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もし、織田信長が天下統一を果たしていたら、今の日本はどうなっていたと思います...

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A 回答 (7件)

 信長の天下統一が単なるイベントではなく、そのポリシーの次世代への継続となっていたら・・・



史実:徳川幕府の政策によって、日本人の海外渡航と帰国ができなくなり、海外にあった日本人町も衰退しました。

IF:この要素を逆転すれば、海外の日本人町が大発展し、経済活動が活発化し、「海外」には大儲けのチャンスがあるという意識が日本人に根付く。

 一部の連中は、先に居る日本人が基盤を作り、先取特権を築いてしまった東南アジアやヨーロッパ人の基盤のあるインド・アフリカ方向ではなく、一攫千金を狙って、政治力の空白地帯を目指し、太平洋を渡ってアメリカ西海岸に向かい、カリフォルニア北部に日本人の植民地ができる。(1600年代始め?)

 参考:ピューリタンによるプリマス植民(メイフラワー号) 1620年

 参考:コルテスによるアステカ王国滅亡 1521年
    カリフォルニア半島を確認    1539年
  ※メキシコ湾に面した地域は、スペインの植民地になったが、太平洋側の植民地化は進まなかった。 

・1600年当時の日本の人口は、3000万人でポルトガルの10倍以上、スペインの3倍以上と言われる。(=母国の人口過多は、植民地へ向かう人間の数の多さを作りだす。)
 ヨーロッパと同等の武器を持った日本人による植民が、カリフォルニア北部~カナダ南部に広がり、ロッキー山脈も超え、ミシシッピー川の西は、日本人の住む地域になっていた?
 そうなれば、『アメリカ合衆国』は生まれなかったかもしれない。

 『アメリカ合衆国』がなく、明治維新もない以上、「富国強兵」の結果生まれた軍国日本もない。
 ということであれば、現在の日本は、イギリス同様の老大国になっていたかも。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

ちょっと無理があるけど、面白い想定ですね。

お礼日時:2012/09/01 14:06

本能寺の変がなく信長が天下を取った場合、後継者の織田信忠が健在ですから秀吉が織田家に取って代われた可能性は殆どありません。


順当に信忠が織田家を継いだ事でしょう。
また本能寺の変の時点で、信長が家康を切り捨て家康の持つ豊かな東海三州を奪うのでは無いか見られており、本能寺の変の時も光秀配下の兵が「家康を殺すのかと思った」と証言している記録が残っており、当時は信長が既に同盟者として用済みの家康を粛正するという見方が一般人にも広まっていたことがうかがえます。
このことから信長は毛利や上杉を片付けた後で、家康を滅ぼした可能性はあると思われます(あくまでも仮説ですが)。

また江戸幕府は家康が盤石のものとしたというのが、長らく定説でしたが最近の研究ではそれは「神君家康」を称える為のものであって、例えば大坂の陣では殆どロクな恩賞もないのに大名達に莫大な出費を強いて不満を高め、例え豊臣家を滅ぼしても一歩間違えば幕府の屋台骨を揺るがしかねないような危険な賭だったのでは無いかという見解も出ており、むしろ幕府を盤石のものとしたのは秀忠や家光達とする見方もあります。
つまり織田政権が安定するかは信長だけで無く、信忠やその後の後継者達の資質に大きく寄る点があり、織田政権が徳川政権並みの長期政権となるかは分かりません。

ただ現代に及ぼした影響とすれば非常に限定されたものになるでしょう。400年以上前の出来事よりもここ100年の出来事の方が遙かに影響力が大きいのは当然だからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/01 14:07

天正10年本能寺の変がなければ、その年に毛利、上杉、長宗我部は


滅亡していたと思います。
まず、3年以内に全国統一、豊臣政権のように大名との妥協によって
成り立ったのではなく絶対王権を築いてたと思われます。
その時でも52歳、朝鮮や明に出兵、明を滅ぼし、中国朝鮮日本を
統合し、中国に遷都、東アジアに大帝国を築いたと思います。
日本は中国の一つの州あるいは自治地区になってたと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

これはまた壮大ですね。

お礼日時:2012/09/01 14:03

あんまり変わらないんじゃないのかなあ。



というのも、今の日本は、明治~太平洋戦争の一件が大きく関わっているような気がするのです。
ですので、それより遥かに前の政策は、そう極端な影響はないのでは?と。
(「○○が居なかったら□□は起きなかったので、こうなるだろう」という考えもあるけれど、別の軸で動いている世界にも似たような考えを持つ人が出現する可能性は十分にあり得るので、そう、気にすることもないのでは。と)
料理が濃い目になるのと、首都が地理的に日本の中心あたりにくる・・くらい??

