を奪おうとしている魂胆が見え見えなので
私が大名なら 東軍に付くふりでもして土壇場で西に寝返って 家康本陣の背後を急襲して首を取っていたでしょう


西軍を寄せ集めだと批判する人もいますが
そうでもないです 三成の人望で集まった武将も多々居ました

三成嫌いだから東に着こうって平気で豊臣を裏切った加藤や福島よりマシだと思います

Q関ヶ原の戦いの時の吉川広家の考えについて

この方面にお詳しい方にお聞きします。
私には関ヶ原の戦いにおいて吉川広家の行動がとても不可思議に思えます。彼は実質的な毛利家の総指揮官でした。さすがに戦上手の元春の子ですから無能であったわけはありませんでしょう。だから、あのまま攻め下れば、西軍の勝利は確実でした。わざわざそれをしないで、毛利家の戦後の処分は本領安堵かと思えば、過酷なものでしたから、私には彼の考えがわかりません。安国時恵瓊との仲の悪さから徳川方に寝返ったのでしょうか?
彼の考えについてお答えください。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

俗説はさておき、関ヶ原までに至る政治情勢の変遷を検証した光成準治『関ヶ原前夜』(NHKブックス)によりますと、

・広家は、伏見城攻略に西軍が苦戦していたため先行きに不安を感じていた。
・広家は、輝元と家康との講和交渉に関与していた。
・関ヶ原前日の家康方からの起請文の宛先は広家だけでなく輝元重臣の福原広俊も記載されており、輝元に無断での戦闘不参加とは考えがたい。
・近江・美濃・伊勢方面で苦戦している状況で輝元が、万一西軍が敗戦した場合に備えて広俊に命じて広家に家康方との交渉を行わせていた。
・関ヶ原敗戦後、毛利軍は東軍から攻撃を受けていない。
・関ヶ原後の処分は、輝元の大坂退去まで本領安堵だったが、大坂退去後に防長2国に変更された(起請文に家康は署名せず、最初から本領安堵する気はなかった)。

とこのように考察されています。広家の意志というより輝元のあいまいな姿勢が原因のようです。
なお、広家が自分への防長2国の代わりに毛利家への安堵を要望したという文書は後世の偽作である可能性が指摘されています。

Q小早川秀秋と家康の心理

関ヶ原の戦いのとき 中々寝返らない秀秋に対して家康は鉄砲を撃ち掛けました
普通だと 家康から鉄砲を撃たれたら怒って寝返りの約定を反故にして三成に付きそうな気がするんですが
家康もそうなる事を覚悟で鉄砲を撃ったのでしょうか?

結果はビビッて小早川は山を下って家康にとっては やれやれでしたが
もし逆に それでキレて小早川が三成の方に行ってたら家康は負けていたと思います

Aベストアンサー

>家康もそうなる事を覚悟で鉄砲を撃ったのでしょうか?
それはそうだと思います。
ただ、その確率は非常に低いものであることを見切ったからそういう行動に出たのでしょう。
小早川秀秋はバカな子供と同じで、教え諭すよりも恫喝する方が手っ取り早いと思ったのでしょう。

Q『現代版関ヶ原の戦い』、その勝敗のゆくえは?

MK1さんやkyosuke1112さんのご指摘通り、私も村上ファンドがキャスティングボードを握っていると思います。2/26の日経の、ほんの小さな記事でしたが、村上世彰氏率いる投資ファンド「M&Aコンサルティング」は25日、ニッポン放送の新株予約権発行について「日本の株式市場に重大な悪影響を与えかねないと非常に危惧している」とするコメントを発表。フジサンケイグループの買収防衛策に拒否反応を示すもので、ライブドアとフジテレビの攻防に影響を与える可能性があるとしています。