ただ、江戸時代で成熟し、現在も受け継がれている文化や習慣には、いくらかの影響はあると思います。流通業などにも。
それと、織田信長が天下統一してたら、秋葉原にメイド喫茶は無かったでしょうなあ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>それと、織田信長が天下統一してたら、秋葉原にメイド喫茶は無かったでしょうなあ。
座布団一枚です。

お礼日時:2012/09/01 11:29

>なるほど。

しかし、信長じゃ家康のように安定した幕府の
>基礎は築けたか疑問です。

ほぼ史実どおりになるということは、

↓織田信長天下統一(仮に1590年)
↓織田信長死去(仮1595年)
↓羽柴秀吉天下掌握(仮1597年)
↓羽柴秀吉死去(1598年)
↓徳川家康天下統一(1600年~)

…ということです。

織田信長が羽柴秀吉よりも先に死去した場合は
ほぼ史実通りの展開となり、
織田信長が羽柴秀吉より長生きした場合は、徳川家康の
天下統一プロセスが史実と大きく変わりそうですが、
結局は徳川家でしょうね。
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/01 11:32

こんにちは。



残念ながら無理です。
本能寺の変で49歳で自刃しましたが、
信長は塩分の摂り過ぎで、50歳で死亡すると
医学的に証明されています。

この回答への補足

ご苦労様でした。

補足日時:2012/09/01 10:43
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織田信長は南方進出に興味があったようなので、天下統一後は


朝鮮ではなく、南方進出(琉球、台湾出兵?)を行おうとするかと
思います。

しかしながら、織田信長が仮に天下統一を果たしていたとしても
その時60歳弱位の年齢となっており、当時の寿命で考えると
統一後は10年生きられるかどうかといったところです。

そうすると信長の死後、後継者争いが勃発して結局は羽柴秀吉
が天下を取ったとすると史実とあまり変わらない流れに
なったのではないかと思います。

仮に史実にあった朝鮮出兵がなくなって代わりに琉球・台湾出兵
となっていたとしても、封建社会から近代となった後に米国と覇権を
争って破れ、史実にきわめて近い状態となると思います。

ただ、南方との貿易が盛んに行われることにより東南アジアとの
文化交流が史実よりも若干進んでいるかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なるほど。しかし、信長じゃ家康のように安定した幕府の基礎は築けたか疑問です。

お礼日時:2012/09/01 10:42

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Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q何で日本は戦国時代に植民地にされなかったんですか?

大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Qなぜ秀吉は織田家の跡継ぎを殺しても織田家が滅びたわけでもなく織田家を裏切ったわけでもなく政権をとっていたのか?

歴史の本などを見ると本能寺の変以後 山崎の戦、柴田勝家との戦いをえて
秀吉に政権が行きましたが疑問があります。なぜ織田家に跡継ぎ(名目だけのさんぼうし)がいるのに織田政権が続ずにあっさり秀吉の政権に行ったのですか。形だけでも秀吉は織田の家臣なのにさんぼうしが生きてる間もさんぼうしより高い地位にいました。(信孝との戦いはありましたが、彼は織田家の跡継ぎではありません)そりゃあ家臣が主人を裏切って殺したらそうなるかもしれませんが、秀吉はさんぼうしを殺したわけではありません。歴史の本では秀吉VSさんぼうしの戦いもないのにあまりにもあっさりと秀吉に政権が行ったので疑問です。

Aベストアンサー

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
翌年、関白に就任し、長宗我部氏、佐々氏を降伏。
この背景には黒田孝高などの暗躍があったとも思うが。
だからこそ天下人になった秀吉は最大の片腕の黒田の
力を恐れて南に追いやったと言われている。

秀吉の場合は、あだ討ちをしたことと三法師を抱えて
清洲会議を支配した事が何よりの勝因。
出自の問題もあり大衆受けが良かったことが、時の流れを得る結果に。
更に家康と仲が良かった事もその要因。
家中に敵も多かったが仲の良い者も居たこと。前田・丹羽など。

途中から天下人になる流れは秀吉の配下の人間が動いた可能性が
高いと私は推測しているが…
織田家は柴田・滝川が失墜したためにその勢いを失ったことによって
時勢の波に乗れなかったため、秀吉の後塵に帰す事になったと思う。
数歳の三法師を頭首とし場合は、配下が団結しなければ、
上手くまとまらないのは必然。更に世の動きは、戦国時代の早期終結を
願う風潮もあり自然と秀吉に、信長の後継を願う気風があったことも原因だと思う。

どんな時代でも庶民の世論は意外と絶大的な効果を持っているのかも。

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
...続きを読む

Q信長が天下を取っていたら

織田信長が天下を取っていたら、日本の近代化はもっと速かったし、日本人の気質も若干違っていたものになっていた気がしませんか?

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長のそれまでの方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。


史実:徳川幕府の政策によって、日本人の海外渡航と帰国ができなくなり、海外にあった日本人町も衰退しました。

IF:この要素を逆転すれば、海外の日本人町が大発展し、経済活動が活発化し、「海外」には大儲けのチャンスがあるという意識が日本人に根付く。


 当時の日本は、人口の増加が大きく、余剰人口を生みだしていました。
 従って、信長が天下を取り、そのまま織田信忠が政権を継いでいたなら・・・・

 一つのつの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。
 1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 人口過剰の日本から、海外を目指す連中のなかには、先に渡航した日本人が既に基盤を作り、先取特権を築いてしまった東南アジアや、ヨーロッパ人の基盤のあるインド・アフリカ方向ではなく、新天地・政治力の空白地帯を目指し、太平洋を渡ってアメリカ西海岸に向かい、カリフォルニア北部に日本人の植民地を作る可能性があります。
 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1600年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)


 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです

 参考:ピューリタンによるプリマス植民(メイフラワー号) 1620年

 参考:コルテスによるアステカ王国滅亡 1521年
    カリフォルニア半島を確認    1539年
  ※メキシコ湾に面した地域は、スペインの植民地になったが、太平洋側の植民地化は進まなかった。 

・1600年当時の日本の人口は、3000万人でポルトガルの10倍以上、スペインの3倍以上と言われる。(=母国の人口過多は、植民地へ向かう人間の数の多さを作りだす。)
 ヨーロッパと同等の武器を持った日本人による植民が、カリフォルニア北部~カナダ南部に広がり、ロッキー山脈も超え、ミシシッピー川の西は、日本人の住む地域になっていた?
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 そうなれば、『アメリカ合衆国』は生まれなかったかもしれない。
 『アメリカ合衆国』がなく、明治維新もなく、鎖国による遅れを取り戻す「富国強兵」もなく、その結果生まれた軍国日本もない歴史があったかも。一

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長のそれまでの方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、...続きを読む

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Qもし本能寺の変がなかったら戦国時代はどうなっていたでしょうか。

もし本能寺の変がなかったら戦国時代はどうなっていたでしょうか。
想像もつきません。

Aベストアンサー

 本能寺の変が無かったら…

 全国統一はして、戦国時代は終わらせたかもしれませんね。
 でもその後安定した政権が作れたかは疑問です。特に後継者が…

・信忠(嫡男)
 かつては暗愚な凡将との評価が有力でしたが、現在ではそれほど暗愚でもないとの評価になっているようです。
 ですが本能寺の変の際、脱出できる可能性がありながらも父と共に散る事を選んでしまったあたりが限界かも…
 
・信雄(次男)
 この人は・・・暗愚だったみたいですね。
 本能寺の変の後の立ち振る舞い…小牧長久手の戦いでの単独講和…移封命令に逆らって改易…関が原の時の立ち振る舞い…
 何と言うか気位が高い”だけ”の無能な二代目になるのがオチかも。

・信孝(三男)
 この人は信長の息子たちの中では一番容貌が父に似ていたと言われています。
 兄・信雄より器量に優れていたと言われてますが、暗愚な兄に比べて…ですからね…。
 本能寺の変の際、自らの兵をまとめることが出来なくて秀吉に『名目上の総大将』とされてしまうあたりが…