ライブドアとフジテレビの攻防は、まさに『現代版関ヶ原の戦い』という様相を呈している様に思います。明治時代、日本の陸軍の招きによって来日したプロイセン陸軍将校モルトケは、関ヶ原に赴き、馬上から戦場跡を眺めながら東西両軍の陣形配置や戦闘人員等の説明を聞き即座に「西軍の圧勝だ」と言いました。しかし、実際は小早川秀秋、吉川広家その他の武将の東軍への寝返りで形勢は一気に逆転。村上ファンドこそこの「寝返り組」、つまり『現代版関ヶ原の戦い』で雌雄を決する存在ではないでしょうか。

ともすれば読み過ごしてしまいそうな程の小さな記事でしたが、これには実はとても重要な意味があると思いました。1/5時点での村上ファンドのニッポン放送株保有比率は18.6%(もっともその後の保有比率は不明)。これにライブドアの保有比率を加えれば58.6%。さらに追随組が現れれば、劣勢と伝えられるライブドアに逆転勝利の可能性も?それともこの村上ファンドのコメントは表向きのもので、裏に別の意図が隠されているのでしょうか?あるいはこの『現代版関ヶ原の戦い』の勝敗のゆくえ、そう簡単に読めるものではないのでしょうか?

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1)許認可事業として保護され、国際化に立ち後れた日本のメディア事業が、インターネットなどの通信の多角化に追撃され、いよいよメディア・ビッグバンに突入した。その端緒となった記念碑的事件として、この買収劇が記憶されるだろう、という点。
2)我々のような金融・M&Aにはアウトサイダーで、公の情報でしか事態の推移を伺いしれない立場では、率直で派手に立ち回るライブドア社・堀江氏や、至極単純な対応をするフジ・サンケイグループの動きが分かりやすく、分析しやすい、という点。
3)年金基金などが投資一任業者に委託している投資顧問契約資産残高が昨年12月末時点で102兆3636億円に達したこと。これは日本における資本取引市場が投資顧問業、金融・独立系ファンドによって産業として本格化したことを示しており、その急先鋒である村上氏率いるM&Aコンサルティングの動きがもっとも注目され、また今後の日本のこうした資本・事業動向を占うものであること。
4)外野としては、単純におもしろい、ということ。

現在の、ニッポン放送による同社の「株式の第三者割当による新株予約権発行」と、ライブドア社による「同差し止め請求仮処分申立て」に関しての見通しは、以下の回答に記載しましたのでそれを参考にしてください。

http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1236935

さて、歴史に興味を持つことは大事ですが、知的興味だけではなく、それが人間の営為の記録であること、つまりそこでは人間の生活や生死が刻まれていることを留意してください。ただのゲームではないということです。
株式市場などを舞台にしたこうした資本の攻防は、昔の戦や近代戦争にも通じるものですが、そこで学ぶべきことはそれが人間の「欲のダイナミズム」の発露であり、故に全てに通じる教訓であることです。そして、その点では今も昔も変わりません。
もし、まだ孫子の兵法(英語では「Art of War」)や、諸葛(亮)孔明(=カツは異字。ヒではなく人)の著を読んでいないなら、この精読をお奨めします。
米国の経営学大学院(MBAコース)では、孫子を必須としているところもあるようで、米国のファンドマネージャーは皆よく知っていて、諳んじている人もいました。今回の事件に対する視点ももっと深くなって、おもしろくみられるようになるでしょう。

村上氏は、役人時代に日本のM&Aの法整備をした張本人というべき人ですから、この点では卓越した知識をもった、いわばグランドマスターですが、同時に実践面で優れたセンスをもった「知将」です。
今回の買収劇で彼の行動の優れたところは、情報コントロールの巧みさです。いつ、どのような情報を流せば、市場がどう動くかよくわきまえて、戦略的に操作しています。彼の行動は情報に関しても裏を読んでいく必要があります。
また、村上氏に対して私の評価が高いのは、これまで常に最高のポジションで戦っていることです。そして、誰にも自分の位置や動きを予測させません。弱者の戦法を心得た知的センスを感じさせます。
彼だけはニッポン放送株の持ち株609万株のうち、今も全てもっているのか、あるいは一部売ったか、逆に市場から買い増ししているか、全く分かりません(分からないように見せる技術を駆使している)。私は彼が戦略家である以上、手札を全て離すことはしないだろうと踏んで、全部または一部を維持してると予想していますが、確信はありません。時間がたってこの全容が明らかになったとき、彼の評価はさらに高まるでしょう。