・信包(信長の弟)
 この人は兄・信長の為に影が薄いですが、武将としては中々の器量だったようです。でも野望に乏しく、清廉潔白すぎたために、兄亡き後の天下取りには参加しなかった…と言うのが現在の評価みたいです。
 ですが嫡男・信忠の補佐の立場にあった人ですから、それを差し置いて後継者になる事はなかったでしょう。

・長益(信長の弟)
 この人は武将と言うよりも茶人・有楽斎と言った方が良いかも知れません。
 
 う~ん…
 次男は論外。三男もイマイチ。
 信忠&信包のコンビでなら何とか。それでも厳しいかもしれませんね?信長の死後、並み居る大名達との権力争いは。
 

 本能寺の変が無かったら…

 全国統一はして、戦国時代は終わらせたかもしれませんね。
 でもその後安定した政権が作れたかは疑問です。特に後継者が…

・信忠(嫡男)
 かつては暗愚な凡将との評価が有力でしたが、現在ではそれほど暗愚でもないとの評価になっているようです。
 ですが本能寺の変の際、脱出できる可能性がありながらも父と共に散る事を選んでしまったあたりが限界かも…
 
・信雄(次男)
 この人は・・・暗愚だったみたいですね。
 本能寺の変の後の立ち振る舞い…小牧長久手...続きを読む

Q豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?

タイトル通りです。

天下統一をはたした豊臣家は、何故事実上一代で滅んでしまったのでしょう?

秀吉びいきの父などは「正室に子どもができなかったからだ」などと言っているのですが、養子や側室の子どもが跡を継ぐなんてよくあることだと思うし、これが原因とはならない気がするのですが…。

私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有...続きを読む

Q第二次世界大戦で日本は絶対勝てなかったのでしょうか

第二次世界大戦で日本は絶対勝てなかったのでしょうか
もし日本がミッドウェーで勝利しアメリカ空母艦隊が崩壊したうちに
ハワイ・パナマを占領しアメリカ西海岸を爆撃、細菌兵器をアメリカ本土にばら撒き、
結果アメリカ国民の世論を反戦に動かし、日本が有利な形で講和できなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

当時の帝国海軍及び陸軍の致命的な欠点の一つとしてあげられるのが「補給の軽視」です。
そもそも海軍の対米戦略は「艦隊決戦による早期講和」でそのために艦隊の整備を行って来ました。

長大な航続距離と偵察機を装備した「イ号潜水艦」はその典型で「艦隊決戦を行う前に敵艦隊の戦力をすり減らすため」といった通商破壊を主とするWW2での各国の潜水艦戦略とは大きく異なった運用法からも見てわかるとおり、「潜水艦はあくまで補助戦力」といった考え方から抜け出せず、米軍の魚雷の劣悪な性能も相まって「輸送・補給船団が潜水艦に攻撃されたとしても大した損害はないだろう」、「護衛は旧式駆逐艦でもつけとけばいいだろう」と考えた結果もともと少ない輸送船及び護衛艦は大損害を出し、次第に作戦遂行に影響を与え始めます。

昭和18年11月になってようやく「海上護衛総司令部」を設置し12月には護衛空母4隻を編入するなど、それなりの体裁を整えますが、主力となるはずの駆逐艦は「峯風型」や「神風型」といった旧式艦ばかりでした。

帝国海軍の駆逐艦は対潜戦闘よりも上記の艦隊決戦構想のため対艦戦闘と主眼とした装備で対潜性能が低く、狩るはずの潜水艦に逆に沈められるケースも多く、もっとも米潜水艦による駆逐艦の損害が多かった昭和19年だけでも30隻の駆逐艦が撃沈されています。

長々と書いてまいりましたが、
(1)日本海軍は開戦初頭に占領したウェーク島の補給が限界地点だといわれており、ウェークよりもさらに遠いハワイやパナマを占領し維持し続けるための輸送能力及び護衛戦力があるのか?

(2)ガトー級だけでも200隻あまりを計画し大戦中にほとんどを整備した米国の造船能力・潜水艦戦力に対抗できるのか?