対して、堀江氏は自分の論理性に自信があるせいか、どう受け取られるかという計算をせずに何でもしゃべるという態度です。(ただ、その中に嘘もありそうなので、注意が必要。)
フジの会長は、計算して話せない、ある意味で「いい人」です。

今後の展開で一つだけヒントになることを、挙げましょう。
新株予約権は第三者に委譲できるのです。TOB価格が固定され、協力企業が買い付けに応じにくいとき、新株予約権発行が認められると買い付け側はこの「委譲」で協力企業に現在の市場価格との差損を将来埋め合わせできるのです。これを正当と見なすか、これも不備な制度の脱法的な利用とするか、裁判所の見解が見物です。

追記 もう一つの質問、リーマン・ブラザーズ証券の件ですが、ついでに簡単に答えておきましょう。
まず、企業は時代と共に変わるもの、だから生き残れるのです。ただし、変わってはいけない企業理念があり、それがその企業の普遍の価値となります。そうでなければ、ただ生きるのみとなってしまいますから。そこでリ証券はどうでしょう。そこが評価は貴方がするものです。
リ証券がどの程度の利益を上げるかはまだ途中ですから、何とも言えません。また、他の方も答えていますので、過去レスを追えば分かるでしょう。ポイントは受け取ったMSCBの売買手数料(売った分として、現在未確定)、それ売っていない分の今後のMSCBのラ社株転換益(これもかなり先まで確定しない)、借り株の売った分の差益、関連金融会社から貸した短期貸付資金588億円の金利、これらの合計になります。試しに自分で計算してみてください。

今回、一連のニッポン放送買収劇を取り上げてきたのは、次の理由によります。
1)許認可事業として保護され、国際化に立ち後れた日本のメディア事業が、インターネットなどの通信の多角化に追撃され、いよいよメディア・ビッグバンに突入した。その端緒となった記念碑的事件として、この買収劇が記憶されるだろう、という点。
2)我々のような金融・M&Aにはアウトサイダーで、公の情報でしか事態の推移を伺いしれない立場では、率直で派手に立ち回るライブドア社・堀江氏や、至極単純な対応をするフジ・サンケ...続きを読む

Q東軍は、敗戦時に退却路として中山道を使うつもりであったので、秀忠軍は関ヶ原へ進行する意図を最初から持

先日,ラジオで加来耕三氏の話を聞きました。

関ヶ原の戦いで、東軍の徳川秀忠軍は中山道において手間取り、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。秀忠軍は、信州の真田軍との戦いで、不覚を取ったから、と言われていますね。

加来氏の説明は以下の通りでした、実は、家康と秀忠の間で、暗黙の了解がなされていたそうです。それは、もし、関ヶ原の戦いで東軍が敗退した場合、関東方面に退却しなければなりません。そのル―トには、中山道を使う。このために、秀忠軍は、中山道に駐留していなければなりません。従って、秀忠軍は関ヶ原へ進行する意図を、当初から持っていなかぅた、という説明でした。

賢者の皆様に論評をお願いします。

Aベストアンサー

まず、秀忠軍は徳川家の主力部隊でした。
徳川家実質的NO2であり、総理大臣的立場であった、本多正信が軍監として配されていた事からでも、あきらかでしょう。 
徳川家康がもっとも信頼していた、本多正信をつけたのは、家康の戦略を熟知していた存在だからと、容易に推測できます。
小山の陣より、西軍に対する為、上杉攻めの軍を西に返すわけですが、秀忠軍は江戸には戻らず、そのまま東山道に向かっています。
江戸に戻った家康は、諸大名に対して50通近い書状を送り、懐柔の策を施し、一月後に東海道を登って行きます。
この間、秀忠軍の工程を並列すると、秀忠軍の方が先に美濃に着いてしまう事になります。そこで、時間的帳尻を合わす為、真田昌幸の上田城を攻めたわけです。これももちろん家康と正信の示し合わせた作戦でしょう。
もし、美濃で合流するつもりであれば、上田には後詰を残して無視してと東山道を登り、木曽を抜けた中津川辺りで駐屯して連絡を取り合えばいい事ですから、主力の徳川軍は温存させるという意図がありありです。
小山では、上杉軍に対応する為、次男結城秀康を残してます。

では、何でそんな作戦を立てたのか。
私の推測では、この際豊臣恩顧の有力大名は共倒れ、殲滅させるという意図があったのではないでしょうか。
関が原で戦ったのは、西軍宇喜田秀家、小西行長、大谷行部、それに実質的総大将(当事者、発案者という方が打倒と思いますが)、石田三成のたった4家大名です。それに対し、東軍は福島正則以下、お歴々歴戦の有力大名が揃っています。対して、家康の率いている徳川軍は、本多忠勝、徳川家の執政役井伊直政の有力2武将以外は、かなり老齢(40代前後ですが)の兵卒が多かったようです。3万5千も掻き集めたのですから、関東領地の農民も相当数駆り出されたようです。
これでは、徳川軍はまともに戦えませんので、ほとんど戦っていません。家康の代わりに4男忠吉が井伊直政治の後見で奮戦した程度です。
尚井伊直政は、この時の鉄砲傷がもとで、戦後まもなく亡くなっています。忠吉も矢疵をおっています。この疵が疵が原因で、のちのち、早い時期に亡くなっています。
従って、もし旗色が悪くなれば、一端戦線を引いて岐阜城あたりまで下げ、秀忠軍と合流して、次戦に備えたのではないでしょうか。
そうなれば、味方していた東軍の豊臣の諸将からも裏切るものが出た事でしょうが、戦力は当然疲弊していると計算していたと思います。
そこに、35000の無傷の兵と、秀忠軍の40000の主力が加われば、徳川家の兵力だけで、十分に再戦できる、撃破できると想定したと思います。豊臣恩顧の大名なんて、じゃまなだけですから。

家康の本当の敵は、大阪城に篭る毛利輝元なわけです。

ですから、この一戦に徳川の運命をかけた家康としては、負けられない戦いの作戦計画を正信と、十分練り上げた結果ではないかと思います。
秀忠軍が背走の為の温存なんて、有り得ないという事です。

最後に勝つ為の戦略という事だと、私は確信しています。

まず、秀忠軍は徳川家の主力部隊でした。
徳川家実質的NO2であり、総理大臣的立場であった、本多正信が軍監として配されていた事からでも、あきらかでしょう。 
徳川家康がもっとも信頼していた、本多正信をつけたのは、家康の戦略を熟知していた存在だからと、容易に推測できます。
小山の陣より、西軍に対する為、上杉攻めの軍を西に返すわけですが、秀忠軍は江戸には戻らず、そのまま東山道に向かっています。
江戸に戻った家康は、諸大名に対して50通近い書状を送り、懐柔の策を施し、一月後に東海道を...続きを読む

Q関ヶ原の戦いの先陣について

僕の記憶が曖昧なのですが、ウイキによれば以下

「霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続けていた。やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を井伊直政と松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていた。家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣可児吉長が呼び止めて詰問するが、「物見」と称して福島隊の前方へ張り出した。直政の小隊は、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲、対する宇喜多隊も直ちに応射。そこに、井伊隊の抜け駆けに激怒した福島隊が宇喜多隊に突撃。ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。」

ということですが、本来は秀忠が務めるべき先陣が、秀忠の遅参により、松平忠吉に先陣のお鉢がまわってきた。といった話を聞いたことがありますが、はたしてどんな感じだったのでしょうか?