(3)北方(ソ連)を重視し、泥沼の中国戦線を抱え、南方に戦力を割かなければならない状況を苦々しく思っていた陸軍からハワイ・パナマを占領し維持するために必要な戦力を抽出することが可能か?

等々、ハワイ・パナマを占領し維持するだけでも「日本軍には不可能」と言わざるを得ません。


西海岸の爆撃ともなると防弾性能の貧弱な日本軍機が、管制された雲霞のような米軍迎撃機群、対空砲火網を突破し、爆撃し、帰還出来る機体が何パーセントあるのか、など考えるだけでも恐ろしい損害を出すことが予想されます。

細菌兵器の使用に関しては昭和19年から実行された米本土爆撃作戦(ふ号作戦)で計画されたものの作戦内容を知った天皇陛下によって細菌兵器の使用が禁止されたことがあるため、今回のケースでも実行されることはないと思います。

長文失礼しました。

当時の帝国海軍及び陸軍の致命的な欠点の一つとしてあげられるのが「補給の軽視」です。
そもそも海軍の対米戦略は「艦隊決戦による早期講和」でそのために艦隊の整備を行って来ました。

長大な航続距離と偵察機を装備した「イ号潜水艦」はその典型で「艦隊決戦を行う前に敵艦隊の戦力をすり減らすため」といった通商破壊を主とするWW2での各国の潜水艦戦略とは大きく異なった運用法からも見てわかるとおり、「潜水艦はあくまで補助戦力」といった考え方から抜け出せず、米軍の魚雷の劣悪な性能も相まって「輸送...続きを読む

Qもし日本が太平洋戦争をしていなかったら・・

満州を放棄し、中国へ侵攻している全ての軍隊を引き上げて、
日米戦争を回避していたら、今頃(現代)の日本やその周辺国はどうなっていましたか?

例えば、
・今頃、韓国、北朝鮮、台湾やグアム、サイパン、パラオなどはパスポートのいらない日本国内旅行ですか?
・フィリピンはアメリカ領、インドネシアはオランダ領、インドやマレーシアはイギリス領、ベトナムはフランス領のままですか?
・今のような、日本は経済大国になっていないのでしょうか?

考えてみたら、戦前の日本のほうが領土的に広いので、戦争していなかったら今とどう違っていたんだろうと、ふと疑問に思いました。

Aベストアンサー

戦前の軍事書籍を読むと分かるのですが戦前の日米対立とは即ち「中国市場を巡る対立」でした。
もともと市場規模が小さく、資源も少ない日本を支配しても米国の得にならない事は明白であり、そんなことは当時から分かりきった話でした。
このため戦前から日本では「米国の圧力は中国市場を獲得するために目障りな日本を潰すためのもの」という認識だったのです。
そして戦前の日本では日清・日露の両戦争を始め多くの戦争と犠牲を通じて獲得した「満蒙の特殊権益」はいかなる理由があろうと手放してはならない、という意識が極めて強かったのです(戦後で言えば「憲法9条を絶対に守れ」と似たようなものです)。
この結果、中国大陸での武力行使は国民の強い支持を得る事となり、必然的に中国市場を巡る日本と米国との対立を深める事になってしまいました。
しかし逆に考えれば、大戦後に中国が共産化してしまえばもはや、中国における利権対立も無くなるわけで、日米の対立要因も失われるでしょう。
そうなると戦後の日本はかつての韓国やインドネシアのように軍部が強い影響を持ちつつも、開発独裁体制の元で経済成長を遂げ、その後の民主化の発展に伴い軍部の影響力も次第に減少していくものと考えた方がよいかも知れません。

戦前の軍事書籍を読むと分かるのですが戦前の日米対立とは即ち「中国市場を巡る対立」でした。
もともと市場規模が小さく、資源も少ない日本を支配しても米国の得にならない事は明白であり、そんなことは当時から分かりきった話でした。
このため戦前から日本では「米国の圧力は中国市場を獲得するために目障りな日本を潰すためのもの」という認識だったのです。
そして戦前の日本では日清・日露の両戦争を始め多くの戦争と犠牲を通じて獲得した「満蒙の特殊権益」はいかなる理由があろうと手放してはならない、と...続きを読む


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