Aベストアンサー

>はたしてどんな感じだったのでしょうか?

ウイキの情報は、色んな情報が混ざっていますよね。
誰もが納得する情報があれば、おや?と思う情報もあります。
まぁ、歴史というものは「勝者・時の権力者の歴史」に過ぎません。

元関が原町長だった、藤井治冴左衛門さんが集めた資料集によれば若干異なりますね。
1.会津征伐に向かっていた家康軍が、清洲城に引き返す時の軍「東海道軍」先鋒は福島正則。
2.関が原での陣形。
2-1.左翼縦隊。第一陣福島正則。第二陣藤堂高虎・京極高知。第三陣・・・。
2-2.右翼縦隊。第一陣黒田長政・竹中重門。第二陣細川忠興・加藤嘉明・田中吉政。
2-3.中堅。松平忠吉・井伊直正。
2-4.後続部隊。筒井定次・生駒一正・金森長近・織田有楽・・・。
2-5.家康本隊。軍監本田忠勝。
実は、福島正則が関が原でも先陣との記述はありません。
左右両縦隊は、全て豊臣恩顧の武将ですよね。中堅と本隊が、徳川軍の親衛隊です。

関が原の戦いが始まったのは、午前8時頃。
本田忠勝は、使者を中堅の忠吉・直正の陣に馳せて「すみやかに開戦すべし」と命令を伝えています。
つまり、先陣です。
直正は、忠吉に「前進を進言」して正面に陣取る宇喜田陣営攻撃に向かいます。
決して、福島隊を出し抜いた訳ではありません。家康の命令に従っただけです。
家康としては、忠吉の戦果を期待したのでしようかね?
が、享年27歳で死亡。2ヵ月後には、兄の秀康も死去。漁夫の利を得たのは、秀忠?との説もあります。
この説では、忠吉・秀康は「秀忠に暗殺された」という事になりますね。^^;
秀忠としては、合戦に遅れた事が大きなマイナスになっていますから・・・。

では、何故「可児吉長が、忠吉・直正軍の宇喜田攻撃をやめさせたのか?」が疑問ですよね。
昔聞いた事があるのですが「豊臣恩顧の武将同士で戦わせる計画」があった様です。
宇喜田・福島双方が共倒れになれば、家康にとって一石ニ鳥です。
この説が正しいなら、(事前に家康の戦法を知っていた)直正も宇喜田攻撃を福島隊に譲った事で理解できますね。

>はたしてどんな感じだったのでしょうか?

ウイキの情報は、色んな情報が混ざっていますよね。
誰もが納得する情報があれば、おや?と思う情報もあります。
まぁ、歴史というものは「勝者・時の権力者の歴史」に過ぎません。

元関が原町長だった、藤井治冴左衛門さんが集めた資料集によれば若干異なりますね。
1.会津征伐に向かっていた家康軍が、清洲城に引き返す時の軍「東海道軍」先鋒は福島正則。
2.関が原での陣形。
2-1.左翼縦隊。第一陣福島正則。第二陣藤堂高虎・京極高知。第三陣・・・。
2...続きを読む

Q関ヶ原の戦いで、東軍に寝返ったのは誰でしたでしょうか?

若い頃は覚えていた筈なのに、最近記憶力が落ちてしまいまして…。うろ覚えの記憶では下記のうちたしか2人だったと思うのですが…。なお、吉川は下の名前が出てきません。よろしくお願い致します。

(1)吉川  
(2)小早川秀秋
(3)宇喜田秀家

Aベストアンサー

裏切りと言えば小早川秀秋です
その後、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らが寝返りました
吉川広家も内応していて参戦しなかったので寝返ったと言ってもいいのかな

宇喜田秀家は違います
関ヶ原後、逃亡先の薩摩で捕まってます


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